雨夜の月第二部

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　その日、エリックは昨夜終わったばかりの案件についての報告書を作成していた。この聖都に悪魔崇拝を行っているカルト教団が存在し、その潜入捜査を行った結果についてのレポートである。またしても国家安全委員会からの依頼で、明らかに特務監査室とは無関係に思える案件ではあったが、実態を調べるだけであるため特に危険らしい危険は無かった。ただ、悪魔を呼び世界の終末を迎えさせるなどという思想を持った組織に、仕事のためとは言え入団しなければならなかった事には生理的な嫌悪感があった。教義や信仰は自由だが、あまりに価値観の合わないものはとても理解が出来る気がしない。早くこんな事は忘れてしまいたい、そうエリックは思っていた。
「お、例のカルト教団、ディープドーンだっけ。無事抜けれた？」
　ルーシーがからかうような口調でそうエリックへ話し掛ける。
「わざわざ律儀にそんな手続きは踏みませんよ。どうせ住所も名前も潜入捜査用に用意して貰ったものですから。このまましらばっくれて終わりです」
　ディープドーンの信者達は悪魔を真剣に崇拝はしているようだったが、明確な犯罪行為は確認出来なかった。終末思想を唱え、これに共感しやすい世の中や現状に不満のある人間を集めて寄付金を払わせる、良くある集金装置としての宗教団体である。会計については違法な部分もあるかも知れないが、それこそ特務監査室の管轄外である。
「ふーん。それで、悪魔は見れたの？　私、見たことないんだよねー」
「まさか。それらしい儀式はしていましたけど、司祭が派手なパフォーマンスをして信者が勢いでそれに乗っかっているだけです。あれでも場の独特な雰囲気で流される人はいるんじゃないですかね。オカルトを精神の拠り所にしている集団なだけで、実際に特務監査室向きの現象は起こっていませんよ」
　エリックが見たのは、悪魔の霊を呼び寄せるという儀式だった。悪魔で霊体とはどういう事だと指摘したくなる衝動に駆られる妙な儀式だったが、安っぽい手品じみた演出ばかりで、特にこれといっておかしな出来事はなかった。これを信じている人間が多数いる事態こそ、そのおかしな出来事かも知れないが。どれだけ合理的な思考をしていても精神的に弱っていると、自分にとって都合が良ければどんな非科学的な事でも信じ込んでしまうという事か。
「そっかー。ま、大丈夫かなー」
「何ですか、意味深に」
「いやね、たまーにいるのよー。悪魔崇拝って結構歴史が長くてね、亜流や諸派などなど色々あるんだけれど、中には本当に悪魔から借りた力を使える司祭とかいたりとかね」
「オカルト的な話ですか、それ？」
「実際にあった話よ。流石に世界を滅ぼすとかは無いけどさ。良くあるやつだと、信者の信仰心が本物かどうか監視するようなものがあって。入ったばかりの信者は、しばらくの間は使い魔みたいなのに見張られるの」
「もし今回がそうなら、僕はもうとっくにバレてるでしょうね。報復とかされるんですか？」
「さあ？　それこそ、教団の方針によるしー」
　なら、全く無関係だろう。もしも本当にそんな力があるのなら潜入した時点でバレているだろうし、そんな人間を素直に帰すはずもないからだ。泳がせた上で情報を集める目的でも無い限りは。
　そしてエリックは国家安全委員会への報告用レポートをまとめ終わると、直接自分の足でそれを渡しに行き、戻ってからは内部用の報告書を書き上げた。どちらも大して内容に違いは無く、典型的なカルト教団である事以外に特筆すべき点は無かった。特務監査室としては全くの空振り、エリックの認識で言えば健全な部類の案件である。悪魔を崇拝するなど異常ではあるが、その悪魔が本当に出て来ないだけまともだと感じるのだ。
　仕事が終わり定時を迎えると、エリックは皆と同様に帰り支度をして庁舎を後にした。久し振りに一仕事を終えて心地良い疲れもあり、エリックは行き着けの店で好物の牡蠣を食べて帰る事にした。疲れた時に食べる牡蠣のグラタンは何よりも体に効く、昔からそんな感覚があった。
　店に入ると、エリックは店の奥の方にあるテーブル席へ案内された。これは少人数用のテーブル席だが、カウンター席はまだ空いているのにどうしてこっちへ通されたのか。やや疑問に思うものの、何か店の都合があるのだろうとエリックは詮索しなかった。いつものように、牡蠣のグラタンと焼き牡蠣に白ワインを注文する。この組み合わせがエリックの好物で、特に疲れている時は決まってこれらを頼んでいる。
　程なく白ワインのデキャンタが先に運ばれて来た。しかしテーブルには二人分のグラスが一緒に並べられた。
「ワインは一人分で良かったんだけれど」
「あれ、見間違いだっかな？　失礼しました」
　エリックと少し面識のある店員はそう謝ってグラスを一つ下げる。入店の時もそうだが、何かを連れと見間違ったのだろう。人気店であるここは夜営業も忙しいため、そんな事もあるのかも知れない。
　エリックはそれ以上は気に止めず、早速ワインを一口飲んだ。