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 ヒュペリヌス税務官の邸宅跡は、宿から大通り沿いにしばらく歩いた街のほぼ中心にあった。古き良き街並みが続く大通りの景観はただの観光でも決して他に見劣りしないものだが、その中に突然と現れる廃墟はあまりに異質に映った。
 街の一等地であろうその一画は、薄汚れてひび割れた壁に囲われている。汚れのほとんどは煤で、おそらく焼き払われた時についたものだろう。オルランドは指でそっとなぞり、指先にべっとりついた煤を眺めながら、十年以上経っても残る煤の量に当時の火の勢いを想像する。
 正門にはひしゃげた鉄格子の片側だけが残っていた。特に立ち入りを禁じられてはいないのか立て札やロープも張られておらず、オルランドはそのまま敷地内へと足を踏み入れる。
 邸宅跡は、ほぼ土台しか残っておらず、僅かに破片や焼け残った柱があるばかりだった。土台の大きさからかつてどれほど大きな屋敷があったか想像はつくが、それをここまで徹底的に焼き払ったのは単なる火付けではないだろう。破壊する意図を明確に持って行われたのだ。しかし、何故魔王はこの屋敷だけを焼き払ったのか。古い街並みがほぼ残っているだけに、不可解としか言い様のない状況である。
 オルランドは敷地内を散策する。かつては手入れされた庭だったのだろうが、今は雑草が無作為に生え荒れ放題となっている。焼き払われても根だけは残っていたのか、はたまた風に種子が飛ばされて根付いたものだろう。外からは壁に囲われて見えないが、街中にこの荒れ地はやはり異様に映る。
 土台沿いに歩いていくと、中庭の跡らしき一画に辿り着いた。正方形に切り出された石が幾つか地面から覗いている。これはおそらく、彫刻か何かを置いていた場所なのだろう。中庭もやはりそれなりに凝ったものだったに違いない。
 オルランドは土台の端に腰を下ろし、手帳に周囲の風景のスケッチを始める。あまりに殺風景でとても街中に十年も放置されているとは思えない光景だが、魔王の足跡として世間一般のは知られていない場所である。出来る限り多くわ書き留めておこうと、オルランドは時間をかけて様々なスケッチを残した。
 一通り書くべきものを書ききった頃だった。ふと顔を上げたオルランドは、正面の少し離れた所にひとりの老人が佇んでいるのを見つけた。こんな所に来るのは、自分と同じ目的の物好きだろうかと思ったが、その老人はぼんやりと宙を眺めているだけである。格好からして近所に住む住人だろう。もしかすると、ここに何か縁のある人物なのかも知れない。そう思ったオルランドは、早速彼の元へ近付いていった。
「あの、すみません。もしかして、ここに何か縁のある方でしょうか?」
 老人はぼんやりとしながら振り向くと、落ち着いた様子で答えた。
「ああ、そうだよ。あなたは……どこかでお会いしましたかな?」
「いえ、私はオルランドという観光客です。この邸宅跡について何かお話でも聞かせて戴ければと思いまして」
「お若いのに変わった事をなさっておるのう。まあ、どうせ今となっては誰も聞きたがらない話じゃ。つまらないもので良ければお話しましょう」
 オルランドは一礼し老人の傍らに腰を下ろす。彼は再び宙をぼんやりと眺め始め、しわがれた声で静かに語り始めた。
「わしはここの主人、ヒュペリヌス様の御家族に仕えていた使用人でな。先代から仕事をさせていただいておった。あなたはヒュペリヌス様の事はご存知かな?」
「いえ、この地域の税務官だったという事くらいしか」
「税務官、要するに国税の取り立ての代行じゃな。国に代わって取り立て、手数料を引いた分を国に納め手数料が自分の儲けとなる。簡単に言えばそういう仕事なんじゃが、このお屋敷を見て分かる通り、取り立ては徹底して厳しいものでのう。惨い仕打ちをする事も日常茶飯事じゃて。先代の頃はもう少し手心があったが、ヒュペリヌス様はどうしてものう」
「かなり恨みを買っていたと?」
「まあ、少なくとも好かれてはおらんだろうなあ。この跡の通り、誰も片付けもせんし近付きもせん。魔王に焼かれたとは言え、関わり合いになりたくない気持ちが未だくすぶっておるやも知れんのう」
 ヒュペリヌス税務官の邸宅跡は、跡として残っているのは何か記念碑の代わりになっているためと勝手に想像していた。けれど実際は、単に街中から嫌われていただけの事のようである。
 生前のヒュペリヌス税務官は苛烈な取り立てをし恨みを買っていたそうだが、それが理由で魔王はここを焼き払ったのだろうか。世界を相手取って大戦争を繰り広げるような者のする事とはとても思えない。しかもこれでは、この街の人は魔王に感謝すらするのではないだろうか。
「あの、魔王がここを焼き払った時の事はご存知でしょうか?」
「ああ、よう憶えておるよ。ここら辺には使用人の家があってのう、当時のわしもそこで寝ておったんじゃ。それが夜中に突然と起こされてのう」
「起こされた?」
「誰かに揺さぶられた訳でもないんじゃが、とにかく起こされて目が覚めたという事は憶えておるんじゃ。それで起きると、目の前に見知らぬ子供がおってのう。あなたよりも五つぐらい年下か、それくらいの子供じゃ。それが何とも不思議でのう。暗闇なのに何故かはっきりと姿が見えるんじゃ。そして見ているだけで何故だか妙に気持ちが穏やかになってのう。だからわしは、呆気にとられるというより、自然とただただその姿を眺めておった」
「見ていて、怖いとか怪しいとか、そういう気持ちにはならなかったんですか?」
「それが不思議なことにのう。しかし、後から聞いて本当に驚いたよ。あれが噂の魔王だったと言うんだからのう。人は見かけによらないもんじゃて。今思うと、わしら使用人は無関係だからと逃がしてくれたのかのう」
 魔王は無関係な殺しをしなかった。少なくとも自ら積極的にはしなかった、そういう事なのだろうか。
 オルランドは魔王の不可解な行動を疑問に思うと同時に、魔王は無差別に殺し回っていた訳ではないという自らの憶測に確信を強めた。何故なら、自分もまたこの老人と同じく、魔王に目こぼしを受けた一人であるからだ。