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 訳も分からないまま、エリアスはベアトリスに連れられて庁舎を後にした。
 株式会社アレクサ。ベアトリスとボスとの会話には、そんな会社名が出ていた。無論その名に聞き覚えはなく、おそらく無名の中小企業だろう。
「あの、これからそのアレクサという会社へ行くんですか?」
「ああ、そうだ。お前、ちゃんと気合い入れてけよ」
「国税局査察部って、いわゆる悪質な脱税を取り締まる所ですよね? もしかして、聞き取りか何かしらするんですか?」
「んな訳ねーだろ。社長辺りをとっつかまえて連行するんだよ。そこまでいけりゃいいが、まあ今日は取っ掛かりさえ取れりゃ上出来だ」
「社長を逮捕するって……そんな簡単な事なんでしょうか? 取っ掛かりなんて、どうやって」
「お前が取るんだよ。だから、気合い入れろって言ってんだ。ほら、おどおどすんな」
 ベアトリスの耳を疑うような言葉に、エリアスは絶句する。一企業の社長を逮捕する、その取っ掛かりを配属直後の新人である自分が取るだなんて。とても正気の沙汰とは思えない。
「まさか……からかってませんよね? これはいわゆる、新人が受ける通過儀礼的な」
「からかってねーよ。でも、通過儀礼は正解だ。別に無茶は言わねーよ。お前にそこまで期待なんかしてねーし」
 なら、期待しているのは一体どういう事なのだろうか?
 エリアスは苛立たしげに突き放す口振りのベアトリスに恐ろしさを感じ、それ以上は舌を回す事が出来なかった。
 庁舎を出てから、およそ三十分は歩いただろうか。東区エリアの最北に近い大通りの一画、そこに雑然と立ち並ぶ高い建物の一つの前でベアトリスは唐突に足を止めた。
「ここだ、ここ。着いたぞ」
「えーと、ここがその株式会社アレクサですか」
「そういう事だ。ほら、中に入るぞ」
 人通りの少ない通りと、そこに立つ建物の数々の雰囲気。昼なのに夜のような陰気臭さを漂わせるそれらは、エリアスのこれまでの人生において馴染みのないものだった。しかし、そんな事などまるで意に介さないベアトリスは、慣れた様子で勝手にずかずかと中へ入っていく。先程は何やら無茶な事をエリアスへ言いつけていたが、これだけ堂々としているのだからおそらく何かちゃんとした目的と大義名分があっての事だろう。それだけを信じながら、エリアスもまたベアトリスの後についていく。
 建物の中に入ると、人一人がすれ違える程度の幅しかない、妙に狭い廊下があった。壁材は明らかに安物で、後からわざわざ狭く付け足したように見える。聞きかじり程度の知識でも、明らかに消防法に抵触する。エリアスはこの先の出来事へ一層の不安を抱いた。
「おい、ここからはお前が先に行け」
 突然ベアトリスがエリアスを小突きながら、無理矢理先へ立たせた。
「ちょ、ちょっと待って下さい。先にって、どうすればいいんですか?」
「この先にな、胡散臭い受付があるから。国税局だから社長出せって言えばいいんだよ」
「令状も無しにですか!? そんなの、断られるに決まってるでしょう!」
「おい、アタシは先輩だぞ。何も知らねーひよっこが、いちいち口答えするんじゃねえよ」
 ベアトリスはドスの利いた声でエリアスを威圧し、向こう臑を力一杯蹴ってきた。それは鍛えているはずのエリアスでも驚くほど痛く、思わず言葉を飲み込む程だった。
 すっかりベアトリスに気圧されたエリアスは、仕方なしに廊下を先へ進む事にする。恐る恐る慎重に進むエリアスだったが、あまりに遅いとすぐさま後ろのベアトリスに蹴りつけられ、とにかく先を急ぐしかなかった。一体自分に何をさせるつもりなのかは知らないが、逆らえば痛い目を見るのは明らかである。エリアスに選択の余地はなかった。
 程なく廊下の先に、革張りの品のない扉と、その脇に壁に穴を空けただけの受付らしき空間があった。まさか、あれがそうなのだろうか。そう半信半疑で背後のベアトリスに目で訊ねるが、ベアトリスは進めの一点張りである。
 受付らしき穴からは、一人の若い男の顔が覗いていた。エリアスの顔を見るなり威圧的に睨み付け、明らかに真っ当な仕事ではない顔付きだった。これまでの人生ならそれだけで逃げ出していたエリアスだったが、背後にもまた恐ろしい物が立ちふさがっており、どうにもならなかった。
「あ、あの、お忙しい中すみません。国税局の者ですが……」
 国税局という言葉で、多少は威圧的な態度を収めてはくれないだろうか。そんな微かな希望を抱きながら話し掛けてみるが、
「何だと、テメエ! 国税が何の用だ! うちはきっちり払うもん払ってんぞ!」
 男は更に怒りを露わにし、エリアスへ怒気と罵声を浴びせかけて来た。
 殺されてしまう。
 エリアスはこの怒鳴る男に、枠越しにも関わらず今にも逃げ出しそうなほど震え上がった。
 男の気迫に押され、思わず後ずさるエリアス。しかしすぐさまベアトリスが、後ろから小突いてきた。そして小声だがドスの利いた声で脅してくる。
「おい、逃げんじゃねーぞ。逃げたらぶっ殺すからな」
 どこまで本気で言っているかは分からない。しかし今のエリアスには、そんな真偽を冷静に考える余裕はなかった。