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 今回はかなり特殊なケースである。そうラヴィニア室長からは聞かされたエリック。そもそも特務監査室自体が特殊なケースばかり扱っているというのに何を今更と思いながら、渡された資料は少しばかり奇妙だった。
「あの、室長。この資料なんですが、どうして名前が塗り潰されているんでしょうか。隅にメイジーと書かれてますけど、これが名前ですか?」
 こういった内部資料も、公開はしないが正式な文書である。特別な理由が無い限り、塗り潰して訂正するような事は行わないものだ。
「それが今回の問題なの。あら、丁度いらしたみたいね」
 ドアをノックする音を聞き、マリオンが早速開け中へ招き入れる。入ってきたのは、二十代半ば程の女性だった。いささか地味な格好をしてはいるが、特に変わった所の無い様子である。
「初めまして。私は―――と申します」
 そう話す彼女だったが、早速その話し方に違和感があった。
「すみません、もう一度お名前をお聞かせ願えますか?」
「私の名前は―――です……。すみません」
 彼女は名乗らない、というよりも名前が聞こえない、そんな雰囲気だった。ふざけて話していないという様子には見えない。名前の部分だけが不自然に耳に届かないような感触がする。この説明を求め、一同はラヴィニア室長の方を見る。
「彼女はね、本名を名乗りたくても名乗れないの。今みたいに口に出しても何故か誰にも聞こえないの。紙に書いた所で、書いた端から潰されてしまって。さっきの資料みたいにね」
「名乗る事も伝える事も出来ないって事ですか……」
 異様な体質、現象である。一体何がどういう理屈でそうなるのか疑問は尽きないが、これはそういうものだとまずは受け入れるしかない。この努力が、エリックが特務監査室に来て覚えた一番大事だと思う技術である。
「私のことはメイジーと呼んで下さい。普段もこの名前で生活していますから」
「分かりました、メイジーさん」
 まずは事情を聞き取る事から始める。エリックはメイジーを応接スペースへ促し早速聴取を始めた。
「まずあなたの症例ですが。具体的には、どこまでが本名として判定され、どのようにマスクされるのでしょうか?」
「紙など文字として記録されていたものは、全て黒塗りになっています。おそらく役所にある公的な戸籍も。新たに書いたものは、書いた端から黒塗りになります。暗号にしたり記号に置き換えたり色々と試してみましたが、全て駄目でした。私に名前を記録する意思がある時点で黒塗りになるようです。また、私の名前だと後から認識しても同じようです」
「となると、今のあなたは戸籍や身分を証明するものが一切無いのですか?」
「ええ、そうです。元々持っていた住民票もこうですから」
 メイジーが差し出した住民票は、見事に名前の部分だけが黒く塗り潰されている。塗り潰しているのはインクのように見えるが、紙自体が変色しているのか塗った厚みが全く無かった。不自然な塗り方である。
「声に出すのも同様です。このように―――とそこだけが聞こえません。話の流れでたまたま同じ発音だったり、同名の別人でも聞こえなくなります」
 明らかに自然ではない現象である。だが実際にその不自然な音のマスクを実際に目の当たりにしているのだから、まずはそういうものとして理屈の前に受け入れなければならない。
「あの、ちょっといいですか? メイジーさんの本名って、変わった名前ですか? 例えば、セディアランドでも一人二人しかいないような」
 何か思い当たったらしいマリオンが横から質問する。
「いえ、そんな事はありませんよ。聖都だけでも同名の人はかなりの数がいるはずです」
「そうなると、同名の人の書類も全部黒塗りになってしまうのでは? 既に大騒ぎになるような気がするんですけど」
「多分、認識の問題だと思います。街中に貼ってるポスターに自分と同じ名前が書いてあっても、私がそれを見て自分の名前だと認識するまではポスターはそのままでしたから」
「では、黒塗りになる条件は、それが自分の名前だと認識する事になりますね。ならこの現象を引き起こしているのは、メイジーさん自身の何かにあるんじゃないでしょうか」
 マリオンの推測は的を射ている。これまで大量の書類が黒塗りになったという事件は聞いたことがない。つまりメイジーが無意識の内に黒塗りにする対象を選択しているという事になる。そのきっかけが名前の認識だ。
「人間たまーに、そういう力を発揮しちゃう事ってあるのよねー。大体そのキッカケってストレスなのよ。なんか悩み事とかある? ストレス溜まってない?」
 そうあっけらかんと訊ねるルーシー。思わずエリックは言葉を遮った。
「ルーシーさん、幾ら何でも失礼ですよ」
「悩みが解決すれば収まるかもって話よ。どうせ一人じゃどうにもならない悩み事なんでしょ? それでわざわざウチに来たんだから、隠したってしょうがないじゃないの」
「しかしですね、デリカシーというものが。こういうのってそもそも同性側が配慮するべきでしょうに」
 するとメイジーは遠慮がちに話し出した。
「あの、大丈夫です。話せます。今悩んでいることがありまして、それがきっかけで伺わせて貰ったのですから」
 悩み事の解決が目的。目的が明確であれば、確かに特務監査室としてもやりやすくなるが、若い女性のプライバシーに触れる事への抵抗をエリックは感じた。
「実は今、付き合っている男性がいます。恋人です。けど、私のこの体質の事は話していませんし、名前もメイジーで通しています」
「恋人に本名を話せない事が悩み事でしょうか?」
「半分だけ正解です。その彼から先日、結婚を申し込まれました。私もそれを承諾したいのです。ですけど、名前がすぐ黒塗りになってしまうのですから、結婚の手続きが物理的に出来ないんです」