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 ふとルージュはまどろみの中から目覚めた。

 いつの間にか眠ってしまっていたようだ。丸一日食事を取らなかったせいか、起き抜けだというのにむせ返るような空腹感があった。

 ソファーで不自然な体勢で寝ていたため、体に少しこったような痛みが走る。軽く関節を動かしてほぐしながら、ゆっくりと立ち上がる。

 辺りは薄っすらと淡い闇に包まれている。そろそろ夜明けの時刻だ。

 家の中は相変わらずしんと静まり返り、他に人の気配は感じられない。アクティはまだ帰ってきていないようだ。

「とりあえず、何か食べよう」

 このまま何も食べないで体を壊しても面白くない。空腹を満たしたら、少しはこの湿っぽい気持ちもマシになるだろう。

 まずは消えた灯りを付け直してリビングを明るくする。まだ早朝のため肌寒さが残っている。一度二階にある自分の部屋に駆け、上着を着込んでからキッチンへ向かった。

 パンを焼こう。ベジタブルブレッドがいい。

 それから私はある材料を見定めながらメニューを考える。今日はフェンネルのサラダにチキンスープにしよう。全部おばあさんに教えてもらった料理だ。

 普段は食事の準備をするのはおばあさんで、私はその手伝いをする程度だった。時々、逐一教えられながらたどたどしく一品だけ作る事がある。けど、おじいさんはおいしいともまずいとも言わないで黙々と食べるし、アクティはただおいしいとしか言わないのであまり作る張り合いはなかったっけ。

 いざ自分一人で作るとなると、どうにも不安な点ばかりが思い浮かぶ。調味料の分量とか火加減とか、いつもなら分からなくなったらおばあさんに聞けばすぐに教えてくれる事も、今では自分で思い出すかいちかばちか勘でやるしかない。けれど、味が予想外のものになるとかそれ以前に、一人でどうにかしないといけないこの現実が寂しくて辛かった。今まで家族がいる事が当たり前だったのに、それがいなくなってしまう寂しさが胸を締め付けてくる。でも今は割とそんな自分の気持ちを客観的に見つめられていた。自分の中で二人の事が消化されていきつつあるのだろう。

 確かに、これ以上悲しみ続けていても仕方がない。いい加減に泣いたり拗ねたりするのはやめよう。もう十分泣き尽くしたんだから。それにお墓にお祈りの一つもしてあげないと向こうで悲しんでしまうだろうし。私がしょっちゅう泣いていたら二人も安心できないだろう。心配をかけないためにも、もう泣かないようにしなきゃ。

 ふと窓から陽が差し込んでくる。夜が明けたのだ。

「とうとう朝になっちゃったなあ」

 それでもアクティはまだ帰ってこない。けれど、何の不安感もなかった。預言者の人が必ず帰ってくると私に言ったのだ。預言者の言葉は必ず起こりうる未来の予言である。だから私が不安がる必要はないのだ。

「一応、二人分作っとくかな」

 いなくなったあの日から今日まで、一体どこでどうしてたのかは分からない。けど、もしこの時間に帰ってくるのであればきっとお腹を空かせているだろう。

 鍋の中で茹でているフェンネルに串を刺して茹で具合を確かめる。まだ少し固い。もうちょっと茹でた方がいい。フェンネルが茹で上がる間、付け合せのハムを切り始める。そしてチキンスープの様子を見ながら塩胡椒で味を調え始める。二人分だとこのぐらいの量だろうか? アクティは男だから、私の倍ぐらいは食べるだろうし。こんなもんでいいだろう。

 パンも焼きあがり、サラダも完成した。スープもかなり苦戦したが、かなりおばあさんのスープに近い味を作り出せた。

 一人で食べるよりも二人で食べた方がいい。もう少し待つ事にしよう。

 と。

「ただいま……」

 玄関から物音と人の声が聞こえてきた。私はふと手を止め、玄関へ駆ける。

 そこには久しぶりに見るアクティの姿があった。服は酷く汚れているが、それ以外は何も変わっていない。

「おかえり。酷い格好ね」

 そう私は出来るだけ平静を装ってさりげなく答えた。突然姿を消したアクティが帰ってきた。思わず泣きたくなるほど私は嬉しかったのだが、それではまるで私がこれまでずっと取り乱しあたふたしていたようなのでぐっと堪えた。

「お風呂は準備してないから、とりあえず着替えてきたら?」

「そうする……」

 どこか気負いのあるような、私に対して余所余所しい態度のアクティ。

 考えてみれば、かなり気まずい場面で別れてしまったのだから仕方がないだろう。あの時、ほんの一瞬とはいえ私はアクティを疑ってしまったんだし。その事もちゃんと謝ってはいなかったはずだ。もしかすると、アクティはまだ私が怒っていると思っているのかもしれない。ちゃんと説明してやらないと。あの日から今日までの経緯も含めて。

 考えてみれば。随分と話さなければいけない事が増えてしまった。アクティもあの格好からして随分と色々な事があっただろう。国王とか預言者とかから聞いた話を総じれば、これまでずっと他の二人の神と戦い続けてきたという事になる。けど、あえてその事は国王の想像力豊かな勘違いにしておこう。アクティはその事を私には隠しておきたいようだから。

 二階の自分の部屋に上っていったアクティ。その間、私は早速出来たばかりの朝食をテーブルの上に並べた。朝食を食べるには随分と早い時刻だけど、もう作ってしまった事だし。それに一週間も一緒に食べてなかったのだ。ゆっくりと話したい事は積もるほどある。

 やがて着替えを終えてアクティが降りてきた。階段を下りる時、いつも手すりをしっかりと握り締める癖もそのままだ。子供の時、階段から転げ落ちてからそうするようになったのだ。

「ご飯食べるでしょ?」

「うん、食べる」

 作って準備も終えてしまってから訊かれても、そう答えるしかないのだけど。

 そして二人、いつもの席についた。

 ルージュは一番出来が不安なスープに口をつけてみる。一応味見はしていたが、やはり大丈夫そうだ。そこそこうまくできている。

 味はどう?

 そう訊ねてみようと顔をアクティの方へ向けるルージュ。だがしかし、アクティはまだ朝食には手をつけていなかった。

「あのさ、俺、色々と言っておきたい事があって……」

 そう、消え入りそうなほど小さな声でアクティは語り始める。

「何?」

「んっとさ、おじいさんとおばあさんの事もそうだけど、俺の事とか、あと―――」

「もしかしてミレニアムの事?」

 そう問うたルージュに、アクティはハッと表情を変えた。

「実はさ、アクティが居ない間に王都の方に呼ばれたんだよね。で、そういう事とか聞いちゃったんだ」

「俺の……事も?」

 アクティの正体が、実は世界を滅ぼし尽くす三人の神の内の一人、ツクヨミ神である事。それをアクティは長い間ずっと隠し続けてきたのだ。人間として生きたいがために、神である事を辞め人間に転生したアクティ。しかし魂までの神性は変える事が出来ず、結果神と人間と両方の性質を持つ中途半端な存在になってしまった。そのため人間の身でありながら高天原で世界の支配権を争って戦ったのである。

「もうどうでもいい事じゃない。話す必要もないし」

 ルージュはうつむき加減のアクティに微笑み返した。

 しかし、本当にアクティがツクヨミ神だという確たる証拠だってないのだ。実際に世界が滅んだ訳でもなし。アクティ自身に神を思わせる部位がある訳でもなし。そもそも、神が実在する事だって広く一般的に認められていないのだ。これはただ、アクティが自分で自分が神であると言い張っているだけのようにも聞こえる事もある。いや、むしろそう聞こえる人の方が遥かに多いはずだ。だから私は今まで通り、アクティは私の家族として見ていればいい。

「俺は、ずっと昔に人を殺していた。何百万何十億という人間を。あの時はまだ、自分が何をしているのかまるで分かってなかったんだ。ただ、なんとなく。こうしなきゃいけないのかな、という気持ちだけで」

 頭を抱えながら心痛な口調でとうとうと語るアクティ。その姿をルージュはただ黙って見ていた。

「それでも俺は人間として生きたいんだ。これからも。けど、それは許されるのかな?」

「いいんじゃないの? 私はいいと思うわ」

 恐る恐る顔を上げたアクティ。ルージュは変わらず陰りのない笑みを浮かべている。

「……ありがとう」

 たった一言、アクティは答えた。

 重く深く響くルージュの言葉。自分のような罪深い存在にそんな優しい言葉をかけてもらえるなんて。ただただ幸運なその巡りあわせに感謝するだけだった。

「やめてよ、辛気臭い。ま、そんなにどうしても言いたい事があるなら、今慌てて話す事もないわ。ゆっくりやればいいもの」

 そう、時間はまだまだ沢山ある。

 悲しみから立ち直るまでの時間。

 罪を悔い、己を見つめ直す時間。

 この先、どこへ向かえばいいのかを考える時間。

 人の一生は儚く短い。その短い時間を如何にしてより輝けるのか、それは人間にとっての永遠のテーゼでもある。遣り甲斐のある仕事、役に立つものの開発、心を打つ芸術作品、それぞれがそれぞれの導き出した答えの結果であり、そしてそれが人類の繁栄の歴史の礎の一端となる。人の輝きの一つ一つが積み重なり、今日の繁栄を築き上げたのだ。そしてそれは、今これから輝こうとする次世代の踏み台となる。

 二人がそれぞれどんな結論を導き出すのかはまだ分からない。けれど急ぐ必要もない。時間はまだ沢山残されているのだから。

「ゼロからのスタート、って事で。お互いにね」