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 まだ、来ない。

 私はソファーの上に寝転がったまま、ただひたすらアクティの帰りをを待ち続けてきた。先ほど夜が明けたと思っていたのだが、窓から差し込む光はオレンジ色のトーンが強くなってきている。時間の流れがやけに速く感じられる。待ち焦がれているせいか、それともなかなか帰って来ない事への焦りと苛立ちがそうさせるのか。

 つい昨日までは王都にいた私だが、昨夜の遅くに自宅に帰ってきていた。騒がしかった城の中とは打って変わり、誰もいない私の家は水を打ったような静けさだ。耳鳴りのような静寂に耐えるため、私はしきりに寝返りをうって音を立てる。

 おじいさんが神経質に歩き回り、いちいち花瓶の位置などを直す音。おばあさんが午後のお茶の用意をしている音。庭の雑草をむしるアクティの音。私が今まで日常的に耳にしてきた音は、何もかもがこの家の中から消え失せてしまっていた。おじいさんとおばあさんがいなくなり、そしてアクティが行方をくらませてしまった事を、静寂は何よりも雄弁に物語る。

 裏庭の片隅にはおじいさんとおばあさんのお墓があった。ご丁寧に、レイクさん達が頼んだ葬儀業者の人達が埋葬をしてくれていたのだ。私にとってこの数日の事は、正にあっという間の出来事だった。その間に私の周囲は恐ろしいまでに変わり果てた。今なら時間もたっぷりあり、出来なかったおじいさんとおばあさんにゆっくりと別れも告げられる。けど、一人では墓前に立つのは恐ろしかった。自分でも、自分が二人の死を受け入れているのか分からないのだ。思わず一人で取り乱してしまうかもしれない。けれど、その悲しみの淵から立ち直るには、今の所は自分一人でやらなくてはいけない。私には、その自信もない。

 王都を発ったのは、預言者との面会を終えてからすぐの事だった。

 預言者の彼は神秘的な空気をまとったまま、静かな透明の声で私にこう言った。

 あなたの大切な人は必ず帰ってくる、と。

 静かで何の熱もない、実に淡々とした言葉。けれど、不思議と私の心の奥に染み渡り強く信じさせる言葉だ。その直後、私の意思は決まった。

 私はレイクさん達の好意で、夜を徹して馬車を走らせて貰った。王都からこんな田舎の山奥まで、そんな力技を用い僅か一日で帰ってきたのである。一晩中走らされた馬も御者さんにも悪いと思ったが、私はどうしても早く家に帰りたかったのだ。いつアクティが帰ってくるのか分からない。もし、私よりも先に帰ってきてしまったら、きっと心配するだろうから。

 そして。

 帰ってきた私を出迎えてくれたのは、真っ暗で灯り一つない静まり返った部屋。人気もなく、本当に空家と見まがうほどだ。それでも私は、自分の住み慣れた家に帰って来た事で幾分かの落ち着きは取り戻せた。

 昨夜から私はずっとこうしてソファーの上で寝転がっていた。体は酷く気だるく、食欲もほとんどない。まるで体が生きる事に疲れ果てているかのようだった。死への欲求など更々なかったが、生きる事に苦痛は感じていた。今まで大切だったものを一度に奪われたのだ。急に立ち直れる訳がない。けど、私は立ち直らなくてはいけない。そのためにも、悲しい過去の出来事はゆっくりと自分の中で消化していく必要がある。

 一人とは、こんなにも寂しいものだなんて……。

 前はソファーでこんな風に寝転がっている所を見られると、すぐにおじいさんに怒鳴られたものだ。そのたびに私はうるさそうに顔をしかめるも、しぶしぶと起き上がっていた。子供心に、口うるさいおじいさんなんていなくなってしまえばいいのに、と思った事もある。それが実際に起こってしまった今、怒鳴ってくれる人が傍にいないという寂しさがどれだけのものなのか、子供時分の私に言い聞かせてやりたいものだ。

 私の事を想ってくれるからこそ怒るのであって。

 私の事を想ってくれるからこそ慈しむのであって。

 誰も干渉しない、話し掛ける人もない孤独さは、この世の何よりも耐え難い苦痛だ。

 どうしてこんな事になってしまったのだろうか。

 気を抜くとすぐにそれを考えてしまう。過ぎた事を何度振り返っても変わり映えはしないというのに。

 いい加減、背中が痛くなってきた私は、ゆっくりとソファーから起き上がり座り直した。辺りは薄暗くなってきたが、灯りをつけるのも煩わしかった。けど、私は渋がる体を無理やり立たせてリビングに灯りを灯した。帰ってくるアクティの目印になるように。

 この時刻になると、どこも仕事を切り上げて自宅へ戻ったり夜の街へ繰り出したり、思い思いの方法で今日一日の疲れを癒し、明日への英気を養う。そしてまた陽が昇れば仕事に出かけていく。それの繰り返しが、人類の繁栄を今日に成長させた。

 本来なら、今日はミレニアムというヤツが来る日だ。そんな人々の当たり前の日常を何もかも無に変えてしまうという恐ろしい滅亡の日。王都には色々な国の王が集まって、それを未然に防ぐための会議をやっていた。だが昨日、遂に手詰めに陥り、自暴自棄になる者や国に帰る者など実に様々だった。人間、自分の死を近い未来に確信してしまうと、普段は心の奥に仕舞いこまれている本性というものが実にたやすく露呈するものだ。

 本来なら一般人には決して知らされないミレニアム。その事実を突然知る事となった私は、こんな恐ろしくも突飛な事を国家が世界中の人々に隠しているなんて、とても俄かに信じる事が出来なかった。ミレニアムとは、千年に一度、神が世界を滅ぼすという恐ろしいもの。神が何の理由もなく人間を殺す事だけでも信じられないというのに、その神の一人が―――。気がつけば、私はミレニアムなんてものは頭の外に追いやっていた。おじいさんとおばあさんとのあまりに唐突な別れ、そしてそこにアクティの失踪までもが重なり、精神的にかなり参っていた状態だったのだ。自分が頭を悩ませた所でどうにもならないのなら考える必要はない。

 ミレニアムについては、そんな風にあまり気に留めていなかったせいか、私は最後まで半信半疑だった。首脳陣が集まって、何かの迷信を信じているのかも。そんな結論を勝手に下して消化している。何故なら、その散々恐れていたミレニアムが、急に昨日になって起こらない事になったのだ。世紀末論ですらもっとマシな経緯を辿る。誰かが吹聴したと思われる迷信に振り回され、真剣になって話し合っていた首脳陣が馬鹿らしくて仕方がない。やっぱり、世界が突然滅ぶなんて起こるはずがないのだ。

 とにかく、そんなどんちゃん騒ぎはどうでもいい。

 もう一つ、あの預言者は私に言葉をくれた。あなたの大切な人とはツクヨミ神です、と。

 一番聞きたくなかった言葉だ。預言者の預言は絶対の真実。ずっとアクティが神なんかであるはずがないと信じていた私。それが預言者の真実の言葉によってあっさりと否定されてしまったのだ。ショックではあったけど、意外にも私は冷静に受け止められていた。やはり心のどこかで兆しは感じていたのだろう。

 唯一の救いは、おじいさんとおばあさんにあんな事をしたのがアクティではないと教えてくれた事だ。預言者の彼は、私がその事で悩みあぐねていたことも見通していたのだ。

 大切なその人が残虐な神だったとしても、あなたは帰るのですか? 別れ際に私はそう訊ねられた。

 そして私は答えた。

 大切な家族ですから、と。

 私にとって、アクティの正体がどうだと言われても、そんなのはどうでも良かった。アクティは私にとって大事な最後の家族である。驚きは少しあったが、私の中でのアクティはそんな血生臭い神様よりも、夜空をボーっと眺めている方のイメージが強い。それが本当のアクティの姿なのだ。ツクヨミ神なんて、アクティを構成する要素の中のほんの僅かな一部分にしか過ぎない。

「早く帰ってこないかな……」

 窓の外を見つめながら、思わずそうぽつりと呟いてしまった。その声は情けないほど見事に震えていた。悲しくとも表には出さない事にしていたのに。誰もいないと決意は揺らぎやすい。

 寂しさで死んでしまいそうだった。こんなに不安定な気持ちは、生まれて初めてだ。このままこうしているのは本当に辛すぎる。

 一体いつになったら帰ってくるのか。私は預言者の言葉を信じて待ち続けるしかなかった。