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 必要最低限の荷物を小さな鞄に詰め、セタ達と共にコウは密出国の手引きの基へ向かった。時刻は日付も変わる深夜、街の中心部こそ明かりが灯り営業する店や夜遊びに興ずる者達も居るが、少し通りを外れるとそこは完全な闇夜の中だった。それでも星明かりを頼りに、周囲に気を配りながら慎重に進んでいく。
 裏道や空き地、時には廃屋の中を進んで行くのだが、その行進は非常に時間がかかった。しかしそれでも、巡視が居る通りを歩くよりは遥かに安全だった。男だけの移動ならまだしも、今は身重の女性を連れての移動である。一度見つかりでもしたら、逃げ切る事はほぼ不可能だ。
「マリー、大丈夫か? 具合は悪くないか?」
「大丈夫、平気よ」
 セタは甲斐甲斐しくマリーを気遣っている。マリーは今の所体力的にも問題は無いが、何しろ臨月の身である。いつ容態が急変するか分からない危険がある。
 おそらくこのサンクトゥス国がセタの次に恐れているのは、マリーが懐妊しているセタの子供だろう。その子供は英雄の子供として特別な生を受ける。民衆が英雄の子供をどう見るのか。時の権力者への不満が高まれば高まるほど、英雄の子供へ否応なく期待が集まっていく。それは救国、革命と言う名の内乱に発展しかねない。権力者達にとって、自らの立場を危うくしかねないものだ。必ずしもそうなるとは限らないが、元々疎ましく思っているセタの子供とならば、多少強引で汚い手段を用いても排除しようとする可能性は十分に考えられる。だからこそセタも慎重になっていたのだろう。
 繁華街の脇を抜け、ひたすら街の外へ向かって裏通りを進む。コウは、今となっては夜勤での巡回が実にありがたいと思えた。夜勤で夜道の雰囲気や視界に慣れておかなければ、この移動にはもっと余裕が持てなかっただろう。第十三騎士団に面倒な仕事を押し付ける総司課の遣り口が裏目に出たようなものだ。
「間もなく目的地です。もうしばしの御辛抱を」
 使者は皆に励ましの言葉を掛けながら先導をする。彼の身のこなしを見る限り、それは明らかに単なる使者を勤めるだけの者のそれではなかった。むしろ、こういった特殊な状況に対応するための専門の訓練を積んだように感じる。
「えーと、使者のあなた、今更ですが名前は何でしょう?」
「君には名乗っていなかったか。私はロランと申します」
「それって本名?」
「勿論。信じられませんか?」
「いえ、何か身のこなしが普通じゃないから、偽名で活動するような事を普段しているんじゃないかって思って」
「ええ、その通りです。本業は諜報活動や工作などですから。もっとも、もう良い歳ですから、若い頃のように大立ち回りは出来ませんがね」
 国抱えの諜報員ならこの身のこなしも納得がいく。今回のような密使を務めたのも初めてではないだろう。ロランはそういった余裕を感じさせる。
 しばらく裏道を通っていると、ロランは一軒の古びた建物の裏口を叩いた。それは普通のノックとは異なる変わったリズムで、そのリズム自体が合い言葉の役割を果たしているようだった。
 程なく裏口が開き、中から屈強な体格をした音がにゅっと顔を出す。手にしたランタンでこちらの顔を一人ずつ照らして確認する。
「一人多いようだが」
「彼の腹心だ。初めに言っている通り、急遽人数が増える事も承知済みだ。金も払っている」
「そうか。では中へ入れ」
 一同は速やかに建物の中へと入る。そこは古びた倉庫のような作りで、ランタン以外の明かりが無くともその古さはカビ臭さで十分理解できた。廃屋を改造したアジトなのだろう。
「ボスは既に準備を整えている。後はボスの指示に従え」
「ああ、分かった」
 この無愛想で屈強な男は、おそらく用心棒の類だろう。近年ベネディクトゥス国への密入国者が増えたとは言え、まだまだ慎重にならざるを得ない稼業であるためだろう。
 ロランはこの建物の中には以前から来たことがあるのか、薄暗い中を先導し進んでいった。コウは、薄闇の中に酷く息苦しさを覚えた。それは、一見人気が無さそうに見えて、かなりの人数が潜んでいる気配があるからだ。それは先程の屈強な男に似ていたり、はたまた不安に満ちた自分達と同じだったり、非常に多種多様だ。今もなお、ベネディクトゥス国へ渡る人間は進行形で増え続けているのだろう。
 幾つか通路を曲がり、階段を上り下りし、自分達の現在位置が分からなくなるほど複雑な道のりを経た後、ロランはおもむろに廊下右手の扉をノックする。すると中から入室するよう声が聞こえて来た。そしてコウはその声に、思わずセタと顔を見合わせる。それは、聞こえてきた声が非常に若い女の声だったからだ。
 部屋の中へ入ると、そこは一転して十分な明かりの灯されていて、思わず暗闇に慣れきった目を細めた。その部屋はひたすら書棚ばかりが並び、思わず家具は事務机と幾つかの椅子があるだけだった。その椅子の一つに座り事務机に向かって書き物をしているのは、驚くほど場違いな若い女性、コウとさほど年も変わらず少女と呼べそうな人物だった。その傍らには年若い青年が佇んでいる。しかしその振る舞いはボスと言うよりも従者という印象を受ける。
「ああ、ロランか。随分急だな」
 少女は書き物をしながら横柄な口調でそう話し始めた。
「それも考慮した上での契約だったはずでしょう」
「そうだったな。金は十分に貰っている。履行はするさ。ところで、そこのお前」
 突然少女は顔を上げると、真っ向からコウを指差した。
「ああ、彼はセタ殿の腹心だ。急遽同行して貰う事になった。問題は無いはずだが」
「いいや、大有りだ。お前、一体何をしたのだ?」
 その問い掛けに、コウは眉をひそめながら小首を傾げる。
「覚えが無いと言わんばかりだな。まあ、いい。どうせ今からはどうにもならん」
「何かあったのですか?」
「こいつもセタと一緒に指名手配された。共犯者まで出たんだ、今は町中あちこちに聖騎士団の人間がうろついてるぞ」