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 アトリエで贋作製作に精を出す青年は、非常にやつれた様子をしていた。それは、突然とこれまでの半分の期間で贋作を作る事をあの老紳士から言い渡されたからである。理由は聞かされていない。訊いた所で教えて貰えるはずがないのと、聞かされた所で期限が伸びたりはしないからだ。
 絵の具が乾くギリギリの日数を計算すると、青年に許された猶予は非常に少ない。それこそ夜の寝る間も惜しんで筆を走らせなければならないほどだった。朝から絵を描き始め、寝るのは日が昇った早朝、それから僅かな仮眠を取り再び筆を握る。当然だが、青年は日に日に疲弊し意識も朦朧とし始めていた。疲労のあまり食事も一日一度、それも何を食べたのか憶えていないほどである。そこまで自身を追い詰めるのは、単にあの老紳士が怖かったからだった。逆らえば、従わなければ、成果を出せなかった時に自分はどうなるか分からない。だから贋作を期日までに仕上げたい。ただその一心である。
 ある日の夕方、青年は筆を持ったままキャンバスを前にうとうととうたた寝をしていた。自分では寝ているつもりではなかったが、意思とは無関係にうたた寝をしてしまう事が最近増えてきていたのだ。
 そうしていた時、不意にドアを閉める音がして、青年は椅子から飛び上がる勢いで目を覚ました。まず青年はアトリエの気配を探った。しかし人の気配は無く、誰かがやってきたようではなかった。それから筆とキャンバスを確かめる。うたた寝をしてもキャンバスにうっかり筆を走らせる事は無く、不自然な線などは描かれていない事を確認する。
 では今のドアの音は何か。青年は気にしない事にした。特に最近は疲労のせいでうたた寝をしがちであるため、たまに夢と現実の区別がつかない瞬間がある。ドアの音がしても誰もいない事は初めてではなく、それはおそらく夢の中だけで聞いた音なのだと思ったのだった。
 だが、いよいよ疲労もピークを越えているらしい。その事を自覚した青年は、一旦まとまった休憩を取ることにした。既に贋作の終わりの目処は立っている。ここから特に神経を使う作業になるため、むしろ体を休め集中して一気に終わらせた方が効率的だと思うのだ。
 青年は上着を着て幾らかの金をポケットに押し込むとアトリエから外へ出た。おそらくどこからか見張られているだろうが、これは食事のための外出である。正当な理由があると幾分強気になった。
 近所の屋台で久し振りの温かい食事を取ると、今度は一気に眠気が込み上げて来た。会計を済ませ、別の屋台でパンと飲み物を買い込みアトリエへ戻る。
 これから一眠りし、最後の追い込みをかけるとしよう。そんな事を思いながら帰って来ると、アトリエの入り口に見慣れない男の姿を見つけた。
「あの……何か御用でしょうか?」
 明らかに見覚えの無い彼に、青年は恐る恐る話しかけてみる。まさかあの老紳士の部下で、何か理不尽な命令をされるのではないかと気が気でなかった。
「ああ、すみせん。こちらのアトリエの方ですか?」
「ええ、そうですが……」
「突然申し訳ありません。別段何か用という訳ではなくて。ただ、昔絵の勉強をしていたので、こういう所が懐かしく思ってしまって。まあ自分は才能が無くて辞めてしまったのですけど」
 男は自分と同じくらいの年齢だろうか。風貌は典型的なセディアランド人のそれだが、背は男にしてはやや低い。強盗か空き巣の類かとも思ったが、どことなく知的さと人の良さを感じる顔立ちからしてそうとは考え難い。
「ちょっとだけ、中を拝見させて戴いてもよろしいでしょうか?」
「すみません、実は締め切りが迫っていまして」
「そうでしたか、これは不躾で申し訳ありませんでした。どうか、お気になさらず。そういう事でしたら、これで自分も失礼させていただきます」
 小柄な男は丁寧に挨拶をするとあっさりと去っていった。本当にただの元絵描きだったのだろう。しかしこういう時に限って珍しい事もあるものである。
 アトリエへ戻り、青年はふと彼女のキャンバスを思い出す。しばらくの間、贋作の方ばかりに没頭していたため、随分彼女の顔を見ていない。
 今は彼女に筆を入れている時間は取れないが、少し眺めて心を充足させるのも悪くない。そう思いながら青年は彼女を仕舞っている部屋へ入り、キャンバスにかけた布を取る。しかし、そこで青年は信じ難い物を目にし布を手にしたまま硬直する。
 彼女のキャンバスには、肝心の彼女がいないのだ。背景は薄暗い青で塗っているが、居るはずの彼女の部分がぽっかりと白く抜けているのだ。
 青年はしばし考え込む。キャンバスを間違ってはいない。ましてや彼女を塗り潰すはずもない。ではこの光景は何なのだろうか。何度かキャンバスを確認し、青年は布を元通りかけて部屋を後にする。青年はこの有り得ない現象を自分の疲労感が見せる幻覚だと判断した。ただでさえストレスの溜まる贋作製作を短期間で仕上げようという状況にあるのだ、疲弊しきった脳が異常な物を見せてもおかしくはないだろう。過去にも何日か徹夜をし幻覚を見た経験がある。今回もその類に違いない。
 青年はそのままアトリエの奥にある狭い部屋のベッドへ体を投げ出し、程なく眠りに落ちた。あまりに早い寝付きに、やはり自分は異常に疲れているのだと、半分夢の中へ落ちながら青年はそう思うのだった。