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「おーい、そっち行ったぞ〜」

 樹海。そこには冬でも数多くの動物が活動している。体質を変化させたり毛皮を厚くさせるなど、厳しい環境に自らを適応させて繁栄しているのである。

「え!?」

 緊張感のない声。だが、こちらに向かってくる地響きはそれに反して凄まじい。

「あ、来た来た」

「イノシシ、イノシシ。結構大物だよ」

 木の上から、周囲の状況を伝達する役をしていた子供が安穏とそう言う。

「イ、イノシシって……」

 自分の手を見る。

 持ち合わせているのは、狩り用に作られた刃が普通よりも大きいだんびら(・・・・)のような鉈が一つ。

 地響きのような足音がこちらに真っ直ぐ向かってくる。

 バキバキ、と随分景気のいい音が聞こえる。周囲に生えている植物や木の枝を豪快にへし折りながら向かって来ているのだ。

「おーい、今行くから足止めしておいてくれ」

「足止めって、あれをですか!?」

 姿は見えねど、この景気のいい音だけで、相手がどれだけの体格でどれほどのパワーを持っているのかぐらい容易に想像がつく。少なくとも、普通の人間が相手をするような可愛らしい動物ではない。

 普段、自分が使っていた剣ならともかく、こんな鉈一本でどうしろって―――。

「あ、来たよ」

「へ?」

 直後。目の前の藪を破って一つの茶色い影が飛び出してきた。

「はうっ!?」

 それが何なのかも確認する間もなく、その影はまっすぐにジュリアスの胸に飛び込んできた。驚きのあまり、うっかり唯一の武器である鉈を取り落とす。

 傷は完全に塞がったとはいえ、凄まじい衝撃が胸を貫く。咄嗟にその影を受け止めてしまいながらも、思わず咳き込むジュリアス。

「おお、受け止めた」

「すげえぜ、ジュリアス」

 木の上の子供達から次々と称賛の声が飛び交う。

「こ、これがイノシシ?」

 目の前には凶暴な風体をした毛むくじゃらの生き物の顔。

 イノシシはジュリアスに行く手を阻まれたせいか、やけに不機嫌そうな表情で前へ前へと尚も突っ込んでいこうとする。それを取り敢えず、訳が分からないままイノシシを必死の形相で押し止めるジュリアス。

「ジュリアスー。それね、オニイノシシって言ってね、この辺のイノシシの中で一番強暴なヤツだよー」

「い、一番強暴!?」

「一昨年も去年も、それにやられた人は何人もいるんだ。確か去年の人、肋骨を三本折ったよね?」

「大丈夫。見た目とは裏腹に、肉はおいしいからー」

 いや、そうではなくて。

 そんな恐ろしい生き物を、今自分はたった一人で、しかも素手で相手をしている!? これはある意味、戦場のそれに匹敵する過酷な状況だ。

「やっちゃえ、やっちゃえ」

「首を掴んで、ぐりっ、てすればいいんだよー」

 子供達の、極めて楽観的な応援。

 と、そこへようやく仲間が到着する。

「おお、やりましたな、ジュリアス殿」

「これで今夜は一杯やりますかな」

 ジュリアスを見るなり、一仕事やり終えた表情になって手にしていた鉈や弓をしまってしまう。

「ちょ、ちょっと! 早く仕留めて下さい!これ以上は持ちません!」

 

「死ぬかと思った……」

 風呂で汗を流し、縁側で涼むジュリアス。とは言っても、この寒さではすぐに汗も引くが。

 道場の方が賑やかだ。今日の狩りがうまくいったため、宴会を催すのである。その会場にここの道場が貸し出されたのだ。

 まったく、狩猟があんなに大変なものだったなんて。生まれて初めてではあったが、よくもまああんなのを相手にして無事に済んだものだ。

 と、その時。ちらちらと目の前に白い塵のような物が舞い降りてきた。

 雪だ。

 ニブルヘイムは、その名の通り『氷の国』と呼ばれるだけあって、年間の平均気温が凄まじく低い。ヴァナヘイム王都と比べると、おそらく15℃以上の差はあるだろう。第一、雪が降る様を見たのは、ニブルヘイムに来て見たのが初めてだ。話では聞いていたものの、実際に冷たく白いものが空から降ってくると驚かずにはいられなかった。

「やっぱり、異郷にいるんですねえ……」

 しんしんと中庭に降り積もっていく様を見ながら、ジュリアスは改めて自分がいるこの場所の遠さが身に染みた。

 今頃、ヴァナヘイムはどうなっているのだろう?

 ニブルヘイムとの戦争が本格的に始まった事を昨日聞いた。風の噂では、新しいヴァナヘイムの団長は随分と若い者だそうだ。おそらくサイアラスの事だろう。

 どうやら自分は、まだ、ここには馴染めないでいるようだ。

 聖騎士団に戻る事を、未だに未練がましく望んでいるのだろうか?

 いや、それはないだろう。幻滅した、という感情はくっきりと強く心に焼き付いている。だからこそ、自分は自分の正義を貫くために聖騎士団とは袂を別ったのだ。

 なら、この望郷にも似た気持ちは一体なんだろう?

 ホームシック?

 いや、それもない。元々、聖騎士団では遠征が数多くあったから、枕が変わる事なんて珍しくはない。

 だったら?

 それも違うのなら、一体何が理由なのだ?

 ふと、空を見上げる。

 もう月が出ていた。

 この締め付けられるような気持ち、やはり自分はヴァナヘイムに帰りたいのだろうか?

 いや、それもまた違う。

「あ、そうか……」

 そうだ、私はシャルルに会いたいのだ。

 考えてみれば、最後に彼女の顔を見てからもう何週間が経ったのだろう?

 王都にいた時は、普段から何気なく見ていた彼女の顔。

 だけど、それが見られないのがこんなに苦痛だなんて思ってもみなかった。

 きっとシャルルは、既に私が死んだという事を聞かされているだろう。

 私の死を悲しんでいてくれているだろうか?

 悲しんでいて欲しいような欲しくないような。

 辛い思いをしているでしょうね……。

 ふう、と溜息が漏れる。

 と、

「ジュリアス殿?」

 不意に背後から男の声。

 慌てて振り返ると、そこに立っていたのはヤシャだった。

「宴の用意が整いましたよ。ところで、どうかなされましたか? 何やら消沈気味の御様子とお見受けいたしますが」

「いえ……。ちょっと、ヴァナヘイムの事を考えてまして」

「いかなる事を?」

「私がいなくなって、みんなはどうしているのかなあ、と。それに……」

「それに?」

「どうしても、会いたい(ひと)がいるんです」

「もしやジュリアス殿は、その方を―――」

「ええ、愛しています。向こうは私をどう思っているかは知りませんが」

 わざと明るく言って見せたが、逆に泣き笑いのような表情になってしまった。まずい。男がシラフで涙を見せたらみっともない。

「会いに行く事自体は簡単なんです。私にはクルスがいますから。ですが、私はヴァナヘイムでは罪人として処刑された事になっています。そんな人間に訪ねて来られても、彼女にとっては迷惑でしかありませんし」

「しかし、必ずしもそうとは限らないのでは? たとえ罪人の身とはいえ、近しい人が忍んで自分を訪ねてくるのは嬉しいものですよ。その方も、きっと喜ばれると思いますよ?」

「……そうでしょうか?」

「ジュリアス殿。今はニブルヘイムとヴァナヘイムの戦争の真っ最中です。しかし、この先戦争が終わって落ち着き始めたら、一度行ってみてはいかがでしょう? 何でしたら、我が家にお迎えしても一向に構いません。ジュリアス殿の御家族となる方でしたら大歓迎ですよ」

「……本当によろしいのですか?」

「無論です。どこに断る理由がありましょうか。今は、いち早く戦争が終わる事を祈りましょう」

「ええ……。ところで、この戦争はどちらが勝つのでしょうね?」

「今の所は、ヴァナヘイム側が有利と聞いております。ですが、ニブルヘイムにはまだ本隊が残っています。本隊は各地からのアカデミー卒の優秀生徒で構成されています。中には神器を持つ者までいるそうですよ」

「神器?」

 聞き慣れない言葉に、そうジュリアスは問い返す。

「ええ。詳しくは知りませんが、何でも普通の武器の何十倍もの威力を持つ、魔法の武器なのだそうです」

「ヴァナヘイムは魔術に関しては他二国よりも遥かに遅れていますからね。もしかすると、ニブルヘイムが勝つのかもしれませんね……」

 自分の国が負ける。自分でも意外なほど、その言葉があっさりと口から飛び出した。

 戦争は、結局は勝ち負けでしか終わる事はないのだ。休戦なんて、冷戦の火種でしかない。そして冷戦は、火の元があればすぐにでも爆発する火薬と一緒だ。自分の国を守る方法はただ一つ。こちらが自分達よりも強いという事を認識させてやるに他ならない。つまり、捻じ伏せる、という事だ。

「ヴァナヘイムが負けてしまったら……」

 王都は戦火に見舞われるだろう。二度と復興出来ぬように完全な壊滅状態まで追い込まれる。王族は皆殺しになるか、それとも事前に国外へ亡命するかのどちらかだ。

 目をつぶると、戦火に見舞われた王都の姿が浮かんできた。

 街の通りには夥しい数の骸の山。

 我が物顔で闊歩する、ニブルヘイムの兵士。

 そして、王宮別館には―――。

 考えたくもない事態を想像し、湧き起こった嫌悪感のあまり思わず奥歯をぎりっと噛む。

「あ、申し訳ありません、御気を悪くなされたようですね」

「いえ……。大丈夫です。きっと勝ちますよ、ヴァナヘイムは」

 何と言っても、あのサイアラスが団長をしているんですから。

 サイアラスは私より強いんです。ですから、誰が相手であろうと負ける事は絶対にあり得ない。

 心からそう確信しているはずなのに、何故かそれを語る自分の口調は弱々しかった。