PIPIPI!
頭に響くような甲高い電子音。寝ぼけた頭に耳やかましい。
「う〜もう朝か」
体を半回転させてベッドにうつ伏せになると、枕元の目覚し時計を睨みつけた。そして、スイッチを解除。途端に耳やかましい電子音を吐き出していたそれがおとなしくなる。
昨夜は自宅残業だったので、眠ったのは日付が変わってからだ。かなりきつい。
重く圧し掛かってくる眠気を振り払いベッドから跳ね起きる。
「今月に入って、もう20時間は超過勤務してるぞ……。仕事自体は持ち帰ってるけどさ……」
だが、それも仕方のない事だ。現在、ある大手銀行から新しいメインシステムの開発を受託されている。その納入日が今月末に迫っているのだ。その結果、どうしても仕事の量が増えざるを得ないのである。無論、こんな愚痴を叩いているのは僕一人ではないのだが。
立ち上がり、大きく背伸び。そして体をねじる。ゴキゴキッと背中が音を立てた。
さてさて、朝食の準備をしないと。
まず先に洗面所に向かって冷たい水で顔を洗い寝乱れた頭を整える。それから朝食の用意のためにキッチンに向かう。まずは冷蔵庫を開けて材料を確認する。中から卵とオレンジジュースを取り出し、まずはオレンジジュースをコップに注いで飲む。冷たい感触が染み渡る。すると思い出したように空腹感が出てくるのだ。
パンをトースターにセットし、フライパンに油を敷いて卵を落とす。あ、そうだ。ベーコンを忘れてた。
僕が作る朝食の内容はあまり変わり映えしない。基本的にトーストとサラダと何か火と油で作ったもの、そして何か飲み物がついたりヨーグルトなどのデザートがついたり。そんな所だ。手抜きという訳じゃなくて、単に料理が苦手なだけだ。これでも味はいいのだ。……食べられるぐらいには。
ガチャン
と、奥からドアを閉める音。どうやら起きてきたみたいだ。
「お兄ちゃんおはよ〜」
眠たげに目をこすりながらキッチンにやってきた一人の少女。黒い髪の毛が寝乱れている。
彼女は僕の妹のランだ。歳は僕より三つ下で、今年で13になる。
「ああ、おはよう。今朝は一人で起きられたみたいだな」
「いつも一人で起きてるよ」
「そうか?」
ぶう、と不満そうな顔をするラン。だが僕は適当にはぐらかす。
「ほら、早く顔を洗ってこい。もうすぐ出来るから」
「は〜い……」
眠そうに洗面所へ向かうラン。視線はボーッとしている。
「おっと」
と、トースターがこんがり焼き上げたパンを吐き出した。香ばしい香りが漂う。
洗面所から戻ってきたランはすっかり目が開いていた。まだ時折あくびはするが。
作り終えた朝食をテーブルに並べ、早速朝食を始める。
「いただきます」
僕はダイニングテーブルに置かれているディスプレイのスイッチを入れる。
現在は、一世帯に一つネットワークコンピューターがある時代だ。電話、メール等の情報媒体に限らず、セキュリティや冷暖房、冷蔵庫の中身の残量まで全て一つのコンピューターによって管理されている。
新しく届いたメールのほとんどは広告だ。それらを削除し、新聞を開く。
僕が幼い頃は、まだ新聞は紙に印刷されていたそうだ。だが、地表は未だに植物すら育たず、その結果紙を作るための資源があまりに乏しいため、現在のようにペーパーメディアの大半は電子化されたのである。
トーストをかじりながら画面を見つめる。今日も暗いニュースばかりだ。
「お兄ちゃん、見ながら食べるのやめてよ」
「うん……あ、またココ追徴課税受けてるな。おっと、ココは―――」
「もう!」
ぷつん、と画面が消えた。怒ったランに消されてしまったのである。
「ちぇっ」
仕方ないや、とあきらめる。
「ねえ、今日は何時頃帰ってこれるの?」
「そうだなあ。まあ、今週いっぱいは普通通りに帰ってこれるな。来週はちょっと無理かな。納入日だし」
「大変ねえ」
「そうだ、何かあったらちゃんと電話するんだぞ。すぐ戻ってくるからな」
「大丈夫だよ。ここの所は調子がいいから。ほら、この間の定期検診でも良かったじゃない」
そう言って微笑むラン。だが、僕の心配は尽きない。本当なら四六時中付き添ってやりたいぐらいなのだ。
その理由は、ランの健康状態にある。
ランは現在、とある難病に侵されている。それは循環器系の働きが弱まっていくというもので、最終的には心不全等で死に至るのである。だからランは激しい運動どころか、滅多にこの部屋から出る事がない。普通の人にとっては何でもない事も、ランには凄まじい負担になるのである。
今はその症状を薬によって緩和している。それでも、いざという時のために効き目の強い強心剤を常時離さないが。病気自体は、現在の医学では十分に治療する事が出来る。だがそのためには、多額の費用がかかる手術を受けなければならない。無論、僕にそんな経済力はない。
かつては保険制度というものがあり、ある程度の額までは国が治療費を負担してくれていた。だが現在はその制度は撤廃され、医者には医療税という税がかけられている。その結果、個人の治療費の負担は莫大に膨れ上がり、治療を自由に受けられるのは一部の経済的に余裕のある者に限られてしまっている。その一方、お上の連中は私腹を肥やしているという事だ。
ランは知らないが、薬で誤魔化せるのも実はそろそろ限界なのだ。本当は一日でも早く手術を行わなければならない。
それをただ指を咥えて見ている訳ではない。僕はそのために、ある活動を行っている。これについては後述しよう。
「無理しないでおとなしくしてろよ」
「心配しないで。お兄ちゃんはお仕事を頑張って」
ああ、と返事をする。
と、電子音のメロディ。
「あ、メールだ」
僕はすぐさまディスプレイをつける。
ディスプレイに映し出されたメールボックスには、ジェミニへ、と件名に記されたメールが届いていた。早速開いてみる。メールの内容は、一見すると文字化けしているとしか思えない、訳の分からない文字記号の羅列が表記されている。「ふむふむ、なるほど」
だが、僕はそれの意味が分かっていた。これは一種の暗号なのである。ソフトによる暗号化は解析されやすいため、独自の文字コードを用いての文章なのだ。送信先はおそらくあそこからだ。これも後述しようと思う。先ほどと同じ理由で。
「はあ……今夜、遅くなる?」
ランが残念そうに悲しげな顔をする。ランも、暗号自体は読めないが、これについての事は全て知っているのだ。僕が参加している、ある活動についても。
「いや、そんなに遅くはならないと思うよ。夕飯は一緒に食べよう」
「ホントに? 約束だからね」
「ああ、約束だ」
さて、と僕は時計を見上げた。もうそろそろ八時になろうとしている。出社時間は八時半。この社宅から会社までおよそ二十分。そろそろ出なければいけない時間だ。
「んじゃ、僕はそろそろ行くよ。後片付け頼むな」
後片付けといっても、食器洗い機に入れておけば、後は全て全自動でやってくれるのだが。
「うん。任せておいて」
僕は一度部屋に戻り、服を着替えてカバンを持つ。
「じゃ、行って来るよ」
「は〜い。あ、ちょっと待って」
ランは立ち上がり、僕の目の前に立った。
「まつげ付いてるよ。取ってあげる」
ランが小さな指を僕の目元に伸ばす。
「ありがと」
「それじゃあ、行ってらっしゃい。気をつけてね」
ランに見送られて僕は部屋を後にした。
いつもの、なんら変わらない日常の始まり。
さて、今日も忙しくなりそうだ。