BACK

「お、この間の事件のこと載ってるぞ」
 その日、いつもの怠惰な執務室の中でウォレンは読んでいた新聞を指差しながら声を上げた。
「この間のって、エリクシルですか?」
「そうそう。あのジジイ、昨日起訴されたってぞ。物証山ほどあったし、スピード起訴だなあ。執行猶予はつかない見込みだとさ」
「罪状はやはり薬事法違反ですか? 無償とは言え麻薬を広めていた訳ですから」
「それもだが、もっと大きいのは爺さんが使ってた麻薬ルート、仕入れ元から加工場所やら流通販路やらが全部明るみに出たから、それら一つ一つの累積だな」
「麻薬商売の全てが見つかって絶たれたという事ですか。検察も随分頑張ったんですね。こんな短期間で見つけ出すなんて」
「それがな、有力な情報提供があったからなんだと。それが驚く事に提供者は爺さんの息子だ」
「あれ、息子さんには組織を継がせたんじゃ?」
「その上で、だ。率先して麻薬絡みのことはチクったそうだぞ」
 彼は裏社会の組織のトップだったが、引退し後を息子に譲ったと言っていた。良くある代替わりである。にもかかわらず、息子は父親を警察に売るような真似をしたことになる。自分がトップに成り代わるためにという事なら有り得るが、代替わりした後に告発したのであればもっと別の理由になる。
「もしかして、親子仲が良くなかった?」
「かもな。親はともかく、息子の方がずっと不満を持っていたが代替わりするまで辛抱していたって事もあるだろうし」
「でも父親を片付けるために、シノギの一つを丸々放棄してしまうなんて。組織にとっては大金を生み出す重要なものでしょうし、それを捨ててでもやりたいほど、恨んでいたんでしょうか」
「司法取引でもあったんじゃねーの? どの道、こんだけ派手に事件起こされたら今後も麻薬ビジネスなんかやってられねーだろ。だったら先に切り離して警察と仲良くした方が利口だ」
「あくまで父親が勝手にやったこと、自分達とは一切関わりが無い、その証拠に情報全部提供しますよ。そういう事ですか」
 息子側の心情はさておき、今回の事件はあくまで父親が組織とは関係無くやったこととして決着はついたことになる。組織側への追及も検察はしないだろう。これを警察との癒着と見るかは微妙なところだが、警察としても特務監査室としても事件が解決した以上は追えるものはない。不完全燃焼の気分ではあるが、危険な薬物を無作為にばら撒かれる事を止めた事で納得するべきだろう。
 そんな他愛の無い会話をしつつ、暇を持て余していた時だった。突然廊下の方からドタドタとけたたましい足音が聞こえてきたと思っていたら、ノックも無く勢い良く執務室のドアが開けられた。
「おい! エリクシルが見つかったというのは本当か!?」
 飛び込んで来た男、それは先日もやってきた、首相の母方の叔父に当たるあの彼だった。
「エリクシルの事件でしたら、新聞にもある通り、犯人は起訴されました。押収した薬も裁判が終わり次第処分されるでしょう」
「全部か!? ここに少しくらい取っているものがあるだろう!? それを譲ってくれ!」
 男は説明するエリックに詰め寄り懇願する。その表情は焦りに満ちて余裕が無く、目が真っ赤に血走り呼吸も荒い。ただならぬ様子にウォレンとマリオンは静かに席を立つと、エリックの傍にいつでも動けるよう控えた。
「エリクシルは単なる麻薬です。我々の管轄ではありません。ですから、警察が全て持っていますよ」
「嘘だ! エリクシルで実際に医者に見離された病が治った人間が大勢居ると、私はちゃんと聞いている! 本物のエリクシルだけお前達が回収しているんだろう!? まだここにあるんだろう!? なあ!」
「本物も偽物ありません。麻薬は麻薬です。病気が治ったなんて吹聴しているのは、そもそも初めから医者に掛かるお金もないような方々です。麻薬の効き目が歪曲して伝わっているだけですよ」
「そういう建て前はいい! 頼むから、本物のエリクシルを分けてくれ! 私一人分だけなら大した事はないだろ! そうか、金か!? 幾ら必要だ!?」
 男は更にエリックに詰め寄って懇願してくる。よく見ると彼は、以前よりも少しやつれたように見える。肌の血色が悪くなり、無精髭が目立つ。額から流れる汗も、ここまで急いで来たせいだけではないだろう。既にどうにもならない所まで病に蝕まれている。そうエリックは感じた。
「あんたもしつこいな。とにかく、エリクシルなんてもんはうちにはないんだよ。第一、飲めばどんな病気も治すとか、そんな都合のいい薬なんてあるわけねーだろ」
 見かねたウォレンがエリックの前に割って入る。しかし男はそれでも引き下がらないばかりか、ウォレンの胸元を掴んで更に懇願してきた。
「頼む、私にはもう時間が無いんだ! 私はまだ死ぬ訳にはいかない、死にたくないんだ! おかしいだろ! これだけ世の中や大勢の人間に尽くして来たのに、こんなに早く死なないといけないなんて! 不公平だ! 私にはエリクシルで延命する権利がある!」
「いや、そればっかりは何ともな……」
 振り解くのは簡単だが、これほど必死な人間を無碍に払うのは流石に気が咎めるのだろう。ウォレンはすっかり困った顔で立ち尽くす。
 彼のあまりに必死な懇願を見て、エリックはやり切れない気持ちになった。人は弱ったり後が無くなったりするとこんな怪しい話も信じて飛びついてしまうのか。そしてそれを利用する悪質な人間は世の中大勢いる。全てが特務監査室の仕事ではないが、確実に幾つか本当に得体の知れないものはあり、世間を更に混乱させる。それを未然に防ぐのが特務監査室の使命だ。
 ここに来て、今ほど特務監査室の役割の重要さを噛み締めた事は無い。だからこれからも一層職務に取り組まねばならない。そうエリックは思うのだった。