雨夜の月第二部

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　件の研究施設は、驚く事に南区の都心に近い商業施設の地下にあった。こんな人の多い場所に堂々と、という驚きを覚えたが、確かにこの立地は合理的だった。人が多過ぎて出入りを見張り難く、多過ぎるからこそ派手な捜査もやり難い。そして商業施設であるため、毎日のように大量の物品が運び込まれていく。研究に必要な資材もそこへ紛れ込ませる事で簡単に搬入出来るという事だ。これだけの状況の中、それでも研究所の特定まで漕ぎ着けた国家安全委員会の苦労にはひたすら頭が下がる思いである。
　平日の正午前ではあったが、館内は驚くほどの人出で賑わっていた。老若男女、買い物やらレジャーやら様々な目的でここに訪れている。むしろ自分達の方が浮いてやしないか、そんな不安さえ覚えた。
「……俺、こういう場所は苦手だ。なんかみんな、如何にも幸せですーってツラしててよ」
「ウォレンさんは卑屈過ぎますよそれ。誰もそんな意識なんてしてません」
　久し振りに皮肉を吐くウォレンは、心底この場所が苦手のようだった。人の幸せを妬む湿っぽいタイプではないと思うが、自分が騒ぐのは好きでも他人が騒ぐのは好きではないという心理は何となく理解が出来る。
「あれ、ルーシーさんはどこです？」
　そうマリオンに訊ねられ、慌てて周囲を見回す。しかしルーシーの姿はいつの間にかこつ然と消えていた。
「あの馬鹿……また勝手な行動を取りやがって」
「どうしましょう？　ルーシーさん抜きで出来るでしょうか……」
　不安な表情のマリオン。今回の件では、知識だけで言えば一番豊富なのはルーシーである。彼女がいなければ未知の状況に出くわした時に正しい判断が出来ない恐れがあるのだ。
　考えてみれば、ウォレンは軍隊でマリオンは警察で、それぞれ規律ある行動を教えられている。そのため勝手に出歩いたりすることは無いのだ。かと言って、大の大人がそんなことをすれば誰が困るのかくらいは分からないはずはないのだが。
　あまり離れない範囲で周囲を探し始める三人。けれど、ルーシーの姿が人混みの中から簡単に見つかるはずもない。一体どうしたものかと途方に暮れそうになった時だった。
「何してんの？　目立つようなことするなって言ってるじゃない」
　不意にしれっと戻って来たルーシーは、片手に紙袋を一つ抱えていた。
「お前な……なに買い食いしてんだよ。仕事中だろ」
「場に溶け込むためじゃない。ほら、これ。季節限定のベリーベリークリームだって」
　そう言ってルーシーはウォレンの口に紙袋から取り出したドーナツを突っ込む。反射的にウォレンはそれを口にし、頬張り咀嚼する。そして目を輝かせた。
「お、マジだ。適度な甘酸っぱさがドーナツ生地に合ってるな。香りも良いぞ」
「でしょ？　ほら、キミ達もこれ食べて場に馴染みなさい」
　ルーシーに言われ、渋々受け取り食べるエリック。しかしルーシーへの叱責をしたい思いのあまり、味はほとんど分からなかった。ウォレンやマリオンは美味しそうに食べているが、このペースに自分まで乗ってはいけないと、エリックはより強く自戒する。
「それで、どうやって踏み込みますか？　とりあえず搬入口の場所は押さえてますけど、勝手に入ったら十中八九、地下にバレて先手を打たれますよね。証拠の所在が曖昧になるのが一番困るところですし」
「ああ、大丈夫。さっき話つけてきたから」
「話って、事情も話せないのにどうやって？」
　するとルーシーは、見覚えのある小さな袋をひらひらとそよがせて見せた。
「実弾。帳簿に載せてないから、全部使っていいんでしょ？」
「ちょっ、そのお金！　いつの間に！　それは僕が室長から渡されたものですよ！」
「気の利いた先輩に感謝しなさいね。おかげで賄賂の罪悪感に悩まされる事無くスムーズに運んだんだから」
　幾ら帳簿外のお金とは言え、室長への報告はしなければならない。使い道が後のリスクになる可能性があるならば尚更だ。それにしても、すぐ買収を行うルーシーのやり方は、かつて所属していた外務省のやり方なのだろうか。エリックはルーシーの倫理的に問題のある手段への躊躇いのなさに、どうにも自分とは決定的に価値観が異なるのだろうという危惧を覚えてならなかった。
「なんか今日はまだ出勤してないんだってさ。ガラ押さえるんでしょ？　だから踏み込むのもう少し後ね。あ、先にランチにしよー」
「ふーん。で、行き方は押さえてるのかよ」
「その搬入口だけど、地下専用の搬入路が近くにあってね。今日も何か搬入する荷物があるから、それと一緒に行けば大丈夫。そこも関係者みんな実弾でナシつけておいたから、後で作業着借りて搬入しながら行きましょ」
「はー、手際いいなお前。それにしても、金ってのは恐ろしいもんだなあ。何でも言うこと聞かせちまうんだから」
　ルーシーの手際の良さに感心するウォレン。けれど、本当に恐ろしいのはその金の価値を理解して使う側の方である。この人間は幾らでこれだけのことをやる。その見極めこそが大事であるが、ルーシーはその手の買収には長けているのだろう。