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 庁舎へ戻る途中、中央広場の時計台が正午を知らせる鐘を鳴らした。国税局査察部第四課、その執務室へ朝に行き、そのまま株式会社アレクサの所へ新人研修という名目で直行、そして今の帰路に至る。午前中があっという間に感じられるほどの濃密な時間だったと、エリアスは内心では溜め息をつきながら半ばあきれかえっていた。これが官吏の業務内容だとは、とても信じて貰えないだろう。
 研修らしさなど欠片もないばかりか、会ったばかりの男に殴られた上、先輩はアレクサを実質的に取り仕切っているらしい男と妙な約定を交わしていた。国税局は、脱税という国家に対する裏切り行為を取り締まるための組織とエリアスは思っていた。それだけに、あまりにかけ離れているとしか思えないその実態には、もはや失望感しかない。
 転属を願い出てみようか。そんな事を一旦本気で考えてみるものの、配属直後の身分でそれが受理されるとは到底思えない。また、どんな事情があったにせよ一つの組織で長続きしなかった人間など、何処へ行こうが色眼鏡で見られ侮られるのが普通だ。つまり、どんなに嫌でもここに居続けるしか他に選択肢は無く、ある程度の実績を認められるまではひたすら堪えるしかないのだ。
 幼い頃から、貧乏籤を引く事は妙に得意だった。しかし、今回は流石にこたえる。人生最大の貧乏籤ではないか。そう嘆かざるを得ない。
「エリアス、もう飯の時間だし、食って帰るぞ。お前、何か食べたいものはあるか?」
「シーフードなんかがあれば」
「何だよお前、こういう時は肉じゃないのかよ。そんなガタイしてる癖に」
 別に肉を積極的に食べたから、この体格になった訳ではないのだが。そもそもベアトリスは自分が肉を食べたいだけではないのか、そうエリアスは思った。こういう理不尽な事は大学で慣れてはいたが、女性から振られたのは初めてである。つくづくベアトリスは異端であると、エリアスは痛感する。
「それにしてもお前、少し見直したぞ」
「何がですか?」
「あいつら前にしても、怯まなかっただろ。あんだけ殴られても、顔色一つ変えないで。普通はあそこで半泣きになりながら助けを呼ぶもんなんだぜ」
 どこか嬉しそうに話すベアトリスだったが、エリアスはあまり気分の良いものではなく、思わず表情が固まってしまった。
 やはり、そうなる事を知っててさせたのか。
 今更それについてどうこう言うつもりは、エリアスにはなかった。それに、あの時は怯まなかった訳ではない。声が出なくて助けを呼べなかっただけなのだ。表情にしてもそうだ。単に緊張したり精神的に追い詰められると表情が作れなくなる、昔からの癖のようなものが出ただけに過ぎない。だがその事を、ベアトリスに説明する気力はなかった。ただ面倒事を増やすだけにしかなりそうにないのだ。
 あまり仲良くはしたくないタイプの先輩に誉められても、少しも喜べないし今後もこういった事に巻き込まれるのではという不安すら抱く。特に、あれが脱税の取り締まりの光景だとは信じ難いのだ。単なる犯罪者同士の小競り合いと言われた方が、遥かに信じられる。
「あの、先輩。お訊きしたい事があるのですが」
「ああ? 何だよ」
「今日のあの、アレクサという会社。あの男、多分実質的な取締役なのだと思いますが、交わした約束の内容の事です。あれは一体どういう事なのでしょうか? 自分には、何だかその、あまり大声では言えないような、後ろ暗い約束に思えてしまって」
「ちゃんと聞いてただろ。あいつらは、これからあの会社で脱税の証拠を用意するから、それを私らが検挙するって事だ」
「用意してもらうって、要するに本当の脱税ではないって事ですよね。もしかして、まさかとは思いますが、査察四課はあの会社と癒着しているんですか?」
 そう言った直後だった。ベアトリスは突如振り向くや否や、エリアスの胸ぐらを掴んで引き寄せると、全力で振りかぶった自分の額をエリアスの額へ叩きつけた。まるで石と石がぶつかり合ったような鈍い音が頭の中に響き、衝撃が口まで伝わってきて舌を噛んでしまう。とても女性のする事とは思えない、粗暴な行いだ。エリアスは痛みよりも先に、この唐突な行為そのものに対して酷く動揺する。
「てめー、死にてえのか? 自分の立場と言葉を、もう少し考えろよ」
「す、すみません……」
 あまりの気迫に負けてしまい、エリアスはすぐに謝りそのまま萎縮してしまう。アレクサにいたような人種と対等に渡り合えるだけあって、ベアトリスの気迫は尋常ではなかった。やはり彼女には逆らえない、そう痛感させられる。
 今のエリアスの発言に対し、ベアトリスは明らかに怒っていた。しかし、それは一体どういった理由で怒ったのだろうか。人に知られたくない話を往来でしてしまった迂闊さについてなのか、それとも。
 配属されてから、まだ半日しか経過していない。だがエリアスは、この査察四課は単なる脱税の取り締まりをするだけの組織ではないのではないか、組織の体制そのものに疑問を抱き始めた。