BACK

 その日の昼下がり、執務室は相変わらず怠惰な空気だった。特に仕事も無いため、ウォレンは趣味の資格教本を読みふけり、マリオンは私物の小太刀の手入れをしている。職務怠慢と呼べる風景だが、中でもルーシーは常軌を逸していた。応接スペースのソファーの上に、自前の枕とタオルケットを用意して熟睡している。それは仮眠と呼べるものではない。最近ルーシーは推理小説を安くまとめ買いしたらしいが、それで夜更かしをしているため日中は眠いのだそうだ。だからどうしたとエリックは言ってやりたかったが、特務監査室に配属された直後からそうだったルーシーを今更どうこうは出来ないだろう。
 しばらく書類仕事をしていると、珍しくラヴィニア室長がやってきた。どうやら新しい仕事が舞い込んで来たようである。
「今回はあくまで調査という事になります」
「調査だけ、ですか?」
 ラヴィニア室長が差し出した資料は、とある人物についての資料だった。名前はトリストラム、年齢は四十六歳、独身。港での荷降ろしと荷物の運送の仕事に就いている。経歴だけでは極普通の人物だ。
「彼は少なくとも三十年以上、一睡もしていないらしいの」
「三十年以上ですか? でも、らしいというのは」
「まず本人があまりそれについて語りたがらないのと、周りの証言しか今のところは情報が無いの」
「何か噂話レベルでしかないような気がしますが……」
「そうね、だからあくまで調査だけ。仮に本当だとしても本人はあまり目立ちたくないようだから、余計な混乱は起こらないと思うのだけれど」
「それで今まで調査対象にもならなかったという訳ですか。ですが、どうして今になって? そっとしておいても良さそうに思うのですが」
「どうもね、彼に目を付けた製薬会社の研究チームがいるらしいの。もしも彼の体質が真実で、それがきっかけで公になったとしたら。被検体として争奪戦になったり、マスコミに面白がって報道されたり、とにかく様々なケースが想定出来るわね」
「なるほど……騒ぎを起こすのは周辺という訳ですか」
「そう。単なるデマだったなら放置して構わないけれど、事実だった場合は対策が必要になってくるわ。まずは事実確認、それから対応を考えましょう」
「分かりました、では早速準備します」
 エリックは下準備として、まず過去の資料を手に取り類似したケースが無いかを調べ始めた。いわゆる常人離れした人間の案件は意外と多くある。才能では説明出来ないような能力、不可思議な現象の発露、内容は様々であるが、基本的にどれも正常な社会には相応しくないものが多い。そしてそういった能力者達は、何故か繰り返し現れる。そのため、過去に特務監査室がどういった対応を取ったかの記録は非常に参考になるのだ。
「あ、エリック先輩。これそうじゃないですか?」
 同じように資料を当たっていたマリオンが、見つけたページを開いてエリックの元へ持ってきた。
「これはもう五十年以上昔の記録か……。眠らなくても平気な男。確かに似ているね」
「凄いですねこの人、公共の場所を借りて一ヶ月間も寝ないで過ごすパフォーマンスをしたなんて。許可する役所も役所ですけど」
「自分は寝なくても平気な事を自慢してるみたいだね。となると、今回のターゲットとは逆か。人に話したがらないそうだから」
 能力の使い方は人による。犯罪に使ったり、世間の目から逃げたり、中には無自覚な者までいる。今回は目立つことを嫌がるタイプであるため、対応は最も楽だろう。
「当時の対応は……食事に睡眠薬を混入させて公衆の面前で眠らせた? 自己顕示欲が強いタイプには効きそうな手段だけど、今回は流石にね」
「本人には何も落ち度はありませんし、無駄に目立っちゃいますからねえ」
「そうなると、対応は本人と話し合って決める必要があるか。その前に、体質の噂が本当かどうか確かめないと」
 考えてみれば、どのような手段で確かめればいいのか、エリックはすぐには思い付かなかった。本人に問いただした所で、ただただ否定されるだけだろう。本当に眠らないのかどうかは、私生活を監視でもしなければ分からない。しかし普通の人間でも無理をすれば二日三日は眠らない事も出来る。それでは監視するこちらの身が持たないというものだ。
 何とか事実を話して貰えるよう、本人の信用を得る他ないか。だが、どう取り入れば信用を得られるのか。
 調べる事は思ったより多いのかも知れない。エリックはこの調査が一筋縄ではいかないことを悟り覚悟するのだった。