翌週。

会社の僕の部署は異様な雰囲気に包まれていた。

空気は、ピークに達した疲れのために重苦しく暗かった。だが、それは先週までの話。納期間近の今週にもなると、ピークを通り越しておかしくなってくる。異常にテンションが高くなったり、何やら虚ろな目でブツブツと呟いたり、コーヒーの飲みすぎで胃を痛め胃薬が手放せなくなっていたり。初めて僕がここに来た時は、この異様な状態に随分と怯えたものだ。今ではもう、すっかり馴染んでしまったが。

『危険、危険。ストレス指数が80%を越えています。危険、危険』

「うるさい!」

 と叫んだ誰かが、アルゴスに目掛けてカップを投げつけた。しかし、アルゴスは難なくそのカップを受け止める。

『物を投げてはいけません。勤務態度評価−1』

「ああああっ! ごちゃごちゃうるせえ!」

 朝も早くからかなりイラついている。アルゴスが油を注いでいるようにも見えるが。

『おはようございます、ジェミニ=結城。本日の気温は―――』

「ああ、いいよそれは。やる気をなくすから……」

『そうですか。ジェミニ=結城の仕事達成率は、現在100%。 本日は保守作業とレグレッションテストを行って下さい。スタブとドライバはサーバーの方にあります』

「全体の進行状況はどれぐらいだ?」

『90%を越えています。プログラムは完成しておりますので、後は整合性を取るのみです』

「それが一番しんどいんだよな……。今回はうまくいくかな?」

『私の分析結果から弾き出した予想成功率をお教えしますか?』

「……いい。それこそやる気なくすから」

 自分のデスクにつき、PCを立ち上げる。

 テストが終わってしまえば、後は他のみんなのプロジェクトの完成待ちになる。全員がそれぞれのプロジェクトを完成させなければ次の段階には進めないのだ。なんとか出来るだけ早く終わらせ、こっそりとウィルスの続きをやろう。本当なら見られるとヤバイ代物だが、どうせこんな切羽詰った状況で、他の人がやっている事に気を回せるほど余裕のある人なんかいるはずがない。

 社内ネットワークからスタブとドライバをコピーし、テストを開始。早速エラーが出てくる。すぐさまプログラムを修正。しかし、ぞくぞくとエラーは出てくる。

「はあ……嫌になるなあ」

 一人のプログラムでこれなのだから、全員のを組み合わせた時はもっと深刻なエラーが出る。中には、EとRが並んでいるのを見るだけで反射的にカッとなる人だっている。

 が、普段の行いが良かったのだろうか。初めこそぞくぞく出てきたが、ある時を境にフッと正常に動き始めた。あまりにあっけないテストの完了だ。思わず拍子抜けしてしまう。

 まあいい。これでウィルスの作成に取り掛かる事が出来る。

 と、丁度その時、昼休みの開始を知らせるチャイムが鳴った。

「おーい、アルゴス」

『何でしょう? ジェミニ=結城』

「テストが終わったからさ、昼食後は資料室に居るよ。何か用事がある時は、モバイルの方に連絡を入れて」

『了解いたしました。スピカ=ハイランズにもそうお伝えします』

 僕は社内食堂で昼食を取り、地下にある資料室に向かった。もっとも、この都市自体が地下にあるのに地下と呼ぶのも変な話だが。

 資料室にはこれまで会社が扱ってきたプロジェクトやソースなどが保管されている。閲覧できる範囲はそれぞれの所属部署によって違うが、僕に与えられた権限でも十分興味深いものを見る事ができる。こういったものが、なかなかいいプログラムを作るヒントになったりするのだ。

 資料室の出入り口にはIDカードの読み取り装置がついている。ここにそれぞれのIDを差し込み、そのIDから本人に与えられている権限の範囲を照らし合わせ、開錠するかどうかを装置が判断するのである。

 がちゃん、と音を立ててロックが外れ、ドアが開く。五秒すると自動的に閉まってロックがかかるため、すぐに中へ入る。

 資料室には、データベース検索用のPCが数台と、膨大な量の棚が置かれている。資料はそれぞれ電子データと文章データの二種類で保管されているのである。

ザッと見渡した限り、他に人はいないようだ。僕は作業用のテーブルの上に自分のカバンを置き、中からモバイルを取り出して立ち上げる。

「さて、と」

 実は少し読んでおきたかった資料があるのだ。僕は棚の方へ向かう。棚にはそれぞれのカテゴリの名称札が付けられている。電子データと一緒だ。

「あったあった」

 すぐに目的の棚を見つけた。だが棚には強化ガラスの扉がついている。無論、これをこじ開けたらセキュリティが作動する。僕はIDを取り出し、棚についているスロットに差し込む。

『照合完了。あなたの権限では、このデータを閲覧する事は可能です』

 無性別なマシンボイスと共にロックが解除される。僕は中から一冊のファイルを取り出し、モバイルの元へ戻る。

「さて、作業開始っと」

 ファイルを開き、それを読みながらウィルスプログラムの作成を開始する。

 僕に与えられた重要な仕事だ。政府のシステムの破壊に失敗すれば、アンタレスの悲願も達成されない。それどころか、ランに手術を受けさせる事すら叶わなくなってしまう。だからこそ、万全のものを作らなければならない。慎重になり過ぎるという事はない。作戦直前まで、僕は少しでも強力なものを作り出すための努力は惜しまないだろう。

 本当に、今のランはぎりぎりなのだ。これまでは薬で誤魔化してきたが、もはや誤魔化しきれないほどまで悪化してきている。昨日のような事はいつ起こってもおかしくはない。

 僕には、生前の両親と交わした約束がある。いつまでもランを守ってあげる、と。いや、約束とは関係なく、僕にとってランは大事な存在だ。だからこそ、自分の意志で守る事を決めたのだ。

「う〜ん、どうだろうなあ……」

 ディスプレイとファイルとを交互に見比べながら低く唸る。

 これだけの意気込みにも拘わらず、作業の進行は中々思うようにならない。やる気が空回りしている。

 まったく、駄目だよな、これじゃあ……。

 とにかく、時間は本当に僅かしかないんだ。何としても結果を出さなくては。

 僕は自分で頬を叩いて叱咤し、再び指をキーボードの上に走らせた。