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 その日の朝、コウは思わずぎょっとする光景を目にした。
 朝、いつものように総司課からその日の業務を受け取って戻る途中、セタの後ろ姿を見つける。いつものように挨拶をしようと近づきかけ、セタ以外の姿を見て咄嗟に足を止め物陰へ隠れる。セタは宮殿では時折他の騎士団の人間に絡まれる事がある。それは大抵セタをからかって遊ぶためなのだが、今朝は普段よりも雰囲気が異様だった。まず最初にコウが気付いたのは、セタが騎士の一人に胸ぐらを掴まれている事だった。セタをからかう時に頭をはたいたり足を踏む事はよくある。しかし、ここまで直接的な行為を受けている姿を見たのは、少なくともコウは初めてである。
 いつもとは様子が違う。コウは物陰に隠れたまま成り行き観察する。
 セタの胸ぐらを掴んでいる騎士は、明らかに機嫌を損ねていた。何故セタに対してそんな苛立ちを見せるのだろうか。
「なんだ? まただんまりか? それとも、戦勝の英雄様は雑魚なんざ鼻にもかけないか?」
「いえ……そういう事は」
「そういう事は? つまり、雑魚だって思ってんだなお前は」
 おおよそ貴族の子息とは思えない、乱暴な物言いと支離滅裂な言い掛かり。だが、言い掛かりでからかおうという様子ではない。とにかく強い苛立ちが先行し、結果的に支離滅裂な物言いになっているのだ。
「ふざけやがって、ただのクソ平民の分際で、なんで貴様が俺らと同じ騎士号なんかあるんだよ!」
 セタの胸ぐらを掴む手の力がより強くなり、セタの姿勢が歪む。セタはそれでも何の抵抗もせずされるがままだった。貴族に手出しする事を危険だと理解しているからだが、その態度はむしろ怒りの火に油を注いでいる。
「お、おい、やめとけよ。な? 流石にそれ以上はやばいって。ここは王宮だぞ?」
「うるせえんだよ! ここは市民共がいねえからやってんだ!」
 隣の騎士が青ざめながらたしなめる。しかしその言葉を一向に聞き入れる様子がなかった。
 ここで突っかかって来たのはセタの市井の間での人気を知ってての事なのだろうが、王宮で行うリスクを上回る事情があるのだろうか。だがあの穏健なセタに、ここまで恨まれるような理由が全く思い当たらない。煙たがられたり疎まれたりする事はあっても、真っ向から敵意を向けられるのは初めてではないだろうか。何故この騎士はここまで怒っているのか。しかしセタはそれすらも訊ねようとはしなかった。そういう口ぶりすらも貴族達の癇に障る事があると知っているからだ。
「クソが、黙り込みやがって。お前、なんでこうなってるのかも分かってねえんだろ」
「それは……自分の不徳の致すところで」
「分かってねえんだろ! 俺らの仲間みたいな言葉遣いをするんじゃねえ!」
 セタの体が激しく前後に揺さぶられる。セタはそれを歯を噛みながら必死で耐える。隣の騎士は一層おろおろしながらそれを止めようとする。
「もうこれぐらいにしとけって。な? 流石に近衛兵なんか来たら、俺らだってただじゃすまないんだぞ? こんな奴のために経歴汚したってしょうがないだろ。な?」
「クソっ!」
 男はセタを突き飛ばすようにして放す。セタは多少よろめきはしたが、しっかりと自分の足で立った。だがその平然とした佇まいが再び癇に障ったらしく、騎士はまたしても掴みかからん勢いでセタに詰め寄った。またセタに暴力を奮うのか。それとも遂に手を出すつもりか。そう思っていると、騎士はこれまでとは一変して急に物静かな声でセタに話し掛けた。
「なあ、お前。嫁さんにガキが出来てるんだってな」
 すると、うつむいていたセタの目の色が変わり背筋が緊張するのが見て取れた。
「隠したって分かるんだぜ。そのくらいなんかな。予定日はいつだ? ん? 無事に生まれるといいな?」
 そして騎士は別れ際にセタの胸を小突くと、そのままその場を後にした。しかしセタは同じ姿勢のまま、その場に立ち尽くしていた。僅かに背筋が震えている。顔も青ざめていて、今にも倒れるのではないかと思ってしまうほどだ。
 ああ、そうか。セタはこれを恐れていたのか。
 コウは今の騎士の言葉に、忘れかけていたセタの隠し事の事を思い出す。セタが身重の妻の事を気にかけていたのは、何も自宅の周りをうろつく不審者の事だけが理由ではなかったのだ。
 そう納得する一方で、コウは困惑混じりの疑問を浮かべる。まさかこの国の貴族達は、セタの存在が気に入らないという理由だけで、本人どころか家族にまで手を出すのか、と。それは確かに効果的かも知れないが、あまりに人道から外れ過ぎた卑劣な行いに思えた。セタに明確な恨みがあるならまだしも、好き嫌いだけの事でそこまでする理由になるのか。そんな考えを持つあの騎士の性根こそが信じられなかった。
 コウは物陰から姿を現し、セタの元へ駆け寄った。普段なら未熟な部下を演じながら近付くのだが、この時ばかりはそんな意識がすっぽり抜け落ちていた。
「あの……大丈夫ですか?」
 セタはゆっくり顔を上げコウへ向くと、青ざめた顔で薄く笑って見せた。
「ああ。今の聞いていたのか?」
「すみません、助けに入れなくて……。でも、酷いですよね。どうせはったりでしょうけど、幾ら何でもあんな事を言うなんて」
「彼、実は先月に奥さんを事故で亡くしているんだ。馬車が荷馬車と接触してね、他の人は無事だったのに奥さんだけが運悪く潰されてしまって。お腹の子供も駄目だったそうだ」
 だから。セタはその続きを口にはしなかったが、何を言いたいのかはおおよそ見当はついた。
 逆恨みである。何一つセタに落ち度は無く、責任もない。やり場のない怒りや悲しみを理解は出来ても、それをセタにぶつけるのは筋違いも甚だしい。けれど、セタはその事を決して口にはしない。セタは騎士団の誰にも楯突いたりはしないのだ。
「まあ、俺に当たって気が紛れるならそれで構わないさ」
 それは嘘だとコウは直感する。セタは、自分が対等の人間として扱われていない事は理解している。その事を諦めて受け入れる、諦観の姿勢をずっと保ち続けてきたと想像していた。実際そうなのかも知れないが、今は事情が変わっている。
 ロプトの言う事を信じれば、セタは既にこの国を見限る決心がついている。それを思うとコウは、これまで自分がセタに抱いていた不安が別の形に強まっているような気がしてならなかった。