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 戦いにおいて、もっともしてはならないこと。それは、狭所で戦う事と多人数を一度に相手にする事である。それはエリアスの通う武術道場の師範より授かった教えなのだが、今のエリアスの置かれている状況はその二つの悪手を同時に受けてしまっている。してはならない事に背くことは恐怖心と躊躇いがあったが、もはや退ける状況ではなかった。
 ロビーを抜けて階段を登る。人がすれ違える程度の幅しかない階段には、またしても強面の男達が数名待ち受けていた。彼らの目は眼下のエリアスを殺気立った様子で睨みつけている。それだけで怯みそうになるものの、背後から四課の面々の足音と怒声が聞こえて来たため、それを励みに階段を登り始める。
「なんだてめえら! さっさと帰れ!」
「勝手に入って来るんじゃねえ! 殺されてえのか!」
 露骨な脅し文句。当然彼らにはそんな事が出来るはずもなく、エリアスも多少怯んではいても最低限身を守ることは出来る。だから恐れる必要は無いのだが、単なる護身とは違って自ら率先して手を出す事にはどうしても躊躇いが生じる。けれど、ここまで来てそんな迷いに振り回されてはいられない。
「うおっ!?」
 エリアスは最初の男の胸倉を無言で掴むと、自分の方へ強引に引き寄せた。バランスを崩し両手をばたつかせる男、エリアスは彼の重心を瞬時に感じ取り、そのまま自分とすれ違うように階段の下へと放り投げた。男は一度階段に引っ掛かりながら、胸と顎を打つような形で階段下へ落ちる。すぐさま立ち上がろうとするものの、そこを四課の誰かがすぐさま追い打ちをかけてしまった。そこまでする事は無いのに、そうエリアスは思ったが、すぐさま次の男がエリアスへと襲い掛かってきた。
「ハッ!」
 男が繰り出してきた拳を難なく腕の外側で弾くと、その勢いを利用して今度は階段の横から下へ落とす。少し高さがあると危惧したものの、落とされた男は正面から落ちたためか頭を打つような事は無かった。
 エリアスは階段に陣取る残りの男達を次々と蹴散らしていく。武器を持たれたら厄介だと警戒はしていたがそこまではなく、単なる喧嘩自慢をいなす程度ならエリアスにとって大した作業ではなかった。あっという間に階段に陣取っていた強面達を蹴散らすと、エリアスは階段下の四課の皆へ状況を叫ぶ。
「お、いいぞ。なかなか早くなったじゃねえか。腕っ節だけはもう一人前だな」
 ベアトリスは珍しく上機嫌でエリアスを褒める。この状況を楽しんでいるのではないか、そんな風にすら思える態度だ。
「あ、あの、怪我人は出なかったでしょうか?」
「別に誰も死んじゃいねーよ。いいんだよ、骨の一本折るくらいでやってやりゃあ。そうでもしねえと、こっちの仕事が終わらねえからな」
 ベアトリスは骨の一本と軽く言っているが、それは紛れも無く本心である事は今までの付き合いから十分計り知れた。そして何よりも、そんな事が当たり前という場に何度も踏み入っている自分の境遇の異常さに、時折気が滅入りそうになった。武術道場での教えは、直接的なことばかり生かされて精神性は全く関係が無い。明らかな非日常、異常な状況である。これが法に基づいた正当な執行と言えども、少なくともエリアスにとっては異常としか表しようのない状況だ。
 受付を通り過ぎ、廊下へと出る。そこからは左右にそれぞれ部課の執務室があり、営業やら調達やらと表札が掲げられていた。ここから今回の目的である、この会社の違法行為に対する証拠を押収するのだ。
「おし、とりあえず営業から行くぞ。企業間取引の契約書を最低でも過去十年分は持ってくからな」
 そうベアトリスに言われ、エリアスはまず営業一課と表札にある執務室へと入った。
「あ……」
 中にはまた先程のような強面の男達が待ち構えているのではないか。そう警戒しながら入ったものの、そこに居たのは少なくとも見た目は普通の勤め人の格好をした男女達だった。彼らは不安や怯えの入り混じった目でこちらを見ている。何か暴力をふるわれるのではと警戒しているらしく、男は少し前屈みになった応戦の構えを見せ、女はただひたすら寄り合うようにして部屋の隅で震えている。あの経緯の直後なのだから、確実に誤解をされている。けれど、その誤解を解く暇は無かった。
「邪魔は入らねえようだな。よし、さっさとやるぞ。まだまだ部屋はあるから、てきぱき行くぞ」
「はい、分かりました」
 ベアトリスの指示の元、エリアスはすぐさま資料用の棚や保管スペースを漁り始め、目欲しい書類を集めていく。けれど、仕事はしつつも頭の中では怯える彼らの様子が気になって仕方がなかった。
 明確な目的や意識があって職業を選択した訳ではない。薄ぼんやりと、何か意義のある事をしたいとは思っていたが、具体性は何もなかった。けれど、人から恐れられ怯えられる仕事、自分はこんな事をしたくて官吏の試験を受けた訳ではない。どうしてこんな目で見られなければならないのか。そんな思いが、何度も頭の中を駆け巡る。
「おい、エリアスはいるか」
 そんな時だった。不意に執務室へ入ってきたのは、先生ことアントンだった。
「はい、ここに。何かありましたか?」
「社長が社長室に立てこもっている。ドアの前には社長の息子達が陣取っていて、かなりの抵抗に遭いどうにも状況が良くない。だから助太刀に来い」
 また、暴力沙汰に呼ばれるのか。
 ここの社長とその家族は、いずれもかなり気性が荒い事は事前に知らされていた。だから何となく、自分も関わらされると覚悟はしていた。しかし、この状況でそれではとても気乗りはしなかった。これではまるで、自分がまさにあの強面の男達のような、暴力を仕事としているような人種に思われそうだからだ。
「へー、根性見せてんなあ。先生、アタシも行っていいか?」
「駄目だ。お前は加減を知らない。被告人に怪我をされると、裁判で情状酌量されかねない」
「ちぇっ、信用ねーなあ。おう、エリアス。そういう事だからさ、頑張って来いよな。アタシの分までぶちかまして来い」
 そうベアトリスはけらけら笑いながら、激励の意味でエリアスの背中を叩いた。
 人の気も知らずに、良くもそんな軽薄な口を。
 エリアスはベアトリスへ何時にない苛立ちを感じ、だがそれを態度に表さぬようぐっと堪えて無表情に徹する。