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 恩返しのための必死さ。そんな美談が今の世の中に未だあるのか、そうエリックは感心する。セディアランド人は良くも悪くも合理的で、特に人情に関してはドライだと評される事もある。損得抜きで必死になるような人間は愚か者とさえ呼ばれる事がある程だ。けれど、青年の必死さはエリックには理解ができ、そして感動を覚えさせた。典型的なセディアランド人であるエリックでも、本気の行動というものは心が動かされるものだった。だからそれだけに、エリックは残念でならかった。
「あなたの行動は立派だし、その行動理念は人として尊敬できる素晴らしいものだと思います。けれど、やはりあなたは不法移民であり、不法に滞在し続けるこの現状は適切では無いと思います」
 エリックの表情から何かを察したのか、青年はその言葉について短い頷きを一つ返すだけだった。
「食事を用意しますね。まずは体を休めて下さい」
 そう言ってエリックは寝室を後にした。青年には敢えて病院の事は言わなかった。そしてエリック自身も、青年を無理に連れて行こうとは思わなかった。青年が不法移民であっても、人命を救ったのは事実であり、それそのものについては何ら批判されるものではない。ただ、行動が尊ければ違法な事まで許される訳でもない。青年には、正しい事を何ら引け目の無い状態でして欲しいのだ。
 軽めの朝食を取った後、青年は再び眠り始めた。エリックはソファーに座り、形だけの見張りをする。青年は逃げられるような状態ではない。仮に体が動いたとしても、彼はそういう事をする人間ではないと感じた。自分でもらしくない判断だと思ったが、エリックは今回ばかりは自分の印象を優先する事にした。
 昨夜読むつもりだった本を読み始めたエリックだったが、ふと気がつくと本を手にしたまま居眠りをしてしまった。昨夜は結局あれこれと考えてあまり良く眠れなかったせいなのだろう、ソファーに深く沈んでいきながら周りの音すらも聞こえなくなった。
 それからどれだけ時間が経っただろうか、エリックは突然聞こえてきたドアのノックに反応して飛び起きた。まさか青年の追っ手が来たのではないか、そう警戒しながら慎重にドアの覗き窓から様子を窺う。するとそこにいたのはマリオンだった。
「エリック先輩! 良かった、無事で。急に休むから心配したじゃありませんか」
「ああ、ごめん。ちょっと急用で。とにかく入って」
 マリオンを部屋の中に入れ、念のため外の様子を窺う。見た限り怪しい人物は見当たらなかったが、簡単に見付けられるような間の抜けた見張りなどいないだろう。やはり青年を部屋に置くのは既にリスクとなっている。
「それで、どうしたんですか?」
「ほら、先日の件。銀行強盗に襲われた時の。その対象を、昨夜保護したんだ。ただ、酷い怪我をしているのと本人が病院を嫌がるせいで、今はうちにいるんだ」
「じゃあ、あの怪我がすぐ治るとかいう? あれ、でもそれなら怪我なんてすぐ治るんじゃ」
「それがそう都合良くはないらしい。治すには太陽が必要で」
 とにかく事情を整理しなければならない。エリックは早速マリオンを連れて寝室へ入る。しかし、そこにあったのは空っぽになったベッドだった。
「そんな、いつの間に!」
「もしかして、逃げられちゃいました?」
「そう……かも」
 逃げられたのは、自分が気を抜いて居眠りをしていたせいである。しかしエリックは、どちらかと言えば青年に裏切られたという気持ちの方が強かった。それはエリックが勝手に抱いた信頼であって、彼にとっては裏切るも何も無い。けれど、まさか本当に自分に黙って抜け出して行くとは思いたくなかったのだ。
 勝手に信じた自分が馬鹿だったのか。そう悔やんでいると、再びドアがノックされる。やって来たのはあの青年だった。
「ごめんね、気持ち良く寝てたもんだから起こせなくて。とりあえず、これ。匿ってくれたお礼。本当にささやかだけど」
 そう言って青年が差し出したのは、紙袋に入ったどこにでも売っているような安いバゲットだった。しかし焼いたばかりなのか、まだほんのりと熱を持ちそそる香りが漂う。
「あれ、怪我は?」
「もう平気だよ。この通り、完治! いやー、俺って太陽さえあれば怪我なんてすぐ治る体質でさあ! それよりも、今朝のお兄さんの話、本当に凄く身に染みたよ。だから俺、これから出頭して国に帰ろうと思う。そこでちゃんと一からやり直して、今度こそ本当に人のために役立つ人間になるよ。恩返しは正しくやらなきゃいけない。そういうことだよね」
「そうですか。分かりました、それならもう僕からは何も言う事はありませんよ。故郷に戻っても、体に気をつけて頑張って下さい。あまり気負い過ぎないで」
「大丈夫、太陽さえあれば俺は平気だから。あ、そちらの女性は、もしかしてお兄さんの太陽かな? ハハッ!」
 そう笑う青年は妙に爽やかで、感じの良い好青年という雰囲気だった。
 青年から一方的に手を取られ強く握手をする。青年の指は、昨夜は爪が剥がされていたのだが、もう全て生え替わっていた。怪我が治るのだから、爪もそれくらい早いのだろう。
「じゃ! またいつか会えるといいね!」
 そう言い残して、青年はあっという間に去ってしまった。この一連をマリオンは呆気に取られながら見ていた。状況も良く理解出来ないのと、青年の一方的なペースに圧されたからだろう。
「エリック先輩、今の人が例の?」
「うん、そうなんだ。朝までは本当に酷い怪我で動けなかったんだけれど。そうか、いつの間にか晴れてたんだ」
 窓からは燦々と太陽の光が降り注いでいる。エリックが居眠りしている間に雨は止み、雲は晴れてしまったのだろう。この陽気のせいでつい眠ってしまったのだ。
「なんか、やたら陽気な人でしたね。大丈夫でしょうか? ああいうタイプって、うっかりミスでとんでもない事をしでかすから」
「まあ、何とかなるよ。良い人は、困っていても必ず助けてくれる人がいるものだから」
「そうですね。あれ? エリック先輩、それは」
 おもむろにマリオンが指差したのは、床の上に置かれた円い籠だった。中には古いタオルが敷き詰められている。
「……ああ。ゴールドがいた時の、ね。まだちょっと、何だか捨てられなくて」
 気恥ずかしそうに、だが自虐的な表情でエリックは答える。マリオンはそれ以上言及はしなかった。ゴールドの事がエリックにとってどれだけ深い根を残したか、彼女なりに理解しているからだった。
 ゴールドもあの青年くらい元気でいてくれたら。消える事のない太陽のように。そんな事を思わずにはいられなかった。