* 戻る

 

 

 ジュリアスは虚ろな表情で剣のくもりを拭っていた。その目に生気はなく、どこかボーッとしている。

 剣の手入れをする事がこんなに憂鬱なのは初めての事だ。先ほどから溜息ばかりついている。

「あ……」

 と、ジュリアスはうっかり剣を手落とす。

 拾い上げようと床に手を伸ばし、そのまま凝固。

 果たして自分はこの剣を持つべきなのだろうか?

 そんな疑問に頭を締め付けられ、沈黙する。

 

 事の始まりは、ジュリアスが団長と剣を交えたあの晩から三日後の事だった。ジュリアスの部屋に一通の書状が届けられた。題目には『ニブルヘイムについての調査報告』と記されていた。

 

「それはどういう事ですか!?」

 会議室内にジュリアスの怒号が響き渡った。

 会議に参列しているのは、一部隊の隊長などの重役クラスの人間ばかり。その彼らの視線が一斉に激昂するジュリアスに集まった。

「どういう事? 聞いての通りだ」

 団長はジュリアスの怒号を受けても眉一つ動かす事無く、平然とそう答えた。

 今話題に上っているのは、あの日団長がジュリアスに話した戦役の事についてである。

 現在この大陸は三つの国で分割されていた。南西にヴァナヘイム、北にニブルヘイム、南東にヨツンヘイム。これら三国は、かつては幾度となく互いに侵略戦争を繰り返していた。そしてある時、このまま三つ巴を続けていては互いに消耗するだけだ、と悟った各国の代表者達は一堂に集い、互いの領地への絶対不可侵を約束する和平条約を結んだのである。

 この条約が結ばれるまでに出た三国の戦死者は、100万とも200万とも言われている。だがこの数字はあくまで公式上での記録であり、実際はその五倍十倍はあると推測される。

 今回の戦役とは、ヴァナヘイムがニブルヘイムに侵略戦争を仕掛けるというものである。その結ばれたはずの条約を無視してまで。

 それは過去の記憶として消えかけていたあの、三国の三つ巴戦争という惨劇を繰り返す事になる。ジュリアスはそれを叫んでいるのだ。しかし、それに対して周囲の反応は冷たいものだった。今この場で、反対派はジュリアス一人である。

「それに、ヴァナヘイムとニブルヘイムの戦力差は報告書にある通りだ。万が一にも負ける事は無い」

「たとえ勝とうとも、どれだけの犠牲が出ると思っているんですか! せっかく各国との関係に摩擦が消えかけているというのに、それを破棄してまで仕掛けるメリットはどこにもありません!」

 一歩たりとも退く様子を見せないジュリアス。そんな様子を見た団長は、やれやれとでも言いたげな苦い表情を浮かべ、肩を下ろす。

「ならば問うが、お前は何のために聖騎士団に入った? 貴族という恵まれた立場に生まれながら、何故あえて危険の付きまとう戦いの世界に身を投じる?」

「それは民衆のためです。力のある者が力のない者を守るのは至極当然の事です。私にはたまたま剣の才がありました。それを最大限に生かすための場を求めた結果、聖騎士団に辿り着いただけです。私の剣はあくまで民草のためのもの。略奪のために奮うものではない!」

「いいか、ジュリアス。今回の戦役は、何もそんな単純な理由で決定した事ではない。侵略、という言葉を借りてはいるが、実際は侵略を仕掛けようとしているのはニブルヘイムの方だ」

 く、と歯噛みするジュリアス。

 確かに報告書にはそう書かれている。だが、はっきり言ってその信憑性は疑わしいものがある。情報の出所が、外部に委託した諜報機関によるものだからだ。かと言って、その情報が正確ではない証拠もない。ならば今はその情報を信じるしかない。

「知っての通りニブルヘイムには、もう三十年ほど前から魔術を初めとする総合的な戦闘術を学ばせるアカデミーが各地に建設されている。それぞれの設立者は個人だが、設立の際に国が資金の援助したという情報が入ってきている。これがどういう事を意味するか分かるか? 教育という体裁を整えてはいるものの、これはニブルヘイムが戦力の強化を行っているに他ならない。それは何のためか。もはや言うまでもないだろう」

「それは憶測でしょう」

「憶測だけで兵を動かすと思うのか? 今回の入手した情報には、ニブルヘイムの裏の国家予算についての報告もある。見ろ、軍事費だけが近年特に増加傾向にある。我が王はこれを見て確証し、出兵する事を御決断なされたのだ」

ジュリアスには未だ釈然としない部分があった。

本当にニブルヘイムは侵略を仕掛けようと企んでいるのだろうか? 確かに近年におけるアカデミーの数の増加は著しいものがある。それを戦力の強化と結びつけるのは自然な事だ。しかし、どうもおかしい。まるで、全てが出来すぎている気がする。情報もあまりに揃い過ぎて逆に疑わしい。

「とにかく、これらは全て決定された事だ。お前が何を言おうと結果は覆らぬ」

「……」

 ジュリアスは無言のまま着席した。

 その様子を満足げに見る団長。しかしジュリアスは、この決定に納得した訳ではない。

「ジュリアス、貴様の言い分も分からぬ訳でもない。だがこれは、あくまで国民を守るためだ。そのために先手を打つためにこのような形になってしまっただけだ」

 互いの視線を真っ向から受け止める。団長の視線は熱く、ジュリアスの視線は冷め切ってはいるが。

「その身に代えても国民を守る事が聖騎士団の正義だ。お前とてそれは同じであろう?」

 目を伏せるジュリアス。それから黙したまま、決して口を開こうとはしなかった。

 

 正義? これが?

 人を守る事。それが聖騎士団の正義。

 だけどこれは……。

「私が間違っているのでしょうか……」

 ジュリアスは床に転がった剣を掴み上げた。剣には“ダモクレス”の文字。裁きを下す裁断の剣。

 何か違和感のようなものを感じて仕方がない。だが今は、国王の命令に従うしかない。

 自分は、聖騎士なのだから。