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 エリックは久し振りの地方出張となった。普段、特務監査室の仕事は聖都を中心に行うのだが、稀に地方で都市部に影響が及びそうな事件が起こった場合、その対応に派遣される事があった。今回もそういった事例である。
「二人きりの出張なんて久し振りですね、先輩」
 移動の馬車の中、向かいの席へ座るマリオンは朝からずっと笑顔のままこんな調子だった。以前マリオンと出張になったのは、別件でどうしてもウォレンが対応しないといけないからだった。しかし今回は、田舎の村ではウォレンのように人相の良くない人間は目立つからと依頼主に言われたためである。
 依頼主は国家安全委員会。何故現実主義の彼らが特務監査室に仕事を回してきたのか、その理由は、彼らの調査員が既に潜入捜査で理解出来ないものを見てしまったため、判断に苦慮したからだった。
「資料は読んだ? 僕らの肩書きも確認してる?」
「村に突然現れた救世主の噂を聞きつけ、取材にやってきた夫婦ルポライターですよね。大丈夫ですよ」
「そうだと良いんだけど……」
 マリオンは明らかに浮かれている。普段は仕事をそつなくこなす優秀な彼女も、時折私情が入ると浮かれて注意力が散漫になってしまう。エリックにとってそこが、ウォレンとは違う一番の不安の種だ。
「今から丁度三年前、村に突然現れた青年が件の救世主。本人には名前も含め過去の記憶が一切無く、身元も未だに不明。それで村長宅に引き取られたと。僕達の今回の対象はこの救世主と呼ばれている青年だね」
「記録によればこの人、触っただけで人の怪我や病気を治してしまうそうですね。しかも農業は大豊作続き、干ばつや獣害とも無縁になったとか。貧しかった村がこの人の出現で一気に豊かになったので、村人達が彼の事を救世主として崇め、今ではちょっとした宗教にまでなってます。釜と鍬の会というらしいですけど、経緯が経緯だけに、何だかきな臭い話ですねえ」
「とにかく現地で実態を確認しないとね。下手な事は言わないように気をつけて。村人全てが彼の味方である訳だから」
 救世主。宗教の教典ぐらいでしか聞き覚えのない単語である。しかし村にはそう呼ばれる人物が実在するのだ。それが本当に神の奇跡なのか、それとも村人達を騙すためのトリックなのか。慎重に調べていかなくてはいけないだろう。
「もしも、仮にですよ? 救世主って呼ばれてる青年が本当に本物の救世主だったらどうします? 悪いことをしている訳ではないですし」
「善悪も考慮はするけど、うちの仕事はあくまで民衆も混乱させない事だよ。彼が細々とひっそり活動するなら黙認でも良いけれど、そうでないのなら拘束し隔離しなくてはいけなくなる。あまり良い気分ではないけどね」
「何だか……犯罪者でも無い人を拘束するような事はしたくないですね」
「そうだね。だからそうならないよう、一生懸命説得し合意と理解を得ないとね」
 今までの仕事で、全くの無実の人間を拘束した事は何度かある。本人に自覚はないにも関わらず、異常な現象を起こす事例があるからだ。本人が現象をきちんとコントロールできたり、騒ぎにならないようひっそり生きるなら問題は無い。だが、それが出来ない者もいる。そういった時の対応は、物理的だけでなく心理的にも苦い思いをさせられるのだ。
 ふとその時、乗っていた馬車がガクッと一度だけ大きく揺れた。車輪から室内へ伝わってくる音幅が変わった辺り、今まで走っていた道とは違う所に差し掛かったのだろう。
「うわ……エリック先輩、外を見て下さい」
 窓から外を眺めながらマリオンがそう話す。エリックも続いて確認してみる。馬車は古く年期の入った橋の上を走っていた。しかし、その橋の下は大きな溝があるばかりだった。それが干上がった川だと気付くのに、大分時間を要してしまった。
「確かに聖都からは大分離れているけれど……同じセディアランドとは思えない光景だなあ」
「この辺りって、良く見ると荒れ地ばかりです。昔はそうでもなかったんでしょうけど」
「今はもう荒れに荒れて、人が気軽に住めるような土地では無くなってしまったんだろうね」
「そこにふらっと問題を解決する人が現れた訳ですから、救世主云々はともかく、村人にしてみればとにかくありがたい存在ではある訳ですね」
 しかし、場合によってはその救世主を村から取り上げなければならなくなる。それはおそらく、途轍もない恨みを村中の人間から買う事になるだろう。それこそ何が起こるか分からないのである。今から心構えを作っておかなければいけないだろう。
「ところで、エリック先輩。今ちょっと気がついたんですけど」
「何だい?」
「夫婦の設定という事は、同じ寝室で寝るって事ですよね? あ、大丈夫ですよ。私、心の準備は出来てますから」
 そうマリオンは、思わせ振りのような、からかうような、エリックにとって読み難い表情を見せ付けてくる。エリックは心の中で小さな溜め息を一つついた。
 潜入捜査は二人以上で行うのが鉄則だが、幾ら怪しまれないためとは言え夫婦という設定にならなければいけないとは。今回の出張は、捜査とは無関係な所でも気苦労が絶えないかも知れない。
 その事を思うと、エリックは今から気が重かった。