トントン。
「あれ?」
深夜。ジュリアスが明日に向けての仕度をしている最中、不意に自室のドアがノックされた。
特に誰かと約束している訳ではない。かと言って突然の訪問客が来るには少し遅い時間だ。
こんな遅くに誰だろう?
そう思いながら、ドアを開ける。
「こんばんは」
「あ、シャルル?」
訪問客はシャルルだった。仕事を終えたのか、見慣れたメイド着ではなく普段着に着替えている。見慣れない姿をしているというだけで、何やら新鮮な感覚。
「どうしたんですか? こんな夜更けに」
とは言いながらも、返事を待たずに肩を抱くようにして部屋の中に招き入れる。
「この間の埋め合わせをしていただきに参りました」
「この間?」
「自分から誘っておきながら、せっかく訪ねても御不在でしたから」
ハッ、と先日の事を思い出す。
あの夜は急に団長に連れ出され、訳の分からないまま決闘まがいの事をさせられた。その後はまっすぐ部屋に帰ってそれで終わり。考えてみればあの時は、その事で頭がいっぱいでシャルルとの約束を忘れてしまっていた。部屋には来なかった訳だから、丁度運悪く入れ違いになってしまっていたようだ。
「その御様子ですと、どうやらお忘れになられていたようですね」
「まさか。私は一時たりとも君の事を忘れた事はありませんよ」
肩にかけていた腕に力を入れて体を引き寄せて密着させると、じっと熱い視線を送ったままもう片方の手をそっとシャルルの顎に触れ、自分の顔と近づけさせる。
しかし、それを受けるシャルルの視線は冷め切っていた。
「まったく……。たまには真面目に振舞ったらどうなんです?」
「私はいつも真面目ですよ?」
そう言って唇を近づける。が、それよりも早くシャルルの膝がジュリアスの脇腹に決まった。呼吸が止まるほどの衝撃を受けたジュリアスは、一瞬視線が空中を舞った。
「うう……君の愛は少し痛いね……」
痛みに苦しむジュリアスの腕から逃れるシャルル。だが、そんな彼を気づかう様子は一片たりともない。
「どうしてあなたはいつもそうなんです?」
「何か変でしょうか?」
「御自分の気持ちを伝えたかったら、もう少しそれらしい態度を示したらどうなんです? そんなに軽々しく言われたところで、その言葉を信じてもらえると本気で御思いなのですか?」
「は、はあ……」
「とにかく、今日はこれだけが言いたくて来ただけですから」
さっと踵を返し、ドアノブに手をかける。と、そこで一度振り返り、
「もしかしたら、これで今生の別れになるかも知れませんからね」
そう言い残し、シャルルはドアを開けたままそそくさと部屋を後にした。
「……やれやれ。難しい女性ですねえ……」
王宮の朝は早い。
位の高い者達は昼前まで寝ている事もあるが、使用人達は日も昇る前から仕事のために起きなければならない。
今朝は特に忙しかった。何故なら、今日はニブルヘイムへの出陣の日なのだからである。
ジュリアスは毛布に包まって、静かな寝息を立てていた。
と、その部屋に向かう数人の足音。何やら忙しそうに急いでいる様子だ。
ガチャガチャ
ドアノブを捻る音。しかし、カギがかかっているためドアは開かない。
が、
ガチャン
突然、カギが外れた。外側から別の鍵が用いられたようだ。
部屋に入るなり、足音はさっと散開し、それぞれの持ち場につく。一人はテーブルの上の夜食の跡を片付け、一人は朝食を運び込む。そして一人はジュリアスの眠る寝室へ。
「ジュリアス様、起きて下さい」
その一人が、ジュリアスを揺り動かす。
「……うーん」
「早く起きて下さい。今日は大切なあの日でしょう?」
しかし、ジュリアスはいつまでもぐずってなかなか目を覚まそうとしない。一人、いやジュリアスの担当するメイドの彼女は、より腕に力を込めて揺り動かす。
と、突然。眠っているはずのジュリアスが、そうとは思えないほど機敏な動きで彼女の腕を掴んだ。
「きゃっ!?」
そのまま物凄い力で自分のベッドの中へ引っ張り入れる。あまりに鮮やかで、ある意味達人的なその技の前に、彼女は抵抗する暇も与えられなかった。
「うーん、なんですか? まだ日も出てないというのに……。この感触は……ウェンディですね」
「ちょ、ちょっと、ジュリアス様!? いつまで寝ぼけているんですか!」
ガン、とジュリアスだけがベッドの外へ蹴り出される。そのまま勢い余って寝室のドアの方へ転がる。と、その時、偶然にもドアが開けられ、転がってきたジュリアスの頭を直撃する。
「いつつ……」
「まったく、あなたは一体どういう神経をしているのですか?」
寝室に入って来たのはシャルルだった。
床で這いつくばりながら頭を押さえるジュリアスの姿を呆れ顔で見下ろしている。
「あまり私共の手を煩わせないで下さい。もういい歳なんですから」
「私達はお互い適齢期……」
「ほら、早く立って下さい。出発に遅刻したら部下に示しがつきませんでしょう」
今日はニブルヘイムへ発つ日だ。全ては国民にも極秘で行われるため、早朝の日も出ていない時間に出発するのである。無論、大部隊でぞろぞろという訳にはいかないので、各個小隊ごとにルートが割り振られ、合流地点や経過報告の手段が用意されている。
半分頭が眠っているジュリアス。しかし完全に目覚めるまで待つほど時間に猶予はない。仕方なくメイド達は二人がかりでジュリアスを持ち上げ、洗面所へ。血が出ない程度に髭を剃り、野菜を洗うように顔を洗う。それからリビングに運び込み、着替えと朝食を同時進行する。一人が食事を口の中に突っ込み、三人が聖騎士団の制服に着替えさせ、後の一人が時間をチェックしながら髪をとかす。
ようやく全ての作業が終了した頃、ジュリアスの頭も目覚めてきた。
「まったく、どうしてこれだけの事が一人で出来ないのですか? これだから貴族出身者は」
「ごめんね、君達。今はこれで許して―――」
と、何か行動を起こそうとしたその瞬間、
「御気をつけて!」
まるでそれを予想していたかのようなタイミングのよさで、メイド達に部屋から叩き出された。
廊下に頭から飛び出すジュリアス。なんとか体勢を整えて転倒はしなかったが、がちゃん、と部屋のカギが内側からかけられる音が聞こえた。早く行け、という意味である。
「やれやれ……。もう少し別れを惜しんでくれてもいいのに。皆さん、照れ屋さんですねえ」
「誰がですか?」
突然、背後から声。
驚いて振り返ると、そこにはジュリアスの剣を手にしたシャルルの姿。
「もう、また気配を消して後ろに立ってたんですか」
「これぐらい察知できなければ、戦場では命を落としますよ? はい、忘れ物」
そう言って剣を手渡すシャルル。
「ありがとう」
剣を持つ彼女の手に自分の手を覆い被せるように受け取るジュリアス。そのまま一緒に握り込み、ぐっとすぐ傍まで距離を近づける。
「勝利のキスはないのですか?」
「他に幾らでもいらっしゃるでしょう?」
やはり、いつもの冷たい切り替えしだ。
「私はシャルルに頼んでいるんです」
「私は、デリカシーのない方は嫌いです」
そう言って手を振り解く。
「早く御行きになって下さい。もう、時間はありませんよ」
「……はい」
残念、と肩を下ろして背を向けるジュリアス。そのままとぼとぼと歩き出す。
少し冷たくし過ぎただろうか? 彼の小さな背中を見送るシャルルは、胸が少し痛んだ。
そして、ジュリアスの姿が角を曲がって消えかけたその時、
「御気をつけて!」