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「はああ……」

 クルスの上から眼下を見下ろす。見えるのは、僅かにぽっかりと見える昨日自分達がベースキャンプを張った森。

 今、聖騎士団の先行隊一行は、切り立った岩山沿いの道を登っていた。道幅は馬が一頭歩ける程度の狭さ。雪が一面に降り積もってはいたが、凍結していないだけましだった。もし、馬がうっかり足を滑らせてしまったら、まっさかさまに下へ転落し、まず助かる事はないだろう。

 そんな想像をし、ただでさえ寒い背筋がますます冷たくなってくる。もう、やめよう。こんな恐ろしい想像は。

「村までは、後一時間ってとこだな。昼には着くな」

 すぐ背後から、サイアラスの声。

「ええ。吹雪かなければいいのですがね。寒さよりも視界が狭まる事の方が恐ろしいですから」

「確かに。ま、お前は寒さでおっ死ぬかもしれんがな」

「どうしてサイアラスは平気なんですか? こんなに寒いのに」

「俺だって寒いさ。そう見えないのは、お前がそれだけ軟弱だって事だ。ま、所詮は貴族のお坊ちゃんだな」

「やめて下さい、その言い方は。私はとっくに実家とは断絶しているんですから」

「俺は単に、育ってきた環境の事を言ってるんだぜ?」

「そればかりは、個人では選択出来ない事でしょう?」

「恵まれてるクセに、何を言いやがる」

 しばらくすると、雪がちらほら降り落ちるようになってきた。どうやら降雪が始まったようだ。今は比較的天候は穏やかではあるが、高所の天気は非常に変わりやすい。万が一にでも吹雪に見舞われてしまえば、それこそやむまで迂闊に動く事すら出来なくなる。だがそれでは、寒さによって体力を著しく失う事になる。それだけは避けたい。

「吹雪くかもしれませんね。急ぎますか?」

「いや、まだ大丈夫だろう。下手にペースを変えれば、馬が疲れる」

 クルスは神獣であるためスタミナにはまだまだ余裕がある。しかし、他の馬はそうもいかない。元々温暖なヴァナヘイムで育った馬だから、この気候の急激な変化に慣れていないのがほとんどである。

 それにしても、遂にニブルヘイムまで来てしまいましたか。

 今更とは思ったが、温暖なヴァナヘイムとは違う、鋭く肌に吹き荒ぶ気温の冷たさに、自分が異境の地に居る事を認識させられる。

 考えてみれば、幾らニブルヘイムがヴァナヘイムに侵略を企てているとはいえ、国王も随分思い切った決断を下したと思う。一歩間違えれば、ヨツンヘイムとの関係がまずくなるだけでなく外交そのものに悪影響を及ぼしかねない。結果がどうなるにせよ、国王への非難は少なからず何らかの形で現れるはずだ。

 しかし、本当にニブルヘイムはヴァナヘイムへの侵略を企てているのだろうか? 確かに、作物の育ちにくいニブルヘイムに比べればヴァナヘイムの温暖な気候は大きなメリットだ。だが、そう言った生活上の不具合を解決すべく、ニブルヘイムでは魔力を扱う技術、即ち魔術が発達したのだ。世界的にもニブルヘイムは魔術においてはトップクラスである。ヨツンヘイムでは、軍関係以外での普及はまだまだだ。ヴァナヘイムは更に普及が遅れ、魔術は未だに試験段階にしか過ぎない。魔力という人の精神を食い物とするエネルギーを持て余しているのだ。

 話がそれた。ともかく、ニブルヘイムには優れた魔力の技術が存在する訳だから、わざわざ多大な危険を冒してまでヴァナヘイムに侵略する必要性はないのだ。

 これはあくまで一騎士の見解であるから、政治的に重要な立場に居る人間にしてみればそんな簡単な事ではないかもしれない。しかし、幾らなんでもこんな侵略まがいの事をしなくてはならないなんて……。聖騎士団に入団して以来、自分は聖騎士として自分の功績を積み上げていくのがたまらない喜びだった。高く積み上げれば積み上げるほど、それだけ多くの人々を救った事になるのだ。これほど名誉な事があるだろうか? 自分はまさしく人のために生きているのだから。そう、こんなにも自分が聖騎士である事を名誉に思っていたのに、今はそんな心の勲章はあえて裏返しにしていた。今の自分のしている事が、果たして名誉ある聖騎士団として相応しいものなのか。その答えが見つからないのだ。

 あと、一時間もすれば村につく。ニブルヘイムの民はおそらく何が何なのかさっぱり分からないだろう。最悪の場合、恐慌状態に陥り、死傷者が出てしまう可能性もある。とにかく、それだけは避けなければならない。

 自分達は侵略者ではない。村にはただ、中継地点としてだけ訪れたのだ。

 自分達は剣を振りに来たのではない。剣を振るのは、祖国を守る時だけだ。

 祖国を守る最強の“盾”。それが我ら聖騎士団なのだから……。

 

「予定通りだな……」

 団長はそう呟き、先ほど届けられたばかりの書状に燭台の炎を灯して焼き捨てた。書状の送り主は、ジュリアス・サイアラス隊である。

 書状にはいつもの暗号で、途中の村を占拠し滞在中、と記されていた。現在の目的地であるエリューズニルを目指すには丁度いい場所である。

「誰かいるか!」

 団長はそう声を張り上げた。すると、あまり間を空けずに一人の若い聖騎士が部屋の中に入ってきた。

「各隊隊長を集めろ。これより、本隊を進軍させるにあたっての会議を始める」

「ハッ! ただちに!」

 聖騎士はビシッと敬礼し部屋を後にする。

「もう少し、もう少しだ……。フッフッフ、年甲斐もなく血が騒ぎよる」

 団長は己の手のひらをぎゅっと握り締め、ゆっくり開く様を見つめる。

 大丈夫、握力の衰えはない。数年前にヴァナヘイムが侵略を受けた時の興奮を思い出す。

 血生臭い戦場を駆け巡る興奮。

 常に死神に背を狙われたままの、張り裂けそうな緊張感。

 剣を奮い躍動する己の体。

 全て過去の遺物として忘れ去られていた戦闘の興奮が甦ってきた。

 さあ、後少しだ。後少しで、この退屈だった時間に別れを告げる事が出来る。どんなに待ち望んでいた事か。

さあ、早く来るのだ。

そして、戦う事の中にしか真の喜びを見出せないこの老兵を満たしてくれ!