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 出発は明朝と決まった。

 聖騎士団を先行部隊と本隊に分け、まずは先行部隊が国境を突破して一気に北上。そのままニブルヘイムの主要都市の一つである『エリューズニル』を占拠する。以後、この都市を拠点とし、ニブルヘイム王都を陥落させるのである。

 その先行部隊には、ジュリアスとサイアラスの隊が選ばれた。拠点を確保するという重要な任務だけに、団内で一、ニの実力を誇る彼らが選ばれたのは当然の結果と言える。

「じゃあな。俺はこっちの部屋だから」

 会議後、それぞれの自室に戻る途中。廊下の別れ道で、そうサイアラス。

「はい。では、また明日」

「明日も早いんだ。夜更かしなんかすんなよ」

「子供じゃないんですから。分かってますよ」

 そう言って別れ、ジュリアスも自室の方へ向かった。

 部屋に戻り、まずは明日に必要なものをチェックする。それから渡された資料に目を通し、再度明日の予定を確認する。それらが済むと、早めに就寝するため湯を浴びて灯りを消し、寝室に入った。慣れないベッドで、その上過度にマットが柔らかかったが、体は大分疲れていたので、すぐにうとうとし始めた。

 トントン

 と、夢と現実を行ったり来たりするようになった頃、部屋のドアを誰かがノックする音が聞こえた。

 はて? これは夢だろうか? それとも本当に聞こえているのか?

 トントン

 再度、ドアをノックする音が聞こえる。やはり誰かが来ているようだ。

 こんな時間に誰だろう。眠りを中断された事にムッとしながらも、何か急な用事かもしれないと思い、ジュリアスはベッドから起き上がって寝室を出る。

「どなたですか?」

 ドア越しにそう訊ねる。

「あの、その、夜分申し訳ございません。アズサです」

 するとドアの向こう側から聞こえたのは、アズサのやけに恐れ入った遠慮がちな声だった。

 女性なら、とジュリアスは表情を普段の穏やかなものに戻す。そしてカギを外し、ドアを開けた。

「あ、その、おやすみ中でしたでしょうか……?」

「いえ、丁度今、ベッドに入ろうとした所です。さ、どうぞ」

 そう言って優しくアズサを中に招き入れる。

 アズサは手早く持っていた灯りの火を部屋の燭台に灯していく。すぐに部屋はポッと明るくなった。

「こんな時間にどうかしましたか? ここまで来るのも寒かったでしょうに」

「いえ、その、ちょっと……」

 ジュリアスは普段の優しげな表情で問い掛けたが、アズサは以前にも増して小さな声でそう答えるだけだった。元々おとなしい性格なだけに、どこか具合でも悪いかのようにすら思える。

「まあ、何でもいいですよ。せっかくですから、少しお話でもしていきませんか? なにやら良さそうなワインもありますから」

 ジュリアスはそんなアズサをソファーに座らせ、奥からワインとグラスを持ってきた。あまり趣味のいい部屋ではなかったが、ワインだけはいいものばかりあった。だがそれも、一人でとうとうと飲むのは寂しいと思っていた所である。無論ジュリアスは、サイアラスなどと男同士で飲む事は初めから除外していた。

「あ、あの、私があります」

「いいですよ、これぐらい」

 ジュリアスはグラスをアズサに持たせ、ワインの口を切ってコルクを抜き、グラスに注ぐ。それから自分のグラスにも注いだ。炎の柔らかな光に照らされ、鮮やかな赤い影がテーブルの上に映える。

 ジュリアスはアズサの脇に座り、グラスを近づけた。

「では、二人の出会いに乾杯」

「乾杯……」

 チン、とグラスをぶつけ、口へ。

 思った通り、グラスの中のワインは素晴らしいものだった。豊潤な味わいが舌から口の中に広がり、思わず溜息が漏れてしまう。

しかし、こういった素晴らしいワインも、ああいういかにも名前だけで物を買うような者の元に置かれていると思うと、なんだかワインが可哀相に思えてくる。味の分かる人間に飲んでもらうのがワインの幸せなのだから。

「こんなにいいワインを飲むのは久しぶりです。ほら、アズサもどうぞ」

「はい……」

 じっとワインの水面が揺れる様を見つめているアズサ。

 まるで、何かを思い詰めているようだ。本当に先ほどから元気がない。一体どうしたというのだろうか。

 と、アズサが突然、グラスを口元へ運んだ。するとそのままワインを一気に飲み干してしまった。ゆっくり味わって飲んでいたジュリアスは、唐突なアズサの行動に唖然とする。

「どうかなさったのですか? そんなに一度に飲んでしまっては勿体無いですよ」

「その……早く酔ってしまった方が楽かと思って……」

 空になったグラスをテーブルの上に置き、ふう、と溜息。

 見る見るうちにアズサの顔が紅潮し出してきた。どうやらあまりアルコールには強くはないようである。

「楽?」

「その……御館様に、ジュリアス様の夜伽を命じられて、その……」

 アズサはジュリアスの視線を避けるように視線を下にそらす。

「私、実家には弟と妹が四人もいて、それで仕送りをしなくてはいけないんです。だから、その、ここを辞めさせられる訳にはいかなくて……その……」

 なるほど、とジュリアスは溜息をついた。いかにもあの男がやりそうな、余計な世話である。

 しかし、自分もこういう風に怯えられるように思われていたのだろうか? だとしたら、少し心外である……。

「アズサ、私はね、望まない行為を強制させる趣味はないんです。ですから、今夜は御自分の部屋に戻っても結構ですよ」

「けど、私、御館様の御言い付けを守らないと……」

「困りましたね。実は私には、ちゃんと心に決めた女性がいるんですよ。私自身、そういうのも嫌いではないんですが、嫌々されてもね。それに、私は明日は早く発たなければなりませんから。あなたも部屋に戻って下さい。あの人には私がうまく言っておきますから」

「あの……よろしいのですか?」

「ええ。それに、あなたはもう少し御自分を大切にした方がよろしいですよ」

 そう言ってジュリアスは微笑んだ。

「あの……ありがとうございます」

「いいえ。では、せっかく開けたんですからもう一杯飲んでいきませんか?」

「い、いえ、私はお酒は本当に弱くて……もう頭がボーッとしてるんです」

「それは残念。なら、またいつかここに来る機会があった時にいたしましょう」

 その後、ジュリアスは笑顔でアズサを見送った。

 部屋にはアズサが持ってきた灯りと空になったグラス、そして半分以上が残ったワインボトルだけになった。

「やれやれ……一人で飲むのは寂しいものです」

 自分を担当していたメイド達の中には、酒に弱い者は一人もいなかった。そのため酒の相手には困る事はなかったが、みんな二人きりではなく二人か三人でしか部屋には来てくれなかったので、本当にただ酒を飲んで騒ぐだけだった。それも確かに嫌いではなかったが、たまには二人きりで静かに飲み明かしたいものである。特に、あの人と。

 ジュリアスはボトルを手に取り、再びグラスの中をワインで満たす。甘い香りが漂ってきたが、さして感動はなかった。

「さて、全部飲み終えるには……もう少しかかりますね。おいしくても、なんか拷問みたいです」

 ふと、これを持ってサイアラスの部屋に行こうかと考えたが、やはり思い留まった。自分が求めているのはそういうのではない。それに、男同士だと会話が続かなくて気まずい思いをするのだ。

 飲みかけのまま放っておこうかと思ったが、やはりそれはどうしても勿体無くて出来なかった。

 そんな自分が、少し意地汚く思えた。

 

 翌朝。

 ジュリアスはアズサの声で起こされた。どうやらあの後、カギをかけ忘れて眠っていたらしい。

 頭が少し重かった。酔いも覚めぬまま眠ってしまった事が原因である。もっとも、任務に支障をきたすほど酷いものではなかったが。

 仕度を済ませ、部屋で朝食を取る。その後はこのまま集合場所となっている屋敷の庭の一角に向かえばいい。

「あの、ジュリアス様。お時間が……その……」

 アズサにそう言われ、ゆっくりパンを咀嚼しながら時計に目をやる。

 集合時間まで、後十分。

「あ、本当です。ではそろそろ急いで行きましょうか」

 とは言いながらも、その動作は余裕たっぷりで随分と緩慢としていた。

「これでしばらくはアズサともお別れですね。はあ、寂しい」

「いえ、そんな……」

「最後にお別れのキスを」

「え!? あ、いや、その……」

「なんてね。冗談ですよ。それでは、行って来ます。アズサも体には気をつけるんですよ」

 照れで顔を真っ赤にしたままのアズサにそう告げ、ジュリアスは部屋を後にした。

 と、そこへ、

「おい、この馬鹿! 今頃何やってんだ!」

 サイアラスの声。どこからか全力疾走でもしてきたのか、随分と息が荒い。

「おや? おはようございます」

「おはようじゃねえ! 今、何時だと思ってんだ!」

「まだ十分ほど時間がありますが」

「十分後には出発するんだよ! 何を聞いてんだお前は! とにかく急ぐぞ! 団長にどやされる!」

「う……それは嫌です」

 団長にどやされるといっても、それは言葉だけで終わるような生易しいものではない。下手をすれば人生そのものを終わらされかねないような物理的制裁を食らわされるのだ。

 二人は大急ぎで集合場所へ走り出した。とにかく今は、少しでも早く着くことだけを考える。

「おや、お二人様。おはようございます」

 と、その時、廊下の向こうから領主の姿が現れた。

 どうしてこんな時間に起きてるんだ! 十中八九御機嫌取りに間違いなかったが、一応は世話になった人物なだけに、聖騎士としても無視する訳にはいかない。

「ああ、クソ! 鬱陶しいヤツがいる! ジュリアス、いちいち相手するのは面倒だから、こっから行くぞ!」

 サイアラスは廊下の窓を開け、窓枠に足をかけるとそこから颯爽と飛び降りた。彼らは三階程度の高さならば、飛び降りても平気なほどの訓練は受けている。この程度の事は何でもない。

「いやあ、聖騎士団の方々は素晴らしい身のこなしをなさいますなあ」

 いかにもゴマを擦っている表情で領主は窓の外に視線を向けながらジュリアスに近づく。

「ところで、ジュリアス様。昨晩はいかがでしたでしょうか? あの生娘、お気に召しましたか?」

 下卑た笑い声を立てながら、嫌らしい目つきでジュリアスを見上げる。

 すると、

「長生きをしたければ、余計な詮索はしない事です」

 一瞬、凄まじい殺気がジュリアスの体から放たれた。

 領主は心臓を鷲掴みにされたような恐怖を覚え、思わずその場にへたり込む。

「彼女の後ろには、常に私がいると思いなさい」

 そう冷たく吐き捨て、ジュリアスも窓辺に足をかけた。

「サイアラス、待って下さいよー」

 そしてそのまま、下へ飛び降りた。