BACK

 エリアスは、小心者として過ごしてきたこれまでの人生の中で、今は最も心臓が高鳴っていると感じていた。定時を過ぎた夕刻、既に仕事は終えた体である。場所は東区の端、そこは港沿いの旧倉庫地帯だが、現在は不法移民達が主な根城としている。査察四課ですら取り締まりの対象としないそこは、まさにエリアスにとって異次元の世界だ。そんな所へやって来たのは、そこを縄張りとしているあるマフィアに接触するためである。当然だがこれは、完全にエリアスの独断だ。査察部の資料からこの場所を選別し、指揮を無視して交渉を行う。これが知れれば、おそらく懲戒処分だけでは済まないはず。それを想像するだけでエリアスの心臓は異様に高鳴っていた。
 夜の旧倉庫地帯は、エリアスが想像していたよりもずっと明るく人出で賑わっていた。これなら繁華街とあまり差は無いと思ったが、飛び交う言語が明らかにセディアランドの公用語とは違う異質なもの、それも複数の言語が飛び交っており、エリアスは自分がまるで外国に来ているかのような錯覚に陥った。
 見た雰囲気から治安も良くはないだろう。揉め事は出来る限り避けたいが、いざという時は暴力も使わざるを得ない。そしてそうならないためにも、きょろきょろ辺りを見回したりせず背筋を伸ばし堂々と歩くことを心掛ける。エリアスは体格は人並み以上に大きく威圧感がある。そのため自信に満ち溢れた振る舞いをしていれば、小者の類は迂闊に手を出し難くなる。アントンから受けた教えである。
 こういった土地であるため、地図を見て歩くなどとても出来る事ではなかった。エリアスは予め必死で頭に入れておいた地図を頼りに、道を進んでいく。時折飲み屋などの呼び込みを受ける事もあったが、言葉が分からないため無言で突っ切る事に躊躇いが出なかった。酔っぱらいやカツアゲなどの面倒な手合いに出くわさなかったのは幸運と言えただろう。
 小一時間ほど歩きつめ、ようやく目的地である一軒のバーへ辿り着いた。そこは倉庫を丸々改装した店で、当然だがセディアランドの各法律に違反した店である。それが放置されている辺り、如何にここがセディアランドの法律の届かない場所であるかを再認識させられる。
 倉庫の中は、大勢の客で賑わっていた。その凄まじい熱気の渦中には、正方形に区切られ四方を鉄柵で囲まれたスペースがあった。そこでは二人の男が上半身裸で殴り合っている。そして周囲では賭けが行われていた。この店は酒以外にこういった賭博を売り物にしているのだろう。中心街では開店すら出来ない違法な業態だ。
 この異様な熱気に当てられ、エリアスは目眩すら覚えてきた。あまり長居はしたくない。早く目的の人物との交渉をしなければ。
 エリアスは店の周囲をぐるりと見回した。元倉庫である事を感じさせない凝った内装が施されているが、デザインはかなり退廃的で自分の趣味ではない。ひしめいている客達は人種も様々だが、何よりもごく普通の稼業を営む人間に見えた。仕事柄、裏社会の人間は見慣れている。だから区別が付くかもしれないと思い、エリアスは目立たない壁の端に立って更に客達を観察する。
 客の流れを見ていると、奥側の区切られたエリアに時折向かう者が数名いる事に気が付いた。そしてその付近の上側には、丁度倉庫の二階部分の踊り場になっている。そこは特別な客室として改装されており、はっきりとは見えないが何人かの人間がいるようだった。あれはおそらく、この店でも上客か若しくは訳有りの者しか入ることの出来ないエリアなのだろう。そこまで行くことが出来れば。エリアスは頭を悩ませる。
 その時、エリアスは店員らしき女性にお盆を向けられた。そこには幾つかグラスと小銭が並んでいる。
「あ、ああ……」
 笑顔で何らかの言語で話しかけて来る。おそらく飲み物を勧められているのだろう。そう思いエリアスは、グラスを一つ取り値段が分からないため適当な額の小銭を代わりに乗せる。金額が合っていたのかそれともあまり細かく計算しないのか、彼女は笑顔でまた何らかの言葉を話し、別の客の所へ行ってしまった。
 グラスからはかなり強いアルコールの臭いが漂っている。この状況でとても酒など飲めるはずもなく、とりあえずエリアスは飲む振りだけをする。長居すればするほど、自分の挙動は目立ち不審に思われるだろう。
 早く何かしら行動を取るか、もしくは今日の所は様子見としてこのまま帰る事にするか。想像以上の状況に決意も揺るぎ始めてきた時だった。
「おい」
 突然、背後から左肩を掴まれる。その握力からかなり強い人物だとエリアスは瞬間的に察知する。振り向き様に殴られる事を警戒しつつ、ゆっくりと後ろを見る。そこには、エリアスに負けず劣らずのがっしりした体格の男が二人、鋭い視線を向けて立っていた。
「ボスがお呼びだ。一緒に来て貰う」
「あ、ああ……」
 あまり流暢ではない話し方でそう言われ、咄嗟に返事をする。男達は後ろから左右を挟むようにエリアスを囲み、店の奥の方へと連れて行く。エリアスはただ素直にそれに従う。
 ここのボスとは、おそらく自分が接触を図ろうと画策していたマフィア青の翼のボスのことだろう。向こうから会ってくれるというのはありがたいと思う反面、初対面であるはずの自分をこうして連れて来るという事は何か企みがあるという事である。
 だがこれはきっと、良い兆しであるはず。やはり彼らとの交渉の余地はあると、エリアスは確信していた。
 彼ら青の翼は、入国管理局以外とはまだ何の繋がりを持っていない。馴染みのない顔のセディアランド人を見て、何かしら察したのだろう。つてを手に入れられるなら、手に入れておきたい。彼らのボスはそう考えているはずである。そして、
新たな縄張りを手に入れられるかも知れない取引は、必ず心を動かすはずなのだ。そう踏んだのは、青の翼の首領ロズという男が代替わりしたばかりの若い男だからだ。