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 その店の名は鴉の宿り木亭と言い、この地域で唯一の宿屋だった。一階が酒場、二階と三階が宿屋となっている。そして一階の奥には、様々な物売りがひしめく共有のスペースが設けられている。この宿屋で客の衣食住の全てが賄われ、店の広さとそれに相まった集客力から人々の交流も盛んであり、さながら一つの町に近い盛況ぶりであった。
 この地域にはかつて、高度な魔法文明があったとされ、今でも古代都市の跡地が幾つか点在している。それらを探索すれば当時の遺物である貴重な宝物が見つかる事も珍しくはなく、それを目的に大勢の冒険者が集まり、この鴉の宿り木亭を拠点としている。しかし、貴重な宝物がある一方で、この地域には無数の魔物が棲息している。それは野生のものだけでなく、中には未知の魔法生物も存在する。そして何より恐ろしいのは、冒険者達と同様に古代の魔法文明に興味を持つ魔女達が何人も集まっている事だ。
 人間にとって魔女とは、悪意のある自然災害という認識である。魔女は人間では到底太刀打ち出来ないほど強く、残虐な性格で、人間を退屈しのぎに痛めつける事など平気でする。宝物を求めて探索する冒険者達は、魔物や魔法生物だけでなく、そんな恐ろしい魔女と遭遇するリスクを背負っているのである。
 時刻が夕暮れに差し掛かろうという頃。おもむろに鴉の宿り木亭に一人の青年が現れた。青年の風貌はよくある冒険者のそれだったが、ただ一点腰に差した剣が恐ろしく暗く黒い事が目を惹いた。
「いらっしゃいませ! お泊まりですか?」
 程なく奥から一人の少女が現れ、慣れた様子で応対する。少女は宿の人間だった。
「ああ。連れが先に来ている。しばらく部屋を借りる事になっているんだが」
「お客様とお連れ様のお名前は何ですか?」
「俺はジョン、連れはヘンリックだ。数日前には来ているはずなんだが」
「あら、ヘンリックさんのお連れ様と言うことは……」
 少女は素早く宿帳を捲り、宿泊客について確認をする。だが、それよりも先に素っ頓狂な声が奥の方から響いてきた。
「何だって!? ジョンがきたのか!?」
 突然奥から一人の男が飛び出して来ると、カウンターを一足で飛び越え、ジョンと名乗った青年の前へ着地する。そして一方的に彼の手を取り、馴れ馴れしく握手を始めた。
「待っていましたよ! あなたがあの、高名な魔女喰いことジョン氏ですね! いやあ、我が鴉の宿り木亭に来て頂けるなんて、実に光栄だなあ! あ、私はこの宿の経営者でありますロレンスと申します。あちらが一人娘のサラ。何か入り用でしたら何なりと申し付け下さいませ」
 その男の仰々しい声に、宿中の客の注目が集まり辺りは騒然となった。ある者は遠目に、ある者は飲んでいた酒を片手に、とにかく視線という視線が無遠慮にジョンへ注がれる。魔女喰い、ロレンスの口にした言葉に対する反応がそれである。彼ら冒険者達にとってジョンの噂は、多かれ少なかれ誰もが耳にしているのだ。
「お父さん、お客様に迷惑でしょ! 恥ずかしいから止めて!」
「何を言うんだい? あの魔女喰いが、この宿へ着たんだよ? もっと喜び歓迎するべきじゃあないか」
「お父さんは大袈裟過ぎるの! ほら、お連れの方がいらっしゃったから、あっち行って! お父さんは自分の仕事をしてなさい!」
 ロレンスは文句を言いながらもサラに強引に引き剥がされ、奥の方へ乱暴に追いやられてしまう。それと入れ替わりになるように、今度は一人の冒険者がジョンの前に立った。
「久し振り。予定より少し遅かったけど、元気そうだね」
「ぬかるみが歩き難くてな。そっちも元気そうで何よりだ、ヘンリック」
 終始無表情だったジョンは、ヘンリックに対してはほんの少し笑みを浮かべて見せた。二人の間にはまるで親友のような親密さが感じられるやり取りである。
「改めて、ジョン様。鴉の宿り木亭へようこそ。お部屋へ御案内いたしますわ」
「ああ、世話になる」
 サラの幼い見た目によらぬ大人びた対応に、ジョンは幾分か安堵した様子だった。この宿の経営者であるロレンスという騒がしい男、ジョンはああいった手合いが苦手なのだろう。
「次の出発はいつにする? 下調べは終わってるけれど」
 ヘンリックはそう訊ねながら、ふとジョンの格好を見る。ぼろぼろに痛んだ胸当てや穴の空いたブーツ、外套もあちこちが破れていて役割を果たしていない。一言で言えば今のジョンは、非常にみすぼらしい姿だった。しかし、
「明日の朝一でいい。近い魔女からやるぞ」
 ジョンは淡々と答える。ヘンリックはそんな回答を予想していたのか、思わず呆れの溜め息をついた。
「ジョン、少しは身なりにも気を使ってくれ。それに、明日一日くらい、休養しても罰は当たらないぞ」
 そこにサラが加わって口を挟む。
「よろしければ、下の商人達の所へよっては如何ですか? 冒険者用の装備は一式揃いますよ」
 しかしジョンは、妙な回答をする。
「ヘンリック、後で適当に揃えてくれ。安物でいい」
 サラはジョンの言葉に小首を傾げる。今まで腕の立つ冒険者は何人も見てきたが、彼らはいずれも装備品には特に気を使い、必ず自分で確かめた上で揃えていたからだ。
「僭越ですけど……魔女と戦うのでしたら、それなりに品定めをされては如何でしょう? うちに出入りする商人達は、品揃えも豊富ですよ」
「俺にそんなものは必要ない。どうせ、どれでも同じ事だ」
 それは、魔女の強さは装備品程度で変わるほど甘くはないという事なのだろうか。
 サラはジョンの無頓着さがいささか疑問だったが、魔女を相手に戦うような達人の考える事は常人に理解は出来ないのだろう、そう解釈する。
 案内されながら歩いていく三人、彼らとすれ違った後、二人の冒険者がジョンの姿を物珍しそうに眺めていた。
「おい、あれが魔女喰いかよ。思ったより普通だな」
「でも、実際あのなりで魔女を何人も殺してるって話だろ」
「アイツ、本当に本物なのか?」
「どっちみち、すぐに分かるさ。それで魔女共がいなくなりゃ、俺らにとっては儲け物。ヤツが来居ても、少なくとも損はしないさ」