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「……で?」
 夕刻、査察四課の執務室へ戻ってきたエリアスは、早速ベアトリスに状況の報告をする。決定的な証拠を携えての報告だけに、十分な成果を挙げたと確信していた。けれど、ベアトリスの反応は意外にも普段とまるで変わりがなかった。
「そ、その、ですから、ウード商店が闇金をやっている事は確かなんです。ほら、その証拠となる証文の写しと現金もあるんですから」
「お前さ、これ使って立件出来ますよって、マジで上にあげるつもりなの?」
「えっと……何か問題なのでしょうか?」
 それはまるで、エリアスの成果そのものを否定するような言い草だった。全く予想だにしていなかったベアトリスの反応に、エリアスは困惑してしまう。
「最近結構勉強してると思ったら……根本的な所が抜けてるな。いいか、取り締まる側が物証なり自白なりを得るのに、やっちゃいけない事はなんだ?」
「それ自体が違法行為であってはならない、でしたよね」
「馬鹿、もう一つが抜けてる。捜査員は証拠を得るためには、相手に犯罪行為を促しちゃ駄目なんだよ。自分が囮で被害者になろうとすんなってことだ」
 ベアトリスにそう指摘され、途端にエリアスはそれらしい文面が昨夜読んだ書物に記されていた事を思い出す。そう、あらゆる捜査員は基本原則として、犯罪を出来る限り未然に防ぐ努力をしなくてはいけないのだ。被疑者に犯罪を起こさせる事も促す事も見過ごす事すらもしてはならず、そうやって証拠を得たとしてもそれは法的な効力は持てないのである。
「と言う事は……全く無駄だったんですね、これ」
 エリアスは流石に落胆の色を隠せなかった。今度こそは、査察四課に貢献の出来る仕事をしたと思っていたのだが。それはただの勘違いであり、しかもそうなった原因は根本的に自分の不勉強さにある。期待感が大きかっただけに、その落差はあまりに強くエリアスを打ちのめした。
「まあ、いい。新入りなりに、考えて行動したことは誉めてやる。相手にそれと気付かせていない事も上々だ。幾らでもフォローは利く」
 不意にそんな言葉をかけてくれたのは、最近ではエリアスも当たり前のように先生と呼ぶアントンだった。
「そこはまあ言えてるな。確かに何もしないで手ぶらで帰ってきたら、正直この場でどつき回してたな」
 ベアトリスは愉快そうに笑いながら、物騒な事を口走る。それが冗談ではない事を、エリアスはこの短い間に嫌というほど骨身に染みさせられている。
「よし、アタシがフォローしてやる。こう見えてな、あちこちにツテがあるんだ」
「それはありがたいですが……どうすればいいんでしょうか?」
「まずその証文持って、生活安全課に行くぞ。被害者って立場なら、向こうが捜査出来るからな。で、それを引き渡す条件として、こっちも捜査に噛ませて貰う訳だ」
「生活安全課という事は、普通に闇金の摘発ですよね? そうすると脱税の件も有耶無耶になってしまうのでは」
「だから、一枚噛ませて貰うんだよ。あっちは闇金の摘発が出来ればいい。それでこっちは、表の商売、ウード商店としての売上簿を叩くんだよ。認可している方の商売じゃ売上が無いのに、どうしてこんな高級品を買えるんだ? そういう切り口だ」
 ベアトリスにそこを指摘され、あの老紳士の部屋に置かれていた数々の調度品を思い出す。どれも、端金でどうにか出来そうな物ではなかった。あれは顧客の不安感を取り除くための小道具ぐらいにしか思っていなかったが、単純に儲かっているからああいった豪奢なものを揃えられるのだ。確かに購入経緯を改めるだけで、幾らでも脱税の件で突付き用がありそうである。
「よく分かりました。では、すぐ始めましょう」
「良かっただろ? 優しい先輩がいて。お前のその借金も、合法的に無かった事になるんだからな」
「お金は返しますよ。もしくは、証拠物件として提出します」
「律儀だな、お前。誰も気付かないってのに」
「もう、この場の人達には気付かれてますよ」
 何かのクジならば喜ぶ所だが、悪徳業者とは言えども他人の金である。違法な契約で借りた金だからと言って自分の物にするのは、どうにも良心が咎めてしまうのだ。金は欲しくとも、後ろめたい思いをしなければならないような金は一切欲しくはない。そうエリアスは思った。
「んじゃ、さっさと仕事を片付けるぞ。今日中に終わらせてしまった方が、お前も今晩寝付きがいいだろ?」
「そうですね。必要もない借金もですし、綺麗にしておきたいです」
「お前、確か生活安全課は初めてだったよな。お前の紹介も兼ねるから、ちゃんと顔売っておけよ」
「はい、分かりました」
 最初の辛辣な物言いはあるものの、ベアトリスは実に先輩らしい言動を見せる。エリアスはあの落胆もいつの間にか忘れてしまい、生活安全課へと先導するベアトリスに遅れずに付いて行った。
 ベアトリスも、本当にただの乱暴者ではなく、後輩思いの一面もあるようである。初対面の時の印象は最悪に近かったが、その時のようなただの無茶苦茶なだけの人間ではないのだろう。すると、配属初日のあの出来事は、また別の見方が出来るようになる。犯罪者との取引。ベアトリスは喜んでそれを受けている訳ではないと言っていた。なら、敢えて受けざるを得ない事に一体どんな事情があるのか。
 エリアスは、今更ながらベアトリスの事情をもっと知りたいと思うようになった。覚えることは仕事だけではない。人間も同じなのだ。