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 熟考した上での決断では無かったとは言え、本当に生きた心地のしない状況になった。内心エリアスは、強く初心を保とうとしなければ、後悔で気持ちが折れてしまいそうな心境だった。
 その日はごく普通に仕事を終え、夕食の惣菜などを少し買い帰宅する。独身であるエリアスは、都心から少し離れたアパートの一室で一人暮らしをしていた。帰宅時間は不規則だったが、最近は特にオリヴァーから睨まれているせいか、あまり大きな仕事は回って来なくなり、帰宅時間は一定になった。さほど遅くもない時間に帰宅できるのは、今の状況ではむしろありがたかった。表立った活動が出来ない事もあるが、彼を一人残しておく状況があまり精神衛生に良くないからだ。
「ただいま戻りました」
 一人暮らしであるはずの部屋に、そう声を掛けながら入るエリアス。そんな彼のアパートの居間には、一人の青年の姿があった。
「おう、お疲れ」
 青年は読んでいた雑誌を片付けながら、テーブルの上を空ける。エリアスはそこへ買ってきた夕食を並べた。
「何か変わった事はありましたか?」
「いや、特に。だが、そろそろ半月だ。もう動きはあるはずだぞ」
 そう答え、青年はバゲットをひとつ手にしかじり付く。焦っても仕方がない、そうエリアスは落胆する気持ちを抑え、上着を掛けて自分も席へ着いた。
 この青年の名はハジ、あの青の翼から寄越された構成員である。彼は青の翼との連絡係、そしてエリアスの見張り役だ。当然彼は不法移民であり、正当な理由無く住居へ住まわせればそれは犯罪行為となる。そのためエリアスは、官憲と青の翼と両方へ気を配らなくてはいけない。これだけでも随分な心労である。
「しかし、本当に上手くいくんでしょうか? 幾ら何でも、夜の影に潜入させるなんて……」
「問題ねーよ。ああいう連中は、どこも俺らのような使い捨てしやすい人間を確保しておきてーもんなんだよ」
「ですが、もしバレでもしたら……」
「ま、無事じゃあすまねーだろうな。けど、そういう危険は承知の上でやってんだよ。お前が気にする事じゃねえさ」
 現在、青の翼の構成員が夜の影に対して潜入を試みている。目的は、夜の影がオリヴァーと何らかの接触を持つタイミングを掴む事だ。これにより夜の影が検挙でもされれば一気に壊滅状態へと追い込む事が出来、青の翼はその後釜へ座ることになる。そしてそれはオリヴァーの不祥事を明らかにする事でもあるため、査察四課の手柄として目的を達成出来る。
「ハジさんは、出身はどちらなのですか? 母国ではこういった事はあるのでしょうか」
「俺は北ラングリスの出身だ。ラングリスは知っての通り、昔からきな臭い内戦ばかりやってる国だ。スパイ紛いの事なんざしょっちゅうよ」
 ラングリスは西方の新興国で、現在は内戦の影響で南北に分断している。南ラングリスとは国交は多少あるそうだが、北側とはほぼ無いに等しいそうだ。大臣が暗殺されたという事件も近年起こっており、セディアランドに比べて遥かに不安定な国だ。
「ま、俺らみたいな金もコネも無い奴らはすぐに食いっぱぐれてな。それでセディアランドに密航してきたってワケさ。この国は本当に暮らしやすいぜ。何せ物がこれだけ溢れかえってるから、少しくらいちょろまかしたって誰も切羽詰まった顔をしやしねえ」
 ハジは皮肉っぽく手にしたバゲットをちらつかせて見せた。ラングリスの詳しい情勢は知らないが、少なくともセディアランドほど平穏という訳ではないのだろう。
「だから、俺らはこういった事には貪欲なのさ。生きるためっていう理由が、あんたらセディアランド人と重みが違う。ま、別にあんたらが悪いって訳じゃないがな。生まれ育った環境の違いって奴さ」
「いえ、そんな。あまりそういった事情を知らず、こんな取引を持ち掛けた事は申し訳なく思うくらいです」
 セディアランドには移民もいるが、その中には彼らのような密航者も決して少なくない。そして彼らを都合良く使い捨てにする者が居る事も事実だ。エリアスは、本音では彼らと取るべき距離感に戸惑っていた。差別的な扱いをするつもりは無いが、彼らは間違い無く犯罪者であり社会に不利益をもたらす事もある存在だ。こちらが情を向けたからと言って、彼らも同じようにするとは限らない。だから必要以上の接近は避けるべきだが、現状は彼らの協力が無ければ何も出来ない。
 きっとこのヤマを終えても、この葛藤に似た漠然とした不安感は続くのだろう。エリアスはそんな結論を表情には出さないようにしつつ、自分もまた食事を始めた。
 そしてそれは、二人が丁度食事を終える頃だった。突然と部屋のドアがノックされる。一人暮らしであるエリアスの部屋には、滅多に来訪者は訪れない。となると、それは間違いなく青の翼の構成員だ。
 ドアを少しだけ開けると、そこには一人の青年が立っていた。ハジに彼の顔を確認させた上で中へ引き入れる。
「夜の影に動きがあったぞ。週末に客ではない誰かとボスが会うそうだ。詳細をもう少し探る」
 青年はそれだけを報告すると、そそくさと部屋を後にした。
 夜の影のボス。彼とは遂に顔を合わせる事は無かったが、査察四課すら追い返そうとした人間がわざわざ会いに行くと言うのだから、それは組織として重要な人物だろう。しかし、会う目的は何なのだろうか。オリヴァーなら、わざわざ自分とマフィアの接点を明かすような危険を冒すはずはないのだが。