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 大陸の外れに位置する小さなその村は、地図にさえ載ってはおらず名前すら無い。この一帯で村と言えばその村の事であって、付近の人間が存在を知っていれば十分なのである。
 早朝。村のあちこちの家から住人達が出て来て、一日の最初の仕事に取り掛かり始めた。村民は畑仕事や酪農で生計を立てていて、早朝から起き出して仕事を始めるのが常である。そして夜は灯りにかける金が勿体ないので、早く寝てしまうのだ。
「じゃ、行ってくるよ」
 一軒の粗末な家から一人の青年が現れる。中肉中背のこれと言って特徴の無い体格、顔付きは非常に穏やかで性根の穏やかさと人の良さが滲み出ていた。
「気をつけてねジョン。今日は雨が降りそうだから」
 続いて現れた若い女性は、青年をジョンと呼びながら弁当の包みを手渡す。
「最近は風も冷たいし、魔女も出たなんて噂も聞くからね。今日は早めに戻るよエルシャ」
 ジョンは彼女をエルシャと呼び、愛おしそうに亜麻色の髪を撫でる。そして少し膨れた腹を続いて撫でた。
「体調はどう? まだ安定期じゃないんだろ?」
「最近は落ち着き始めたから、もうすぐじゃないかしら。大丈夫よ、心配しないで」
「悪阻はまだあるんだろう? とにかく、あんまり無理はするなよ」
「分かってるわ」
 やや不安そうな表情を浮かべるジョン。その頭をエルシャは、爪先立ちになりながらまるで子供にするように優しげに撫でた。
 エルシャはジョンの子供を妊娠していた。二人にとって初めての子供であるが、二人にはそれ以上に家族というものに特別な思い入れがある。二人は共に幼い頃両親を流行病で同時に亡くし、非常に苦労しながら生活してきた過去がある。そんな二人にとって新しい家族というものには、単なる子供以上の感情を持つのだ。
 ジョンはエルシャとの挨拶を済ませると、近くの小屋から羊を放った。同時に、小屋の側に居る犬が尻尾を振りながらジョンに飛びついて来る。
「よしよし。おはよう、アリス。今日も頼むぞ」
 ジョンがアリスと呼ぶのは、ジョンの飼い犬であり羊達を守り引率する牧羊犬である。元々牧羊には向いていない単なる雑種のはずが、普通の犬よりもずっと物覚えが良く賢いため、ジョンは番犬と牧羊犬に兼任させていた。
 主に牧羊で生計を立てるジョンの一日は、まず羊達を近くの草原に放つ所から始まる。長い柵に囲まれたその土地をおおよそ四等分に見て、草の消耗具合を考慮しながら羊達を遊ばせる場所を決める。そして狼などに襲われたり群からはぐれる羊が出ないように、アリスが羊達の番をした。
 羊を遊ばせている間、ジョンは近くに作った畑を耕したり、森から薪にするための木を集めたりと、ひたすら黙々と働いていた。ジョンは温和な人柄で知られているが、村人からは働き者とも評判だった。多欲は無く、誰にでも分け隔て無く接し、決して争わず調和を重んじる。そのため貧乏籤を引くこともあったが、ジョンの生活は概ね良好と言えた。
 一頻り畑を耕し終えた頃だった。ふとジョンは近くの山を見上げると、今日の山は山頂が灰色の雲で覆われ見えなくなっていた。雲が普段よりも低い。これは雨の予兆である。
「キリもいいし、今日は引き上げるか」
 ジョンは帰り支度を済ませ、アリスの待つ羊達の所へ戻る。アリスはジョンと同じように空模様を気にしていた。山での雨は事故の原因になりやすく危険である事を、アリス自身も知っているような仕草に見えた。
「アリス、今日はもう帰るぞ。一雨来そうだ」
 するとアリスは一度返事するように吠え、早速羊達の元へ走ると一カ所へまとめ始める。羊の移動はアリスの適切な手伝いがあるため、ジョンは引率が非常に楽だった。
 村まで戻って来ると、空には暗雲が立ち込め始めていた。もう間もなく雨が降って来る。調度良い所に帰って来れたと安堵する。羊達を小屋に入れ、アリスも連れて家の中へ入る。普段アリスは羊小屋の番をさせているが、雨の日だけは家の中に入れているのだ。
「お帰りなさい。濡れなかった?」
「まだ降り出してないよ。これからじゃないかな」
 ジョンとアリスを出迎えるエルシャ。そしてもう一人、別の女性の姿があった。彼女はジョンの方を振り向くと、黙って無表情のまま一礼する。
「ああ、キミか。変わりないかい?」
 笑顔を向けるジョンに対し、彼女は黙ったままただ一度ゆっくりと頷いた。
「薬を売って貰ったの。いい吐き気止があるそうなの」
「彼女の薬は良く効くからねえ。この村の人はみんな重宝してるよ。いつも助かる」
 彼女は時折村へやって来る薬売りである。詳しい素性は誰も知らないが、彼女が唖であるらしい事と彼女の薬は非常に安価だが効果が抜群である事は、村中の誰もが知っていた。名前も話せないため、皆は彼女の事をそのまま薬売りと呼んでいる。村の住人ではないが、同じくらいに親しまれている人物である。
「そうだ、胃腸薬も貰おうかな。俺も時々調子が悪いから」
 薬売りはこくりと頷くと、自分のカバンから小さな瓶を一つ取り出して手渡した。
「ありがとう。これ、ちなみに犬には効くかな? うちのアリスは、どういう訳か拾い食いの癖が直らなくて。未だに時々それでお腹を壊すんだ」
 すると薬売りは、少し困惑した表情を浮かべるも、問題なく効くとゆっくり大きく頷いた。
「あら? そろそろ降って来始めたわね」
 窓の外を見ると、ぽつりぽつりと雨粒が降り始めている。村人達が本降りになる前にと慌てて自宅へと駆けて行く姿が見受けられた。
「今から帰ったらずぶ濡れになるよ。雨宿りして行ったらいい」
 ジョンは薬売りにそう提案する。しかし、薬売りは三度首を大きく横に振ると、カバンを持ち椅子から立ち上がった。
「遠慮しなくていいのよ? それに、雨の日の山道は危ないわ」
 しかし薬売りは軽く会釈だけして家から飛び出していった。そのまま薬売りは村の外の方へ駆けて行ったようだったが、その足取りはあまりに速くて後を追うどころではなかった。
「どうしたんだろう? 何か急ぎの用事でもあったんだろうか」
「もしかするとそうなのかもね。あれだけ良く薬を色々売ってるんですもの。他にも待ってる人がいるんでしょう」
 ジョンとエルシャは雨の中飛び出していった薬売りを心配しつつ、その高い志に感心した。例え雨が降っていても、病気は待ってくれないのだ。病に苦しむ人のために、何時どんな日でも薬を届ける。それはなかなか出来る事ではないだろう。