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 まずい。これは、魔女がこちらの精神を攻撃している。ラケルは狂騒の魔女、この狂乱館の名の由来のように、こちらを精神的に追い詰めることを楽しみとしているのだ。
 どうにか僅かに残った理性が、自分の置かれている状況を客観的に見て冷静に分析する。それでどうにか自分を保ててはいたが、最後の一線を越えるのも時間の問題だった。子供の自分の姿をした何かは、確かに自分の心に刺さる言葉を吐いてくる。けれど、それにいちいち動揺し取り乱してしまうほど今の自分は青くない。けれどそんな事とは関係無く心を揺さぶり理性をこそぎ取っていくのは、おそらく魔女の魔術的な何かのせいだろう。
 言葉を聞かなくとも、直接精神に作用するのか。そう判断したヘンリックは、剣を抜き放ち目の前に居る幼い自分の姿をした何かに対し、真っ向から斬りかかった。
「くっ!」
 しかし剣にはまるで手応えが無く、無為に宙を切った。そして子供は何事も無かったように、ヘンリックの過去をつつき逆撫でするような言葉を続ける。その異様さが逆に、ヘンリックの気持ちを多少落ち着かせた。
「悲しいね。せめてもの償いのつもりでジョンに同道したのはいいけど、魔女相手じゃ全く役に立たないもの。またジョンの足を引っ張って迷惑をかけちゃうかな?」
 ヘンリックは、子供の言葉にあえて耳を貸さない。しかし、対抗出来そうな手段が無い事も事実である。
 一度この場は強行突破して退き、ジョンと合流するべきか。そんな算段を練っていた時だった。
「えっ!?」
 ヘンリックは思わず無防備な驚きの声をあげてしまった。
 子供後ろの何もない空間。そこから突如黒い獣の顎が飛び出して来るや否や、目の前の子供を上下に噛み千切ってしまった。
 そのまま更に、顎は自分の周囲の空間へ噛み付き、ばりばりと音を立ててそこに無い何かを噛み砕き飲み込んでいく。まるで見えない壁が辺り一帯に建ち並んでいるかのような光景である。
「くっ……来たね、魔女喰いめ。結界までもお構いなしに食い尽くすのかい」
 しわがれた女の声が、僅かに残ってその場に落ちている子供の破片から聞こえてきた。次の瞬間、閃光が走ったかと思った直後に子供の肉片は消え、何処からともなく一人の中年女が現れる。どうやらこれが狂騒の魔女ラケルの本当の姿なのだろう。だが想像していたよりずっと矮小に見えるのは、ジョンの存在がそうさせているのか。
 ぽっかりと空間に空いた穴。その穴を黒い獣の顎が喰い広げていくと、穴の中からジョンがゆっくりと姿を現した。その瞬間、ジョンの存在感が完全に場を飲み込んでしまった。
「ヘンリック、無事か?」
「ああ、大丈夫だ」
 ジョンの存在感が混乱したヘンリックを正常へ戻す。魔女と対峙しているというのに、ジョンと居れば少しも怖いとは思わない。それがジョンに対する依存だという自覚はあったが、その恥を振り払うように自らの役割に専念する。だが魔女と接敵した状態で出来ることなどヘンリックには無かった。
「狂騒の魔女ラケルだな。お前を殺す」
 真っ向からラケルを見据えるジョン。手にした黒い剣も自らの意志でラケルを向き大きく口を開ける。それを前にしたラケルは、僅かに青褪めたように見えた。
「人間の癖に魔女を喰い殺すなんて、とんでもない狂人だね……。何のためにこんな事をするんだい?」
「お前ら魔女は、決して許せない事をした。だからお前ら魔女は、全て殺す」
「許せない? ヒヒッ……ヒヒヒ」
 とうに戦意を喪失したかのように思えていたラケルは、ジョンの答えを聞くや否や不気味な笑い声を出し始めた。
 直後、ヘンリックはラケルの意図に気づき息を呑んだ。ラケルの得意とするのは精神への攻撃である。今の何気ない質問、それはジョンへの攻撃の布石なのだ。
「人間をもてあそぶ魔女が許せないかね? ヒヒッ、大方そんな所だろうさ。でも、それは違うだろ。アタシには分かるのさ。あんたの狂った心内がねえ」
 にやにやと底意地の悪い笑みを浮かべるラケル。ジョンの全てを見透かしているかのような物言いだが、ジョンはまるで動じた様子はなかった。
「お前が本当に許せないのは、好きな女を魔女の慰み物にしてしまった自分だろ。呪いを解いて貰おうだなんて悠長な考えのせいで、慰み物にしてしまったんだ。初めから殺すつもりだったなら、そうはならなかったかもなあ?」
 やはりラケルはジョンの心中を見抜いている。それも、かなり深い所までを。
「やめろッ!」
 ヘンリックは咄嗟にジョンの脇から飛び出しラケルへ斬りかかった。だが、剣を幾らふるってもまるで空気のようにラケルの体をすり抜けてしまう。そしてラケルの弁舌は止まらない。
「物事が丸く収まればいいなんて、まあ偽善ぶった奴が考えそうなこった。それが正しいこと、モラルのある行動だと本気で信じてる。けど、その結果がどうだい? ヒヒッ、お前はその甘っちょろい自分を否定するために、自ら畜生道に堕ちただけなんだよなァ?」
 それは違う。当時ただの人間だったジョンに魔女を殺す力はない。だから現実的な選択肢として、説得するしか無かったのだ。
 だけど、他に交渉の仕方があったのかも知れない。頼むだけでなく、拝み倒すばかりでなく、もっと別な交渉が。そんな具体性の無いその余地が、もしもという仮定がいつまでも振り払えず、ジョンをおかしくさせているのか。ジョンをおかしくした一番の要因、それは本当にただの復讐心だけなのか。
 そして、
「お前の出し物は終わりか? 今までの魔女で一番生温いな」
 ジョンは眉一つ動かさず黒い剣アリスを奮う。そしてラケルは、断末魔の声すら上げる事が出来ず、腰から上を食い千切られた。
 そうなのだ。
 狂人には、脅しも挑発も効かない。
 だから、今更昔の事をほじくり返した所で、魔女を殺す事しか考えていない今のジョンには何の意味も無かったのだ。