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 囚人番号M20715は、ムーン・ダイヤに収監されて二度目の眠れない夜を過ごした。一度目は収監された日の夜だった。あの時は、自分はもう死ぬまで地球にすら戻れないのかとひたすら絶望していた。そこから仮釈放を思い立ち、実際に結果にするまで二十年以上かけ、今こうして念願の出所を目前としている。あの長く苦しい日々も一瞬に思える、そんな心境である。
 ムーン・ダイヤでの生活を思い出しながら、ひたすら眠れぬ夜を過ごす囚人番号M20715。しかし朝方近くになるといつしか意識も朦朧となり始め、そして知らぬ間に眠りへ落ちた。
 次に目が覚めたのは、丁度起床時間直前の事だった。長年起床時間を厳守してきたせいか、体にそういった習慣が染み付いているためだった。起床時間になると、その日は普段とは更正システムの案内が異なっていた。点呼の代わりとなる本人認証を行っても、房の扉はロックが外されなかった。不思議に思っていると、更正システムからの支給品を受け取るシューター口から朝食のプレートが現れた。そして壁に埋め込まれたモニターには、実際に出所するまでの一連の流れを説明する一覧が表示されていた。まず囚人番号M20715は、もはや房から出る必要が無くなっていた。一覧によると、このまま房内で朝食を取り、午前中かけて仮出所者向けの教育プログラムを受ける事になっていた。そこで仮釈放された人間がどういった法的な拘束を受けるのかという説明と、昨今の社会情勢や基礎知識の学習を行う事になっている。勤勉ではない囚人番号M20715だったが、そもそもこの展開自体がいよいよ仮釈放となるのだという実感を湧かせ、自然と笑顔がこぼれた。
 朝食を済ませ、早速仮出所者向けカリキュラムの受講が始まる。
 囚人番号M20715は、仮釈放が決して無罪と同等ではないこと、釈放後も保護官との定期的な面談があること、自由に州の出入りが出来ないこと、別の犯罪行為を犯したり保護官が不適当であると判断すれば即座に拘束されムーン・ダイヤに戻されてしまうこと、その他にも様々な法的拘束を受ける事を初めて知った。この事実は、これまで仮釈放とは罰を免ぜられる事と同等だと思っていたため、囚人番号M20715は面食らってしまった。けれど、地球で生活が出来て更正システムのような容赦のない監視が無いのであれば遥かにマシだと考え、決して落胆するような事は無かった。
 続いて、現在の地球の社会情勢や公共設備の使用法などの学習が始まった。囚人番号M20715にとっては、そちらの方が何より重要だった。単純に二十年を超えるブランクがあれば、地球の事など何も知らないに等しい。それらの穴を埋めなければ、満足に社会の中で活動出来るはずがなかった。そして囚人番号M20715にとっての活動とは、やはり犯罪行為を指していた。彼はとっくに仮釈放後も犯罪行為で生計を立てようと決めているのだった。
 最後に、簡易的な精神鑑定のテストが行われた。それはモニターに表示された設問等に対して思った事を答えるシンプルなもので、かつてムーン・ダイヤへの収監前の裁判中に何度か受けた物より精度の低いものだった。そして囚人番号M20715は、それらがどう答えれば常識的と判定されるのかを直感的に分かっていた。そのため実際に思った答えではなく、望ましい解答だけを行った。
『全てのプログラムが終了しました。服装を着替え、指示があるまでこのまま待機して下さい。準備が出来次第、地球への移送を始めます』
 更正システムの案内に従い、囚人番号M20715はシューター口から出された服に着替える。二十年ぶりに着る囚人服ではない普通の服装は、とても新鮮な印象を受けた。支給されたのは、まさに囚人番号M20715が逮捕時に着ていたものと全く同じ、安物のジーンズとオレンジ色の鮮やかなポロシャツだった。流石に当時の服を保管していた訳ではなく、良く似た新品である。逮捕時の服装、それは囚人番号M20715にとって失敗からのやり直しや新たなスタートを切るのと同じ感覚だった。歳は取ったが体力は衰えてはいない。そのため、物事に対する意欲や気力はとても充実していた。
 いよいよ地球へ戻る時が来た。囚人番号M20715は期待に胸を躍らせながら房内で案内を待った。長く過ごしたここともこれで終わりとなると名残惜しさがわくかと思えば、さほど執着も未練もわかなかった。模範囚に徹する辛く苦しい思いしかないからだろう。
『移送の準備が完了しました。全ての私物を持ち、案内に従って移動をして下さい』
 しばらく待った後、突然更正システムのアナウンスが鳴る。同時に房の扉のロックが外れ外に向かって開いた。囚人番号M20715は待ってましたと言わんばかりにカバンを掴むと、周囲を窺いながら慎重に房内から出る。廊下には他の囚人の姿は一切見られなかった。まだ刑務作業の時間なのだろうが、出所する人間と鉢合わせにならぬよう更正システムが管理しているのだろう。
 廊下へ出たすぐ先には、囚人案内用のドローンが浮かんでいた。ドローンは囚人番号M20715の姿を認識すると、普段囚人が歩くのと同じ速さで進み始める。囚人番号M20715は遅れないようすかさずその後を追った。