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 目が覚めたのは、まるで見覚えのない部屋の中のベッドの上だった。あれから一体自分に何が起こったのか。目覚めた直後でうまく頭の回らない事が、エリアスを俄かに錯乱させる。しかし、体に染み付いた自分の心境を表に出さない性癖が働き、混乱するがままに体を動かし暴れ回るような事はなかった。いや、そもそも自分の体が酷い倦怠感を覚えているせいで、動かす事そのものが億劫と思うせいかも知れない。頭と体が同期が取れていないように感じるのは、何か薬が効いているからなのだろうか。
 しばらくじっと頭を抱え、感情の高ぶりが収まるのを待つ。やがて自分が、あの日は捜査のためにウィンドヒルへアントンとベアトリスと共に訪れた事を思い出した。そこから先は、ほぼ芋づる式だった。正門を壊した事や、被疑者が不在の邸宅へ押し入って資料を探したこと、そして何より被疑者が仕掛けた罠にまんまとかかり、今こうして病院のベッドの上に居る事になってしまった経緯についてもである。
 そう、この独特の空気に色調、今自分が居るところは紛れもなく病院だ。入院の経験はないが、状況からこれがその入院であることは察する事が出来た。おそらくあの日、罠にかかって意識を失った自分は二人によって運ばれて来たのだろう。
 自分の身に起こったこと。それは、あまりにも典型的な爆弾トラップに引っ掛かった、何の弁解の余地のない失態だった。こうして今冷静な状態で思い返せば思い返すほど、如何に自分が不注意であったかをひしひしと痛感する。今日は調子が良いからきっとうまくいく、そんな根拠の無い自信でアントンの警告を話半分にしか聞かなかったあの時の自分を殴り飛ばしたいとすら思った。
 自分を落ち着けながら、誰も居ない病室をゆっくり見渡す。病室はもっと騒がしいイメージがあったが、ここが個室であるせいかほとんど物音がなく非常に落ち着ける環境だった。ベッド脇のサイドボードには、見覚えのある古めかしいカバンが置かれている。それは実家に置いていった、昔自分が使っていたカバンだった。おそらく、自分が寝ている間に両親が着替えを置いていったのだろう。もしかすると、しばらくすればまた来るかも知れない。きっと両親も、突然こんな事になってかなり動揺しているだろう。査察部はどう説明したのか、それが少しばかり気になった。
 エリアスはもう一度眠ろうかと思ったが、相当眠っていたせいか目が冴えて眠れる気配がまるでなかった。仕方なしに起きたままぼんやりと天井を眺めるが、それは決して楽しいものではない。何か暇潰しが欲しいところだが、自らの失態でこうなった上に現場にも迷惑をかけたのであれば、その要求はいささか気が引けた。
 そうやってぼんやりとしたまま、しばらく時間を潰していた時だった。突然病室のドアが開き誰かが中へ入ってくる。ノックも無しという事は、自分がまだ寝ていると思っている両親か看護士辺りだろう、そうエリアスは思った。しかし、
「おや? 目が覚めたのかい。医者の話だと、まだしばらくはかかるだろうって言ってたのに。いやあ、取りあえずは無事で何よりだよ」
 そう飄々とした口調で話す男。それは、査察部の部長であるジョーンだった。何故、よりによって国税局の長が自分如きのためにやってくるのか。エリアスはすっかり困惑しきっていた。
「えっ!? あ、いや、その」
「ああ、そのままでいいよ。怪我人なんだからね」
 ジョーンにそう言われ、反射的に起こそうとした体を戻す。その時、ジョーンの声が普段より幾分聞き取り難くなっている事に気が付いた。どちらかの耳が、若干ではあるが聞こえが悪くなっているようだった。これもあの爆弾によるものだろう。
「命には別状は無いそうだよ。ただ、少し傷痕は残るかも知れないらしい。障害になるほどではないけれど」
「いえ……このたびは御迷惑をおかけしました」
「まあまあ。誰だってこういう事はあるから。それに、罠を仕掛ける奴が一番悪いに決まってるよ」
「あの、ジェルヴェーズの件はどうなったのでしょうか?」
「ああ、あれね。実は身柄はさっき確保したよ。国外脱出寸前の所さ。ただ、やった事があまりに悪質な上に、爆弾自体の出元も焦臭いので、身柄は国家安全局に取られちゃったけど。背後関係が随分と薄汚いようでね。まあ要するに、少額の脱税なんて追及してる場合じゃないって事なんだろうね。せっかく追い詰めたのにね」
「ただの脱税の容疑者ではなかったんですね」
「そうだね。まあ、だから四課に回された案件なんだけれど」
 四課に回される案件らは、回される理由そのものを気にしたことはなかった。何故なら、一様に難ありであるためで、それを一々気に留めたり選り好みしたりする事は出来ないからだ。
「ジェルヴェーズは、そんな少額のためだけ脱税なんてしていたのでしょうか? それも、ここまでしてまで隠そうとするなんて」
「まあ、例え少額と言えども追徴金は払いたくなかったんでしょう。若しくは、海外に逃げてまで追及を逃れたい隠し財産があったのかも知れないけれど、もううちの管轄じゃなくなったから、それも分からないしね。人間というのはね、大小はあるけれど際限なく欲求を持っているのさ。昔の先輩にそれを、渇きの種って教えられたよ」
「渇きの種、ですか?」
「種は水がないと発芽出来ないでしょ? だから周りの水を吸い込むんだけれど、渇きの種はどれだけ吸い込んでも決して満足しないんだ。そのせいで人はすぐに喉が渇いてしまう」
「そんな風に、意味もなく金を欲しがる……?」
「ま、そういう事だよ。何かが欲しくて金が必要なんじゃなくて、金そのものが欲しいのさ。どうしてそうなっちゃうんだろうね。その先輩も、結局は収賄で捕まったんだ」
 金の危険性を教えてくれた当人ですら、金の力に負けてしまった。ショーンから聞かされたその事に、エリアスは何と言って良いのか分からず言葉を失った。ショーンにはおそらく、何かしら信念があって今に至るものがある。だがそれに対して、自分は何も持っていない。その事がとても後ろめたく感じた。
「この先、君にも収賄だとか汚い金を手にする機会が訪れるかも知れない。その時、君はそれを振り払う自信はあるかな?」
 エリアスは答える事が出来なかった。何も信念の無い自分に、金欲を振り払うような自制心があるのか分からなかったからだ。