BACK

 その日の業後は、ウォレンと一緒に馴染みのバーへ来ていた。特務監査室に配属されて以来、ウォレンとは度々ここで飲んでいる。あまり酒を飲む習慣の無かったエリックだったが、ここである程度の飲み方は憶えてしまった。
 今日のウォレンは、いつものように腕自慢のマスターによる夕食をたっぷり食べ、一杯目の酒をゆっくりと味わいながら飲んでいる。一時期は全く飲まなかったウォレンも、持病が落ち着き薬も必要無くなってからは少しだけ飲むようになった。元々ウォレンは酒に弱い体質だが飲む事は好きらしく、今は大体一杯だけ飲んで終わりにしている。
「なあ、エリックよう。お前、結局マリオンのことはどうすんの?」
 不意にウォレンは、グラスの中の氷をつつきながら唐突に訊ねて来た。
「何ですか急に」
「いや、お前だって分かってんだろ? マリオンの事はさ。でもああやって気だけ持たせておいて何もしないってのは、なんか可哀想じゃねえのって話だ。そうやって婚期でも逃してみろ、マリオンからお前恨まれんぞ」
「別に僕らはそういう訳では」
 酔ったウォレンの問い掛けにうまく答えられず、どうにも口ごもるエリック。ウォレンの言っている事は大きなお世話だと思いつつも、エリック自身にも何か思う所があるからだ。
「お前じゃなくて、マリオンがどう思ってるのかなんだって。今はああやって従順で可愛い後輩でも、一度スイッチ入ったらお前、徹底的に狙われんぞ。一途さってのはそういうもんだ」
「あら、ウォレンちゃん。何の話してるの?」
「いや聞いてくれよ、マスター。こいつさ、年下の可愛い女に言い寄られてんのに何もしねーんだよ」
「まあ! エリックちゃんにも良い人いるんじゃないの! ねえ、どんな娘か教えなさいよ!」
 ウォレンとマスターが、自分を話のだしにして勝手に盛り上がる。エリックはそこへ加わるのを止め、自分はナッツをかじりつつ酒をちびちびと飲んで聞こえないフリをする。他人の男女の話というのは、どうしてこうも人を夢中にさせるのか。半ば呆れた心境でいた。
 そんな時だった。
「おい! 上等だてめえ!」
 ぼんやりと眺めていた店内の片隅で、そんなただならぬ雰囲気の怒声が響いた。思わずそこを注目すると、中年の男が数人が客の一人に絡んでいる。絡まれている客の姿は良く見えなかったが、まだ若く体格もそれほど大きくはない青年のようだった。
 バーでのケンカは特に珍しくはない。あまりに行儀の悪い客はこの店にはいないが、あの程度の諍いならしょっちゅう目にする。エリックもウォレンも、声の方を一瞥しただけでそれ以上の興味を持たなかった。
「あらあら、まったく。少しお仕置きが必要かしら」
 喧騒を聞きつけたマスターが、口調こそ変わらないが、やや殺気立った視線を向ける。そしてウォレンよりも太い首と指を二度三度鳴らすと、騒ぎの渦中へ向かっていった。だがその直後だった。
「ぎぃやあああああ!」
 店内に響き渡る悲鳴。そのあまりに鬼気迫った悲鳴は、喧嘩を煽ってすらいた客達をあっと言う間に冷え込ませ、静まり返った店内の空気が凍り付く。流石にエリックとウォレンは席から飛び上がった。
「おい、マスター! 何やってんだよ! やり過ぎじゃねえの!?」
「ちょっ、違うわよ! アタシはまだ何もしてない!」
「え? それじゃあ」
 エリックもこの状況が普通ではないという事を察し、人混みに紛れながら渦中へ向かう。するとそこには、頭を抱えたまま床の上でのたうち回る男の姿があった。その仕草はいささか奇妙に映った。それほどの痛みがありながら血は出ておらず、ただ殴ったにしてもそこまで激痛が継続するとは思えない。
「て、てめえ! やりやがったな!」
 連れらしき別の男が青年にいきり立って向かっていく。それを青年は妙に落ち着いた態度で見ていた。青年は男が繰り出した大振りのパンチを小さな動作でかわすと、すれ違い様に男の脇腹を一度、ポンと軽く叩いた。
「う、うげえええ!」
 途端に男は口元を押さえ、一目散に店の外へ飛び出していった。男の嘔吐する声は店の中まで聞こえ、相当なダメージを負わされたのかと思わずにはいられなかった。
 青年は軽く服の埃を払うと、そのまま静かに店を後にする。連れの男はまだ他に居たが、あまりの出来事に完全に戦意を喪失していた。
 喧嘩などしたことのないエリックだが、今の出来事が普通ではないことくらいは理解ができる。酔っ払い同士の喧嘩など、体格でほとんど勝負が決まる。どれだけ鍛えた子供でも、上背が倍もある大人を仕留めるのは容易なことではないのだ。しかし今の青年は、まるで子供をあやすかのような軽い仕草で男を倒してしまった。喧嘩慣れなどという言葉では言い表せられないだろう。
「お、おい! しっかりしろ!」
 最初に床の上でのたうち回っていた男は、今度は白眼をむきながら痙攣を始めていた。素人目でも危険な状態である。ウォレンはその様子を確かめるや否や、すぐに周囲へ叫んだ。
「近くに医者がいる! そこまで担ぐぞ!」