薄暗い部屋の中、ランは、思わず目をそらしてしまいたくなるほど痛々しい姿でベッドの上にいた。
手元のライトが放つ柔らかな光は、うっすらとランの安らかな寝顔を闇に照らし出している。
普段から青白かった顔色は、もはや土気色まで血色を失っている。今にも折れてしまいそうなほど痩せ細ったその腕に、ざっくりと点滴の針が刺さっている。呼吸器はつけていなかったものの、呼吸はひどく弱々しく思えて仕方がない。ただ、ベッド脇に置かれた心電図の定期的な電子音が、ランが生きている事を証明してくれているように聞こえた。
僕は、ただじっとランの寝顔を見つめていた。
時計は午前一時を指している。もう、何時間もこうしている。本来なら面会時間はとっくに終わり帰らなくてはならない時刻なのだが、今回は特別に許可を貰っている。
見つめている。いや、その表現は正確ではない。本当は、茫然としているのだ。
目の前に悲惨な現実を突きつけられて。
そして、何故もっと早く来てやれなかったのか、と自分を責め続けながら。
まったく、僕は相変わらず駄目な兄だ……。
と、その時。突然ランがゆっくりと目を開けた。
「お兄……ちゃん?」
小さいながらもはっきりとした口調で、ランは僕を見てそう言った。
「大丈夫か?」
そんな訳、あるはずがないだろう?
馬鹿な質問をした自分に罵声を浴びせながらも、僕はランにこっくりとうなずいてやる。
「ごめんな……すぐ来てやれなくって」
「ううん、別に怒ってないよ? だからそんな顔しないで」
クスッと笑うラン。だが、表情には声ほど力はない。
「ねえ、お兄ちゃん。私、もう死んじゃうのかな?」
寂しさも何の感情も込められていない、ひどく空虚な一言。まるで、自分がもう死んでしまう事を覚悟してしまったかのようだ。
「馬鹿な事を言うな。その前に、絶対に手術を受けさせてやる」
その表情を振り払ってやりたく、そっと小さなその手を取って握り締める。
「お兄ちゃんはいつも私の事ばかり背負って疲れない?」
「やめろよ、そういう事を言うのは。全然そんな事はないから」
「いつもそうやって、私に心配かけないようにって強がるんだから」
まるで心中を見透かされたかのような、鋭い言葉が胸に突き刺さる。
「たとえ疲れてるかも知れないけど、苦痛に思った事はないさ。ランのためだ。多少苦しくたって、全く辛くはないさ」
「お兄ちゃんのそういうトコ、いつも心配しちゃうけど、私、好きだよ」
「僕も好きだよ。ランの事」
と、ランは二度、首を僅かに横に振る。
「私が言ってるの、そういう“好き”じゃないよ?」
「え?」
「本当はね、私、知ってるんだ。お兄ちゃんが、本当の意味での“お兄ちゃん”じゃない事」
ドクンッ、と胸が痛いほど高鳴る。
僕は思わずギリッと奥歯を噛んだ。まるで、治りかけた傷口をえぐられたかのように。
「いつ……それを?」
「ずっと前。私がネットスクール初めて一ヶ月くらいかな? 家族がテーマの作文を宿題で出された時。なんとなく、市役所にアクセスして自分の戸籍票を見たの。お兄ちゃんの名前の欄の横に、養子ってついてた」
僕は思わず手が震えた。ランの手を握っているのにも拘わらず。この動揺は、間違いなくランにも伝わってしまっているだろう。
僕はこの事実を、今までひた隠しにしてきた訳ではない。だが、ランには絶対に知られたくなかった。
僕にとってランは唯一の家族だ。それが、たった数キロバイトにしか満たない電子のデータに記載されている、『養子』の一言によって全て否定されてしまう気がしてならないからだ。無論、そんな事があるはずがない。たかが文字が、これまで兄妹として過ごしてきた十数年を否定する事なんて出来るはずがない。僕がただ、勝手に強迫観念を感じているだけだ。
自分が養子である事を知ったのは、僕が七回目の誕生日を迎えた頃の事だ。ある日ランの両親が、僕が養子である事を告げたのである。
僕はランの父の親友夫婦の子供だ。二人は僕が生まれて間もなく死んだそうだ。理由は聞かされていない。
ランの父もプログラマーで、僕が同じ業界で働く事を決意したのもその影響が大きい。単純に、キーボードを目も止まらぬ速さで打つ姿がカッコイイと思ったからだ。最初、ランの父は僕がプログラマーを目指す事をいやに反対した。だけど僕は、どうしてもやりたい、と毎日駄々をこねて、遂には折れさせたのである。しかしそれには、ネットスクールの全過程を終了してから、という条件があった。その後であれば、下手なマニュアルなんかよりもずっと優れた授業を直々に教えてやる、と約束してくれたのだ。
僕は一生懸命勉強した。ネットスクールは飛び級制だから、自分のペースで次の段階へと進んでいける。六歳から始め、全過程を終了したのは十歳の時だった。異例、とまではいかなくとも、優等生として胸を張ってもいい速さでもあった。
それから二年間、僕はランの父にみっちりと基礎から応用まで叩き込まれた。学校の勉強よりも遥かに難解で苦しかったが、それでも僕はずっと憧れ続けていたプログラマーになる日を夢見て頑張り続けた。
そして、丁度僕が今の会社の内定をもらった次の日。ランの両親はこの世を去った。
葬儀は父の会社の同僚が仕切っていた。僕は押さないランと身を寄せ合いながら、茫然と葬儀という作業が流れていくのを見送っていた事を憶えている。
二人が死んだ原因は、無理心中だった。それも突発的な。父は思うように仕事が進まず、ふとしたはずみで―――。そして、それを止めようとした母は巻き添えを食う形で。
それを聞かされた僕は、何故父があんなにまで僕がプログラマーになる事を反対したのか、理由の片鱗をそこに垣間見た気がした。そして、最後まで黙して語ろうとしなかった、僕の本当の両親の最後も。
そういえば事件の間近、父は酒を飲みながらやけに同じ言葉を僕に繰り返していた。自分に何かあったらランを頼む。お前はお兄ちゃんなんだから、と。もしかしたら、その時既に、事を決意していたのかも知れない。
「お兄ちゃん、怒らないでね? 私ね、その時からずっと、お兄ちゃんをお兄ちゃんとして見る事が出来なくなってたの。他人って事じゃないよ? 一緒に暮らしている家族には違いないけど、なんていうか、その、よく分かんないけど、とにかく大切な人」
ランの大きく真っ黒な双瞳が僕をじっと見つめる。僕はただ、吸い込まれるようにその瞳を見つめていた。
「怒らないよ。僕にとっても、ランは大切な人だから……」
僕は無理に微笑んで見せた。そうでもしないと、うっかり泣いてしまいそうだったから。
「私、眠くなってきちゃった。もう、寝るね……」
「ああ。ゆっくり眠るといいよ」
スッとランのまぶたが下りた。
一瞬、嫌な予感が脳裏を過ぎる。が、心電図の変わらぬ電子音を聞き、すぐにその予感は杞憂であると安堵する。
「おやすみ」
僕はゆっくりと手を放し、ライトを消した。
さあ、これからはいよいよ正念場だ。僕には失敗は許されない。失敗する事はランを失ってしまう事と同義なのだから。
それは、本当は『独りになりたくない』という自己愛なのかも知れない。ランという存在が大切なのではなく、それを失って悲しみに押し潰されてしまう自分を守りたいだけなのかも知れない。
だけど、僕は誰に何と問われようと、決まって同じ答えを述べる。
『ランが大切な人』だから、と。
「もう、いいのか?」
病室を出ると、腕組みをしながら廊下の壁にもたれている人影が常夜灯に照らされていた。
アンタレスのリーダー、アルデバランだ。自分をここまで送ってきたのは彼なのである。
今まで待っていてくれたのだろうか?
僕は彼の問いに、こっくりうなずく。
「では、行くか」
「はい」
微笑を浮かべ、踵を返すアルデバラン。その後にジェミニは続く。
僕は決意も新たに、自分の闘志により強い火を燃やした。
決して消える事のない意思の炎を。