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村から大分離れ森の中に入った。

早朝の森の中はまるで夜のように暗く、暗闇に目が慣れてきても視界がいまいち安定しない。辛うじて木との衝突を避けながら歩いている状態だ。

「痛ッ……」

 と、ピッと鋭い音が頬をかすめる。思わず押さえると、ぬるっとした感触がした。どうやら、木の枝にかすったようだ。暗くて目の前に伸びているのに気がつかなかったようだ。

 意識を自分の背後へ向ける。

 居る。

 まだ追いかけて来ている。

 サイアラスの黒い影が、暗闇に紛れて自分の後を正確に追って来ている。獲物を狙う豹の如く。

「まずいですね……」

 あのままサイアラスを撒き、自分は村人達を避難させた所に向かうつもりだったのだが。このままではみすみすサイアラスをそこへ案内させてしまう事になる。

 仕方ない。

 ジュリアスはやや馬の走る速度を落とす。あぶみから足を外して片足を鞍の上に置き、手を手綱から首筋へ移す。

 3、2、1―――!

 タイミングを見計らい、ジュリアスは馬から飛び降りた。

 草むらに転がりながら着地。馬はそのまま一人で走っていく。

 うまくいった。馬は一人でもベースキャンプに帰る事が出来る。自分は、サイアラスが無人の馬を追いかけている隙に姿をくらまそう。

 本当に僅かに差し込む光を手がかりにしながら、暗い森の中を進んでいく。先ほどまでのルートはサイアラスと遭遇する可能性があるため、目的の場所に行くには迂回して行かなければならない。徒歩で、尚且つ遠回りする訳だからかなり時間がかかる。早くクルスが迎えに来てくれればいいのだが。そうすればサイアラスに見つかっても、一気に振り切る事が出来る。

 黒い恐ろしげなオブジェに似た木々が立ち並ぶ森を突き進む。ある程度の方角は分かっている。自分は方向感覚に自信はあるのだ。

「おや?」

 と、突然森が開け、平野のような場所に出た。

 いや、平野と呼ぶには狭い。すぐ10mほど先は切り立った崖になっている。反対側の崖まではおよそ30mといった所か。少なくとも人間が跳べる距離ではない。クルスぐらいの脚力がなければ。

「ここは……。森の奥を目指していたはずなのに。どこかで道を間違えましたかね……?」

 首をかしげ、方位磁針を取り出す。自分はどんな暗闇でも東西南北を正確に指し示せるのに。

 案の定、針はぐるぐると回っていた。それを見て思わず、しまった、と顔をしかめる。おそらくこの辺りの地層には磁気を含んだ鉱石を多く含有しているのだろう。そのせいでおかしな磁場が出来てしまっているのだ。自分の方向感覚が狂ってしまったのもそのせいに違いない。

 まずい、おそらく皆はこの辺りの地形を知っているから迷わないのだ。しかし自分は地形などまったく知らない。困った。これでは異境の地で迷子になってしまったのと同じ状態だ。いよいよクルスの迎えを待たなくてはならない。

「取り敢えず、一度引き返しますか」

 仕方がない、と肩をすくめ、くるっと踵を返す。

 が、

「!?」

 振り向いたその先から、突然、身の毛もよだつほどの殺気をぶつけられた。一瞬、全身が凍りつき、その場に直立してしまう。

 まさか……。

 ゆっくりと森の影から殺気の主が姿を現す。

「まさか、あんな手で俺を騙せると思ったのか?」

 聖騎士団の甲冑をつけた軍馬の姿。

 そして、その上にまたがる一人の男。

 表情は仮面のように乏しく、またその口調も人間らしい情緒の一切を失っている。

 男は馬から飛び降り、ジュリアスの目前に立ちはだかった。そして躊躇う事無く、腰の剣を抜く。

「サイアラス……」

 溜息のような、力のないジュリアスの声。まるで会ってしまった事を絶望するかのような口調だ。

「見つけたぜ。後ろは崖だ。逃げ場はない」

 そう告げ、ゆっくり剣を構える。

「サイアラス、どうしてなんですか!? 何故あなたはそこまで国に従順になれるんです!? どう考えても、これは人道的な命令ではない事ぐらい分かっているはずです!」

「ジュリアス、構えろ。無抵抗のまま殺すのは惜しい」

 叫ぶジュリアスに対し、サイアラスは極めて冷徹な口調で淡々としている。

「そんなに金が欲しいのですか!? 一体、どれだけの価値があるというんです! ほんの少し、暮らしが楽になるだけではないですか!」

「俺は、そのほんの少しが欲しいのさ」

 と、サイアラスがいきなり踏み込んでくる。

「くっ!」

 咄嗟に剣を抜き、その一撃を受け止めるジュリアス。

 ぶつかりあった剣が、キン、と小気味良い音を鳴らす。

「お前は何のために戦っている? 恵まれた境遇を捨ててまで、どうしてこんな血生臭い戦場に立つんだ?」

 重なり合った剣の向こう側から、相変わらず仮面のような表情でサイアラスがそう問う。

「決まっています! 私は力のない者を守るために戦うんです! それが私が剣を持つ理由でもあり、聖騎士団の存在意義でもあります!」

「だがその聖騎士団は、敵国の民衆を殺そうとした。それがお前は気に入らないので、こういう形で反発した」

「だからどうしました!? 無抵抗の弱者が蹂躙されるのをただただ見過ごせるほど、私は愚鈍ではない!」

「お前は、弱者を守るために剣を取るのか? 自分を犠牲にしてまでも」

「あなたには守るものがないのですか!?」

「あるさ。だがそのためには金が必要なのさ。途方もない、な」

 サイアラスの力が強くなる。ジュリアスの体がジリッジリッと後ろへずれていく。自分は全力を振り絞っているにも拘わらずだ。サイアラスの方がまだ遥かに余力がある。

「今、ここでテメエを殺せば、次期聖騎士団団長は間違いなく俺にお鉢が回ってくる。知っているか? 団長ってのは、給金は聖騎士だった頃とは比べ物にならない額が支給されるんだぞ」

「サイアラス! あなたは、金のために私を殺したいんですね!?」

「ああ、そうだよ。俺は何が何でも金が要るんだ!」

 突然、強引にジュリアスを弾く。

 体が後ろへと浮き上がり、飛ばされる。だが、すぐに空中でバランスを取り戻し、追撃に備えて身構える

「たとえ、一生自己嫌悪に苦しむ事になってもな!」

 サイアラスは剣を振り上げ、突進する。

「死ね!」

 サイアラスが最も得意とする上段からの必殺の一撃。あれを真剣でまともに受ければ、人間など紙のように両断されてしまう。無論、剣での防御など全く効果がない。

 くっ……。やるしかありませんね……。

 本気のサイアラスを相手に、手加減してどうにか出来るほどの技量は自分にはない。悲痛の思いで覚悟を決めるジュリアス。

 ジュリアスは剣を下段に構えた。そして的を、がら空きとなったサイアラスの胴体に絞る。

 行きます!

 間合いに入った瞬間、疾と踏み込む。

手加減のない自分とサイアラスの力の相乗効果で胴を薙げば、命の保証ははっきり言って出来ない。

本当にこのまま剣を振りぬいていいのか?

迷いの呪縛が頭から離れない。

「二度も、同じ手にかかると思うか?」

「!?」

 と、突然、サイアラスは上段に構えていた剣を中段の構えに変化させる。

 次の瞬間、上から下へ打ち下ろすはずの斬撃が、下から上にしゃくりあげるような凄まじい突きに変わり、稲妻のようにジュリアスを襲う。

「しまった!」

 咄嗟に剣でそれを防ぐ。

しかし、

バキン!

 逆に防いだジュリアスの剣が根元から折れてしまった。

二人の力の相乗効果と、更にこれまで何十人もの聖騎士を相手にしてきたせいで、剣自体が疲労していたのだ。たとえ必殺の一撃ほどの威力はなくとも、疲労した剣を折るぐらいの威力は十分にあったのだ。

衝撃に手が痺れ、柄だけになった剣を取り落とす。

「許せよ……」

 そう短く告げ、サイアラスは剣を下段に構える。

「くっ」

 咄嗟に後ろへ飛び退くジュリアス。だが、それも間に合わない。

 轟、とうなりながら、剣がジュリアスの体を下から上へ斬り上げる。

 うっ……。

 冷たい衝撃が体を走る。

 それに遅れて灼熱のような熱い感触が、衝撃の走った後から吹き上げた。

 後方に跳んだ反動とサイアラスの剣の威力で、大きく後ろへ跳んでいくジュリアスの体。

 そのままジュリアスの体は、深い谷の奥底へ消えていった。

 

「くそっ……」

 ジュリアスの最後を見送ったサイアラスは、がっくりその場に膝を落とした。

「ちくしょおおおおおおおっ!」

 込み上げる怒りのままに吠えるサイアラス。

 その怒りは、他でもない。自分自身に向けられたものだ。

 ばん、と雪の積もった地面に両腕を叩きつける。そこには、ジュリアスの鮮血の跡が生々しく残っていた。

「くそお……」

 手をつき項垂れたまま、サイアラスはしばらく動こうとしなかった。