BACK

 それは唐突に起こった。
 その日の朝、ジョンは普段通りに起きて朝食を取り仕事の支度を始めていた。エルシャもまた普段と何も変わらず、明るい笑顔ばかり浮かべていた。天気も良く風も穏やかで、とても仕事がし易い朝だとジョンは感じていた。そのため異変に気付いたのは、まさにこれから仕事へ出掛けようとしていたその時だった。
「エルシャ、それじゃあ行ってくるよ」
 支度を終えたジョンは、いつものように家の中のエルシャに向かって呼び掛ける。普段ならエルシャは弁当を持って来て、ジョンと挨拶以外にも幾つか言葉を交わす。だがその日は、エルシャはいつまで経っても中から現れなかった。
「エルシャ? おーい、どうしたんだ?」
 小首を傾げながら家の中を覗くジョン。だが玄関周りにエルシャの姿は無かった。エルシャの顔を見て弁当を貰わなければ仕事に行けない。そう呑気に思っていたジョンだったが、ふとエルシャが妊娠中であり吐き気止めを時折飲んでいた事を思い出し、途端に血相を変えて家の中へ飛び込んで行った。
「エルシャ! おーい、どこにいるんだ!? エルシャ!」
 今のエルシャは、普通とは体調が異なる。万が一の事があるかも知れない。ジョンの脳裏には幾つもの嫌な予感が過ぎった。
「エルシャ!」
 そしてジョンは、裏口の近くで倒れていたエルシャの姿を見つけた。ジョンは悲鳴のような声をあげながらエルシャの側へ駆け寄る。エルシャはぐったりと力無く倒れたまままるで動かず、ジョンが幾ら声をかけてもまるで反応をしなかった。呼吸だけは弱々しいがしており、辛うじて生きているという状態である。
 一体どうして急にこんな事に。だがそんな嘆いている猶予は無い。ジョンはエルシャの体を担ぎ上げて寝室のベッドへ寝かせると、家の外へ飛び出し村中の人へ助けを求めた。ジョンとエルシャの一大事と聞き、すぐさま村人達はジョンの家へと駆け付ける。だが、医者のような知識の無い村人達にとってエルシャの症状はまるで理解が出来ず、ただただ首を傾げるしかなかった。
「おい、薬売りが来たぞ! 早くこっち来て貰おう!」
 村人の一人がそう声を上げる。そしてジョンを始めとする一同の表情に希望の色が浮かんだ。薬売りは今まで、村人達の怪我や病気を幾つも自前の薬で治している。彼女ならばエルシャを助けられるはず。そう皆の期待が集まった。
 程なく事情を説明された薬売りは、普段通りの感情の乏しげな表情でジョンの家に駆け付けた。早速薬売りはエルシャの様子を看始める。その傍らでジョンは、どうか大事には至らぬようにと必死に祈り続けた。
 そして薬売りは、少々何か確認するなり突然立ち上がると、じっとジョンの方を見た。その顔には心なしか、暗い憂いのようなものが見え隠れしている。
「……良くない。私の手に負えない」
 薬売りは小さな声でそう話した。まずジョンは彼女が話せる事に驚いた。これまで幾度となく村へ薬を売りに来ていた彼女だったが、口を開いて話したのはこれが初めてだったからだ。
「良くないって……エルシャは一体どうなってしまったんだ!?」
「これは、魔女の呪いだから。魔女がエルシャの命を少しずつ奪ってる。だから私の薬では、どうしようもない」
 魔女の呪い。その言葉に、他の村人達の間にはどよめきが起こった。
「魔女って……もしかしてアイツの事か?」
「ああ、俺も聞いた事ある。殺生岳の魔女だろ。ここいらじゃ、魔女はあれだけだ」
 こんな辺鄙な村ではあったが、魔女は一人だけ近辺に棲息していた。その存在は村人達の間では噂されていたが、実際に同じ村人の一人に危害を及ぼしてきたのは初めての事だ
「魔女って、そんな……! エルシャは助けられないのか!?」
「魔女の呪いを解く方法は二つしかない。魔女に解いて貰うか、魔女を殺すか」
 どちらも、とても無理だ。魔女は皆、人間達を自分の玩具としか思っていない。許しを得られるはずは無く、そんな魔女を殺すなど更に不可能な事だ。
 もうどうする事も出来ない。誰もが諦め悲嘆する。そんな中、ジョンは一人決意の気炎を上げた。
「俺は決めた。今から、殺生岳へ向かう……!」
 その言葉に皆がどよめく。
「よせ! 死にに行くようなものだぞ!」
「だけど! このままじゃエルシャが死んでしまう!」
「説得できる訳ないだろ! 相手は魔女だぞ!?」
「やってみなくちゃ分からない! やりもしないで……諦められない!」
 ジョンとエルシャがどれほど仲睦まじい夫婦なのか、この村で知らない人間はいない。だからこそ、ジョンが魔女を説得に行こうという危険な行為に踏み切る事も理解することが出来た。
 そんなジョンを、思い留まるよう説得することは出来ないだろう。村人達がそう確信した瞬間だった。次に考え始めたのは、如何にしてジョンと手を切るか、だった。それは、ジョンが確実に怒らせるであろう魔女のとばっちりをかわすには必要な事である。