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「おう、お前だな。さっき財務省の事なんか言いやがったのは」
 ベアトリスは、この人数を前に少しも怯むこと無く、彼らの中から中年の男を一人胸元を掴んで無理矢理引き離す。男は多少抵抗するものの、ベアトリスの力が強いのか気迫に気圧されているのか、大して抵抗も出来ずに引き摺り出されてしまう。周囲もまた、ベアトリスの気迫に押され気味にあるせいか、同じように諦観し始めていた。
「誰が財務省の使いっぱしりだ。てめえ、適当なこと言いやがって。何も知らねえクソ素人が」
「な、何だ! 官吏が善良な市民に手を上げるのか!? うちにはな、優秀な顧問弁護士が居るんだぞ!」
「脱税野郎が市民騙るんじゃねえ! 国に甘える事しかしやがらねえダニの分際で! 優秀な弁護士だ? 無能な食い詰めが日銭稼ぎで入れ知恵してるだけだろうが。どこの誰かなんざ、こっちは知ってんだぞ! お前ら申告は誤魔化す癖に、ダニ飼う金はあるんだな!」
「仕方ないだろ! 好きで誤魔化してる訳じゃない! 景気が悪いのに、無理矢理税金を払わせようとするから!」
「税は払うもんじゃねえ! 納めるものだ! てめえらは、その意識から腐ってんだよ! もういい! お前ら今から全員しょっぴいてやる。エリアス! 裁判所行って礼状取ってこい!」
「え? 今からですか!?」
「礼状の窓口は昼夜関係無しで開いてるって教えただろうが! さっさとしろ!」
 蹴り飛ばされ転げたエリアスは、とにかく急いで立ち上がりベアトリスの凶行を止めようと考える。しかし、どう近付いて止めようか、その手段がまるで分からなかった。ベアトリスに逆らいたくはないが、例え脱税の容疑者でも手を出せばベアトリス自身も逮捕は免れない。その冷静さを取り戻して貰うためにも何とか宥めなければいけないが、ベアトリスが突然とここまで激高する理由が分からないのだ。
 理屈はともかく、体重の重い自分なら力強くで何とか押さえる事は出来るかも知れない。後を考えると恐ろしいが、今はそんな事をとやかくは言ってられない。
 そう覚悟を決めた、まさにその瞬間だった。エリアスの脳裏にふと絶妙な言葉が浮かび、前へ踏み出すよりも先にその言葉を口に出した。
「先輩! まず、権利を読みましょう!」
「ああっ!? 何がだ!」
「た、逮捕する時の、容疑者の権利です! 弁護士を付ける権利、不都合な事を黙秘する権利! それと、後は、えっと」
「供述書の誤りを訂正させる権利だ馬鹿! 現場でスラスラ言えるように、暗記しとけって言っただろ!」
 この状況において叱責を食らうのは、かなり惨めで恥ずかしい。だが、日常のやり取りを思わずしてしまったせいか、ベアトリスの目に普段の冷静さが宿り始めた。ベアトリスは露骨に舌打ちをすると、男を突き飛ばすように胸元から手を離した。
「くっだらね。お前が馬鹿な事を言うから冷めちまったじゃないか」
「い、いや、まずかったですって。今日は警告だけだって、あんなに言ってたじゃないですか。どうしましょう、これ。後で監理部にたれ込まれたら……」
「知るか、そんなの。その時は、その時だ」
 ベアトリスは、頭の血は下がっても未だ苛立ちは残っているため、後先の事は良く考える事が出来ない。こういう時こそ自分が何とかしなければと思うエリアスだが、肝心のフォロー案が出て来なかった。どうすれば、彼らに納得して貰い穏便に済ませられるのか。名案は出て来なかった。
「あ、あの、とにかくですね。今の一悶着はさておき、皆さん非常にお立場が良くないという事だけ分かって下さい」
 とにかく回らない頭を酷使して絞り出したのは、そんなありきたりな言葉だった。こんなもので納得してくれるのか。当然のように疑問符がすぐに浮かんだが、
「あ、ああ……分かった」
 ベアトリスに気圧されていたせいか、茫然自失としている一同は何人かがうなされているような口調でぽつぽつと答えた。
 これで言質は取った事になるだろうか。本当は念書も取るべきだが、これ以上は刺激しない方がいい。そう思ったエリアスは、もう引き返そうという想いを一心に込めた視線をベアトリスに送る。
「分かったな、お前ら。今回だけだぞ。次は、警察が逮捕しに来るか、裁判所からの召喚状だからな」
 ベアトリスは相変わらずのきつい口調で言い放ち、くるりと踵を返し外へと出て行った。
「し、失礼します。お騒がせしました」
 エリアスも最後の挨拶だけ律儀に行い、その後をすぐに追って部屋を後にした。
 ビルを後にして人気のない商店街へ出る。これで一息つけるだろうか、とエリアスが安堵するのも束の間、ベアトリスは早速悪態をつき始めた。エリアスはすぐ調子を合わせて、ベアトリスの機嫌を窺う。
「あのクソ野郎共め。何が使いっぱしりだ。好き勝手言いやがって」
「そ、そうですね。それに、顧問弁護士がどうとか言って。弁護士とグルになって脱税って、相当悪質ですよね」
「だからうちに回ってきてんだよ。三課の奴ら、ちょっとでも面倒な連中はすぐこっちに押し付けやがって」
 この三課とは、同じ国税局の査察部三課の事を指す。三課は、主に無名な一般人の脱税を取り締まる部署だ。四課はたまに、彼らの手に負えないような案件を請け負う事がある。
「それにしても、これまでの案件はみんなこういった一筋縄でいかないものばかりですよね。犯罪行為をしていたり、弁護士を使って理論武装しようとしていたり。現場はいつもこんな風に緊張しているものなのでしょうか?」
「うちはな。と言うか、うちら四課はそんなものしかねーんだよ」
「そんなものしかない?」
「四課ってのはな、そもそも他の課がやりたがらない、どうしようもない案件ばっか回ってくる所なんだよ。だからいつも下らない犯罪グループ相手で、たまに一般人相手かと思ったら、ああいう知恵遅れみてーな半グレ集団だ。取り締まったってろくな評価にもならない、そんなものだ」
「それって、いわゆる余り物を回されてるように聞こえますが……?」
「そうだよ。まさしく、そういう事だ。どうだ? もう辞めたくなっただろ? 四課は、財務省の使いっぱしりの中でも更に最底辺だって知ってさ」
 どこか自嘲気味なベアトリス。けれどエリアスは、ショックよりも先に疑問が浮かんだ。それはまさしく、今日のベアトリスのヤジに対するあの反応についてだ。
「でも、先輩は辞めてませんよね。そういう嫌な案件ばかり回されても続ける理由は何ですか?」
 そう訊ねると、ベアトリスは露骨に舌打ちをし、エリアスの頭を一度はたいた。
「お前に話す義理はねーよ」
 吐き捨てるように言い放ち、自分一人先に前を歩いていく。それは、何か理由があってそうしているのだという態度に他ならなかった。
 やはり、何か理由があって固執しているのだ。けれど、それは何なのだろうか。何が目的で、今日まで耐え抜いているのだろうか。