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 その日もまた、ウォレンは執務室にはやって来なかった。これで三日続けての事である。官吏の無断欠勤、それは本来重大な問題であり、厳正に対処せざるを得ない事である。だがエリックの目からも室長は、この事について対応しあぐねているように映った。対処は簡単である。ただ、実行に移す事に室長は躊躇っているのだ。ウォレンの抱えている問題は、室長自身が一番良く知っている。だからこそ、感傷的ではあるが、ただ外へ放り出すような真似が出来ないでいるのだ。
 エリックは、書類の処理をしながらウォレンの事を考えていた。以前ルーシーから言われた言葉、ウォレンは今後一層おかしくなる、それが今になって酷く重くのし掛かってくる。ウォレンは復帰不能なほどになってしまったから、もはや元に戻ることは出来ないのだろうか。その事を受け入れられずにいた。
 そして四日目になり、エリックは一つ決断を下した。それは、このままウォレンを見捨てる訳にはいかない、そういう正に室長と同じ感傷的なもので、素直にそれを室長とルーシーの前で吐露した。そして、二人の反応は予想通り芳しいものではなかった。
「気持ちは分かるけれど……辛い思いをするだけかも知れないのよ? 今まであまり触れないようにしてきた私が言う言葉ではないかも知れないけれど」
「覚悟の上です。それに、後から何もしなかった事を後悔する方が辛いとも思っていますから」
「どの道、知らん振り出来る事じゃないですからね。でも、私は何も出来ませんよ? だって、とっくにそうなるって自分を納得させてたから、今更気持ちの切り替えなんて出来ないですし」
「僕だけで何とかするつもりでしたから、お構いなく。それに、男同士でしか分からない心情だってあります。女性相手だと、かえって意地を張るかも知れませんから」
「そっか……じゃ、もうエリック君に任せるしかないか」
 そしてエリックは、午後になってから執務室を後にしウォレンの自宅を目指した。具体的に何をどうしたいのかなど、エリックは何も案を考えてはいなかった。ただ、ウォレンの現状がどうなっているにせよ、何か力になってやりたい、そういう強い意気込みだけがエリックにはあった。
 ウォレンの住居は、意外にも庁舎からさほど遠くない繁華街の路地沿いにあった。そこは如何にも繁華街で水物商売をしている人間ばかりが住むような区画で、エリックのような人間はかえって悪目立ちするほどだった。
 こんな所での生活を想像する。昼間はこのように得体の知れない商売をする人間がたむろし、夜は酒や女に溺れた人間が行き交うだろう。そもそもエリックは繁華街にさほど良いイメージが無く、住居とする訳がないとさえ考えている。こんな所に住んでしまえば、昼は警戒しながら歩き、夜は朝まで続く喧騒でまともに寝れやしないだろう。
 どうしてウォレンはこんな所に住んでいるのか。もっと安くてまともな住宅街は幾らでもあるというのに。そんな疑問を浮かべていたエリックは、ふとウォレンの症状の一つを思い出した。ウォレンは、死んだはずのディーンの声が頻繁に聞こえて来る、と言っていた。もしかすると、逆に騒がしい所に居る方が気が紛れて安心出来るのかも知れない。けれどそれは、ウォレンの症状がそこまで追い詰められるほどに重いという証左でもある。そこへ追い討ちをかけられた今のウォレンを思うと、つい最悪の状況すら想像してしまう。
「ここ……で、いいんだろうか?」
 やがてエリックは、室長から渡されたウォレンの住所と一致するらしい場所に辿り着いた。そこは、繁華街の通りのすぐ裏手にある古びた建物が幾つか並んでいた。二階建てで、一階は怪しげな古物商になっている。その二階部分がどうやら住居として貸し出されているらしかった。非常に騒がしい割に周囲は高い建物ばかりで薄暗く、お世辞にも立地条件が良いとは言えない代物だ。
 恐る恐る階段を上り、その先にあるドアの前へ立つ。表札は無く、郵便受けには大分チラシが溜まっている。本当にこんな所にウォレンは住んでいるのだろうか? 不安は尽きなかったが、とにかくエリックはドアを叩き中へ呼び掛けてみた。
「ウォレンさん、エリックです! 様子を伺いに来ました!」
 けれど、薄々予想はしていたが中からの返答は無い。返答が無い理由は二つ、返答する気力が無いのと出来る状態に無い事だ。どうか前者であって欲しい。そう願いつつ、エリックは再度呼び掛けてみる。だが、一向に返事は無かった。
「……あれ?」
 そうしている内に、エリックはふと部屋のドアが少し開いたままになっている事に気付いた。部屋の施錠がされていないのだ。今は緊急時で、ウォレンは見ず知らずの他人ではない。そう理由付け、エリックはドアを開けて中へと入った。
「ウォレンさん、入りますよ」
 部屋の中は、カーテンを閉め切っているらしく昼間だと言うのに異様に薄暗かった。そして、まずはリビングらしき部屋へ入る。そこは予想していたよりも片付いていて、小綺麗に見えた事に驚いた。だがよくよく見てみれば、片付いていると言うよりも単純に部屋の中に物がほとんど存在しないだけだった。生活感に乏しく、とても人が住んでいるような気配が無い。
 本当にウォレンはここに住んでいるのか。再びその疑問を抱きつつ、エリックは隣の寝室らしき部屋を開ける。
「ウォレンさん、ここに居るんですか?」
 その部屋は、またしてもがらんとした生活感の薄い空間だった。部屋の中央に簡素なベッドが一つ、小さなローテーブルが一つあるだけである。クローゼットが壁の埋め込み式のため、他に床を占有する物が存在しない。いかにも寝るだけの部屋といった雰囲気だ。
 エリックは、この薄暗い寝室のベッドの上で毛布にくるまっている何かを見つける。それがもう手遅れなのではないか、一瞬不安に思う。だが、もぞもぞと気怠そうに動きながら中から顔を見せ、それがウォレンの顔だった事で、ようやく不安感を吹き飛ばすことが出来た。