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 深夜だというのに、この群衆は驚くほど厚く広くひしめき合っていた。コウはむせるような人混みを掻き分けながら、ひたすら集団の先頭を目指す。群衆は僅かだが確実に前進していた。その目的地を訊ねても誰も答えられず、ただ流れに乗っているだけである。それはつまり、この集団の先頭にいる何者かが彼らを誘導しているという事だ。
「英雄はこの国を裏切った!」
「捕まえろ! 捕まえろ! そうすりゃ大金転がり込む!」
「セター! どうして亡命なんかするんだよー!」
 群衆のあちこちから、雑然とした叫び声、罵詈雑言の類が飛び交っている。セタに対して失望したとうそぶく者、ただひたすら報奨金を目当てに欲望を剥き出しにする者、本心からセタの亡命を嘆き怒りを露わにする者、それぞれ思惑は微妙に異なっているようだが、セタを捕らえるという点に関してはいずれも共通している。ロプトは恐らく、セタがベネディクトゥスへ亡命する事と騎士団が逮捕状を取った事を喧伝し、こうなるように煽動したのだろう。見事な手腕としか言い様が無かった。そして、彼らがこうも戦勝の英雄へ失望し軽んじているのは、ひとえにその煽動が原因であると思いたかった。
 掻き分けど掻き分けど、人混みは果てしなく続く。どれだけ進めば先頭に辿り着けるのか、そもそも本当に先導する者がいるのかさえ不安だった。けれど、今はそれしか手掛かりが無い。セタを捕らえるべく彼らを煽るのが、捜し求めているロプトであれば。限られた時間を大きく消耗するこれは、半ば賭けに近い選択でもある。
 どれだけの人数を掻き分け、どれだけの距離を進んだだろうか。ふとコウは周囲の人間の数が減ってきている事に気が付いた。そして心なしか歩く速さも上がってきている。後ろを振り向くと、恐ろしい数の人混みがこちらに向かって付いて来ている事が分かった。
 どうやら先頭集団はここらしい。
 雰囲気を察したコウは、歩調を周囲に合わせて出来る限り自分の存在感を消した。周りに合わせながら、慎重に前へ進んでいく。勘の良い者が紛れでもしていたら、たちまち見つかってしまうだろう。そういったリスクに恐れながらも、なおコウは最前列を目指して進んでいく。
「『裏切り者を、許すな!』、『英雄は地に落ちた!』」
 群衆の繰り返される叫び声、それよりも先に檄文のようなそれらしいセリフを口にする者を、コウは視界の先に見えた。その姿をよく確かめるべく、コウは更に前へ前へと出る。そしてその後ろ姿を目にした直後、コウは自分の心臓が喧騒に負けないほど大きく高鳴るのが分かった。
 居た。間違いない、ロプトだ。
 ロプトはこちらの存在には気付いていない。暗殺するならば唯一無二の好機であり、その事がコウをより緊張させる。心臓の高鳴りは押さえられても、呼吸の乱れまでは無理だった。その上指先までもが痺れ始めている。
 コウは自分が落ち着くまで、このまま待つ事にした。乱れた呼吸や指先の痺れが、暗殺をしくじらせる可能性があるからだ。そして自分の慎重な判断が、これまで自分が人を殺した事のない事実を思い出させる。それはコウにまた別のプレッシャーを与えた。果たして自分に、本当にロプトが殺せるのか。否応無しにそんな不安がコウへ襲い掛かって来る。挫けそうになると、コウは脳裏にセタとマリーの顔を思い浮かべた。自分がこうしているのは、何よりセタの名誉のため、マリーの幸せな家庭のためである。ここまで来たのは自利だが、この土壇場で平静さを取り戻すのが他利であるのは矛盾している。けれど、人間の感情などそんな曖昧なものだろう。その結論へ辿り着く頃には、コウは普段以上に落ち着き払い、頭も心も冷たく冷め切った。
 指を微細に動かし、袖に隠している暗殺用のナイフの重さを確かめる。一歩、また一歩、コウはロプトとの距離を少しずつ縮めていく。ロプトは驚くほど無防備で、背後へ注意が回っていなかった。恐らく、もはや自分の行動を邪魔する者はいないのだろうと、根拠もなく信じ切っているのだ。
 コウはロプトのあまりに無防備で無警戒な横顔を目にし、たちまち殺意が高まった。
 こいつさえ、こいつさえ居なくなれば。
 コウは最後の三歩を一気に詰め寄る。そして、ナイフの切っ先をロプトの腰の辺りに背中側から力一杯叩き込んだ。
 ずるりと筋張ったものを断ち切るぶれた感触が両手に伝わって来た。コウは自分でも驚くほど冷静で、刺したナイフを今度は何度も何度も強引に左右へ振り、滅茶苦茶に掻き回して広げた。
 そこでようやく異変に気付きこちらを振り返るロプトの表情は、ただただ驚愕だけが浮かんでいた。そしてその驚愕は、徐々に色を失いながら怒りと憎悪のそれへ変わっていく。
 此処まで来て、こんな下らない所で邪魔をしやがって。
 そんなロプトの心の声が聞こえて来そうだった。けれどコウは、手をかけた事には何の感慨も無かった。
「な、なにしてんだ!? お前、何やってんだよ!」
 すぐ傍から事態に気付いた者から怒りの罵声を浴びせられる。しかしコウはその場から動く事はなかった。