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 まだ活気を残す深夜の聖都も、繁華街を離れればたちまち夜の闇が視界を包み込む。目指すは北区にある、政府が所有する倉庫。元々北区には古い倉庫街があり、どれも使っているのかどうか怪しいほど老朽化している。実際には使われていない倉庫も幾つかあるだろう。目的地は、そんな中にある倉庫の一つである。そこを目指し、間隔の広いガス灯の明かりを頼りにリアンダは荷物を背負い歩いていた。
 リアンダは、この人気のない暗闇の中でも、更に人目を気にするかのように目立たないよう歩いていた。もし誰かが通りかかったとしても、すぐ闇に紛れて姿を隠せるようにする心構えを忘れなかった。そこまで慎重に運ぶ理由はその荷物にある。厳重に毛布に包まれた背中の荷物、それはとあるアンティーク椅子のレプリカである。しかし、ただのレプリカではない。とある条件を満たすと、途轍もない災害を起こして消滅する曰く付きの椅子である。そして今の聖都は、この椅子を持ち込もうとしている勢力に対して非常に警戒している。リアンダはその危険を承知で運んでいるのである。
 大通りを避けながら裏路地を何度も経由し、黙々と運び続けるリアンダ。やがて彼が上司から指定された倉庫へ到着すると、そこには物陰に隠れて彼の到着を待つ妙齢の女性の姿があった。
「お疲れ様。ここまで大変だったでしょ? 悪いわね、一人で運ばせちゃって」
「いえ、表の仕事柄こういうのは慣れてますから。中にはもう入れるんですか?」
「ええ、手配済みよ」
 リアンダは女性の案内で倉庫の敷地内へと入っていく。そして塀に隠れて外からは見えない裏口のドアを開けると、連れ立って中へと入っていった。
「ちょっと待ってね。今、明かりつけるから」
 彼女は手にしたランタンに火を灯す。ぼんやりとした弱い光は本当に手の届く程度の範囲しか照らす程の光しかなかった。
「うっかり外に漏れて気付かれたら困るからね。これしか照らせないけど我慢して頂戴」
「まだ時間はありますから。慎重に進めば平気ですよ」
 ランタンの小さな明かりで見る限り、倉庫の内装は外よりも随分と新しく頑丈そうだった。しかし倉庫と言う割には幾つもの小部屋で区切られていて、その部屋一つ一つも鋼鉄の厳つい扉で閉められしっかり施錠されているようだった。
「これが、特務監査室の第三番倉庫ですか。どういうものが隔離されているんですか、ギネビアさん」
「主に、直接的な害は無いけれど非科学的な物らしいわ」
「例えばどんな?」
「入れた食材が減らない鍋だとか、自分が望む姿を映す鏡だとか。中の水が汚れない水槽なんてのもあるらしいわよ」
「へえ、別に欲しくはないけど面白そうなものばかりですね」
「ま、だからここなんでしょうね。なんせ幹部達にしてみれば、特務監査室が隔離しているものをもう一度使いたい訳だから。犠牲はこういうしょうもない物がいいんでしょう」
 指示の大元は当然組織の幹部である。それを更に伝えたのがリアンダの上司にあたるギネビアだ。指示の目的も明確である。この椅子を使い、倉庫を災害で巻き込みたいのだ。
「それで。これ、グリゼルダチェアって言いましたっけ。とても危険だって聞きましたけど……」
「そう。そしてこの危険物を、うちで唯一安全に運べるのが君だけ。あ、ステラちゃんもそうかしら。でも、女の子にこんな重い荷物は運ばせられないわよね」
「あいつは……別にいいでしょ。そもそもこのこと、教えてませんよね?」
「心配しないで。グリゼルダチェアのルールを知っているのは、幹部達と私、そして」
 ギネビアは悪戯っぽくリアンダの鼻をつつく。
「童貞少年の君だけ」
「はっきり言わないで下さい」
 グリゼルダチェアは大きな災いを起こす。そのため、特務監査室を初めとする椅子の存在を認識する人間は、グリゼルダチェアが無差別に災害をもたらす物だと認識している。しかし実際は違う。グリゼルダチェアには、条件を満たした者が触れた時に災いを起こす、明確な法則が存在する。その条件というのが、触れた者が非童貞非処女だった場合というものである。このルールは、組織が長年の試行錯誤により見つけ出したものだそうだ。そして、女性経験が無く大荷物を運ぶのに慣れたリアンダが運搬係として選ばれたのである。
 リアンダはギネビアに案内された小部屋の一つに椅子を置き荷を解く。これで今回の仕事は完了だった。
「お疲れ様。じゃあ、どこかでご飯でも食べて帰りましょうか。私の奢りで」
「ご馳走になります。ところで、椅子はこれで最後なんですよね?」
「そうね、私の知る限りでは。元々、幾つも作れる物でもないそうだし」
「となると、決行はもう近いんですね」
 グリゼルダチェアを運び込んだのはこれで五つめである。組織が聖都に持ち込んだ事は当然極秘裏なのだが、四つ目を運んだ時点で政府には感づかれている。運んだ場所は知られてはいないが、おそらく時間の問題だろう。警察に国家安全委員会、そして何より特務監査室が捜査を行っている。とても彼らを組織が上回るとは思えない。
「何か心配事?」
「いや、何だか悠長にしてるなあと思っただけです」
 組織の構成員達は知らないが、少なくとも幹部達はみんなジェレマイア首相やその関係者に恨み骨髄である。グリゼルダチェアを使う作戦も単純に復讐が目的の部分が多い。けれど、彼らは復讐を果たした後の事を考えているのだろうか。そのビジョン自体が今まで一度も伝わってきた事がない。
 恨みは人を最も愚かにする病だ。必ず周囲を巻き込みながら破滅へ突き進む。そう、まさにこのグリゼルダチェアについたいわくのように。
 だからこそ、早く抜け出さなければいけない。いけないのだが。リアンダには出来ない足枷がある。それが、幼なじみであるステラの存在だった。