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 エリックが特務監査室に配属され、三年が経過しようとしていた。またその日も朝から特に仕事は無く、室長不在の執務室内には緩み切った空気が漂っている。しかしエリックは、既にそんな状況も慣れてしまい、特に何とも思わずひたすら自分が必要だと思う作業に没頭する。
「ねー、先輩。最近ちょっと気付いたんですけどお」
 ルーシーはいつものように応接スペースのソファーにだらしなく体を預けながら、右手で雑誌をめくり左手には菓子を持っている。
「あー? 何だよ」
 そうぶっきらぼうに答えるウォレンは、自席で何かの参考書を読んでいる。一見すると真面目な自己啓発のようだが、そのページは朝から少しも進んではいない。理解力が足らないと言うより、単なるポーズを取っているだけだ。
「最近、ちょっと太りましたよね? 一回りくらい膨れてないです?」
「ああ、それはあるかもなあ。何かメシが美味いって思うんだよな、最近はさ」
「なんかみっともないし、室温上がるから、戻してくれません? 半月も断食すれば大丈夫ですから」
「なんでお前の都合で、そんな馬鹿馬鹿しいことしなくちゃなんねーんだよ。お前こそ、その間食止めろよ」
「私は太らないからいーんですう」
「どんな理屈だ、それ」
 二人のそんないつものやり取りを聞き流しつつ、エリックは自分だけは真面目にしようと仕事に没頭する。二人を野放しにするのはいつもの事だった。それは、二人が仕事上の先輩だからではなく、言って聞き入れるような性格ではないからだ。
 やがてその日の定時を迎える。これと言って仕事のない時は残業もせず、そそくさと帰宅の準備をする。ルーシーはいつものように真っ先に元気に帰っていき、エリックは帰り支度の前に不在の室長に代わって執務室の戸締まりを行う。普段からしているその作業も、他にやれる人がいないため、エリックにとっては日課となっていた。
「おう、これからメシ食いに行かねーか?」
「ええ、構いませんよ、いつもの所ですね」
 時折あるウォレンの誘いに、エリックは特に予定が無ければ大体付き合った。以前は、ウォレンが体を壊すような勢いで酒を飲む事が不安だったからだが、最近は単に気晴らしが目的で付き合っている。
 以前はあまり馴染みの無かった繁華街の一画、そこのウォレンが行き着けにしているバーへと向かう。既にエリックも顔馴染みとなり、バーのマスターには顔と名前とすっかり憶えられていた。
「あー、やっぱりこれだな」
 ウォレンはカウンター角の定位置の席に座り、目の前のステーキに舌なめずりをする。皿はステーキだけではなく、海老やイカを香草と炒めたものや、タコのぶつ切りを香辛料と油で和えたものもある。三人前はあるかという量だ。しかしウォレンはそれらを次々と綺麗に平らげていく。傍らでワインを飲みつつチーズとガーリックトーストをかじっていたエリックは、その光景を半ば呆れながら眺めていた。
「それにしても、ここってバーなのに料理が随分本格的ですね」
「あら、前に言わなかったかしら? 私、前は雇われコックだったのよ」
 そう言ってマスターはフライパンを振る真似をする。口調はなよなよしいが、その腕は流石に元コックだけあってか常人の二周りは太い。
「それにしても、ここのとこのウォレンちゃんの食欲は凄いわね。お酒はぱったりと飲まなくなったのに」
「おう、悪いな。当分は飲まねー事に決めたんだ。そんで酒止めたら、なんか腹減っちまってなあ。せっかくここの上客だったのに、まあ飯は食いに来るから勘弁してくれ」
「別にいいのよ。前のウォレンちゃんって、いつ死んでもおかしくないって飲み方だったもの。うちのお酒で死んだなんて評判広がるより、今の方がずっとマシよぉ」
 マスターもまた、ウォレンの生活態度を不安視していた一人だ。特にウォレンのかつての酒量は一番良く知っているだろう。彼にしてみれば、そんなウォレンが酒を止めてきちんと食事を取るようになった事には、肩の荷が下りるような安堵感があるはずだ。
 食事を終えたウォレンは、いつもの薬をきちんと水で飲み、その後にライムソーダを注文する。一切お酒の入っていないジュースで、最近のウォレンはこの店ではそればかり飲んでいる。
「ところで、ウォレンちゃん。来週のレースなんだけど、どう思う?」
「来週かあ。ちょっと荒れると思うから、結構面白えと思うぜ。なんせ、去年の優勝馬に今年の新人賞、あの七連覇を果たした名馬の息子まで出るんだからな。他にも無名だがぎらついた活きのいい連中もいるしよ。とりあえず俺は、大穴から上に流してみるつもりだ」
「その買い方、面白そうね。私も乗ったわ!」
 ウォレンは相変わらずギャンブルだけは続けている。けれど、以前とは違って多少なりとも論理的に考えて買うようになった上に、一度に賭ける金額も非常に少なくなった。エリックは賭事に興味は無いが、ウォレンの遊び方は以前よりずっと節度があると呼べるだろうと思った。
 そんな談笑を交わしながら、和やかに時間を過ごしていた時だった。ふとカウンター近くにいた男性客の一人が、不自然なほどハイペースで酒を飲んでいる事に気が付いた。明らかに酔う事が目的の飲み方で、以前のウォレンのそれを彷彿とさせる。その姿が見ていられなかったのだろうか、ウォレンはマスターよりも先に彼へ話し掛けていった。
「よう、何かあったのか? えらく荒れてんな。そんな次から次へと飲むもんじゃないぜ。少しは味わわにゃあ」
「分かってるよ……ただ、飲まないとやってられねえんだよ……」
「そんな酷い事でもあったのか?」
「ああ……信じちゃくれねえと思うけどな、俺には死んだ女房がいてな、そいつと約束したんだよ。たとえ死んでも、ずっと一緒だって。それでな、最近出て来るようになったんだよ。俺が夜に寝ていると、いつの間にか寝室に入ってきててな―――」
 傍らで話を聞いていたエリックは、途中から露骨に眉をひそめ始めた。そして、同じく傍らのマスターがその心情を察したか宥めるようにエリックの肩をぽんと叩く。
「おう、エリック。俺らの仕事だぞ。ちょっと行ってみようぜ」
 如何にも好奇心で一杯の表情を浮かべるウォレン。どの顔で仕事を語るのかと思いつつ、エリックは呆れの溜め息を混じらせながら答えた。
「どうせ、何かの見間違いだと思いますよ? 死んだ人間が戻って来るなんて、絶対に有り得ない話なんですから。まあ、証明くらいなら、ちゃんとしてあげますけど」