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 殺生岳。その名は、動植物が一切存在せず山肌が岩ばかりである事に由来する。そして立ち入った生物は二度と帰っては来ない。分け隔て無く生命をことごとく奪う、悪魔のような土地だ。
 ジョンはひたすらその険しい山を登っていた。採集出来る何かがある訳ではなく、魔女の住処と言われている場所である。当然親切な案内の看板などあるはずもなく、そもそも山自体に人が立ち入らないため山道すら存在しない。山そのものが人を拒絶しているそこを、ジョンは一心不乱に登った。それも全ては、妻エルシャのためである。今のジョンを動かしているのはエルシャの安否であり、命を助けるためなら己が苦しみ傷付く事など何の躊躇いも無かった。疲労はピークに達し、岩肌ばかり登り続けてきた足は激痛が走り熱を持っている。それでもジョンは諦めようとはしなかった。村を出てから既に一週間近くが経とうとしている。急がなければエルシャの体は魔女の呪いに耐えられないだろう。その焦りが満身創痍の体を突き動かした。
 そして、八日目の朝。遂にジョンは殺生岳の頂上へと辿り着いた。
「誰か! 誰もいないのか!? 私はジョン、麓の村に住む者だ。ここに魔女が居ると聞いてやってきた。居るなら姿を表してくれ!」
 ジョンは殺生岳の頂上で精一杯振り絞った声で周囲に訴えかける。魔女を呼ぶ。それは自ら災厄を呼び寄せるような行いだ。けれど、ジョンはそんな恐れなど持っていなかった。使命感と焦り、それらが半々に入り混じった感情のせいだ。
「うっ……!?」
 その直後、ジョンは激しい目眩と共に視界が藍色に染まっていった。どうにか立てていた膝もあっさりと崩れ、その場に崩れ落ちる。それはまるで犬のように四つ足で頭を垂れる様だった。
「ほう? 私を呼びつけるのは誰かと思えば、人間じゃないか。これは驚いた。よくもまあ辿り着いたもんだよ」
 頭上から聞こえてくる嗄れた老婆の声。ジョンは目眩で吐きそうになりながら、何とか首を持ち上げ声の主を見た。それはゆったりとした黒い服に身を包んだ一人の老婆だった。多くの皺を刻んだ顔に穏やかな笑みを浮かべてはいるが、その目は猛禽類のようにぎらつき、心臓を鷲掴みにするような恐怖と威圧感を与えて来る。
「あ、あなたが、魔女ですか……? 生命を操るという魔女、ルツ」
「そうだよ。ほう、まだ口が利けるとは案外生きがいいねえ」
 この急激な目眩と脱力感、それは明らかにこの目の前の老婆がもたらしたものである。そんな事が出来るのは魔女を置いて他に無い。
 ようやく、目的の魔女と会うことが出来た。ジョンはまるで命を削られているような苦痛を耐えながら、ルツに向かって訴えかける。
「お願いします。あなたが呪いをかけているのは、私の妻なんです。妻は妊娠していて、このままでは母子共に死んでしまいます。どうか、その呪いを解いて下さい」
「呪いを解いて欲しい? それでこんな所まで来たっていうのかねえ」
 ルツは小首を傾げながら、這いつくばって訴えるジョンを眺める。そして、その口元がにやりと綻んだ。それはあきらかに嗜虐の色を見せていた。
「嫌だねえ。人間の言うことなど聞いてやる義理はないよ」
「そんな! 何故ですか!? 彼女も私も、あなたを不快にさせた事はないはずなのに! 何故私の妻を呪うのです!?」
「決まっているだろう? 単なる暇潰しさ」
「暇……潰し?」
 あまりにあっけらかんと答えるルツの言葉に、ジョンは茫然としながらその言葉を無意識で繰り返した。
「お前達が何の気なしに蟻を踏み潰すのと一緒さ。私にはそうする理由もなけりゃ、何の感慨も抱かない。ただやりたいと思っただけさ。ま、正直ながら話、今お前に言われるまですっかりわすれてたがねえ」
 高笑い。
 ルツは悪びれも誇りもせず、ただそれがしたいと一時思っただけだ、そう明言する。
 ジョンは混乱した。これだけ苦しめるのだから、何か不快にさせる事があるはず、理由も無しにこんな呪いなどかけはしない、そう思い込んでいたからだ。
 ルツがエルシャに呪いをかけたのは軽い暇潰しでしかない。ジョンにはその事実を受け入れる事が出来なかった。そしてしばらく混乱する頭を抱え、やがて理解してしまった。皆が口を揃える魔女という存在は、そういうものだという事を。
「で、お前。下らない理由で私を呼びつけたとはいえ、此処まで来れたんだ。いい生命をしている。せっかくだから、少し楽しませて貰うよ」
 ルツはジョンの前まで歩み寄ると、ジョンの体をまるで人形のように無造作に持ち上げた。
「人間ってのはね、体を三割も壊しただけであっさり死んじまうんだ。ところがね、たまにそれ以上まで粘れる人間がいるんだよ。生まれ付きの生命の強さが違うんだろうね。私はそういうなかなか死なない強い人間を、なるべく死なないように壊すのが好きなのさ」
 ジョンの目眩は激しくなり、呼吸すら困難になる。ルツに直接触れられ、更に命を削られているかのようだった。
「お前はどこまで壊されても耐えられるかねえ? わざわざこんな所まで来たんだから、少しは粘っておくれよ」
 嗜虐的なルツの笑みは、ジョンに残った視力ではほとんど見る事は出来なかった。そしてまず最初に味わったのは、右手の親指を力任せに引き抜かれる感触だった。