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 カスパーがラーフの部屋のドアをノックすると、すぐに中からラーフの返事が聞こえてきた。おそるおそる中へ入ると、ラーフはベッドに腰掛けたままニコニコしていた。その表情は、リビングを覗き込んでいた時とも先ほど花瓶を落としてきた時とも印象が異なっている。まるで別人とまでは言わないにしても、どこか情緒の不安定さを感じさせた。
「ラーフ君、えーと、何から話したら良いものか……」
 会話の切り出しに困るカスパー。あまり気まずい思いをさせるのも今後の仕事に影響するだろうと思ったエリックは、カスパーを遮って自分から口火を切った。
「さっき僕に花瓶を落としたのは君かな?」
 エリックは素直に疑問をラーフへとぶつける。しかしラーフは顔色一つ変える事もなく、にこやかな表情を一切崩さなかった。
「違いますよ。あれは悪霊の仕業です。全部、悪霊が悪いんです」
 資料にもあった通り、ラーフは堂々と悪霊の仕業だと断言する。そんな事があるかと疑われようが一向に構わない、そんな頑なさすら感じる。大人三人を前にこんな返答をするなど、とても五歳やそこらの子供とは思えない肝の据わり方だ。それとも本当にそう思い込んでいて、単に分別がつかないほど幼稚なだけなのだろうか。少なくとも、稚拙さだけではあんな事は出来ないはずだが。
「その悪霊とは一体何かな? ここにいるのかい?」
「知らない。悪霊はいつも突然と来るから、普段どこにいるのかも知らない」
「悪霊はいつから来るようになったの? 名前は? 何が目的であんなことをするの?」
「知らない。話せる訳じゃないし」
 悪霊とは意志の疎通は出来ない。誤魔化し方としては最善である。悪霊の実態などセディアランド人が一般的に知っているはずがない。下手な嘘をついてぼろを出す心配もなく、深く突っ込んだ質問をされる事もないだろう。
「じゃあ悪霊は、いつも突然現れて、悪さをしたらまだ突然いなくなるという事かな?」
「そう、その通りだよ! だから僕は全部悪霊の仕業だって言ってるのに、誰も信じちゃくれないんだ!」
 悪霊という便利な隠れ蓑がある以上、ラーフは自分の行動が咎められにくいと認識している。だから殺人未遂をするまで増長してしまったのだ。
 エリックはラーフが犯人だとほぼ確信していた。もしも本当に悪霊の仕業だったとしたら、他人のせいで自分が疑われているのに顔色一つ変えず堂々とはしていられない。自分に疑いがかからぬよう、もっと必死で弁明するはずなのだ。ラーフはむしろ楽しんでいる。大人が困惑する様子が楽しくてたまらないのだろう。
 ラーフに犯行を問いただすのは時間の無駄だろう。絶対にラーフは悪霊の仕業以外を認めない。そして大人はそれを覆せない。子供の幼稚な言い訳だと言っているうちは、何より悪霊の存在そのものを否定する事が出来ないのだ。
 特務監査室として、どう対処すれば良いか。エリックは思案する。ラーフに悪霊など居らず自らの犯行である事を自供させるしかないが、それはかなり難しいだろう。児童の専門家が匙を投げているのだから。
 そうなると、単純に容疑者として逮捕できるだけの証拠を見つけるしかない。今回といい子供の犯行にしては度が過ぎているが、何かしら物証はあるはずなのだ。
 けれど、本当に五歳の子供がそこまでするのだろうか。エリックにはそこだけが未だに疑問だった。仮にラーフに殺人や暴力への欲求があったとして、そもそも殺意だけでは人は殺せない。手段と実行力、これらが不可欠なのだ。幼児では手段を考える知恵が無い。計画が出来ても実行する体力がない。子供が大人を殺すのはそれほど難しい事なのだ。
「あの、僕はお昼寝の時間なので、そろそろ寝ても良いですか?」
「あ、ああ。そうだったね、悪かった。じゃあ僕らはそろそろ戻るよ」
 とにかく、この場はこれ以上問いただしたところで進展は見込めない。何か別なアプローチを考えなければ。
 エリック達は軽く挨拶をしラーフの部屋を後にする。
 きっと今頃ラーフは、また悪霊のせいに出来たと内心ほくそ笑んでいることだろう。標的にした大人とあんなタイミングで目が合っているにも関わらずだ。
 悪霊の存在を完全完璧に否定するような資料は無い。無いものの証明はそもそも難しいのだ。ではどうすれば悪霊など居るはずがないと分からせられるのか。やはり犯行の物証を見つけ出し、これは悪霊ではなく人間の仕業だと突き付ける他無い。
 エリックは階段を降りながらすっかり考え込んでしまっていた。そんな時だった。
「あの、エリック先輩、これ見て下さい」
 階段の途中で屈み込んだマリオンが手を振りながらエリックにアピールする。何事かとエリックはそこに近付き並んで屈み込んだ。
「ほら、ここ。何かを擦った跡がありますよ」
 マリオンが指差すのは、手摺りの細工部分についた小さな擦り傷だった。木製の手摺りにこういった傷をつけるのは、何か金属製のものを擦った時である。そして傷は細く長く巻き付いたようについている。
「これ……針金か何かを巻き付けていた?」
「ええ、間違いありません。カスパーさん、ここにそんなものを巻き付ける用事はありましたか?」
「いえ、少なくとも私は聞いておりませんが……」
 では、これは一体誰が何を何のためにつけたものだろうか。それともつけるのが目的ではなくて、結果的についてしまったのか?