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 暗く冷たい鉄格子の中。周囲が石で囲まれ、骨まで軋むような寒さに全身が苛まれる。コウは冷たい部屋の隅に座りながら、頭上に見える小さな窓から伝う水滴と水溜まりをぼんやりと眺めていた。しかし左目はまぶた周りが腫れているためほとんど見えず、右目もかすみがちで焦点をうまく定められなかった。コウは全身に染み込むような鈍い痛みを感じていた。ロプトを殺す事が出来たが、すぐさま周囲の取り巻きに見つかり、酷く殴られ痛め付けられた。辛うじて死なない程度には身を守れたものの、結局騒ぎを聞いて駆け付けた聖騎士団に取り押さえられ、こうして今はここに入れられている。捕縛されたのはあの群衆の中でもほんの一部だろうが、聖騎士団に逮捕されたという事実はすぐに伝わる。元々金が目的で集まったのが大半の群衆である、ひとたびリスクを目の当たりにすれば二度と同じ事はしない。その程度の信念のない集団なのだ。
 ぼんやりとぼやけた視界で窓を見つめながら、コウは一つ疑問を感じていた。それは、あんな騒ぎを起こした一味の一人なのだから捕まる事は分かるが、何故自分だけが独房なのかである。殺しの主犯であれ、あの混乱した状況で犯人を簡単に断定出来るはずもなく、しかも自分をあえて区別して扱っている。この状況に違和感を感じる。けれど、それ以上追及しようという気にはならなかった。既に自分は事をやり遂げたのである。もう後は死ぬのを待つばかりだ。むしろ、あの群衆に飲まれ死ななかった事を恥じるべきである。
 自分をあの連中と分けた事に意味はあるのだろう。なら放っておいてもいずれ分かる。そう思いつつ、コウは痛みを思考から遠ざけるようにぼんやりと自分をまどろませた。
 時間の感覚も薄れる中、自分の体力がじわじわと石壁に奪われている事を意識しながら過ごすコウ。それがどれほど続いただろうか、ふと牢の外から人がやって来る気配を感じ視線だけを鉄格子の方へ向ける。足音は真っ直ぐこちらへ向かっていて、自分に用があるのだろうとおぼろげに思った。やってきた男は鉄格子の前に立つと、こちらを向くよう鉄格子を蹴って指示する。その仕草は随分と居丈高だとコウは思った。
「まったく……とんでもない事をしてくれたものだ」
 ため息混じりに話す男の声に、コウは聞き覚えがあった。振り向くとそれは、以前セタに八つ当たりでマリーの事をネタに半ば脅しをかけていた第二騎士団のトマス、その彼をなだめていた取り巻きの一人だった。
「セタの指示でやったのか? お前、公言はしていないがセタの腹心だったらしいな」
「自分で勝手にやった。ロプトは気に入らなかったから」
 とんでもない事、その言葉を勝手に解釈し、コウは突き放すような口調でそう答えた。しかし男はコウのそんな態度を咎め立てしなかった。
「動機を訊いてるんじゃない。あんな出任せばかりの情報屋など、我らが気に留めていると思うのか。そんな事よりもお前、一体何のためにあの連中を集めた? セタの逮捕に抵抗するためか?」
 ロプトが煽ったあの連中を、聖騎士団は自分達への反抗と解釈したのだろうか。そしてロプトの素性や目的もまるで知らないどころか信用すらしていない。ならばわざわざ訂正してやる必要もないと思ったコウは、そのまま話を合わせる事にした。
「ああそうだ。どうせこの国の人間は、あの人を勝手な理屈で弾圧して殺す。そうさせないための時間稼ぎだ」
「それで、セタはどうした? どこに行った?」
「どうせ知ってるんだろ? その通りだよ。今から追い掛けたってもう遅い」
 その指摘が図星だったらしく、男は忌々しげに舌打ちをする。
「つまり、お前は国家に対する反逆行為を働いた。それを認めるんだな?」
「好きに解釈しろよ。今まで戦勝の英雄にあんな仕打ちをしておいて、どの口が言えるのか楽しみだな」
「黙れ! 貴様には裁判も恩赦の機会も無い! このまま死刑だぞ!」
「死ぬつもりでやって、死に損なったんだ。今更命乞いなんてするものか」
「くそっ!」
 男は腹立ち紛れに鉄格子を二度三度と蹴り飛ばす。男は何を怒っているのか、そうコウは疑問に思った。自分の返答が期待したものではないとして、一体何を期待していたのか。それはおそらく、セタの行方だとか、セタの亡命について正当性を欠かせるような証言をさせたかったとか、そんな所だろう。やはり考え方が甘い、そう思わざるを得ない。目の前の事しか見ていないから、こうして後になって取り返しのつかない事になる。セタがいつまでも絶対服従するものだとたかをくくり、粗雑に扱い続けてきたツケである。そしてそれはまさに、この四年間をセタの暗殺に費やした自分自身にも言える事だ。
「お前の処遇については、我々が決める。それまで神妙に待っておくことだな」
 そう忌々しげに吐き捨てると、男はその場から立ち去っていった。
 まだ処遇が決まっていない。つまり、すぐ処刑するというのは出任せだったのか。即断してしまえば、亡命を手伝った罪で見せしめに殺した、そう世間に思われることを嫌がっての事だろう。稚拙な脅しをかけられたものだ、そうコウは苦笑する。
 これから処遇が決まるまで、わざわざ大人しく待ってやる義理は無い。残された時間を有効に使わなくてはいけない。
 あと自分がセタに対して出来ること。
 それは、出来る限り不審な死に方をする事だ。セタの腹心だった男が牢内で不自然な自殺を遂げる、これが最も効果的だろう。自分の死が不審であればあるほど、どれだけセタを貶めても世間は勝手に策謀の臭いを感じ取る。セタの亡命には正当な理由があり、その腹心は志半ばで倒れた。事実と異なっていようといまいと、大衆がそう思ってくれれば、それは必ずセタに対して有利に働くはずなのだ。
 俺は袖の端を引きちぎると、それを窓から伝う水滴の水溜まりに浸して濡らす。そしてそれを喉の奥へ無理矢理詰め込んだ。それは酷く苦痛を伴う死に方だ。けれど、まるで拷問を受けたような不自然な死に方でもある。これがどこまで有効かは分からないけれど、何ら無意味な事ではないと信じている。少しでもセタのためになるなら、それだけで構わないのだ。
 上王の命は、何の意味も無いただの無為な恨み事。恩を捨て、命を無視して選んだ道だが、ずっと正しい選択だったかどうかは心の片隅に僅かながら引っ掛かっていた。けれど、今なら確信を持って言える。俺は最後に、ちゃんと実のある事が出来たと。