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「ウォレンさん、そのままで」
 厳しい口調で言い放つエリック。実際ウォレンは、既に腰が椅子から浮きかけていた。エリックの制止を無視する事は出来ず、ウォレンは奥歯をぎりぎりと噛み締めながら腰を戻した。
 まず込み上げて来るのは、胸の不快感だった。それはぬるま湯が肺の中へ染み渡っていくかのような感覚で、幾ら擦っても決して拭う事は出来ない。そして同時に、心臓が不規則に強く波打ち始める。この時の鼓動は、ここまで表面に飛び出しているのかと思うほど強く、ちょっと胸に触れるだけではっきりとその振動が伝わって来る。このまま心臓が破裂する様を想像すると、手足が冷たくなり力が入らなくなった。それが嫌でウォレンは、飲めない酒に頻繁に手を出すようになったのだ。
 メイベルの本音は聞いた。やはり自分を恨んでいる。その事実だけで、ウォレンにはもはや十分だった。このまま少しでも早く去って欲しい。ウォレンはただそれだけを願い続ける。しかし、エリックはその願いとは正反対に、更に質問を続けた。
「メイベルさん。ウォレンは、過去の自分の行いを悔やむあまり、非常に苦しんでいます。それについて、どう思われますか?」
 すると、今度はすぐにプランシェットが動き始めた。
「と、う、ぜ、ん。当然の事だという意味でしょうか。苦しんで当然、といった」
 メイベルは、恨みに思っている。
 メイベルは、苦しんで当然だと思っている。
 ウォレンが聞きたくなかったであろうその二つの回答を前にも、エリックは非常に淡々としていた。まるでウォレンの事など他人事だと思っているのではないか、そんな節すら見受けられた。
 頼む、止めてくれ。もう十分じゃないか。そう目で訴えかけるウォレンだったが、エリックはまるで構わず質問を続けた。
「メイベルさん、あなたはウォレンにはどうして欲しいですか?」
 その質問をした瞬間、ウォレンの脳裏にはすぐに無数の回答が浮かんだが、いずれも表現が違うだけで意味する所は同じものだった。ウォレンに、死ぬほど苦しめ、そう吐き捨てるかのような言葉だ。
 こんなもの、知った所で一体何になるというのか。既に自分はもう立ち直れるような所にはいないというのに。そう悲観するウォレンだったが、次にプランシェットが示した言葉は意外なものだった。
「い、き、て、が、ん、ば、れ? 生きて頑張れという事でしょうか?」
 エリックが読み上げた意外な言葉に、ウォレンは身を乗り出してプランシェットを間近で確認する。プランシェットは未だ動き続け、今エリックの言った言葉を繰り返している。耳を疑う言葉だったが、確かにエリックの言う通りだった。一体どういう事なのか、ウォレンはこれまでとは違う意味でパニックを起こしそうになる。
「メイベルさん、もっと具体的に説明して貰えないでしょうか? ウォレンにどうして欲しいのかを」
 それに答えるように動き出すプランシェット。しかしプランシェットは、今度は定型文のいいえを示した。それは説明を拒否するという事なのか、とエリックが再び確認しようとすると、プランシェットはまたも唐突に動き始め、今度は出口を示す。そしてそれきり全く動かなくなった。
「勝手に帰って行きましたね……。詳しい事は分からず仕舞いでしたが、ウォレンさん、今はどんな気分ですか?」
 プランシェットが反応しなくなった事を確認し、指を離し姿勢を崩す二人。ウォレンは頭を抱えたまま、茫然としていた。その表情は見て分かるほど困惑しており、今目の前で起こった出来事が理解出来ていないのが明白だった。ただその表情には、これまでのような憔悴の色は窺えなかった。ただ純粋に、どう解釈して良いものかと困惑しているだけなのだ。
「ウォレンさん、こういう時は難しく考えなくていいと思いますよ。目の前で起こった事をそのままに受け取るんです。僕も、この特務監査室でそういった視点の持ち方を覚えました。室長の教えです」
 そうアドバイスするエリック。ウォレンはおもむろに頭を上げると、今度はぼんやりと天井を見つめ始めた。
「そのままに、か……」
 呟くウォレンの声は、複雑な感情が入り混じり単には言い表せない響きがあった。
 目の前で起こった事をそのままに受け止める。はっきりしているのは、メイベルはウォレンを恨んでこそいるが、生きて頑張って欲しいという前向きな気持ちを持っているという事だ。メイベルは、二つの正反対の感情が入り交じっている。生きた人間のように、単純に語ることの出来ない心境なのだ。そして、それを受けたウォレンもまた、簡単には割り切れない複雑な感情を抱えている。
「なあ、エリック」
「何ですか?」
「腹、空かねえか? あー、考えてみりゃ俺、一昨日からなんにも食ってねえわ。そりゃ腹も空くな」
 今更思い出したように、ウォレンは大きく深い溜め息をついた。空腹感を忘れるほど追い詰められていたこの数日間、ようやくその闇から這い出せて来た、そんな様相だ。
「いいですね、行きましょう。僕もまだ夕飯は食べてませんから」
 ウォレンの言葉に、エリックの表情からは緊張が消え普段通りの笑顔が戻った。ようやく、深刻な状況は脱した、その確信が持てたのだろう。