BACK

 エクスの傷を治療しながらも、シェリッサは近海の主の事が頭から離れなかった。今現在、まさに襲われている最中なのだから無視できるはずもないのだが、そもそも近海の主とは何か、自分達は何と戦っているのかという疑問があった。
 エクスの腕につけられた深く大きな傷痕。それは非常に鋭利なもので切り裂かれた痕をしている。海洋生物で鋭利な武器を持つ生き物はそう珍しくない。それより異様なのは、この近海の主と呼ばれるものが何故こうも好戦的なのかと言う事だ。積極的に人を襲う生物は少ない。シェリッサの知識では、それに該当するのはサメの僅かな種くらいである。そして、はっきりと目撃した訳ではなかったが、エクスを襲った近海の主の姿は少なくともサメの仲間ではなかった。
「こんのー! 船の周りうろついてやがる!」
 レスティンは苛立ちを露わに銛を構え、海面の泡の塊を追いながら船の上を駆けずり回っている。近海の主は今のところすぐ追撃するつもりは無いようだ。
「傷の具合は?」
 シェリッサの元に駆け寄ってきたドロラータが傷の様子は窺う。エクスの腕からは未だ鮮血がしたたり落ちていて、ドロラータは怪訝な表情をする。
「ねえ、なんか治りが遅くない?」
「私も全力でしているのですが……」
 ドロラータの指摘にシェリッサも頷く。
 最初の頃よりも出血の勢いは落ち着いて来ているが、肝心の傷口自体が未だに塞がり始めていなかった。当然シェリッサも手を抜いている訳でも無ければ、過去にはこれよりも深刻な傷を治癒した事が何度もある。これは明らかに不自然な事態だった。
「ちゃんとやってるって事は……ちょっと待って。うん、やっぱり。これ、魔力の気配がする」
「魔力? それでは、エクス様は呪われてしまったと?」
「いいや、呪いならエクスにはそもそも効かないから。これは多分、遅効性の攻撃魔法なんだと思う。魔力の毒みたいなものかな。海洋生物にはたまにいるらしいよ。毒で獲物を弱らせて捕食するやつ。まあ近海の主ってのがただの海洋生物ではないようだけど」
「やはり魔物の類なのでしょうか」
「多分ね」
 毒の治療であればシェリッサにも十分な心得がある。様々な毒の種類に通じ、未知の毒物を解析して治療した事も何度かある。魔力の毒というのは例えで実際の毒物とは違うのだろうが、魔法となれば自分の知識では解毒は出来ない事になる。
「ドロラータさんでは分かりますか?」
「とにかく解析はするけど、ただ」
 ドロラータが指先に魔力を込めた直後、
「うわっ!?」
 激しく水を打つ音とレスティンの声、そして金属がぶつかり合うようなけたたましい音が矢継ぎ早に響き渡る。
「レスティン! 大丈夫か!? 今俺も向かう!」
「こっちは大丈夫! エクスは先に怪我を何とかして!」
 レスティンは銛を構えながら背中越しにそう答える。どうやら近海の主の攻撃を受けたが、何とか防いだようだった。
「悠長に解析なんかさせて貰えなさそうね」
 未知の攻撃魔法であってもドロラータは解析出来るが、それなりに時間や集中出来る状況が必要なのだろう。だが、近海の主がそれを許さない。そして近海の主とは、ただの生物ではなく魔力的な攻撃の出来る魔物の類である可能性が高い。この場の誰もが生態を知らない敵だ。
 非常に良くない状況になってしまった。シェリッサは込み上げて来た強い不安感で顔色が青ざめて来る。沖では逃げる事も出来ず、エクスの怪我を対処しようにもそれが難しい状況である。
 せめて最初に襲われたのが自分であれば、少なくとも万全のエクスが残ってまだ有効な対策が打てたはずなのに。そう悔やまずにはいられなかった。
「くうー、勇者様大丈夫か!? 俺がこんな怪我さえさせなけりゃ!」
「ねえ、それよりも。今まで襲われた漁師とかはこういう怪我はしなかったの? 怪我した時はどうしたの?」
「いやあ、主にやられた奴はみんな帰って来なかったから……。いや、一人おったな! 確か背中をざっくりやられても生き延びた奴がいた! 傷口がなかなか治らねえって大騒ぎなってた!」
「その人どうしたの?」
「薬も効かないんじゃ仕方ねえって、無理やり火で焼いたんだ。そしたら傷口は塞がって血は大体止まった。けども、一月くらいはずっと中から痛んでたって。まあよう助かったもんだよ。根性で凌いだみてえなもんだ」
 深い傷口を焼いて塞ぐ方法はシェリッサも知っている。しかしそれは、ほとんどの場合が急場凌ぎの応急処置である。外部の腫瘍を切除した際くらいしか聞いた事が無い。患者への負担も大きければ傷痕も残るからだ。
 件の漁師は、魔力が残っていない部分を焼いて塞ぎ残りは自然に消滅するのを待ったのだろう。傷の悪化は最小限に出来るかも知れないが、それはあまりに強い苦痛を伴うし、そもそもそんな悠長な事態ではない。他に方法は無いのか。シェリッサはすがるような気持ちでドロラータを見る。すると彼女は何か良案を思い付いたのか、ぽんと手を打った。そして次の瞬間にはドロラータの両手には青白い炎が灯る。
「そうだ、この手ならいける」
「ま、まさか、傷口を本当に焼いてしまうのですか!?」
「そこまで過激にはやんないよ。こっちからも魔力の毒に魔力で干渉するだけ。波長とか性質を解析する暇がないから、より強い魔力で無理やり潰すの。ただ、傷口の辺りで魔力同士がぶつかり合うワケだから、引っ掻き回されてめちゃくちゃ痛むし怪我も広がるけど。それでも魔力の毒は取り除ける」
 根本的な治療は出来るという事だが、シェリッサにはその苦痛を想像しただけでも目眩がしそうになった。ただでさえ深い傷口を掻き回すなど、とても正気の沙汰とは思えなかった。しかし、
「分かった、やってくれ。なあに、俺は我慢強いし鈍いからね。それに、シェリッサが傷も治してくれるんだろう?」
 エクスが微笑みながらシェリッサに訊ねる。シェリッサはただただ無言で必死に何度も頷いた。
 エクスは既に我慢をしている。何故なら、幾ら表情では余裕を見せていても、額には冷や汗が何粒も浮かんでいたからだ。それを更に苦痛を味わわせるのか、そう考えるととても気が気ではなかった。
 しかし、やるしかない。このままではエクスは怪我をおしてでも無理に戦おうとする。それに、治してくれるのだと信頼されているなら、なおのこと全力で応えなければ不誠実である。
 エクスが激痛に喘ぐのと同じ地獄へ、自分も飛び込む覚悟をせねばならない。どれだけエクスが痛みに悶え苦しもうと、まるで意に介さず治療を続けられる強い精神が必要である。シェリッサは臆していた心持ちを意思を強め取り戻すと、今一度エクスの傷口へ向き直った。
「用意はいい? じゃあ始めるよ」
「ああ、頼んだよ二人とも」
「任せて下さい。私が必ず……!」