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 その晩、レスティンは気配を殺しながら静かに客室を抜け出した。向かう先はすぐ向かいの部屋、エクスが泊まる客室である。
 部屋のドアをノックしようとし、そこでレスティンは思わず躊躇ってしまった。二人に知られぬようこっそり抜け出してはみたが、いざとなって緊張してしまったのだ。そもそも何をするために抜け出してきたのだという目的も定まっていない。抜け出せそうだから勢いで抜け出して来た、ただそれだけの理由である。
 ドアの前でしばし考え込むレスティン。まず何か話をしよう、今夜で決着する必要はないのだから、そう言い聞かせてはみるがなかなか緊張は解けない。だったら余計な恥をかく前に今夜の所は出直す事にしよう。考えを改めて踵を返そうとしたその時だった。突然ドアが部屋の中から開けられ、レスティンは背筋を硬直させる。
「ああ、レスティンじゃないか。どうしたんだい、こんな時間に?」
 現れたのは寝間着姿のエクスだった。その様子は普段と変わりなく、起き抜けという感じではなかった。ただドアの向こう側に気配を感じたから開けた、それだけのようだった。
「あ、その、起こしちゃったかな?」
「いや、武具の手入れをしていたところだよ」
「そっかあ、うん。だったらちょっと話をしようかなと思ったりなんかして。ほら、ワタシったらお昼寝しちゃってまだ寝付けなくってさあ」
「そんな事なら構わないよ。さあ、どうぞ」
 エクスはあっさりとレスティンを中へ招き入れる。こんな時間に部屋へ女性を入れるエクスも問題だが、しょうもない理由で訪ねて来る自分も自分だとレスティンは自分を叱咤する。エクスはこういう状況に慣れているのかと疑うよりも、自身のはしたない行動が気掛かりになった。
 客室の構造は自分達の部屋と全く同じで、部屋の隅にエクスは自分の荷物を妙に詰めるように置いてあった。家具なども見る限り、あまり使われた形跡が無い。こういった客室は使い慣れていないのだろうか。
 そして部屋の中央にある広いテーブルの上には剣と胸当てが置かれてあった。剣は柄と鍔が外され、手入れ道具が傍に並んでいる。まさに手入れの最中だったようで、幾分か磨き油の独特の香りが漂っている。
「こんな時間まで手入れをしてたの?」
「何だか気になってね。たまにこうやって徹底的に手入れをするんだ。そんなに大した理由は無いよ」
 レスティンはソファーの座り、手入れの続きを始めるエクスを見る。エクスは丁寧に隅々まで剣を磨いては、何度も剣の曇りを確認して更に磨く。普段はかなり鷹揚な振る舞いばかりしているエクスだが、意外と細かく神経質な面もあるのだなと感心する。自分も武器の手入れくらいはするがここまで細かくはやらず、必要な時は専門家に任せている。
「今度の剣はどう? しばらくは壊れなさそう?」
「ああ、今の所はね。レスティンが紹介してくれた最新の鍛冶屋は凄いな。丈夫だしとても使いやすいよ」
 エクスは定期的に武具を壊す。初めてレスティンがそれを見たのはよりによって下賜品の剣だったが、エクスはさほど驚きも焦りもしていなかった。下賜品ともなれば量産品の剣とは訳が違い、市場価値も高い貴重な品であるはずだが、エクスにとっては剣は剣で消耗品の一つにしか過ぎなかったらしい。その後も伝統的な名剣や曰く付きの剣といった様々な貴重な剣を持ってきたが、いずれも必ず折るなり破損してしまう。おそらくエクスの使い方に問題があるのだろうが、単にエクスの力や技に剣が耐えきれないとも言える。エクス由来の勇者の剣は、完全な形では後世に伝わらないだろうなどとレスティンは思った。
「何かさ、一緒にパーティーを組むことになってそれなりに経ったけど。本当に勇者っているんだね。何て言うか、努力じゃ辿り着けないような強さだよエクスは。もうワタシも教える事なんて無いし」
「まさか。うまくいっているのは、創世の女神から賜った加護のおかげだよ。俺自身は大した事はないし、まだまだ指導して欲しいと思ってる」
「それって謙遜なの? それとも本気?」
「レスティンは女神を信仰していないのかい? 加護は実在するよ?」
 実際、これまでの旅でエクスは普通なら死ぬような目に何度も遭っている。高所からの落下、巨大な鈍器による痛打、防具ごと両断する斬撃、高熱の炎、凍てつく吹雪、少量でも即死する猛毒、全く未知の言語で編まれた呪い、等々。危険を数えたらきりが無い。けれどいずれの場合もほんの掠り傷程度で済んでいる。確かに創世の女神の加護があると当事者は思い込んでも不思議はないだろう。だが、戦闘、魔導、法術、それぞれの専門家の見立てでは明らかにエクスの頑丈さは普通ではないのだ。
「一応、信仰はあるけどさ。新教だからあんまり敬虔でもないし、ミサだの集会だのは全然参加してないかな。ドロラータもそうだけど、あれは元々信仰が無いから別か」
 エクスは信仰を持っているものの、聖霊正教会の信者という訳ではなかった。信仰と呼ぶよりもっとふわっとした曖昧な概念で、皆が知る創世の女神に日々何かと感謝しながら生活しているだけである。聖霊正教会からシェリッサが送り込まれて来たのは、これが理由しているのだろう。おそらく聖霊正教会は勇者エクスを明確に信徒にする事で人気にあやかり、自らの支持層の数を新教から取り戻したいのだ。
「ところで前から気になってたんだけどさ……」
「ん? 急に改まってどうしたんだい?」
「いや、何でワタシを採用したんだろうって。だって、初対面なのに頭に木剣叩き込んで怪我までさせたのに。有名人にあんな怪我なんかさせたら、普通は逮捕されててもおかしくないんだけど」
「ああ、あの事? ハハッ、その時も言ったけど稽古に怪我なんて付き物じゃないか。何もおかしなことは無いよ」
 それでも頭の怪我は事実だし、そもそも衆目の前でやられた事を何も咎めないというのか。やはりエクスは変わっている。大らかさで片付けるにはあまりに深刻なことだったはずなのに。
「じゃあさ、エクスはどういう時に怒るの? って言うか、今まで怒ってるところ見たことないんだけど。強いと大らか過ぎて怒る事もないの?」
「そんな事はないさ。俺は結構短気だし、魔王を討伐する前はいつも怒りに任せて戦っていたよ。そのせいで仲間を良く巻き込んでしまって、本当に申し訳ないと思ってる。だから今は、出来る限り怒りを持たず心を穏やかに努めているんだ」
 エクスだって感情はある。怒る事もあるのだ。例えば相手が、憎き仇だったりするとか。
 義勇軍に志願する前は一体何があったのか。レスティンはその質問をぶつけたくて仕方なかった。故郷を魔王軍に焼き払われたのは本当なのか、その時どんな事が起こり、どうやって今に至るのか。世間でまことしやかに囁かれている噂の真相を確かめてみたかった。
 けれど、レスティンは躊躇い、そして止めた。自分はエクスの心のシビアな部分へ触れようとしている。興味本位でするのはきっと良くない事だ。確かめるのは、自然にその話が出来そうな状況が来た時で良いだろう。
「さて、そろそろ眠くなって来たから寝るよ。ありがとね、雑談に付き合ってくれて」
「何も大した事はしてないさ。それじゃ、おやすみ」
 軽く挨拶をしレスティンは客室を出た。そこで、あの恐ろしいほどの緊張感が無くなっていた事に気付いた。単なる雑談と分かっていれば、こんなシチュエーションでも普段エクスと接するように気軽に会話が出来るのだ。
 だけど、緊張感があろうと無かろうと関係無く、エクスの過去を知るにはあまりに覚悟が必要になる。ただの好奇心を満たすためには不釣り合いなほどの強い覚悟だ。それが分かっただけでも、今夜の雑談は収穫だったと言えなくもないだろう。そう、自分は既に、エクスには嫌われたくないと思うようになってしまっているのだ。