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 どれだけ魔女の攻撃を受けても平然としていたジョンが、ハンナの顎に手も足も出なくなっている。その事実に戦慄しながらも飲み込んだヘンリックは、ジョンを救うべく駆け付けようとする。だがその行く手は、たちどころにハンナの眷族達に阻まれた。
「どけっ! 邪魔だ!」
 ハンナの眷族達は、いずれも並の魔物よりかは遥かに強いが、ヘンリックでも充分倒せる相手だ。だが問題はその数である。何処からか無限に湧いているのか、それとも魔女に近い再生力を持っているのか、幾ら斬り伏せようとも全く数が減らなかった。
 ジョンの言葉にならない苦悶の叫びが響く。それはいよいよ余裕が無くなってきた。このままではジョンがハンナに喰い殺されてしまう。ヘンリックの焦りもまた頂点に達する。
 そしてその焦りのあまり、攻撃を疎かにして強引に突破しようとしたヘンリックは、仕留め損ねた眷族に後ろから不意打ちを受けてしまう。
「くっ!」
 よろめいた直後、すぐさま周囲の眷族達が次々とヘンリックによってたかり、地面に組み伏せる。単なる肉塊のような眷族達だが、この姿勢から振り解けるほど易くはなかった。
「くそっ、離せ! ジョン! しっかりしろ! このままじゃ殺されるぞ!」
 ヘンリックの必死の叫びにも、ジョンは返答する事はなかった。そしてあの苦悶の声すらも、いつの間にか途絶えてしまっていた。
「ヒヒヒヒ、美味いじゃないかねえ。久方振りに食べたさ、こんな御馳走はさあ」
 動かないジョンの上で、ハンナは異形の顔から歓喜の声を挙げる。
 ハンナは食事を終えてしまったのか。
 それが意味するのはジョンの死なのか。
 その光景にヘンリックは、自らの目の前が真っ暗になり暗い底へ落ちていくような錯覚に陥った。
 どうしたらいいのだ。こんな身動き出来ない状態で、ジョンすら敵わない魔女を相手に。
 深い絶望感がヘンリックを包んでいく。
 しかし、それはその直後に唐突に起こった。
「んんー?」
 ジョンのすぐ傍らで、突然眩むような閃光が走る。それを不思議そうにハンナが見た途端、轟音と共にハンナの体が吹き飛んでいった。
 何が起こった?
 唖然とするヘンリック、すると今度は凄まじい衝撃がヘンリックの頭上を一陣の風のように浚って行った。押さえつけて来ていたハンナの眷族達は文字通り消滅し、ヘンリックは体の自由を取り戻す。
「ジョン、無事か!?」
 すかさず立ち上がりながらジョンを叫ぶヘンリック。すると、力無く倒れるジョンの体の傍らには、いつの間にかもう一人別の女性が現れていた。
「だ、誰だ、あんたは?」
「早くこちらに。私には、あれと戦えるほどの力はありません」
 状況が飲み込めず困惑するばかりだったが、ヘンリックは彼女の挙動がまるでジョンを守るために居るかのように見え、この場はおとなしく言葉に従う。
 突然現れた彼女は一体何者なのだろうか。こんな所に来る以上、ただの女性ではないだろう。しかしその出で立ちは、鴉の宿り木亭でも見かけるような女冒険者とは程遠い。そして、何処か普通ではない雰囲気を放っている。
「ヒヒヒヒ、なんだいお前。孝行者かと思えば、随分な事をしてくれるじゃないか」
 吹き飛ばされたはずのハンナは、まるで何事も無かったかのように平然と現れる。目立った負傷も見当たらなかった。
「ジョンはやらせません。ジョンは私が守ります」
「おやおや、食い意地の張った子だねえ。一体誰に似たのか」
 にやにやと笑うハンナに対し、その女性は感情が読み取れない無表情で構えている。ただ、ハンナと戦う力は無いというのは事実らしく、自ら仕掛けていくことはしなかった。ただ身を守るだけで精一杯なのだろう。
「おい、どうするんだ? 俺だってあれには敵わないぞ」
 ヘンリックは動かなくなったジョンを気遣いつつ、素性の知れぬこの女性に訊ねる。すると彼女は、こちらには視線は向けずに事も無げに答えた。
「一旦あの宿へ戻ります」
「どうやって?」
「魔力を振り絞ります」
 魔力を振り絞る。
 一体それはどういう意味なのか、それを訊ねようとした直後だった。突然ヘンリックの視界が歪んだかと思うと、目に見えない圧力のようなものが周りを取り囲んで来た。耳鳴りと腹に響く振動が始まり、色覚すらも狂い始める。
「お、おい! 何なんだ、これは一体!?」
 女性は右手を宙にかざしたまま微動だにしない。その右手には、赤黒く輝く不気味な光が渦巻いていた。周囲を囲む異様な現象は、明らかにこの光が原因である。
「忙しない子だ。こんな事をして、一体何のつもりかねえ?」
「いずれ、また来ます。ジョンは魔女の存在を許しませんから」
「食い止しに用は無いよ。来るならあんたが来るんだね」
「言うまでもありません。私の魂は、常にジョンと共にありますから」
 二人の会話は尚も続くが、それ以上は耳鳴りと圧力のせいで聞き取る事は出来なかった。辛うじて分かったのは、ハンナが何事かを嘲り高笑いした事だけである。
 ヘンリックの視界が激しく歪み、赤黒い光が渦巻く。何か途轍もない力の奔流に巻き込まれた事だけは分かった。しかし、その激しい圧と音に耐えるだけで精一杯で、それ以上の事は何も分からなかった。
 一体これは何なのか。
 彼女は何をしたのか。
 ハンナとは何の話をしていたのか。
 彼女は何者なのか。
 そして、ジョンは無事なのか。
 様々な疑問がヘンリックの中で錯綜し、思考を混乱させる。今自分がどういった状況に置かれているのかさえ把握が出来なかった。
 そんな寝覚めの悪い悪夢のような状態が、どれだけ続いただろうか。ヘンリックを翻弄する力の奔流は唐突に途切れ、体が慣れ親しんだ感覚のある場所へ放り出される。
「ここは……?」
 全身の輪郭を確かめながら、ゆっくりと目を開けるヘンリック。傍らには、ジョンとあの女性の姿が先程のままにあった。そしてすぐ先には、あろうことか鴉の宿り木亭があった。無尽街からは、ゆうに数日の距離があったはずである。