小鳥の囀る鳴き声。
白々と夜が明け始めた。美しい朝日が山陰からその姿を現わし始める。
待合室で二人は眠れぬ一夜を過ごした。悠久にも思える時を希望と絶望の狭間を往復しながら過ごしてきた二人の顔には疲労の色が濃く現れている。
火鉢の炎が消えかかり燻っている。だが、早朝の肌寒さなど大した苦にはならない。掛け替えのない大切な存在を失う悲しみに比べたら。
と、その時。
処置室からゆっくりと老齢の医師が姿を現す。その白衣は愛しき人の血で真っ赤に染まっている。
「先生! モミジは、モミジは無事でしょうか?!」
思わず立ち上がって叫ぶヤシャ。アオイはその傍らで不安げな表情を浮かべている。
「ちょいと手間取ったがの。大丈夫、命に別状はない。幸いにも、矢はアバラの一本に突き刺さっておった。内臓には傷一つついちゃいない。骨が元に戻るまでは辛いかもしれんが、なあに、子供の体はすぐに治る」
「では、モミジは無事なんですね?!」
「うむ。ワシの医者の誇りにかけても保証しよう。まあ、胸には少し傷痕が残るかもしれんがの」
「良かっ―――?!」
安堵の溜息をついたその瞬間、突如、アオイがヤシャの肩にもたれかかるように崩れてきた。慌ててその体を抱きかかえるヤシャ。
「緊張の糸が切れたんじゃろう。ウチで休ませていくかね?」
「いえ、この事をコンゴウとジュリアス殿にお伝えしなくてはなりませんから。一緒に家へ連れて帰ります」
「左様か。ニ、三日はウチで絶対安静じゃから、着替えなどの準備をしてきなされ」
「分かりました。先生、本当にありがとうございます」
「良い良い。あの子が助かったのは運が良かっただけじゃ。ワシはちょっと手助けしたに過ぎんからのう」
一方。
ジュリアスもまた、コンゴウと眠れぬ一夜を過ごしていた。
何だかんだ言っても、やはり生死の境を彷徨っているモミジの事が不安で仕方ないのだ。
語る言葉も出し尽くし、居間の囲炉裏の炎を見つめながら、ただひたすら知らせを待つ。
火箸で囲炉裏を掻き回すコンゴウ。
ジュリアスは既に自虐し尽くし、ただモミジの無事を祈るだけしか出来なくなっていた。睡眠不足もたたり、思考が単調になって余計な事が考えられなくなっている。最悪の事態が起こった場合を仮定出来なくなっている分、幾らかは救いがある。
大切な存在が手の届かない所に行ってしまう。
なのに自分は何も出来ない。
それが悔しくて仕方がない。
どうして自分はこんなにも無力なのだろう?
無力だから、こんなにも辛い想いをしているのだ。
無力とは、それだけで罪なのか?
大切な存在を守るためには、全てを淘汰するほどの力がなくてはならないのだろうか?
強さとは心の強さの事だ、なんて、所詮は空想に毒された戯言にしか過ぎないのだろうか?
現実は、いつも自分の足を掬って行く。
そして、信じられる確かなものがまた一つ、手の中から零れ落ちていく。
「夜が明けてきたみたいだな」
「ええ、そうですね」
知らせはまだやってこない。
一体、いつまでこんな想いをし続けなければならないのだろう?
早く来て欲しい。
早く。
そして、憂い疲れた自分を安心させて欲しい。
ふと気がつくと、意識が真っ暗な海の中を漂っていた。
自分が何をしているのかも、そもそも“誰”なのかも忘れて。
寝惚けてるんだ……。
直感的にそう思った。
感覚を自分の体に向けてみる。
強引に奪われていった全身の感覚は、未だ希薄ながらもしっかりと戻って来ている。
目を開けよう。
が、まるで体が目を覚ます事を拒んでいるかのように、意識が真っ暗な海の中から浮上しようとしない。
足に重りでもつけられているかのような感覚だ。
冗談じゃない。
私はもう起きたいのに。
早く起きなきゃ。
早く―――。
「う〜ん……」
たったその一言に、あれこれとざわついていた部屋は急に静まり返り、一同の注目は一点に集められた。
布団の中で小さく悶える少女―――モミジ。その様子を一同はそーっと覗き込むかのように見守っていた。
と、右手が動き布団の端を掴んだ。そして払い除けるかのようにぐっと押しやる。
「ん……うん……ん?!」
突然、弾けるような勢いでパッとまぶたが開いた。その奥にある黒い瞳が、キョロキョロと辺りを見回す。
「モミジ?!」
最初に言葉を発したのは、徹夜で目を真っ赤にさせたコンゴウだった。
「あれ? おじちゃん?」
「モミジ、気分は悪くないか? どこか痛くないか?」
「大丈夫だよ? どうしたの、そんな変な顔しちゃって」
「うわ〜ん、良かったなあモミジぃ」
記憶が混乱しているらしく、いまいち状況が掴めなくてきょとんとしているモミジ。だがコンゴウは一方的に質問し、そして勝手に嬉しさのあまり号泣する。
「ちょ、ちょっと……おじちゃん?」
何故コンゴウが泣き始めたのかさっぱり分からず、ただただ唖然とするモミジ。
「モミジ、良かった……。心配したぞ」
ヤシャは嬉しそうに微笑みながら、きょとんとしているモミジの頭を愛しむように撫でた。
「お父さんまで……あれ? ここはどこなの? 私、なんでここに?」
モミジはようやくここが自分の部屋ではない事に気づいた。
「ここは診療所だよ。憶えてないのか? お前は野盗の矢で撃たれたんだよ」
首をかしげ、しばし熟考。
と、
「あ、そうだ! ねえ、ジュリアスは?」
するとヤシャはスッと部屋の隅に視線を向ける。
そこには、何やら居辛そうな表情のジュリアスが肩身を狭くして立っていた。
「良かったですね、無事で。心配しましたよ……」
いつになくぎくしゃくとした笑顔を浮かべるジュリアス。モミジが大怪我をした事を未だに気にしている証拠だ。
「そんな隅にいないでこっち来てよ」
「あ、はい……」
家族の中に入り込むのを躊躇いながらも、そっと静かに歩み寄るジュリアス。
「お母さんはいないの?」
「今までずっと気を張り詰めていたから、お前が助かったと聞いてそのまま寝込んでしまったよ。まだ家で寝ているよ」
「そっかあ。じゃあ、後で来てって言ってね」
そこに、やけに時間をかけてジュリアスが到着した。たった一歩を踏み出すのに、ゆうに普段の三歩分ぐらいの時間をかけている。
「ジュリアス、私の事気にしてるの?」
「え? いや、まあ、一応……」
「そんなに気にしないで。だって、あれは私が悪いんだもの。ジュリアスに逃げろって言われたのに、それを守んないで来ちゃったせいだから」
しかし、あれは明らかに自分のミスだ。たとえモミジがあの場にいなくとも、誰か別の人に矢が当たっていた事だって考えられる。全部、自分の力を過信していた自分の責任なのだ。
「あ、あの、でも―――」
「そうだ、ジュリアス」
と、モミジはジュリアスの言葉を遮るかのように話を切り出し始めた。
「行かなくていいの?」
「え?」
「実はね、立ち聞きしちゃったんだ。この間、ジュリアスがお父さんと話してるの。ほら、狩りに行った日の事」
ジュリアスは記憶を辿ってみる。
そうだ、あの時ヤシャと縁側で少し話をしたんだった。
そして話したんだ。自分には、何よりも大切な女がいる事を。
「ジュリアス、その人の事好きなんでしょ?」
あまりに直球な質問。質問の意味はとても明確なのだが、思わず返答に戸惑ってしまう。
「……ええ、はい。愛しています」
モミジの前でそれを答えるのはいささか心苦しかったが、誤魔化した所でどうこうなる事でもない。罪悪感を覚えながらも、ジュリアスは穏やかな口調で静かにそう告げた。
「ねえ、ヴァナヘイムって戦争に負けたんでしょ? 私もね、聞いたんだ。ジュリアスの好きな人ってヴァナヘイムにいるんでしょ? だったら、どうして行かないの?」
「ど、どうしてって……」
そういえばそうだ。
戦争に破れたヴァナヘイムが地図上からその名を消すのも時間の問題だ。国民だってどうなるかは分からない。特に王都は、王族に縁の深い人間が住んでいるのだから、攻撃目標になる事は必至だ。
そんな所にシャルルは住んでいるのだ。
なのに、どうして自分は何もしないのだろう?
「もしかして、私の事が気になってるから? もしそうだったら、もう気にしなくていいから。それよりも、早くその人の所に行ってあげて。うちに連れて来るんでしょ?」
「向こうの返答次第ですけど、出来れば」
「だったら、早くして。私ね、ジュリアスが辛そうな顔してるの見たくないの」
「いいんですか?」
「そんな風に気を使わなくたっていいってば」
そう言ってモミジはニッコリ微笑んだ。
そしてそれを見たジュリアスは、ようやく決心を固めた。
愛しい人の元へ駆けつける決心を。
「おい、ジュリアス」
と、コンゴウが涙を拭きながら呼ぶ。
「俺も連れて行け。何にせよ、お前のおかげでモミジは二回も助かったんだ。恩を返さねば気が済まない」
「いえ、ヴァナヘイムには私一人でクルスと行きます。せっかくですけど、あの人は自分の力で助けたいのですから」
「だったら俺の剣を貸してやる。お前には勿体無いほどの業物だが、それぐらい持っていないと一人で軍隊は相手に出来ないだろう?」
「いえ、別に戦争を仕掛けるって訳じゃないんですけど……。こそっと行ってこそっと帰ってくるだけなんで」
ジュリアスは、一度は折れた自分の中の刃の心が再び輝きを取り戻したのを感じた。
確かに自分一人では大した事は出来ないかもしれない。
一生かかったって、人一人を救う事だって出来るのかどうか分からないのだ。
だけど、せめて自分の手の届く範囲の大切な存在だけは守り抜こうと思う。
元々自分は、何かを守るために剣を振るっていたのだから。
大した事は出来ないけど、それでももう一度、戦場に立とう。