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 翌朝、エリアスはいつも通りの時間に登庁してきた。執務室には他に誰の姿もなく、この時間に登庁したのはエリアスだけだった。執務室の鍵が開いていたため他に誰かいるのかと思ったのだが、これは恐らく昨夜のまま施錠がされていないだけなのだろう。
 ひとまず自席に着き、今の自分の作業を確認する。一昨日に摘発を行った零細企業の調査報告書が未完だが、これは今週中で十分な代物である。それ以外はまだ無く、一人で動ける調査も回ってきていない。エリアスは定時通り来る必要は無かったのだが、普段の習慣を崩したくないという理由で疲れと眠気を推して来た。しかしこの状況では全く意味が無いようであり、幾分か損をしたような心境にさせられた。
 エリアスは眠気を押し殺しながら、手持ちの作業である報告書の作成を始める。しかし、周囲に人の目が無いためすぐに眠気が襲ってくるようになり、そのせいで作業には全く集中出来なかった。いっそ仮眠でも取ろうかと思ったが、やはり自分の立場を考えればそれはリスクが高い行為に思え、何とか気持ちを奮い立たせ作業を継続する。
 何度か意識を飛ばしながらも、作業を進めていくエリアス。やがて中央の大時計台が正午を報せる時刻になったが、それでも他の面々は誰一人として登庁して来なかった。やはり、登庁は午後からなのだろうか。エリアスは自分もそうすれば良かったと胸の中で愚痴をこぼす。
 正午なら昼食にしよう。他に誰も無く自分一人なら、誰にも気を使わずに食事が出来る。そう思い、自席から立とうとした時だった。不意に執務室の入り口に物音と人の気配がし、何と無しに目を向ける。そこに居たのは、昨夜の帰り間際に廊下で少し言葉を交わしたジョーンだった。
「やあ、昨日の今日で元気だね。若い証拠だ」
「い、いえ、局長もお忙しそうで」
 ジョーンはこの査察部の部長であり、そして国税局の最高責任者である局長を務める人物だ。エリアスは失礼の無いようにと慌てて腰を上げて背筋を伸ばす。
「ああ、そんなに固くならなくていいよ。今日は秘書にも休みを取らせているし、局内も全体的に休みムードだ、気軽に接してくれて構わないよ」
「は、はあ……」
 だが、そう言われたからと言って実際にそう出来るはずもない。エリアスは露骨に緊張を見せぬよう努力するものの、ジョーンの一言一句には最大限注意をする。
「これから昼食かね? だったら、一緒に行かないかな。少し若者との話をしてみたくてね」
「は、はい! 是非とも!」
「よし、じゃあ決まりだ!」
 そしてエリアスは早速ジョーンに連れられて庁舎を後にする。内心この状況には困り果てていた。局長と二人きりでランチなど何を話せばいいのか分かったものではないが、その誘いを断れるはずもない。ベアトリスやアントン、ボスと比べて遥か格上の相手である。これまでにそんな経験のないエリアスは、とにかく不安でいっぱいだった。
 ジョーンに連れられて入ったのは、庁舎から程近い通りを真っ直ぐ歩き、やや小さな路地へ曲がってすぐにある地味な佇まいのカフェだった。しかし、店内は外観からは想像がつかないほど内装に力を入れていて、置かれているテーブルやソファーもエリアスの素人目でも高級品だと分かるものだった。内装のデザインはおそらく古典の何かだと思われるが、それ以上の知識は持ち合わせていなかった。
「さ、楽にしたまえ」
 ジョーンは店内の一番奥にあるソファーの席へ腰を下ろした。エリアスもそれに続き向かいのソファーへ腰を落ち着ける。店内は他に客の姿が無く、大通りから離れているため普通の会話でも店中に聞こえそうなほど響き渡る。こんな状況で寛げるはずもない。エリアスの緊張は未だに続く。
「こんにちは、局長。こちらは新人の方ですか?」
 カウンターから品のいい初老の男がやって話し掛けてくる。ふとエリアスは、彼がジョーンの仕事を知っている事にいささか驚いた。国税局の人間が来る事を快く思わない店も多いのだが、彼の様子からするとそういった怪訝は無いようだった。それだけ二人の付き合いは長いのだろう。
「ああ、今年の大型新人だよ。もう独り立ちして、あれこれ仕事をやってくれているんだ」
「それはそれは。局長としても心強いですね」
 そう笑い合う二人。自分はそんな上等なものではないとエリアスは内心否定しつつ、ただ曖昧な愛想笑いを浮かべ応えた。
「じゃあ、いつものやつを二人分頼むよ」
「はい、かしこまりました」
 初老の男は一礼してカウンターの奥へ行った。いつもの、で通じる辺り、ジョーンはやはりこの店の常連なのだろう。
「なかなか良い店だろう? 外からは分からないが、中は実に落ち着ける」
 きょろきょろと店内を見回していたエリアスに、ジョーンは得意げな表情でそう話した。
「はい、本当に。庁舎の近くにこんな店があったなんて、今まで知りませんでした」
「それに、ここはなかなかにコーヒーが美味い。その上、普段からあまり客がいないから、昼に一人になりたい時は打って付けだ」
 今日は自分達以外の客の姿は無い。確かにこういった環境なら落ち着けるだろうし、あまり人に聞かれたくない話もしやすいだろう。だが、それで店はやっていけるのだろうか。そんな疑問を思い浮かべた。