「ジェミニ。お前、今回のプロジェクトからはもう外れていいぞ」

 翌日。

 会社に着いたジェミニは主任に個室へ呼び出され、いきなりそんな事を言い渡された。

 思わぬその言葉に、唖然とするジェミニ。

「お前が外れると少し辛いけどさ、今は仕事どころじゃないだろ? あんな事になったんじゃな……」

 あんな事。

 ランの容態が悪化し、病院に搬送された事だ。

 この先のシナリオは分かっている。手術なくしては治る見込みのないランは、悪足掻きとしか形容できない延命処置が続いた後、最後には小さく磨り減った消しゴムのように、その命の灯火が儚く消え失せてしまう。

 主任は、そんなシナリオを歩まされる僕を気づかい、また哀れんでいるのだろう。だから出来るだけ長く僕達がいられるように計らってくれたのだろう。

 そう、同情だ。

「……すみません」

「アホゥ。こういう時はな“ありがとう”だ」

 わざとおどけて見せた主任に、僕は微苦笑する。

 だけど、主任には悪いが、僕はせっかく与えられたこの時間をランと過ごすために使うつもりはない。

 僕は、もっと長くランと同じ時間を過ごすために使う。

 突きつけられた絶望的なシナリオを書き変えるための、最後の抗いのために。

 そして、僕は皆よりも一足先にリフレッシュ休暇に入った。

 デスクを片付ける僕に、みんなは何も言わなかった。

 いや、おそらく僕を気遣い過ぎてかけるべき言葉が見つからないのだろう。その証拠に、僕より仕事が遅れていた人も、納期よりも前に休暇に入る僕に対して嫌味の一つも言わない。

 空気が異様に張り詰めている。誰もが僕をどうしたらいいのか分からないのだ。そんなぎくしゃくした空気の中、僕は無言のまま黙々と荷物を整理し、大事なものや私物はカバンの中へ詰める作業を行う。

『ジェミニ=結城、お疲れ様です』

 丁度片付け終わった時、アルゴスが僕の元へやってきた。

「悪いね、僕だけ先に帰る事になっちゃって」

『ジェミニ=結城が抜けた事により開発効率が13%ほどダウンしますが、ご心配なく。私が必ず納期に間に合うようスケジュールを調整いたしますので。ジェミニ=結城は安心して妹さんに付き添って下さい』

 機械が故、遠慮のないアルゴスの言葉。だれかがハッと息を飲む音が聞こえた。

「ありがとう。じゃあな」

 僕は微笑みながらその場を後にした。

 アルゴスの言葉はかえって嬉しかった。気を使われるほうが、僕にとっては居心地が悪いのだから。

 当分は会社に来る事もなくなるので、僕は一度資料室へ向かう事にした。今後参考になりそうなデータをメモリスティックに落としておくのだ。

 作業は午前中いっぱいかかって終了した。スティックがまるまる一本埋まってしまったが、なかなかいいデータが揃った。これでウィルスプログラムの開発も捗りそうだ。

 午後、僕は昼食を取りに屋台街へと足を運んだ。

 まだ昼休みに入る時間ではなかったので、比較的どこも座れる程度には空いていた。

 僕はここの通りが好きだった。科学が発達し、あらゆる不可能が可能になった現代。しかし、科学のもたらした繁栄は便利な反面、人々の心を凍てつかせてしまった。わざわざ顔を合わせなくとも意思伝達は可能になり、欲しいものを買うのにわざわざ外へ出る必要もない。人と人との関わりを極力減らす事を、便利という言葉に言い替えているにしか過ぎない。それは精神的な退廃だ。

 だけど、どうだろう? この通りはいつ来ても大勢の人々の活気で賑わっている。今だって圧倒的な熱気が渦巻いている。屋台で使っている調理機械が出す熱ではない。

 少しゴミゴミしてはいるが、マニュアル以外の事は決してしない都心の店よりずっと人間味に溢れていて気分がいい。味だって格別だ。

 はぐはぐと熱い水餃子を冷ましながら頬張る。胡椒の風味が中々いいアクセントになっていてうまい。このオコゲと良く合うのだ。

 昼食を終えたらアンタレスへ行こう。いつも誰かがいるから、今行っても問題はないだろう。どうせ今夜もヴァルゴさんと開発の打ち合わせをする予定だし。来るまでプログラムを組んでいよう。

「お兄ちゃーん、待ってよ!」

「遅いぞ! 早くこいよ!」

 と、その時、後ろで子供の声がした。

「おっちゃん、特性シューマイ四人前!」

「あいよ」

 一人の男の子が威勢良く屋台の店主に向かってそう叫ぶ。

「もう、おいてっちゃやだ!」

 それに遅れて、一人の女の子が息を切らせながら駆けて来た。

「だって、ランが走るの遅いんだもの」

 ラン? この子もそんな名前なのか。

 たまたま同じ名前なだけなのに、ドキッと胸が高鳴った。

「ちょっとくらい待ってくれたっていいのに!」

 イーッと意地悪な兄に向かって歯をむく。

「あいよ、特性シューマイ四人前」

 店主が店の名前が入った白い紙袋を男の子に手渡す。

「ハイ、お金」

「丁度いただきます。まいどありがとさん」

 ニッコリと小さなお客さんに向かって微笑む。

「よし、早く帰るぞ。お父さんとお母さんが待ってるから」

 男の子は紙袋を抱えて再び走り出した。

「あ! もう〜待ってってば!」

 休む間もなく、女の子が兄の後を追っていった。

 二人の小さな背中はすぐに雑踏にまぎれ見えなくなる。僕は口の中の水餃子を噛むのも忘れ、それを見送っていた。

 考えてみれば、ランと外で食事をする事なんかほとんどなかった。ランは定期検査以外で滅多に外へ出ないのだから。

 あの二人は幸せだ。父も母もいるのだから。そして、黒い死の影もつきまとってはいない。

 僕はさも羨ましげな顔をしていた事だろう。

 何故、僕達はあんな風に生きていく事が許されないのだろう?

 あの子達は幸せな人生を歩めるだろうに、僕達はむしろ不幸な事ばかりが続いている。

 やっぱり、平等なんてものはこの世にはないのだ。

欲しいものは自分の手で手に入れるしかない。

大切なものは自分の手で守るしかない。

 僕は口の中の水餃子を飲み込み、オコゲをがりっとかじった。

 何だか、無性に苦く感じた。

 

 ピーッ。

 プログラムが強制停止する音だ。

「ジェミニ君、またエラーよ? これ、よく見たら単なる定義ミス。らしくないわね」

「あ、すみません。すぐ直します」

 ヴァルゴさんのPCから僕のPCへデータが移ってくる。

 本当だ。定義ミス、それも物凄く初歩的なミスだ。

「もしかして、調子悪いんじゃないの? これで今日五つ目のエラーよ? しかも、全部初歩ミス」

「そんな事ありませんよ。食欲もありますし、くしゃみも出ません」

「そういう事を言ってるんじゃなくて、何て言うのかな」

「何です?」

「そうそう。ジェミニ君、落ち込んでない? 有り体に言うと」

 じっとヴァルゴの双瞳がジェミニを見据える。まるで胸中を見透かしているかのように。

「そ、そんな事ありませんよ。あ、きっと仕事で頭が疲れてるんですよ。うちの会社、社員を鬼のようにコキ使いますからねえ」

 するとヴァルゴは、ふう、と大きく溜息をついた。

「ジェミニ君ってさ、確かに考え方とか歳の割に大人っぽくて凄いなあって思うけどさ、でも、まだ子供でしょ? 法律的にはともかくとして」

「別に僕は子供のつもりなんかありませんよ。第一、アンタレスでは大人も子供も、それに男女だって関係ないじゃないですか」

「そんなの、体面上の問題でしょ? ジェミニ君は大人のつもりかも知れないけど、私から見ればただの子供なの」

「それがどうしたって言うんですか……?」

「だから、どうして辛いのにわざと隠す訳? 弱音を漏らすのは子供だけの特権だから?」

「別に辛くなんかありませんよ。それに、たとえそうだとしても、今はそんな事を言ってる場合じゃないでしょう」

「そうね……。でもね、もし辛くても、それで弱音を吐く事は決して悪い事じゃないの。誰だって辛い時があるんだもの。私だってしょっちゅう弱音吐いてるわ。だから、どうしても耐え切れなかったら、もっと大人を頼っていいの。解決はできないかもしれないけど、傾きそうになった心を支えてあげる事はできるから」

 僕は無言のまま、その言葉を噛み締めた。

 辛かったら、誰かに頼ってもいい。

 そうすれば、楽になるのだから。

 だけど、それで本当にいいのだろうか? それじゃあ、何の解決にも繋がらないのに。

 僕は今のままの張り詰めた感覚でいた方がいい。その方がきっと、どんなに苦しくても自分を支えていられそうだから。

「……ありがとうございます」

「あんまり思い詰めるなよ、少年♪」

 ポンポン、と僕の頭をヴァルゴさんが叩いた。

 僕はいつの間にかうつむいていた顔を上げ、微苦笑。

 自分で自分が辛いのは分かっている。

 けど、ランは僕の何倍も辛いのだ。いつ停まるとも限らない心臓に恐怖しながら、もう何年も生きてきているのだから。

 だからこの程度、辛い内になんか入らない。

 だから僕はどんなに苦しくても弱音なんか吐いている暇はないのだ。

 全てが終わってからでも十分に間に合う。

 そうしたら、溜まりに溜まった愚痴をこぼそう。

 過ぎ去った、その時にはそうなっているであろう、良き思い出として。