BACK

 繁華街から離れ、喧騒が遠退いていく。閑静な住宅街へ入りそこも中程まで進む頃、周囲には何も気配が無い事を確かめ、それでようやく難所は脱したと安堵感を覚えた。
「もう、これで大丈夫だ。よく頑張ったね」
 セタは傍らの妻マリーの肩を抱きながら優しく労う。
「まだ着いた訳じゃないもの。気が早すぎるわ。こういう時は、ちゃんと目的地に辿り着くまで引き締めていないと」
「確かに。それもそうだった」
 窘めるマリーもまた、これまでのように唇をぎゅっと引き締めた厳しい表情ではなく、随分と余裕を取り戻したものだった。覚悟をして来ているとは言え、急激なストレスは母体に悪影響を及ぼす。何とかここまでは無事に乗り切れて本当に良かったと、心の底からコウは思った。
 随分と車内の空気が弛んでいる。なら、今こそ言うべきだろう。あまり都心から離れてからでは移動も辛い。コウは決心が鈍らぬ内に行動を起こすことにした。
 コウはおもむろに席から腰を上げる。すると、そんなコウの仕草を見たロランがすぐさま声をかけてきた。
「まだ着いた訳ではないよ。立っていると危ないから、落ち着いて座っていなさい」
「いえ、そうもいきません」
 コウの答えに小首を傾げるロラン、そんな彼を無視しセタの方を正面から見据える。セタとマリー派、やはりロラン同様にコウの挙動を不思議そうに見上げた。
「今までありがとうございました。ずっと世話になりながら、こんな形でしか返せない事を許して下さい」
「え? 何を急に」
「それでは」
 そしてコウはセタの返答を待たず、今度は馬車の出入り口へ向かう。ロランの制止の声が聞こえるが、それよりも先にドアを開けると同時に外へ飛び降りた。
 車内から飛び出すと同時に、背中側からはマリーの声が聞こえたような気がした。そして全身で風を切る感触を味わい、着地点を見定める。コウは地面の上を転がり、馬車の慣性を殺して着地する。それからすぐさま立ち上がると、間を空けず真っ直ぐ都心へと駆け始めた。走りながらコウは、後ろから馬車が戻ってきていないかを何度か振り向いて確認した。馬車はあのまま港に向かって走り去ったようで、セタがまた生来のお人好しさを発揮しなかった事に安堵する。
 都心に向かってひた走るコウは、何度もセタとマリーへ思いを馳せた。何も明確な事を言わず飛び出した自分に対し、今頃何を思い話しているだろうか。少なくとも、裏切ったと罵るような事はないだろう。もしかしたら別れを悲しみ、あわよくば心情を察してくれたかも知れない。簡単だが、別れの言葉を残せて良かった。そう思える人達だからこそ、悪い想像が浮かんで来なかった。
 これからの目的ははっきりしていた。まずは、セタの悪評を広めようとするロプトを見つけ出すこと。そして、速やかに暗殺する事だ。セタは喜んだりはしないだろうが、今後セタが悪人として名を馳せる事になるのは絶対に避けたいし、そうなっては自分こそが心苦しくて自己嫌悪に陥る。つまりこの決断は、他利的な行動ではない。あくまで自利、エゴでしかないのだ。
 巡回で知った地理と土地勘を生かし、コウはなるべく目立たない裏道や抜け道を駆使し都心へ辿り着く。都心は繁華街でなくとも、夜中でも時折人通りがある。大抵が夜遊びなのだが、やはり今夜に限ってはいつもと異なっている。普段は第十三騎士団に押し付けられる深夜の巡回に、他の騎士団の人間が加わっている。いずれも剣や槍を携帯し、明らかに単なる夜回りとは違う風体だった。おそらく、セタの件で街の外へ出さぬようにという警戒態勢なのだろう。コウはこの状況に安堵の溜め息をついた。既にセタが街の外へ出た事を、彼らには未だ知られていないという事だからだ。
 セタの指名手配を煽ったのは間違い無くロプトである。彼が騎士団に伝手があるのかは分からないが、諸侯達はセタを葬る機会を常に画策しているのだから、付け入る隙は十分あったのだろう。そして貴族が被害者となった殺人事件は、紛れもない事実なのである。多少強引でもセタと結び付けられれば、彼らはそれで構わないのだ。
 ロプトは、まだ騎士団を煽っているのか。それとも、今は傍観者として暗躍しているのだろうか。何か居場所を突き止めるきっかけでもあれば良いのだが、そう簡単な話でもない。
「今は手掛かりだな。となると、あそこか……」
 コウはロプトの人となりを思い返しながら、手掛かりが掴めそうな場所を一つ思いついた。それは、ロプトがこの国で生計を立てるために働いている、あの路地にあるバーだ。あそこなら何かしら情報を得ることが出来るかも知れない。
 そしてコウはすぐさま目的地をそこへ定め、再び駆け出した。今は根拠よりも行動であり、僅かな時間も惜しむべきである。夜が明ければ街中でセタと自分のための大規模な捜査網が張り巡らされるだろう。そうなってからでは遅いのだ。