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 ルーシーは思っていたよりも素早く目を覚ますと、すぐさま状況を理解し、エリックと入れ替わって鍵穴からウォルター博士の様子を窺った。
 エリックは、自分が何を見たのか、妙に不安に思った。実際見たのは、単に影のような何かがウォルター博士の肩の上でちらついているだけの光景だ。けれど、それは単なる見間違いや目のかすみといった類ではないのは確実だった。まさかとは思うのだが、それが妖精などと呼ばれている存在ではないのだろうか。本当にそんなものが実在するなんて。そんな曖昧なものが、人間社会に影響を及ぼしすらするのか。そういった幾つもの疑念や危惧が脳裏を次々と過ぎる。
「うわあ……あれがそうなんだ」
 ぼそりと小さな声で呟くルーシー。その口調は、普段の呑気さとはかけ離れた、どこか痛ましいものを見るかのようなものだった。
「どうなんです? 何か見えました?」
「先輩の話と違うけど……多分、妖精……?」
 確信のない曖昧な返事。ルーシーの怪訝な表情も珍しいが、それよりも何時になく真剣味を帯びた様子がエリックには気にかかった。
「ちょっと、もう一度見せて下さい」
「いいけど、大きな声、出さないでね」
 それはどういう意味なのか。
 そんな当たり前の事、言われなくとも分かっている。そう思い、エリックは入れ替わり鍵穴を再び覗いた。
 ウォルター博士は未だ机に向かったまま、ただひたすらにペンを動かし続けている。よくよく耳を澄ましてみると、何か小さな声でしきりに呟いているのが分かった。それははっきりとは聞き取れないものの、その長さから誰かとの会話のように思える。いわゆる、彼にとっての妖精が相手なのだろうか。
 しかし、その肝心の妖精が見当たらない。これではまるで、精神を病んだ人間の奇行を見守っているだけではないか。
 そんな事を思っていた、まさにその時だった。
「うっ……!」
 信じられないものを唐突に目にし、エリックは飛ぶような勢いで離れる。うっかり出しそうになった悲鳴はギリギリの所で飲み込み、しばらく床にへたり込んだまま唖然としていた。
「見えたでしょ?」
「は、はい。ほんの少しだけでしたけど、確実に見ました」
 真剣な眼差しのルーシーに、エリックはひたすら首を縦に振った。
 エリックが見たもの。それは、
「……何ですか、あれ? 人の顔のような……」
「だよね、やっぱ」
 ウォルター博士の肩に居座り、延々と話し相手になっていた何か。それを一言で言い表すなら、人間の頭部に他ならなかった。人形の首、はたまた遺体の一部、それらを一瞬想像したのだが、そのいずれでもなかった。そう言い切れる理由は、その首が喋っていたこと、まばたきを自然に行っていたこと、そして何よりもウォルター博士の肩に直接乗っているのではなく輪郭がぼんやりと肩と重なっていたことだ。仮にこれが精巧な作り物だったとしても、そんな物を作ってまでする事が医薬の研究とはあまりに突拍子もない。百歩譲ってそこまでやったとしても、それは明らかに狂人の所業だ。
「やっぱ、はっきり見えるなー。霊とかじゃなくて、本物の人形なのかな? けど、取り憑いてるっぽいしなー。うちのママならはっきり分かるんだけど」
 思考が定まらずすっかり混乱しているエリックを捨て置き、ルーシーは再び鍵穴から中を覗いては考え事をしている。この異常な光景を前にしても、ルーシーは少しも動揺する事がなかった。ただあるがままに目の前の出来事を受け入れ、分析をしている。エリックは久し振りに、彼女が自分の先達である事を実感した。
 早く自分も調査に復帰しなくては。混乱する頭を無理やり理性で押さえつけ、エリックもまた分析に加わろうとする。丁度そのタイミングだった、ふと自分の研究を行っていたハリーが様子見のために二人の元へ現れた。
「どうでしょうか? 今夜は何か進展がありました?」
「は、はい……。とりあえず見て戴けますか? 声を出さないよう気をつけて下さい」
 エリックは鍵穴へハリーを促す。二人の様子から何事かを察したハリーは、慎重に鍵穴から中を覗き込む。そして直後、エリックのように慌ててそこから離れた。
「な……何ですかあれは……」
 真っ青な顔で研究室の方を指差すハリー。その反応はほぼエリックと同じだった。
「やっぱり見えましたか」
「は、はい……前はあんなもの見えなかったのに。もしかして、あれと会話をしていたのですか?」
「おそらくは」
 ウォルター博士の肩に現れた、人間の首。それは生きている人間とほぼ同じように振る舞っていて、ウォルター博士はそれと当たり前のように会話をしている。常識では考えられない存在と、それを相手に当たり前に会話をするウォルター博士。そのどちらもエリックの目には異様に映った。これならば、まだ妖精の方が幾分ましだったとエリックは思った。仮に人にこの事を話したとして、妖精ならば微笑ましい冗談か作り話として捉えてくれるが、人間の首ではこちらの精神状態を心配されてしまう。
「ルーシーさん、あの首って一体何なんですか?」
「うーん、多分自縛霊みたいなものだと思うよ。あれだけはっきり見えるってことは、相当強い念があるんだろうし」
 ルーシーの口から出た言葉は、エリックにとっては聞きたくないものだった。それは恐怖心からというよりも、そんな馬鹿げた存在をはっきり目にしてしまったため存在を認めざるを得なくなるからだ。けれど、この状況をきちんと把握しなければ報告書を書くことが出来ない。職務放棄などあってはならない事なのだ。だからこそ放棄は出来ないのだが、こんな出来事を正確に記録しなければならないのかとエリックはこれまでに無いほど苦痛に思った。
 怒りに困惑、悲嘆といった感情が複雑に混ざり合うエリック。そんな狼狽するエリックに、ふとハリーは何かを思い出したかのように口を開いた。
「あれ……もしかするとですけど、心当たりがあります」
 心当たり。
 エリックは、状況が進展すると喜ぶ反面、科学者であるはずのハリーもこんな異常な状況を簡単に許容できるのかと、パニックを起こしそうになった。