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 ジョンは、自分が死に行く事を受け入れていた。どうにもならない。それが今の自分の姿だとはっきり自覚していたからだ。
 生命の魔女ルツに妻の助命を願うもあっさり一蹴され、その上自分自身までもが慰み物となった。ルツの苛虐は凄まじく、ジョンは死ぬ寸前まで丁寧に体中至る所を毟り取られた。ルツが声も発しなくなったジョンに飽いて川へ捨てた時、ジョンの姿は人間のそれではなかった。
 一体どれだけの時間が経ったのか。
 今自分はどんな姿となってしまったのか。
 そんな事も考えられず、ただ自分の体から火が消えていく事だけを感じながら、ジョンの意識はゆっくりと途切れた。この意識は二度と戻る事はない。自分はこのまま、この殺生岳だけの何処か分からぬ場所で死ぬのだ。そう絶望するばかりだった。
 しかし、ジョンの意識は再び覚醒する。
「……え?」
 目を開けたジョンは、見慣れぬ木の天井に疑問の声を漏らす。
「あれ……? これは一体……」
 そして、今度は今の自分に驚く。刳り貫かれたはずの目で天井を見て、引き抜かれたはずの舌と潰されたはずの喉で声を漏らす。何故そんな事が出来るようになっているのか、全く経緯も理由も分からなかったのだ。
 こんなこと、現実で起こるはずがない。これはやはり、自分はもう死んでいて、その死後の世界に居るのだ。
 そう解釈する他無い。ジョンは自分にそう言い聞かせる。すると、
「大丈夫?」
 ジョンの視界に、唐突に女性の顔が入ってくる。彼女はどこか憂い気にジョンの様子を見ていた。
「え、薬売りの……?」
 彼女は村にたまに訪れては良く効く薬を売る、薬売りだった。
「君が助けてくれたのかい? ……うっ、痛つつ」
 ジョンは無くなったはずの体の感覚を確かめながら上体を起こそうとする。けれど、すぐさまあちこちに激痛が走り、断念せざるを得なかった。
「無理は駄目。まだ治りきってないから」
 薬売りの彼女はそうジョンに言いつけ、布団を掛け直す。そして傍に置いてあった小さな水差しでジョンの口に中身を少し含ませた。その水は僅かに苦味があり、思わず顔をしかめそうになる異臭もした。これは傷に効く薬なのだろうと、ジョンは特に訊ねる事も無くそのまま飲み込んだ。
「もう少し眠って。次に目が覚めたら良くなってるから」
 薬売りの彼女は、まるで子供をあやすかのようにジョンの額に自らの手のひらを重ねる。その手が少し冷たく感じるのは、ジョンにはまだ熱があるせいだった。それを意識した途端、ジョンは言葉を話すのも億劫になるほどの眠気に襲われる。そして彼女の手がそっとまぶたを下ろすと、そのままジョンの意識は再び遠のいた。
 自分は、あれだけの目に遭わされながら、生きながらえたのだろうか? 自分を助けてくれたのは、あの薬売りの彼女。だけど、幾ら彼女の薬でも自分の体を元に戻すなんて事は出来ないはず。
 どうして自分は生きながらえ、体も元に戻ったのか。それを訊ねる暇も無く、ジョンは深い眠りへと落ちていった。
 再びジョンに訪れた目覚めは、まぶたを開いた勢いで全身が跳ね起きるほどの激しいものだった。どれだけ眠っていたのだろうか。ぼんやりとする頭を振りながら、ゆっくり自分の体の感覚を確かめる。
「これは……」
 恐る恐る自分の両手のひらを見る。そこには見慣れた皺と豆の浮かぶ手のひらがあった。そしてそれぞれの手には指が五本ずつ生えている。実際に触って確かめてみるが、それは紛れも無くジョン自身の指に違いなかった。
 どうして指があるのだろうか。指は皆、ルツに引き抜かれて無くなってしまったはず。
 いや、指だけではない。ルツには全身のありとあらゆる場所を削られ毟り取られた。にも関わらず、全身のどこを触っても全てが元のままになっているのだ。自分の五感や四肢をもぎ取られた感触は、未だに鮮明に思い出せるというのに。
 自分は悪い夢を見ただけなのだろうか。現実の自分はルツになど会ってはいない。だから体も初めから失われていないままなのではないか。
 ベッドの上に座りながら、ジョンは混乱する頭を何とか落ち着けようと必死だった。そんな所に、ジョンが派手な物音を立てて起きたのを聞きつけたのか、向こう側のスペースから薬売りがやって来た。
「どう? もう大丈夫のはず」
「あ、ああ。気分は良い。でも、どうして?」
「あなたを殺生岳で見つけたのは偶然。ここは私の家。あれからずっと寝ていたの」
 彼女は自分の後を追って殺生岳に来ていたのだろうか。だが、そこで自分を見つけたという事は、やはりルツとの一連は全て現実に起こった出来事となる。
「……そうだ。あれから何日が経ったんだ? エルシャは!? どうなったのか知らないか!?」
「あなたは丸三日間眠っていた。私はずっと付きっ切りだったから、村の事は分からない」
 三日間。既に生死の境目に居たエルシャを残し、それほど経っていたなんて。ジョンの背筋に冷たいものが走る。
「戻らないと。エルシャが、エルシャが危ないんだ」
 ジョンは布団を跳ね除けベッドから立ち上がる。何としても村に戻ってエルシャの元へ駆け付けなければ。そんな強い思いがジョンの胸に込み上げる一方で、戻った所でどうなるのか、という冷静な気持ちもあった。エルシャは生命の魔女ルツの呪いを受けている。それを解く事が出来なかったのだから、あれから何も状況は変わっていないのだ。
 ベッドから立ち上がったジョンは、長らく昏睡していたため足元がふらつき倒れそうになる。それを薬売りの彼女がそっと片腕で支えた。
「無理をしてはいけない。今の体にあなたは馴染んでいない」
「無理は分かってる! いや……命を助けて貰っておいて無礼なのは承知の上だ。けど、俺は何としても妻の元に戻りたいんだ!」
 ジョンの必死の訴えを薬売りの彼女は普段の無表情でじっと見詰める。ジョンはそれを、まるで彼女に観察されているように思った。元々感情の起伏に乏しい彼女だが、ここに来てそれがより顕著に感じられる。
「あなたがそう望むなら。でも、私も付いて行く。まだあなた一人では満足に歩けないから」
「ありがとう! 申し訳ないけれど、本当によろしく頼む!」