ズッ、ズッ、ズッ。
薄暗い森の中。
昼間でもほとんど光の届かないその地から、何かを引き摺る音が聞こえてくる。
引き摺っているのは、一頭の馬。その馬は雪よりも白く、その目は炎よりも赤い。
引き摺られているのは、一人の人間。四肢が力なくぐったりと脱力している。頭もがっくりと垂れ下がったままだ。そして何より目を引くのは、その人間が夥しい量の血で全身が真っ赤に染まっているところだ。おそらく自分の血だろう。
くうん、と時々、白馬は悲しげに鳴いた。まるでその人間に、目を覚ませ、とでも訴えかけているかのように。
それは動物の声でありながらあまりに悲痛で、聞く者の心を揺さぶる。
その声に引き寄せられ、木陰から小動物達がその光景を覗きに来る。
血まみれになった一人の人間の後ろ襟を噛み、後ずさりしながらその体を引き摺っていく一頭の白馬。そんな光景を、雪兎はその目でじっと見ていた。まるで珍しいものでも見るかのように。
ズッ、ズッ、ズッ。
白馬は何処へ連れて行くつもりなのだろうか、血にまみれたその人間の体をひたすら引き摺っていく。降り積もった純白の雪の上に、真っ赤な跡を残していきながら。
やがて目の前を通り過ぎていく白馬。
だが雪兎は、じっとその姿を見ていた。遠くに小さくなり、森の暗闇へ消えてしまうまで。
サイアラスがベースキャンプに戻ったのは、夜明けから小一時間経過した頃だった。
本隊はジュリアスのせいで出発が遅れ、また、負傷したサイアラスの部隊の聖騎士も、中にはヴァナヘイムへ帰らねばならぬほど酷い常態の者が数人出ていた。
「失礼します」
団長のテントを訪れるサイアラス。
団長は苦みばしった渋い表情をしていた。ジュリアスの気性は知ってはいたが、まさかここまでするとは思っていなかったのである。被害は甚大とまではいかなくとも、決して軽微と呼べるものでもない。何より、たった一人で聖騎士団にここまでのダメージを与えるほどの貴重な戦力を欠いてしまった事で、聖騎士団内の士気が下がってしまう事が何よりも恐れる所だ。
「サイアラスか。ジュリアスはどうした?」
「殺しました」
表情も変えずたった一言、そう短く告げるサイアラス。
「そうか……。何か持って来ているか? 証拠になるものを」
「はい」
そう言って机の上に差し出したのは、自分が折ったジュリアスの剣の刀身と柄、血がついて真っ赤になった、砕けた鎧の破片の三つ。鎧の破片はともかく、剣は紛れもなくジュリアス本人のものだ。聖騎士が使う剣は名のある名工が鍛え上げたもので、刀身にはそれぞれ持ち主の名前が刻まれているからである。
「ヤツの最後は?」
「私が斬り、そのまま谷底へ」
「なるほど……確かに、助からんな。幾らあやつでも」
そう言って、団長は机の上に並べさせた品を片付けさせる。
「サイアラス、エリューズニル攻略はお前が先陣に立て」
「私が? 斬り込んで血路を開け、とおっしゃっているように聞こえますが」
「そうだ。次期団長になる者は、そのぐらい出来なくては務まらぬ」
と、そこで立ち上がり、
「それとも、自信がないのか?」
「いえ……。御使命いただき、光栄の至りです」
慇懃に敬礼するサイアラス。
団長らしからぬ、不自然に挑戦的な口調。その顔には、嘲笑の色すら窺えるような気がする。
自分は試されているのか?
否。
見透かされているのだ……。
落下していく自分の体。
胸には大きな傷を抱えていた。
これまで親友だった男に付けられた深い傷。
痛い。
どうして彼は、自分を斬らなくてはいけなかったのだろう?
どうして彼は、死にゆく自分に、最後に謝ったのだろう?
彼の守りたいものとは、一体何だったのだろう?
と、その傷ついた胸に、懐かしさがよぎる。
あの人は今、どこで何をしているのだろう、と。
その、懐郷にも似た感情が、傷ついた胸を容赦なく締め付けてくる。
あの日、あの瞬間、何もかも壊れてしまった。
願わくば。
戻りたい。
二人と楽しく過ごしていた、あの頃に。
でも、きっともう無理なんだろうな……。
覚悟していた事ではあるけど。
けど、辛い。
ズキン!
「うっ……」
突然、胸が鋭く痛んだ。そのあまりの痛さに、思わず身をよじる。
かはっ、と息を漏らす。
焼け付くような痛み。熱く熱せられた鉄棒を押し当てられているかのようだ。
「あっ、いけません。まだおとなしくいていて下さい」
女性の声。
一体、誰? 私には聞き覚えがない。
激痛に苦しみながらも何とか意識をしっかり保ち、表情を歪めながらも目を開ける。
その先に見えたのは、黒髪の若い女性。
彼女は水でしぼったひんやりと冷たいタオルで額の汗を拭ってくれる。
「これを飲んで、もう少し眠っていて下さい」
彼女は小さな白い錠剤を口の中へ含ませた。そして、病人看護用の水差しを口元に当てる。
「飲めますか?」
そう訊ねられ、僅かに頭を縦に動かす。
口の中にぬるく冷まされたお湯が少し入り込む。そのお湯と一緒に、口の中で溶け出してきた錠剤と苦味を飲み込む。
彼女はまぶたに手のひらを当て、そっと閉じさせた。
それを合図に、次第に意識が薄れていった。傷の痛みも鈍く収まっていく。薬のせいだろうか?
そのまま、かくん、とあっさり眠りに落ちてしまった。何も考えられないままに。