俺は何も出来なかった。
目の前で殺されていくおじいさんとおばあさん。
スサノオとアマテラスは笑っていた。命を奪う事に何一つ躊躇う様子はなかった。
神にとって人間は路上の石程度の存在意義しかなく、何故殺すのか、という質問は、何故石を蹴るのか、程度の重さしかない。だから、躊躇する理由など何一つ持ち合わせていない。むしろ、特定の人間に執着する俺の方が神である二人にとってはおかしく見えただろう。
俺もまた、かつてはそんな神の一人だった。
同じ純的魂の源から派生した存在である人間を、自分達の支配下でうごめくものの他なんとも思わなかった。だから今までの神は、人間社会に執拗に干渉しては自らの思うがままに操り、気に入らなければ何もかもを滅ぼし尽くし、気まぐれに度を過ぎた神託を与えては人間社会に波紋を立てて戯れた。人はあんなに神をあげめても、それに対する神は人間の気持ちなど推し量る事は決してなかった。
神の創造物である人間に気を留める理由が分からない。
前回のミレニアムの時、二人はそう俺を嘲笑った。
俺は説明の余地も理解も求めなかった。人の心を理解するのは、努力して出来るものではないと思ったからだ。俺は努力して知ろうとしたのではなく、ある時にぽっかりと浮かんだ一つの疑問が俺をそうさせただけなのだ。
完全体の神が最も魂的に未熟で、未熟なままで生を受けるが故に完全体に少しでも近づこうとする人間の姿に心を惹かれた。神は人間が堕落したからという理由で滅ぼすが、それは単に意にそぐわなかっただけなのだ。本当に堕落しているのは、神自身だ。
そして俺は人間に転生した。
名ばかりの神の神性を捨て去り、自分が望む姿に生まれ変わるために。だが、魂の神性までは消えることがなかった。俺は神でもなく、人間にもなりきれていない、極めてグレーな存在に成り果てた。いや、元々俺は人間よりの神だったのかもしれない。人間の事を気に留めていた神は俺だけだったのだから。
だからこそ、俺は行かなくてはいけない。
高天原。
俺達が殺し合う、神の台。その地で俺達は、これまでに幾度となく戦いを繰り広げてきた。三つ巴の殺し合い。今思えば、なんて狂的な宴なのだろうか。人間にとっては崇拝の対象となっているはずの神が、まさか人間以上の血生臭い狂宴を繰り返しているなんて。特に、神を神々しく神聖な存在と思い込んでいる信心深い人間にとっては、俄かには信じられない事実だろう。
神の力は、時には天地の開闢にすら匹敵するエネルギーを生み出す。そのため、特別に作られたこの空間、高天原でしか全力を出す事が出来ない。その中で俺達は、神の強大な力で互いで殺し合い、そして最後に残った一人が、千年の間人間界を自由に出来る覇権が与えられる。
肉の体を持つ俺には圧倒的に不利な戦いだ。
それでも行くしかない。
あの二人は、俺にとって人間界の両親とでも言うべき大切な人を笑いながら手にかけたのだから。
俺は人間の愛情というものを直に感じ、そして己の居場所をそこに見出していた。神として何不自由なく生きていた頃に渇望してやまなかった、充実した日々、そして生きる幸せというものがあった。俺は人間になれた事が心の底から嬉しかった。神の強大な力を引き換えにしても全く後悔はなかった。
転生する前、前回のミレニアムが始まる前。俺は、初めはこの神のいない人間界の姿を留めておきたい。そう考えていた。人間に転生し、そしてミレニアムが近い事を悟った時も、再びあの二人の神と戦うのはこの世界の現状を維持するのが目的だった。
でも、今は違う。
俺の胸にあるのは、二人への怒りと憎しみだ。
魂を冒涜し続ける存在への怒り。いや、憎しみを越えた殺意だ。
その激しい感情が俺の体を強くする訳ではない。肉体の限界はあらかじめ決まっている。たとえ限界まで引き出せたとしても、魂が神のものとは言え人間の能力では到底及ぶはずがない。
だが、可能性は十二分にある。俺の魂の神性は、既に肉体にも影響を及ぼしてきている。少なくとも一方的にやられはしないはずだ。
どれだけ分の悪い戦いだとしても、俺は負ける訳にはいかなかった。
大切な人を殺したあの二人に何も出来なかった自分へけじめをつけるために。
そして、ルージュを一人にさせないためにも。
生きて帰らなければ。
生きるためには、勝たなくてはいけない。