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 カスパーの確認も取れた事で、早速ラーフの部屋へ向かう事にした。ラーフの部屋は二階にあり、一度リビングを出て玄関側にある階段を登る必要がある。まずはカスパーが案内役として先導し、その後ろへエリックとマリオンが続く。
 広い玄関と、その左側にある階段。二階の廊下までは吹き抜けになっている洒落た構造で、いつか自分も家を建てる時が来たら参考にしたい、などとエリックは考えていた。
 そしてエリック達が階段を登り始めた時だった。
「危ない!」
 突然背後からマリオンの声がしたと思うと、エリックの体が後ろへ引っ張られ抱き留められる。その直後、エリックのすぐ目の前を何かが掠めて落ちていった。バリンと小気味良い音を立てて白い破片が飛び散る。それで落ちてきたのが花瓶だとエリックは気付いた。
「大丈夫ですか、エリック先輩!?」
「あ、ああ。うん、大丈夫。ありがとう」
 すぐ後ろから聞こえて来るマリオンの声にどぎまぎしつつ、エリックは淀み気味の声で答えた。今、自分の頭の上に花瓶が落ちて危うく大怪我をする所だった。それを理解した瞬間に酷く動揺してしまったからだ。
「大丈夫ですかエリックさん、お怪我は? どこかぶつかりませんでしたか?」
 カスパーもまた振り向きながらエリックを心配する。この事態に彼も随分と驚いた様子だった。
 足元を見ると、割れなかった大きな破片が幾つか転がっている。それらから察するに、かなり大きな花瓶が落ちてきたのが分かった。もしかすると怪我では済まなかったかも知れない。
「気をつけて下さい、破片を踏んで怪我をするかも知れませんから。そのまま一旦階段を降りて」
 そう言われ、エリックとマリオンは一度階段の下へ降りる。カスパーは破片を慎重に跨ぐと、掃除用具を取りに奥へ駆けていった。エリックはまだ呆然としていて、ただ漠然と階段に飛び散った花瓶の破片を眺めていた。
 そしておもむろに視線を上へ向ける。エリックは息を飲んだ。
「……ラーフ?」
 丁度階段の終わりの廊下側、そこの手摺りの間からラーフがこちらの様子を覗き込んでいたのだ。何よりエリックをぞっとさせたのはその表情だった。先ほどリビングで見せたようなあどけない無垢な子供のそれではなく、矮小な老人を彷彿とさせたからだ。
 ラーフはエリックと目が合うや再び奥へ駆けていった。それは逃げるというよりも誘い込もうとしている、そんな気分にさせられた。
「もしかして今、ラーフ君がいましたか?」
 カスパーに問われてエリックはただ頷き返す。カスパーはそうですかと一言返事し、再び掃除を続けた。今の出来事はラーフの仕業なのだろうか。明らかにそれを意識した様子だった。
「エリック先輩、これちょっとおかしくないでしょうか」
 不意に訊ねて来たのはマリオンだった。
「この花瓶、どこから落ちてきたのでしょう?」
「どこからって、上から落としたんじゃ」
 答えながらエリックは上を見上げる。そこには屋敷の天井があるだけだった。
 エリックはマリオンの疑問を理解する。エリックの頭上に花瓶を落とすために必要な足場がそこには無いからだ。
「廊下側から投げつけて来た? 距離もそんなに長く無いから」
「でも花瓶は真上から真っ直ぐ落ちてきましたよ。私、それはちゃんと見ていますから。廊下側から投げつけたら、もっと放物線になるはずです。それに、こんな大きな花瓶を小さな子供が投げられるとは思えません」
 マリオンの推測は全て正しい。マリオンは元々鋭く、落ちてきた花瓶に気付いたのも、その注意力の賜物である。一番最初に気付いたマリオンが言うのだから、花瓶が真上から落ちてきたのは間違いないだろう。
 では、どうやって花瓶を落としたのか。天井に一時的に花瓶を吊って固定するなど何かしら仕掛けが必要になるはずだが、それは子供一人で出来る事とは思えない。
「エリックさん……もしかしてラーフ君は、あなたを狙っているのでしょうか?」
 恐る恐る訊ねて来たカスパー。エリックは肯定とも否定とも取れる曖昧な返答しか出来なかった。本当に分からないのではなく、まだはっきりと明言する段階ではないからである。
 ラーフはまず間違い無く自分を狙った。おそらく、死んでも構わないというつもりで。けれど、そこには肝心の動機が無い。ラーフとは今日初対面で、まだろくに会話すらしていない。この短時間の間に、これほどの殺意を持ちこんな仕掛けを作るのは尋常ではないだろう。
 何故自分は標的にされなければならないのか。ラーフはどういった理由でこんな事をしたのか。この理不尽さ、まさに悪霊じみている。そうエリックは思わざるを得なかった。