僕が自宅に帰ってきたのは、七時半過ぎのことだった。思っていたより長引いてしまった。ランがむくれていないか心配だ。一応、途中にある屋台街でランが好きな海鮮スープを買ってきたのだが、それもどこまで効果があるか分からない。

 部屋のドアの前には照合キーシステムが備え付けられている。一時期は指紋判定型が流行っていたのだが、指紋を偽造する犯罪がその容易性からあまりに急増し、それに伴ってキーの信頼性も底辺まで下がってしまったため、今では網膜判定型か声紋判定型、もしくはそれらにIDカードやパスワードの入力を複合させたタイプが一般的である。中には、セキュリティの種類をユーザーにカスタマイズさせるものまである。

ただ、アパートやマンションなどの賃貸物件に備え付けられているキーシステムは必ずマスターキーシステムが存在しており、そこへハッキングしてロックを解除する手段もある事はある。もっとも、監視カメラや入り口の住人判別システムなど多くの危険を掻い潜らなければならないから非常にリスクは高く、ハイリターンが見込みにくい一般庶民を狙う者などまずいないと思って良い。

 僕の部屋は網膜と声紋認識のパスワードだ。つまりパスワードを喋るのである。一見するとパスワードが外部に漏れやすく思えるが、実際は声紋判定システムを少し捻っただけのものだ。だから登録者以外がパスワードを言った所でロックは解除されない。第一、複雑な網膜のパターンダミーを用意する必要がある。僕の声をこっそり録音するという方法もあるが、そんな事をしても無駄だ。録音の際の圧縮率の関係である。早い話、システムは100%僕本人の声にしか反応しないが、録音の声は僕によく似た声程度なのである。100%ではない。ただ、風邪などで声が変わってしまった時は別だ。その時は、中のランに連絡して開けてもらうしかない。完璧さ故の欠点だ。

「ただいま〜」

 ロックを解除し部屋の中へ入る。と、部屋には香ばしい香り。

 ランの姿を探すと、ランはキッチンにいた。夕食の準備中である。

「あ、お帰り。思った通りの時間に帰ってきた♪」

 そう言ってニッコリ微笑むラン。どうやら機嫌を悪くはしていないようだ。夕食の準備は、僕が帰ってくる時間を見通して作っていたのだろう。まあとにかく、拗ねられなくて良かった。

「ランの好きな海鮮スープ買ってきたぞ」

「ホント!? ありがとう、お兄ちゃん。あっ」

 嬉しそうに表情を輝かせた後、慌ててフライパンに戻る。危うく焦がしそうになったのだ。

 自動料理機は市販されているが、実はそれほど普及していない。理由は、好みの味の料理を作れるようになるまで散々微調整をしなければならないからだ。その上、同じ分量で作った料理でも人間の作った料理の方がおいしいときている。つまり、はっきり言って無駄な発明品だったのである。

「すぐ出来るから、ちょっと待っててね」

「体の調子はどうだ?」

「大丈夫だってば。ちゃんと薬も飲んだし。もう、子供扱いしないでっていつも言ってるのに」

 確かにランはもう子供と呼ぶ歳ではない。しかし、長年二人っきりで暮らしてきた僕にとってみれば、ランの事がどうしても、目を離してしまうと不安になり、自分の管理下に置いておきたいのだ。きっと僕は、ランの父親になっているのだろう。ランにはそういう所を鬱陶しがられているのだけど。

 カバンを部屋に置いてテーブルにつく。ディスプレイをつけてメールボックスを見たが、これと言ったものは届いていない。夕刊を読む事にする。

 が、その時ふと僕は、先ほどのアンタレスでの事を思い出した。

いよいよ、始めるのだ。待ちに待ったあの計画を。今回、アルデバランさんは事のさわりの部分しか言わなかったが、それでも僕はやや緊張している。けど、それ以上に僕は野心のような熱いものを胸に燃やしていた。

 キッチンからは、ランの楽しげな鼻歌が聞こえてくる。

 見慣れた光景。安らぎの一時。僕の一番大切なものだ。

 だけど、その時を刻む針が、今、まさに止まりかけている。それはあまりに静かで、分かる人にしか分からないが。

 僕は、この幸せな時を刻む針を止めたくなかった。

 だから僕は、あえて危険の渦中へ身を投じる。

 昔あった古い言葉がある。

虎穴に入らんば虎子を得ず。

今の僕にこれほど相応しい言葉はないと思う。

 

「遂に始めるのですね!?」

 アルデバランの言葉に色めき立つ一同。

 自分自身も全身を駆け巡る異様な興奮を押さえきれなかった。

「ええ。この間、二つの組織が政府に反旗を上げ、そして残念ながら敗北を喫しました。しかし、その時に政府に与えた被害はかなりのものです。その回復に必要とされる時間はヴァルゴが計算してくれました。ヴァルゴ」

「はい」

 呼ばれて立ち上がったのは、僕と同じ技術屋の女性。

「現在、敵戦力はおよそ54%まで減少しております。中でも、オートシューター等の無人兵器系の被害が大半を占めています。予想回復時間は、来週末で60%、再来週末には75%です」

「と、なると、作戦は出来るだけ早い方がいいな」

「しかし、こちらの準備もまだ完璧ではありません」

「はい。重火器は最低必要数の90%を満たしていますが、不意の事態も考えて120%は必要と思われます。更に、政府機関のメインシステムに混入させるウィルスプログラムの完成率は75%、システム構成の解析率は80%弱です。このままでは作戦に大幅な変更を強いられる支障をきたす可能性が高く、現時点での予想作戦遂行成功率は80%を下回ります」

「それに、他にもまだ必要な器具が揃ってない部分が多々ある」

「そういう訳です。しかし、機は熟しています。後は我々がいかに早く準備を終える事が出来るかにかかっています」

 僕の担当はウィルスプログラムの作成だ。とにかく政府のファイアーウォールは強固であるため、それを手動ではなく自動で突破するような強力なものを作り出さなければならない。更に本体はデュエルシステムになっているから、復旧の暇を与えず一度に全てのネットワークに侵食させる必要もある。

 だが、政府機関の防衛システムはそのほとんどがコンピューターで制御されているため、システムを完全にダウンさせてしまえば、幾ら向こうが強力な兵器を保有していようとも、それが使えなければ意味がない。更にセキュリティシステムや探知系統も全て使用が不可能のなる訳だから、比較的少人数のこちらが断然有利になるのだ。

 こういった意味で、僕のポジションは非常に重要なのである。

 しかし、自信は全くない訳ではない。むしろ、自分が選ばれた事がとても嬉しい。僕はこの中では最年少のガキかもしれないが、プログラム技術に関しては誰にも負けない自信がある。

「では、各自準備を早急に進めるように。それと、くれぐれも政府に感づかれぬよう、穏便に事を進めて下さい」

 少なくとも、僕はその点に関しては心配はない。

 ああいう会社に勤めている僕が休日も家に一日中引きこもってキーボードを打った所で、何の不自然さもないのだから。