「いただきます」

 いつもより少し遅めの夕食。胃が、早く何か食べさせろ、とぎゃあぎゃあ吠えている。

「じゃあ、早速お兄ちゃんが買ってきた海鮮スープを」

 カップに移し温めなおした海鮮スープを嬉しそうに手に取る。

 海鮮、と言っても、実際に海で捕れたものを煮込んだ訳じゃない。海なんてものは核の熱でとっくに干上がってしまっている。このスープの材料に使われているのは、厳重な遺伝子検査を受けて合格した海産物をクローン技術で培養し養殖場で養殖したものだ。そのため、飼育に手間のかかる魚は高価になり、そうでないものは安価になる。何でも、かつての魚相場と現在はかなり変わっているらしい。天然ものが消え去ってしまったせいだ。養殖ものよりも天然ものの方がおいしいらしいが、そんなもの、食べる事のできない今となっては信憑性が疑わしい。

 ふーっふーっ、と湯気の中に向かって吹きながら、熱くないかおそるおそる確かめるようにしてカップに口をつける。ランは猫舌で、熱いものは苦手なのだ。にも拘わらず、好きなものはみんな熱いものばかりなのだが。

 どうやら大丈夫そうなので、口をつけて海鮮スープを一口。

「おいしい♪ やっぱりおいしいなあ、これ。どうやって作ってんだろう? いつも自分で作ってみたいって思ってるのに、ネットにはレシピなんか乗ってないんだよね」

「ま、そう簡単には漏れないようにやってるんだろ? そんなに簡単に真似されちゃあ、店の人も商売上がったりだ」

 そして何より困るのが僕自身だ。そんなものが出回られては、ランの機嫌を取るためのものが一つ減ってしまうのだから。もし、違法にレシピを公開なんかしているサイトがあったら、ランが見つける前にクラックしてやる。

「ねえ、今日は何だったの?」

 ふーっと湯気を吹きながら訊ねるラン。

「ん? ああ、そろそろ始めるみたいなんだ。だから、その確認」

「そっか……」

 ランはアンタレスの事を知っている。僕がそこでどういう活動をしているのかも。そこに入った理由もだ。本当は情報漏洩に当たる行為なのだが、僕はランには隠し事はしないと決めているのだ。それに、ランも十分その事は知っているから、迂闊な事は絶対にしたりはしない。

「なんだ、元気ないな? どうかしたのか?」

「だって、お兄ちゃんが危ない目に遭わないか心配なんだもん」

「そりゃ遭うさ。早い話、お上にケンカ吹っ掛ける訳だから」

「ねえ、本当にやるの?」

「まるでやって欲しくないって口調だな」

「やって欲しくないもの。お兄ちゃんに何かあったら、私……」

 ランはうつむき、視線をカップの中へ落とす。

「あのね、本当は知ってるんだよ? 私、もうそんなに生きられない事」

 突然、ランが予想だにしなかった言葉を口にした。驚きのあまり咄嗟に声が出そうになったが、喉が詰まり言葉が喉で止まる。

「お兄ちゃんがこういう事してるの、それって私のせいだよね? 私が難しい病気なんかにかかってるから。こんな事、お兄ちゃんには言いたくないけど、もし成功して私が手術を受けられても、病気がかなり進行しているから必ずしも治ったりしないんじゃないの? 絶対に助かるって限らないのに、そのせいでお兄ちゃんに危ない目に遭って欲しくないの。もし、失敗したりしてお兄ちゃんに何かあったら、私―――」

「もういい! やめろ!」

 思わず僕は感情的になって叫んでしまった。それ以上のランの言葉に耐えられる自信がなかったのだ。

 ランがいきなり叫んだ僕にやや怯えた目をしている。つい感情的になってしまった自分を、僕は深く恥じた。

「……ごめん。けどさ、そんな言い方するなよ。僕だって、ランにもしもの事があったら辛いんだ。そうなって欲しくないから僕は……。危険な事は十分分かってるさ。出来る事ならやりたくないよ。でも、他に手段がないんだよ。だから、こうするしか他に手段がないんだ……」

 こういう時、僕は自らの無力さを呪う。たった一人の家族なのに、僕は守ってやる事が出来ないのだ。いや、まだそうと決まった訳ではないけど、でも、正直言って自信を失う時がよくある。

「だからさ、その―――」

「うっ……」

 と、その時、ランが急に胸を押さえて表情を固める。見る見る内に顔色が青ざめ、ふつふつと汗が浮き出てくる。

「ラン!?」

 僕は弾けるように席を立った。その際、うっかり僕の分のスープの入ったカップを倒してしまったが、そんなものは構わないでおく。

 発作だ。

 苦しそうに倒れ掛かるランの体を抱きかかえ、ひとまず床に下ろす。

「ラン、大丈夫だ。しっかりしろ」

 僕はランに向かってしきりにそう言い聞かせながら、服のポケットの中から発作用の薬を取り出す。効き目があまりに強く、本来ならランには与えてはならないような劇薬だ。しかし、この発作を止めるにはこんなものに頼るしかない。

 カプセルをランの口の中へ押し込む。

「今、水を持ってくるからな」

 静かに床に寝かせ、大急ぎでキッチンから水をコップに注いで持ってくる。

 ランの体を抱き起こし、ゆっくりと飲ませてやる。

 薬を飲んだのを確認すると、僕はランの体を抱き上げてランの部屋へ向かった。

 ランの体は軽い。相対的な意味ではなく、本当に軽いのだ。異常なまでに。まるで骨と皮しかないかのようである。

 ランをベッドに運んで寝かせる。薬が効いてきたのか、少しは落ち着いてきた。しかし、まだ油断は出来ない。いつまた発作が起きるのか分からないのだから。

「ゆっくり休んでろ。また様子を見に来るから」

 布団をかけてやりながらそう言う。ランはやや苦しそうな表情で、こくんとうなずいた。

 これがあるから、僕は辛いんだ……。

 いつ何時ランを失ってしまうのか、という恐怖感に僕は日々怯えている。ランは僕にとっての最後の家族だ。もしランがいなくなってしまったら、僕は天涯孤独の身になってしまう。そんな寂しさの中で生きていける自信は全くない。

 ランは、僕がアンタレスに入って反政府活動をしている事を快く思っていない。そればかりか、僕をそうさせたのは自分のせいだと思っている。

 そうじゃないんだ、そうじゃ。悪いのは病気だけだ。ランは少しも悪くない。それに、大切な人ってのは誰にでも居る。その人を命がけで守るのは少しもおかしな事じゃないんだ。僕は、たとえ命がけになっても、ランを助けたいのだ。

 ランの部屋を出て、再びテーブルに戻った。

 一人きりの夕食になってしまった。先ほどまであんなに餓えていた胃が急におとなしくなってしまった。食欲がいつの間にか失せてしまっている。

 一体、この苦悩はいつまで続くのだろう?

 そんな言葉が脳裏をよぎり、僕は頭を抱えた。

 

 カタカタカタ……。

 僕の指が軽快にキーの上を踊る。だが、その表情は指の軽快さとはまるで正反対に暗くよどんでいるだろう。

 明日、会社での仕事が少しでも楽になるように自宅残業だ。正直言って、色々あって疲れているのだから、もう眠ってしまいたかった。だが、そういう弱音を吐いている場合ではない。来週になったら更に忙しくなるのだから。

「ん?」

 と、その時。

 穏やかな電子音と共に、打ったプログラムを表示しているディスプレイの隅に小さくウィンドウが開く。

「『お兄ちゃん、まだ仕事?』ランか」

 ランからの通信だ。僕は一旦作業の手を休め、そちらのウィンドウを最大化する。

「『具合はどうだ? まだ寝てなきゃ駄目だぞ』」

 と打ち込む。すると数秒経った後、ランからの返事が返ってくる。

 もう収まったよ。ごめんね、いつも心配させて。

「『気にするなよ』」

 ねえ、お兄ちゃん。さっきはごめんね。私、お兄ちゃんが一生懸命やってるのにあんな事言ったりして。

「『謝ってばかりだな。大丈夫、怒ってないよ』」

 ありがとう。お兄ちゃんって、やっぱり優しいね。

「『照れるから、そういう事言うなって。ほら、もう寝ろ』」

 うん。おやすみ、お兄ちゃん。あんまり無理しないでね。

「『おやすみ。僕もそろそろ眠る所だから』」

 ランからの通信が途絶える。僕は用済みになったウィンドウを閉じ、また自宅残業を再開した。

「無理しないでね、か」

 でも、僕はランのためだからこそ無理をしてるんだよな……。

 そんな自分の姿が、ランに心労をかけていたのかも知れない。

 これからは、もっと影で頑張る事にしよう。

 誰にも聞こえない小さな声で、僕はそう自分に誓った。