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 鴉の宿り木亭を出てから丁度二日後、二人は目的地である東の草原へと辿り着いた。草木のほとんど生えない殺風景な岩山を下った先に広がるこの草原地帯は、見渡す限り緑が広がっていた。足を取られない程度の適度な草花、一休みするには丁度良い木々、そして驚くほど澄んだ小川も流れている。
 老後はこんな所でのんびりと暮らしてみたいものだ。そうヘンリックは思いながら風景を楽しんでいたが、やがてこの草原の不自然な部分に気がついた。これだけ豊かな自然でありながら、生き物の姿が一つも無いのだ。ただの虫一匹すら存在しない不自然さ。ヘンリックはそれが魔女が近いサインである事を、これまでの経験から知っていた。いずれも魔女の近くには、全く生き物が寄り付かないのだ。
「ジョン、近いぞ」
「ああ、分かってる」
 ジョンが腰に差した剣にそっと手をかけている。よく見るとその剣は、意思を持っているかのように小刻みに小さく震えていた。それはまるで、剣自身がジョンに危険を知らせているかのように見える。ヘンリックはそれを見るのは初めての事ではなく、いよいよ魔女との戦いに臨む事を意識して集中力を高め、自分も剣を抜いて構えた。
 その時、これまで穏やかだったそよ風が突然と荒れ狂い、上下も無く無軌道に吹き始めた。明らかに自然現象のそれではない、何かの意思の介入を感じさせる風だ。
 無軌道な風は、やがて一点に収束を始める。誰かが風を操っている。ヘンリックが風の動きに更に警戒を強めた直後だった。
「くっ!?」
 風が更に一点目掛けて凝縮されたと思った次の瞬間、目の前のジョンの体が突然吹き荒れた突風に持ち上げられた。高々と浮かんだジョンの体は巻き上げられた拍子に激しく回転し、そのまま真っ直ぐ地面へと叩き付けられる。風が吹き荒れる中でも、異様に低く鈍い音が聞こえた。
「ジョン、無事か!?」
 すぐさま駆け寄るヘンリック。しかしジョンは何事も無かったかのように、すぐさまその場に立ち上がった。
「気をつけろ。魔女だけじゃない」
 ジョンは服の泥も落とさず淡々と答える。そんないつもの姿にヘンリックは、やはり無事かと安堵の溜め息をつく。
「ほう? 人間の割に随分と頑丈じゃあないか」
 強いて言うならば頭上の方からだろうか、恐ろしく重苦しい女の声がその場に降り注ぐように聞こえてきた。
「気圏の魔女アゼイリアだな」
「ここまでわざわざやってくるってことは、アタシの事も知っているようだね。人間風情が土足でアタシの土地を踏み荒らすなんて。この後どうなるかも分かってるんだろうねえ?」
「知っている。お前が泣いて命乞いをする」
「ほう、随分生意気な口を利く」
 アゼイリアの声に滲む苛立ちに伴い、どこからともなくキリキリと金属を擦り合わせるような音が聞こえてきた。
「仕掛けるぞ。任せてもいいな?」
「いつも通りだ。フォローは任せろ」
 確認するジョンの背中に、ヘンリックは力強く答える。
 ヘンリックは、この金切り声と共にこの場へ集まってくる気配に感づいていた。そして、その正体にも大方見当がつく。魔女は時に、こういった手下を従えている事がある。それは魔女が意図して作るのではなく、強過ぎる魔力が自然と生み出してしまう自然現象のようなものだ。そういった経緯から生まれたため、手下は魔女から無限の生命力が供給され、魔女を殺さなければ幾らでも蘇る厄介な存在である。
「まあ、お前らは私のテリトリー、気圏に入ったんだ。余命は幾らもない。バラバラに切り刻んで、地の果てまで吹き飛ばしてあげるよォ!」
 瞬間、辺りに吹き荒れる風から強烈に膨れ上がる明らかな殺気を感じ取った。だがヘンリックは殺気に臆さず、魔女の手下の気配だけに集中する。
 風が正面の一点へ集中する。風が小さく凝縮されている。それはあまりに濃く固められ、風が色を宿しているようにさえ見えた。そして風の矛先はジョンへ向けられている。だが実際は、ジョンだけでなくヘンリックもまとめて始末するつもりなのだろう。
「下らない。お前達魔女は、得意とするものは違うのに、戦い方はみんな同じだ。人間を舐め切っている」
 ジョンは挑発的に吐き捨てると、黒い剣を抜き放った。その直後には刀身は何倍にも膨れ上がり、まるで獣の顎を彷彿とさせる姿へ変貌する。
「喰らえ、アリス」
 そう剣へと語り掛けた直後だった。黒い剣の刀身は、空腹の犬が餌へがっつくような勢いで、前方に集まっていた風とその周辺を食い千切る。同時に、光る結晶体のようなものが幾つも降り注いで来た。
「ハッ!」
 ヘンリックは、自らの剣でそれらを片っ端から切り落としていった。無数にあった結晶体は大半がジョンの剣に飲み込まれ、残った結晶体もヘンリックの剣によりあっさりと始末されてしまう。
 ぐにゃりと正面の空間が歪み、半身を食い千切られた一人の女がふらつきながら現れる。それは魔女アゼイリアの正体だろうが、既にその姿からは魔女らしい力を感じなかった。
 ジョンはアゼイリアを容赦なく蹴り倒すと、ばっくりと口を開いた黒い剣を眼前へと向ける。
「ヒ、ヒイッ! 私の魂を喰うなんて! な、何なんだお前!」
「負けゼリフも同じだな、お前ら魔女は」