車が止まると同時に、ヴァルゴさんはハンドルに突っ伏し眠り始めた。おそらく、もう二度と目を覚ます事はないだろう。

 僕はこれまで世話になった事を心から感謝した。感謝してもし足りないけど、ヴァルゴさんには聞こえていない。それが酷く切なかった。

 血生臭い匂いが充満する車内からそっと降りた。早くしなければ。別れを惜しんでいる時間はない。

 廃墟と化したエレベーターポイントは、ほんの粗末な一軒家のような小さな建物だった。

 すぐに汚れた金属の扉が見つかった。無駄とは思っていながらも手で引いてみる。案の定、扉は固く閉ざされて開かない。ロックがかかっているせいだ。

 僕はヒ−トナイフを取り出し、無理やり扉を焼き切った。分厚い金属の扉も、ヒートナイフの熱にはあっさりと溶けてしまった。あまりいい金属ではないようだ。

 建物の中は酷い埃で充満していた。随分長い間使われていなかったようだ。

 まずは管制室を目指す。

 管制室は一階の奥の部屋にあった。この部屋もロックがかかっており、またヒートナイフで焼き切った。

 管制室の中も埃でいっぱいだった。

 埃に弱い精密機械が、果たしてこの環境で生き残っているだろうか?

 とにかく、まずは電源を入れなければ始まらない。電源パネルを探す。パネルは部屋の奥に見つかった。果たして動くだろうか、と訝しげな気持ちで、予備発電機のスイッチを入れる。

 と、程なくして照明がついた。どうやら発電機は生きているらしい。

 早速コンピューターを立ち上げ見る。やけに起動の遅いコンピューターだったが、どこにも故障がなく正常に動いた。システムを調べ、アンダーエリアに続く高速エレベーターを起動、ロックを解除する。

 とぼとぼと二階の搭乗口へ向かう。その足取りは、やけに重かった。

 今更帰った所でどうなるのだろう?

 結局、僕達の作戦は失敗してしまった。

 これではランに手術を受けさせる事なんて到底かなわない。

 仲間のみんなも、全滅してしまった。

 たった一人、僕達のリーダーを名乗っていた男を残して。

 重い気分とは裏腹に、僕の足は搭乗口から高速エレベーターに乗り込んだ。まるで僕の足が意思から切り離されているみたいだ。

 パネルを操作し、下へ。

 一瞬の浮遊感。

 その数十秒後、実にあっけなくアンダーエリアに到着した。

 アンダーエリアのそこも、埃だらけの薄汚れた廃墟だった。

辺りが暗くなっている。もう時刻は夕方だ。

夕方と言っても、単にマザーコンピューターに制御された人工太陽がその光度を落としていくだけにしか過ぎない。この世界にあるほとんどのものは、人の手によって造られたものなのだ。

建物から出ると、そこには見慣れぬ郊外の風景が広がっていた。

 ここは一体どこだろう?

 そんな疑問こそ浮かんでは来たが、危機感は不思議と感じなかった。

 一体、ランにはどんな顔をすればいいのだろう?

 どんな顔をすれば―――。

 気がつくと僕は、病院の前に来ていた。どこをどうやってここに辿り着いたのかはよく憶えていない。ただ、無意識の内にここに来る事を選んでしまったようだ。

 ランに合わせる顔がなくても、それでも僕は会いたかったのだろうか?

 いや、寂しいだけだ。

 とにかく、誰かと話がしたかっただけだ。

 落ち込んだ時の僕のクセだ。

 病院に入ると、ロビーに人の姿はそれほど見かけなかった。

 閑散としたその空間の雰囲気が、ますます僕の空虚な胸を締め付けた。

 と―――。

「結城さん?!」

 僕を呼ぶ、女性の声。

 振り向くと、それは一人の看護婦だった。やけに表情が険しい。

「今までどちらにいらっしゃったんですか?! もう、何度も御連絡いたしましたのに!」

「え、連絡?」

 そういえば、モバイルの回線はアンタレスの専用通信に切り替えており、通常の回線は閉じたままだった。

「あの、何か?」

 恐る恐る、そう訊ねる。

「―――っ」

 しかし、彼女は険しい表情のまま、気まずそうに口を噤んだ。

 え……?

 僕の心臓が、ドクン、と嫌な高鳴りをした。そのまま鼓動は高ぶり、呼吸が乱れていく。

 嫌な予感が脳裏を過ぎった。

 これまで、もう夢にまで見るほど幾度となく考え、そして同じ数だけ振り払ってきた、その予感。

 死神にでも取り憑かれたかのような、どうしようもない不安感が僕を支配する。

「とにかく、こちらへ……」

 事を話さず、ただ簡潔にそう述べてくるっと踵を返す。

 そして僕は、高ぶった胸の鼓動を必死で押さえながら、その後についていった。

 しきりに、頭の中に見え隠れする黒い陰を振り払いながら。

 

 

 僕は、一瞬何が何だか分からなくなった。

 それほどのショックに僕は打たれたのである。

 そして次には、暗い深遠の底へ落ちていくような錯覚を覚えた。

「ラン……?」

 泣き笑いのような、僕の震えた声。

 しかし、ベッドに眠るランは目を閉じたまま答えない。

 ベッド脇にあったはずの心電図は姿を消している。もう用がなくなったからだ。

「そんな……どうして」

 僕はベッドの傍に崩れ込んだ。

 そっとベッドの中に手を入れ、ランの手を握る。

 冷たい。

 その手には一片の温もりも残っていない。冷たく冷え切っている。

 これが、よく僕の服の袖を引っ張っていたあの手なのだろうか?

 両手で握り締め、そこに顔を伏せた。

 僕は正直、泣き出したかった。何もかも忘れてしまえるほど、感情の本流を発露する何かが欲しくてたまらなかった。

 なのに僕の心は、やけに冷静に事態を見詰めていた。

 涙も流れない。

 悲しくない訳じゃない。見も引き裂かれそうなほど悲しくて辛い。

 しかし、涙が溢れる事はなかった。

 悲しさと冷静に見つめる気持ちが競合する辛さに、空気が漏れるような唸り声を上げるだけだった。

 ランの容態が急変したのは昼過ぎの事だったそうだ。

 懸命な処置も虚しく、そのまま息を引き取った。

 今際の際に苦しまなかったのが唯一の救いだろうか。

 その頃の僕は何も知らず、ただ政府に勝とうと必死になっていた。結局、何一つ結果を残す事は出来なかったけど。

「ラン、帰ろうか?」

 僕はゆっくり頭を上げ、そう話し掛けた。

 返事はない。

 僕は不思議なほど穏やかな気持ちで立ち上がった。

「ん?」

 ふと、僕はサイドボードにあるものを見つけた。

 それは四つに折り畳まれた一枚のメモ用紙。

 僕は取り上げて広げてみた。

 そこに書かれていたのは、僕が出発前にランへ宛てた文だった。

 が、よく見ると文の最後には、自分が書いた憶えのない文章がつけたされていた。

 お兄ちゃん、ごめんね。

 今までありがとう。

「ラン……」

 短い、たった二行の文字。だけどその二行がやけに重く胸に響いた。

「じゃ、行こうか」

 僕はランの体をベッドから抱き上げた。

 やけに軽かった。本当にここにあるのだろうか、と疑ってしまいたくなるほどに。

 腕に抱き上げたまま、そっと病室を出た。廊下に人の気配はない。

 僕は裏口からそっと病院を抜け出した。

 既に外は夜もふけていた。丁度、会社帰りの人で街は賑わっていた。

 その中をランを抱きかかえて歩く僕の姿は目立っていた。時折、僕を見て訝しげな顔をする人もいた。

 やがて、僕の部屋近くの公園に差し掛かった。ここはあまり流行っていない小さな公園で、昼間でもあまり人の姿を見かけない。

 僕は何気なく公園の中へ入っていった。そして壊れかけたベンチの上に腰掛け、隣にランを座らせる。

 涼しい夜風が吹いている。今夜は冷え込みそうだ。これもまた、マザーコンピューターに制御された人工のものだが。

 夜空を見上げると、星が出ていた。

 満天の星空。人工の星とはいえ、その輝きは目を奪われてしまうほど美しかった。

 そういえば、ずっと前にランが、本物の星が見てみたいって言っていたっけ。

 今の地上は放射能の嵐で生き物が生きられる環境ではない。手段は全くない訳ではないけど、少なくとも民間人には無理な話だ。

 僕は今まで、兄としてランにどれだけの事をしてやれたのだろう?

 いつも寂しい思いばかりさせ、好きな事は満足にさせてやれず、その上、病気すら治してやる事が出来なかった。

 僕は何も出来ない駄目な兄だった。

 最後の時ですら、ランの傍に居てやれなかった。

「ごめんな……」

 僕の腕の中で眠っているランに、僕はそう謝った。

 僕は右手をベルトに回した。取り出したのは、アンタレスで渡された38口径。

「もう、寂しい思いはさせない」

 激鉄を起こし、おもむろに銃口を自分のこめかみに当てた。

 左手でランの体を強く抱きしめ、その存在を改めて認識する。

「今、行くよ」

 そして、なんの躊躇いもなく引き金を引いた。

 カチン

 え?

 聞こえてきたのは火薬の破裂する音ではなく、絶望感すら抱かせる鉄同士がぶつかり合う音。

 もう一度、引き金を引く。

 カチン

 何度引いても、聞こえてくるのはそんな寂しい音ばかりだ。

 まだ弾は入っているはずなのに。

 僕は弾倉を確認する。

「え? これは……」

 弾倉には、一発の弾丸も入っていなかった。空の薬莢すら入っていない。

「どうして―――」

 と、

 カラン

 何かが落ちる音が聞こえてきた。まるで小さな金属の塊が落ちた時のような音。

 銃を置いて足元を見る。

 そこに落ちていたのは、空になった一つの薬莢。

 ハッと僕はランを見た。

 ランは相変わらず眠ったままだ。夜風に当たったせいか、病室にいた時よりも冷たくなっている。

「あ」

 その時、僕は力なく垂れ下がったランの左手の傍に四発の弾丸が転がっているのを見つけた。

 一体どういう事だ? 何がどうなっているんだ?

 四発の弾丸を慌てて握り締め、僕は考え込んだ。

 どうして弾丸が抜かれているのだ? 僕以外にこの銃には誰も手を触れていないのに。

 まさか―――。

「まさか、僕に生きろって言うのか?」

 しかしランはその問いに答えない。ただ安らかな顔を浮かべるだけだ。

 大切なお前を失って、仲間も失って、それでもまだ、僕に『生きろ』って言うのか?

 何度も何度も僕はランに問い掛けた。

 幾ら問い掛けても、ランが答えてくれる事はない。それが分かっていても、僕は何度も問い続けた。

 と、

「国民番号10198102、ジェミニ=結城だな?」

「貴様には国家反逆罪、殺人、及び傷害致死、情報改竄、不法侵入、他三件の容疑がかかっている」

 背後から二つの男の声。この威圧的な態度は、おそらく政府関係の人間のものだ。

 もう政府は動き始めたのか。そこまでして、自分達に逆らう者を排除したいんだな。

 ラン、分かったよ。

 僕は生きる。

 何が何でも生き抜いてみせる。

 最後まで、あがいて見せるよ。

 そう決心すると、心なしかランは微笑んだような気がした。

「直ちに武装を解除し、おとなしく同行してもらおう」

「貴様は裁判会にかけられ、そこで処遇を決定する。なお、貴様には黙秘権は与えられない」

 誰が行くものか。

 お前達の正義など、殺すか否かしかないクセに。

 背後の二人に分からないようにそっと銃を取り、四発の弾丸をこめ始めた。

 僕は生きる。

必ず生き抜いてみせる。

「悪いが、同行するつもりは更々ない」

 そう言い放ち、僕は突然振り向いて銃を構えた。

 子供だと気を抜いていた二人の男が驚く。

 直後、続けざまに二発の銃声がこだました。