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 今夜もまた、彼は夜空を見上げていた。

 夕食後の気だるい一時。その時間になると、決まって彼はいつものようにテラスに出、柵に腰掛けたまま夜空にじっと視線を注ぎ始める。

 傍から見れば、随分とおかしな様子に思えるだろう。だけど、彼の場合は昔からこうだったのだ。私と彼、アクティは、この家でいわば兄弟のように育った。私が三歳の頃、彼は山道を一人歩いていた所を、私の祖父母が見つけたのだ。聞く所に寄れば、両親の事を一切知らないらしい。それを不憫に思い、うちに引き取ったのである。

 そういう事でアクティのこの不思議な行動は、昔から見慣れている私はそれほど変には思っていない。おじいさんもおばあさんもそうだ。それが自然なのだから。

 私の両親は、私が幼い頃に流行り病で死んでしまっている。それで他に身寄りのない私は祖父母の元へ引き取られたのだ。アクティと出逢ったのはそれからである。

 おじいさんは少々頑固で近寄り難い怖さがあるけど、魔法を教えてくれる時は熱心に分かりやすく教えてくれる。おばあさんはいつも優しくて、とても料理が上手だ。両親がいないというのは悲しいけど、こんな二人が私には居てくれているのだから少しも寂しいと思った事はない。もちろん、アクティだって私にとっては大切な家族の一員だ。兄とか弟とかとはまた違った感覚ではあるけど、とにかく毎日の生活になくてはならない存在だ。

「アクティ。また今夜も星空観察?」

「いや」

 そう首を振り、夜空を指差す。その先には満ちかけた月があった。

「あと一週間ほどで満月になる。上弦も終わりだ」

「よく飽きずに月ばっかり見てるわね。飽きないの?」

「好きとか嫌いとか、そういうんじゃないんだ」

 微かに口元を綻ばせる。

「惹かれるんだ。月の光に。月の淡い光は、どこか心を惑わすような気がするだろう?」

 そういって微笑むアクティ。

 これも昔からそうだった。アクティは月を見るのが好きで、よくこんな風に月明かりだとか満ち欠けだとかについて話してくれる。どれも何度も聞いた説明だけど、話す時のアクティはいつも楽しそうな表情を浮かべる。

 そんな彼の影響だろうか。私もまた、月夜が好きだった。彼のように言葉で表現するのは苦手だけど、雲のない夜はどこか気持ちが穏やかになる。

「しばらくは天気が続くってよ。良かったね」

「そうか。しばらくはこうして夜風に当たってられるな」

 ふと、一陣のそよ風が吹いた。風は夜露の匂いを運びながら頬を優しく吹き抜けていく。私は目を細めてそれを体で感じた。

 夜の涼しさが肌にひんやりと心地良い。草むらからは微かに虫達の鳴き声も聞こえてくる。穏やかで静かな夜。いつもと変わらない静寂さがそこにはあった。

『ルージュ、アクティ。お茶がはいりましたよ』

 と、家の中からおばあさんの声が聞こえてくる。おばあさんが作っているお茶は街の市場でも評判がいい。無論、私もおばあさんのお茶が大好きだ。

「じゃ、いったん戻ろう」

「うん」

 私達はテラスを後にし家の中へ戻った。おじいさんは相変わらずいつもの気難しそうな表情で本を眺めている。昔はお城に仕えていたほどの魔術師なのだそうだ。それがある時に、ふと誰かの下に仕える事に煩わしさを覚え、せっかくの宮廷指南役を放り出したそうだ。指南役になるため身を削って勉強に励む人達は大勢いるというのに。それだけの地位をあっさりと捨ててしまう所は実におじいさんらしい。

 私はいつもの自分の席に座り、カップにミルクと砂糖を入れる。こんな涼しい夜に飲むのは、また格別なのだ。

 おじいさんは何も入れず、おばあさんは私と同じようにミルクと砂糖を、アクティはミルクは入れず砂糖だけを入れて飲む。こうやって飲むと、みんなそれぞれの飲み方がよく分かる。たとえ長年一緒に暮らしてきた家族の事でも、そういった発見があると嬉しいものだ。

 

 

 こうして私達の一日は過ぎていく。

 日の出と共に目覚め、仕事を手伝う傍ら魔法を教えてもらい。

 そして日が暮れたら夜の風を感じ、温かいお茶を飲んで床につく。

 単調だけど、私にとっては充実した幸せな日々だった。

 いつまでもこうやって楽しく暮らしていたい。

 この時の私はまだ、こんな日々が続くと思っていた。

 ずっと。