「ルージュはまだ帰ってこない?」
昼食も済ませ、畑仕事も一段落を終えた昼下がり。三時過ぎにはいつも四人揃ってお茶を飲むのが日課なっている。
おばあさんが、土で汚れた手を洗っていた俺に向かってそう訊ねた。
「いや、まだ帰ってきてないけど」
「そう。どうかしたのかしら」
ルージュは昼頃に町へ買い物に出かけてからまだ帰ってこない。おばあさんが膝の調子が悪いので一人で向かったのだ。俺も一緒に行こうかと思ったのだが、買うものの量は大したことがないので一人で十分だ、と行ってしまった。
「少し遅すぎるな。アクティ、ちょっとそこまで行って見て来い」
「大丈夫ですよ、おじいさん。まだ明るいじゃありませんか。ルージュだって子供じゃないんですよ。きっともうすぐ帰ってきますよ」
不安がるおじいさんをおばあさんは笑ってたしなめる。
おじいさんは普段はむすっとして少々近づき難い雰囲気があるが、実際は俺達の事を随分と可愛がっている。特にルージュの事は、おばあさんの話では死んだ自分の娘の面影があるので何から何までいつも心配しているのだそうだ。
それにしても、もう出かけてから三時間は経つ。往復にかかる時間は、長く見積もっても一時間半。これ以上はまずかからないだろう。ふもとの町も、これといって特別大きな町でもなく、何年も通い慣れた勝手知ったる町だ。買うものも初めから決められているとあれば三十分とかからないはず。
それなのに、未だに帰ってこないという事は。なんらかのトラブルに巻き込まれた、もしくはどこかで道草を食っている、といったところだろうか。可能性としては後者と考えるのが極自然で常識的だが。
今日は天気も良く、お茶は昨日と引き続き中庭で飲む事になった。
中庭は主におばあさんやルージュが園芸などに用いている花壇がある。最近は観賞用よりも、お茶として使うハーブの栽培の方が比重を多く占めてきている。
そろそろ帰ってくるだろう、というおばあさんの案で、早速中庭でお茶の用意が始まった。時間はいつもよりもやや遅めだ。
普段は片付けているテーブルセットをおじいさんが倉庫から出して組み立てる。かなり重いものなのだが、手伝おうとすると必ず”年寄り扱いするな”と不機嫌になるので、俺が手伝う事は出来ない。お茶の準備もおばあさんがするので、この間はいつも手持ち無沙汰になってしまう。
「俺、ちょっと見てくる」
やる事もないので、俺はそう告げ勝手口から家の中を通って外に出た。
街道まで行ってみると、周囲には人の姿はまったく見られない。まだルージュは来ていないようだ。まあ、その内来るだろう。
こうして一人になると、ふと俺はどこか静寂感を覚える。自分が心の底から人間社会に溶け込めていない証拠だ。
人間が神に昇華した事例は幾つかある。だが、神が人間に転生するなんて事例はこれまでに一度もない。神の神性を自ら捨るなんて事自体、神々の常識では考えられない事なのだから。
前回のミレニアムで他の二人を倒した直後、俺はすぐに人間に転生した。だが、何の事例もない、半ば自殺行為に等しいそれは困難を極め、なんとかうまく人間に転生する事が出来たものの、結局千年近くの時間が経ってしまった。
あと、およそ一週間後。この世界の改革期、ミレニアムが訪れる。それまでの間に、俺はまたあの二人と戦う、いや、三つ巴の殺し合いをしなくてはいけない。これに再び勝ち残る事が出来れば、今のこの世界を保つ事が出来る。だが、相手はどちらも神性を失っていない正しく純粋な神だ。俺は神の魂だけを肉の体に封じ込めた、アンバランス、もしくは中途半端な存在だ。神の体と人間の体。それだけでも大きな戦力差は否めない。
戦うしかないのは分かる。だが、俺は勝てるのだろうか? 勝つしかないのだが、それはどう考えても絶望的だ……。いや、神性を失ってしまったとはいえ、為す術もない訳ではない。ない訳ではないのだが。それもまた、奇跡でも起こらない限りはありえないだろう……。
と―――。
「!?」
突然、俺の背中にぞくっと悪寒が走った。
この感覚は知っている。忘れたくとも忘れようもない、この波動。俺にとってみれば禍々しいことこの上ない、出来ればもう二度と感じたくないものだ。
「まずい!」
俺はすぐさま家に向かって駆け出した。
もう、気が遠くなるほどの時間、断ち切ろうにも断ち切れない縁で繋がり続けた二人。俺とは違い、何よりも神らしい二人。その二人が今、俺の家に現れたのだ。それは何のためだろうか? 少なくとも、俺の元へ遊びに来たなどという安穏としたものではない。
「おう、やっと来たか」
ようやく玄関の前に到着すると、家の前には一組の男女の姿があった。年齢は俺よりも二、三歳ほど上のように見える。だが、見た目こそ普通の人間を模してはいるものの、その発する波動が明らかに人間ではない。
男―――スサノオは黒く濁った瞳で俺を見下ろしている。俺達三人の中で、最も荒々しい神だ。
「アハハハッ! 本当に人間になっちゃったんだ?」
女―――アマテラスはさも愉快そうに俺を嘲笑する。俺達三人の中で、最も残酷な神だ。
「何をしに来た?」
「何を? それはこちらのセリフだぜ。もうすぐミレニアムだ。だったら、やる事は決まっているだろう?」
ニイッと待ちきれなさそうな笑み。だがその瞳は混沌とした暴虐さが渦巻いている。
「なのに、アンタったら全然集まる気がないじゃない。だからわざわざこっちから迎えに来てやったのよ」
アマテラスは俺の顎に手を伸ばし、くいっと自分の方を向かせる。彼女もまた、瞳の奥が冷たく光っている。
「アクティ?」
ふと、家の中からおばあさんが現れた。
「あら? お客様かしら?」
「あ、いや……」
「丁度今、お茶が淹れた所なのよ。どうぞ、上がってください」
俺の友人だと思ったのか、おばあさんは何の疑いもなく二人を招き入れてしまった。
「お邪魔します」
「お邪魔しまーす」
二人は俺の方にちらっと視線を向け、意味深な表情を浮かべる。
サッ、と自分の血の気が引く事が分かった。
こいつら、一体何を考えているんだ!?
先ほどから寒気が止まらなかった。かつて神だった頃の勘が今でも残っているのか、悪いイメージばかりが浮かんで仕方がない。
「む? 誰だ?」
「アクティのお客様よ」
「そうか。初めて聞くな」
おじいさんもまた、この二人に対して何ら訝しい感情を抱いていない。見た目に騙され、自分達と同じ人間だと思ってしまっているのだ。
俺は一体どうすればいいのか分からなかった。今、ここでこの二人の素性を明かした所で、あまりに唐突過ぎて受け入れられるはずがない。だが、このまま放っておいたままでは、必ず何か良くない事が起きると頭の中に警鐘が鳴っている。
自分が取るべき行動は何なのかが分からず、俺はただ事の成り行きを見守るしかなかった。
「知り合いなんですよ」
「そう。古い古いね」
不気味に含み笑う二人。
「この二人がアンタをここに留めてる原因?」
と、彼女は唐突に俺に向かって訊ねた。
凄惨な笑顔。俺は彼女が一体何を考えているのか、一瞬で理解できた。俺はそのまま反射的に叫んでいた。自分は、今はただの人間だという事になっていることを忘れて。
「やめろ! 二人は関係ない!」
「そうかしら? だったら尚更でしょ?」
「前のミレニアムの勝者は俺だぞ!?」
「でも、アンタはその権利を放棄して人間になったんでしょ? 千年前に私達を殺してさ」
「勘違いするなよ。たとえ放棄していなかったとしても、ミレニアムの一週間前に入った時点でお前は権利を喪失しているんだ」
「アンタが私に命令する権利はないんだよ」
「くっ……」
追い詰められた俺は唇を噛んだ。
前回のミレニアムの権利だけが、俺にとっては最大の武器でだったのに。
もう、駄目だ……。
これだけは考えないようにしていたその言葉を、俺は遂に頭の中に浮かべてしまった。
「ちゃんとしがらみは断ち切ってあげるから、さっさと来なさいね」
「やめろ!」
俺はアマテラスに向かって飛び出した。
だが次の瞬間、俺は目に見えない何かの力で吹き飛ばされた。
自分がどれだけ脆弱になっているのかを痛感させられた。今の俺は、軽く手のひらをかざされただけで、このようにあっさりと吹き飛ばされてしまうのだ。
「アハッ、おバカさん」
地面に伏する俺を、二つの嘲笑が見つめる。
やめろ!
そう叫ぼうにも、喉が詰まり声が出せなかった。あまりの衝撃を受けたため、体が動かなかった。立ち上がろうにも膝に力が入らない。
「お、お前達は……!」
おじいさんとおばあさんは、一体何が起こっているのかを理解出来ず、ただただ恐怖と困惑の色を浮かべるばかりだ。
くそっ……動け、動くんだ! このままじゃ―――。
だが俺の体は一向に動こうとはしない。肉の体は神のそれとは勝手が違う事は分かっていた。だが、この瞬間ほどこの体を疎ましく思った事はないだろう。
「もう十分に生きたでしょ? じゃあ未練はないわよね」
ゆっくりと彼女は、二人に向かって腕を振り上げた。