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「あれ、なんか変わってきた?」
 霧深い渓谷をひたすら歩き続けていた四人。あまりの霧の深さに視界に白がこびりついて来たような錯覚すらし始めていたのだが、ふとその濃い霧が唐突に薄くなり始めている事に気付く。
 まず声を上げたのはレスティンで、不思議そうに辺りをきょろきょろと見回し始めた。歩いている場所は未だ渓谷だが、霧は明らかに晴れ始めていた。見渡せる距離が伸び、自分達が歩いてい道の左側が深く切り立った崖である事と、その向こう岸にはまた別の鬱蒼と生い茂った森が広がっているのが分かった。人の手が加えられていない秘境めいた雰囲気で、これまで霧の濃さに息苦しさを覚えていたのが急に肺の中に新鮮な空気が入り込んで来たような気分だった。
「景色が良く見渡せるようになってきましたね。それにしても……なんて景色なんでしょう。まだこんな人の手の入っていない美しい場所があるだなんて」
「これだとクッキークリームも買えないじゃん」
 急に晴れた視界に、広がる景色に感動するシェリッサと俗っぽい愚痴を零すドロラータ。まだ体力的に余裕はあるようだとエクスも一安心する。
 だが景色に感動するのも束の間、太陽は明らかに沈み始めている。間もなく日も暮れてしまうだろう。霧が無くとも元々足場も悪い危険な難所である。暗くなってからの行動はあまりに危険であるため、一行は野営の出来そうな手頃な場所を探すと、今夜はそこで過ごす事にした。元々物資も余裕を持って調達し、力仕事の得意なエクスが持ち運んでいる。最悪でも更に数日は進める余裕があるのだが、霧が晴れてきた事とウェイザック伍長の情報によれば既に目的地は目の前のようであるため、四人の気分も大分解れていた。目処が立った事が一気に不安感を取り払う。
 十分に食事を取り、そのまま四人は就寝する。魔物の襲撃に備えたシェリッサの結界やドロラータの自動探知、そして何より殺気に敏感なエクスもいるため、疲労感も手伝ってか三人はあっという間に眠りに落ちる。エクスもしばらく一人焚き火を眺めていたが、やがていつものように剣を抱いたまま木の根本にもたれて座る姿勢で眠りについた。
 訪れる人などまずいないであろう秘境であるためか、街の宿で眠るよりも遥かに静かだった。大抵の街は夜中でも何かしらで起きている人はいて、部屋の中まで壁越しに音が伝わってくる。文明の中で暮らす人間は、そういった環境で眠るのが当たり前のことである。だからこそ、この文明から離れた秘境の静けさはあまりに新鮮だった。それが今になって気付いたのは、やはり緊張や不安感で神経が高ぶっていたからだろう。
 文明とは無縁の静寂に包まれながら昏々と眠り続ける四人。そして夜も更け、エクスですら熟睡を始めた頃合いだった。
「……ん」
 ドロラータはゆっくりと目を覚ます。しかしまだ頭は半覚醒でぼんやりとしており、声を出すのも酷く億劫だった。目も閉じながら、ドロラータは静かにゆっくり集中し辺りの気配を探る。
 そもそもドロラータが目を覚ましたのは、辺りに張っていた探知魔法に反応があったためだった。ほんの一瞬だが、確かに気配を察知した。そしてそれは魔物や野生動物の類ではない事は明らかだった。ドロラータが張った探知魔法は魔力で出来た小さな杭を幾つか差し込んで力場を形成するものだが、その杭が明らかに別の魔法で解除されたからだ。
 誰が、何故、何の目的で。そんな疑問はあったが、まずは気配を掴む事に集中する。居場所を特定出来なければ、少なくともエクス以外はろくに対抗も出来ないからだ。
 寝たふりをしながら探っていく内に、ドロラータの意識が徐々に冴えていく。魔力を静かに小さく練りながら魔力の目を作り、姿が見えないかと周囲を見渡す。だが確かに気配はするものの姿は一向に見えなかった。高度な隠行の魔法を使えるのかも知れない。そうなると、相手もかなりこちらに警戒をしている事になる。こんな人里を遥かに離れた秘境中の秘境で、である。それだけで実力者である事は十分に窺い知れる。
 どれだけ時間が経ったか分からないが、未だ相手の場所を特定出来ない反面、相手もまたこちらに何も仕掛けては来ない。気配は近くにあるため、既に離脱したという訳でもない。目的の分からない実力者である相手に対し、これ以上は明らかに時間のかけ過ぎである。またエクス頼りかと苦々しく思いつつ、ドロラータは魔力を練り別の魔法を繰り出す。それは眠る三人を鋭く刺激し、一気に目を覚まさせる荒っぽいものだった。
「むっ?」
「うえっ!?」
「ひゃっ!?」
 ドロラータの魔法を受けて三人がそれぞれ声を上げながら飛び起きる。同時にドロラータも飛び起きると、今度は立って堂々と魔力をより強く練り付近の探索を開始する。
「ちょ、なに今の! なんか、ヒヤッて来たんだけど!」
「いいから集中して! 誰か来てる! あたしの探知魔法が壊された!」
 ドロラータが声を張る事が珍しいせいか、すぐにレスティンは剣を構え辺りを警戒する。エクスは鞘に収めたままだが意識は周囲へ隈無く張り巡らされ、シェリッサは周囲を探るよりも何かあった時にすぐさま対応出来る構えを取っている。
「だ、誰なの、こんな所で! 魔物か何かじゃなく!?」
「魔物じゃあたしの探知魔法を見破るのは無理。ってか、そこそこの魔法使いでも見破られない自信はある」
「ふむ、手練れという訳か。だが」
 おもむろにエクスは鞘に収めたまま剣を振り、ある暗闇の一点を指し示す。そこに潜んでいるのかとドロラータはすぐさま探索の目を向けるが、隠行の魔力が僅かに感じる程度でそれ以上の事は何も分からなかった。
「事を構える気が無いのは分かる。けれど、そのままじゃ仲間が警戒を解けない。用事ならまず姿を現してくれないかな、君達」
 やや厳しい口調で話し掛けるエクス。すると隠行魔法を解いたのか、暗闇の中から唐突に人の気配が現れた。そして気配の主達はゆっくりとこちらに姿が見える位置まで歩み寄ってくる。
 現れたのは二人組の若い男達。彼らは一目で実に奇妙な組み合わせだと思った。片方は明らかに人類軍から脱走したと思われる青年兵士、そしてもう片方は、あろうことか魔族軍の将校と思しき姿と身形をしていたからだ。