「失礼します」
深夜。
昼に聖騎士団の先行隊が破竹の勢いで落とした、ニブルヘイム側の国境関門。そこには団長を含む聖騎士団の本隊が滞在していた。既にニブルヘイムの国境警備兵は殲滅済みである。王都に報告に向かった伝令兵も根こそぎである。このため、ヴァナヘイムの予告ない突然の侵略をニブルヘイム王都は知っていない。数ある国境関門の一つから定期連絡が途絶えるだけだ。それも初めの内は訝しがる事無く、ただの兵達の怠慢と思うはずであろう。
その、既にヴァナヘイムのものと化した、昔の砦を再利用した関門の一室。そこはかつては将軍クラスの人間が使っていたであろうと思われる広々とした部屋だ。その部屋に、一人の聖騎士が訪れた。
「ジュリアス・サイアラス隊からの連絡が届きました」
敬礼の後、そうはっきりした声で用件を簡潔に述べると、一枚の書状を差し出した。
「御苦労。下がれ」
書状を受け取り、さらに簡潔な言葉を述べる団長。聖騎士は再び敬礼し、静かに部屋を去った。
書状を机の上に広げ、傍に置いてあった煌々と輝いている燭台を近づけ、その炎の明かりで照らす。その書状に書かれていたのは大陸の共通語で書かれた短い文章。
「漁師は腹を減らす事無く、次の獲物を追う。矢は十分にあるが弦が張り詰め過ぎている。そのため今夜は休む事にする。出発は明朝、それまでには弦は適度に緩むであろう。しかし、今後は猛獣に遭う危険性が高くなる。腹の減る危険性も同時に高くなるため、空腹の漁師帰り道は獣道より散歩道を用意する事を願う」
これは聖騎士団が用いる暗号文である。その意味を知らぬ者にとっては、何の面白味もない文の羅列にしか過ぎない。
「補給経路の確保、か。しばらくは無理だな。エリューズニルが確保できるまでは目立った行動は起こしたくはない。あいつらにはしばらく辛抱してもらうか」
団長は読み終えた書状に燭台の炎を移す。炎は見る間に書状を覆い尽くしていく。そしてそれを傍に置いてあった陶器のゴミ箱に捨てた。
その頃、ジュリアス・サイアラス隊は、山陰に隠れたとある森の中でベースキャンプを張っていた。隠密行動が鉄則である以上、火を焚くことは出来なかったが、その代わりに煙や火の目立たない炭を焚いていた。ヴァナヘイムは年中温暖な気候の地域であるため、ニブルヘイムの凍りつくような寒さを火も焚かずにしのげるはずがないのだ。ヴァナヘイム人の中には、未だに凍死という言葉を知らない、または信じられない者がいるほどである。そんな彼らにとって寒さに耐えるという行為は、ある意味普段の戦闘訓練よりも過酷なものかもしれない。
「まったく、たまんねえな、この冷え込み方はよ」
テントの中、ハンモックに身を委ねながらサイアラスが愚痴をこぼす。
テントの中央には赤々と炭が燃えている。丁度その部分の天井だけ通気ようの穴が開いている。
「ホントですねえ。昨日まではあんなに温かい部屋でぬくぬくしていたのに。これも軍人の宿命なのでしょうか」
その反対側のハンモックの中にはジュリアスの姿。相当この寒さに参っているらしく、毛布に包まったまま動かない。
「ああ、気が滅入る。もう一本、と」
サイアラスは腕を伸ばし、枕もとに吊るしていた麻袋の中から瓶を取り出す。
寒さを紛らわせるための火酒だ。アルコール度数が高く、飲むと体が燃えるように熱くなるためその名がついたという。もっとも酒が与える体の火照りは、血液が体表に集まったために起こるただの錯覚にしか過ぎないのだが。
「私にも下さい」
「なんだ、火酒は嫌いじゃなかったのか?」
「嫌いです。大味ですし。でも、そんな好き嫌いが言えなくなってきました」
やれやれ、と苦笑し、火酒の瓶を麻袋から取り出してジュリアスの方へ放り投げる。すると、丸まった毛布の中から突如手がにゅっと伸び、その瓶を掴んで毛布の中にまた戻っていった。
まるでカタツムリだな。その光景を見たサイアラスはそう思った。
「うう……寒い、熱い、寒い、熱い」
「そういう子供じみた愚痴はやめてくれ。正直、疲れる」
「サイアラスは寒くないからそういう事が言えるんです!」
毛布越しでくぐもったジュリアスの叫び声。
「なんだ、酔ってるのか?」
「酔ってません。それより、明日からはどうしますか?」
「どうするって言われてもな。進むしかないだろ? この足元に積もる雪を掻き分けながらさ。馬達もしんどいとは思うがよ。時間がかかればかかるほど、俺達先行隊の危険性は増すんだぜ?」
「ですよね……。ああ、明日は晴れればいいなあ」
「晴れよりも、雨の方が行動しやすい。雨の音が移動の音を掻き消すし、動物の鼻に匂いを嗅ぎつかれる心配もない。って、この寒さじゃ、降るのは雪か雹ぐらいだな」
ハハハ、と一人笑うサイアラス。ジュリアスはそれを面白くなさそうに毛布の中で聞く。
「地図によるとな、ここから直線方向に三十キロ進んだ辺りに少し大きな村がある。明日はそこを目指す」
「野盗の真似でもするつもりですか? 非戦闘員に手を出すのは聖騎士団の名誉にかかわります」
「中継だ中継。何も襲おうって訳じゃない。それに第一、ただの村人が俺達に歯向かってくると思うか?」
「確かにそれもそうですね」
「そういう事だ。外に情報さえ漏れなければ問題はない。発つ時はニ、三名、部下を連絡係兼監視係に置いていけばいい」
と、口に当てた瓶の中の火酒が切れている。チッと舌打ちし、瓶を放り捨てる。
「ただな、村の付近は切り立った断崖がそこかしこにある。つまり、高所って事だ」
「じゃあ、ここよりも寒い所ですか?」
「おまけに、おそらく空気も薄い」
その言葉に、ジュリアスは本気で国に帰る事を考えた。が、
「逃げんなよ」
そんなジュリアスの意図を見透かしたかのような、サイアラスの鋭い指摘。
「切り立った危険な道を歩く事になるからな。ちったあ、気を引き締めろ」
「……明日ね、明日」