* 戻る

 

 

「馬鹿野郎ッ!」

 ガツンッ、という衝撃が頭の中に響き、座るように倒れ込む。口の中にじわっと嫌な味が広がった。

 穏やかならぬ音の響く待合室に緊迫した空気が漂う。

 ここは、ジュリアスも世話になった医者が営むガルムの診療所だ。近隣の医者は皆戦争の衛生兵に借り出されてしまってはいたが、この田舎の診療所の医者は戦争に行くには年老い過ぎていたため、幸いにも借り出されなかったのである。

「すみません……」

 自分を憤怒の形相で見下ろす彼。だが、今はそんな言葉しか思い浮かばなかった。

「すみませんじゃねえだろ! テメエがついていながら、なんでこんな事になるんだ?! 一体テメエは何をしてたんだよ!!」

 彼―――コンゴウは、床にへたり込んでいる自分の胸ぐらを掴み上げ、なおも食いかからんほどの勢いで怒りの罵声を浴びせる。

「いい加減にしろコンゴウ!」

「なんだよ?! 兄貴は腹が立たねえのか?!」

 鋭い声で制止をかけるヤシャ。

 しかしコンゴウの怒りは収まらず、今度は兄に向かっていく。

「こいつがついていながら、モミジがあんな目に遭ったんだぞ?! 大方、どこぞの女に見惚れてたんだろうよ!」

 パンッ。

 と、鋭い音。

 コンゴウは驚いた顔で頬を押さえる。スッとヤシャは揮った手のひらを引く。

「言葉が過ぎるぞコンゴウ。冷静になれ。すぐに感情的になるのはお前の悪いクセだ」

「くっ……」

 ぎりっと奥歯を噛み、コンゴウはくるっときびすを返す。そのまま待合室から出て行った。

「大丈夫ですか? すみません、愚弟は昔からあのような気質でして、あの歳なっても直らなかったのです」

 ヤシャは普段通りの穏やかな表情で、床に座り込んでいる自分に手を差し伸べてくる。

 ジュリアスはその手を取りかける。が、不意に躊躇いが生じ、手は途中まで伸びて再び引っ込む。

「すみません……私がついていながらこんな事になってしまって……」

「お顔を上げて下さい。まだ、そうと決まった訳ではないのですから」

 そう言われ、また言葉を飲み込む。

「ジュリアス殿、お疲れでしょうから先にお帰り下さい。留守を頼む者を置いて来るのを忘れていましたので」

 この場に居辛い自分への気づかいだろうか。

「ええ、分かりました……。失礼します」

 とぼとぼと思い足取りで出て行くジュリアス。その背中がやけに小さく見えた。

 そして、待合室に二人が残された。

 アオイは真っ青な顔でイスに腰掛けている。

 ヤシャはそっと隣に座り、その肩を優しく抱きしめた。

「大丈夫、きっと助かる」

 その言葉に、アオイは無言のままこくっとうなずいた。

 

 まさかあんな事になるなんて……。

 廊下の縁側。そこに腰掛け、ジュリアスは虚ろな瞳で空を見上げていた。夜なのに曇っているからだろうか星が一つも見えない。寒期の深夜は酷く冷え込む。にも拘わらず、今は不思議とその肌寒さが感じられなかった。

 全ては自分のミスだ。あの時、確実に仕留めたかどうか確認を怠ったせいだ。

 自分の力を過信していたのだ。あの程度の相手ならこのぐらいで十分だ、と気を抜いていたせいで、モミジをあんな目に遭わせてしまったのだ。

 自分の力は人を守るための力なのに。

 なのに、守る事が出来なかった。

 一人でも守る事が出来なければ、自分の力は意味を成さない。

 人の命に、上下も多少もないのだ。

 中途半端な達成は、意思を貫徹した事にはならない。

 所詮、自分は何をやっても中途半端な温室育ちの元貴族か……。

 俄かに頭痛を覚え、たまらず頭を抱える。

 消沈した溜息。

 カサッ。

 と、その時。何かが零れ落ちた。ふと頭を上げる。

「これは……」

 零れ落ちたそれを拾い上げる。

 それは、自由市場で買った新聞だった。

 こんなもの、今は読んでいる気にはなれない。

くしゃっと握り締めようとする。が。

「ん?」

 その時、偶然目が新聞の見出しに見慣れた文字を捉えた。同時に、嫌なイメージが脳裏を過ぎる。

 何かに突き動かされるかのように丸めかけた新聞を広げ文字に目を走らせる。

「こ、これは―――」

 まず目に飛び込んできたのは、ニブルヘイム軍の勝利を示す大きな見出し。

 まさか、そんな―――!

 その見出しを必死で否定しながら、続きの文字を追っていくジュリアス。その表情には焦りと恐怖とが入り混じっている。

「ニブルヘイム魔術騎士団本隊とヴァナヘイム聖騎士団との戦闘は熾烈さを極める。第十四期聖騎士団団長サイアラスによる猛攻に、魔術騎士団は多大な被害を被る。遂には、神器トールを操る本隊第三部隊隊長、ティホル・マッケードまでもが戦死する。しかし、ヴァナヘイム聖騎士団の猛威もここで終わる。第一部隊隊長、エフル・マックイールの神器グングニルが聖騎士団団長サイアラスを打ち破ると―――」

 打ち破る。

 まさか……そんな―――!

 ぶるぶると指が震え出す。じんわりと嫌な汗が滲み出してきた。

「そんな……サイアラスが、まさかそんな―――ッ!」

 声にならぬ叫びが、真っ白な呼気と共に吐き出される。

 受け入れ難い事実。

 ジュリアスは衝動に任せて新聞を引きちぎった。

 幾つもの断片に細かく引き裂く。ここに書かれている事の全てを否定するかのように。

「サイアラスが、サイアラスが、そんな!」

 再び頭を抱える。

「サイアラスが負けるはずがない! 嘘だ! そんな事が、あるはずがない!」

 詰まった喉から裏返った涙声が搾り出される。

 悲鳴のような慟哭が、ひたすら現実を否定し続ける。

 だが、それはただの逃避にしか過ぎない。

 ジュリアスは、自分の中で何かが崩れていくのを感じていた。

 これまで、信念という決して折れない刃が自分の中にあった。その刃の心があったおかげで、如何なる時も自身の良心に従い正義を貫き通せた。

 だが、今、その刃は折れかけている。

 いや、もう折れてしまったかもしれない。

 あまりに強固な意志の故に、僅かなヒビでも簡単に崩れてしまう。

 今のジュリアスは、ただの人間に成り下がってしまっている。

 そして、ただ現実から目を背けようと嘆く事で心の隙間を埋めようとしている。

『ジュリアス』

 と、不意の呼びかけ。

 ハッとジュリアスはクルスの気配に気づき、慌てて目元を拭う。

『ジュリアス、どうかしましたか?』

「いえ、別に……」

『私にまで隠し事をするのですか? 私はあなたには何一つ隠し事をしていないのに』

「別に何も隠していませんよ」

『では、何故泣いているのです? 私は、あなたの涙を見るのは初めてですよ。あなたは如何なる時も自分の意志を貫き通す強い方です。そんなあなたが泣くなんて、よほどの理由があるのでしょう?』

 心の内を見透かされたかのような、クルスの言葉。

 神獣に隠し事は出来ないようですね……。

 微苦笑しながら、ゆっくりと顔を上げる。

「私はどうして戦っているんでしょうね?」

『弱き人々を守るためでしょう?』

「そのつもりでした。でも、どうです? 現に私は、たった一人の子供を守る事が出来ず大怪我をさせてしまいました」

『あれは運が悪かったんですよ。不可抗力です。あなたの責任ではありませんよ』

「そして、聖騎士団が敗戦しました。新聞で読んだんですよ。ヴァナヘイムの国名が地図から消えるのも時間の問題でしょう。確かに私は、これまで弱き人々を守ろうと剣を取り奮起してきました。ですが、実際にはどれだけ守る事ができたのでしょうか? ヴァナヘイムは滅びようとしています。自分は何を守り抜いてきたのか、それそのものは何も残りません。だったら、私は初めから何もしていないのと同じ事ではありませんか」

『あなたは、守り抜いたという証拠が欲しいのですね?』

「……そうかもしれません。家督を継ぐ事を放棄してまで得たものが何であるのか、目に見える形あるものとして手元に置いておきたい。そんな気持ちで剣を握っていたのでしょうね……」

 何も欲しくない訳ではなかった。

 ただ、自分の成してきた事を示す印が欲しかったのだ。

 金のために戦う、と言ったサイアラスを、自分は悪魔と評した。けど、自分を満足させるために戦っているという点では、自分自身も何ら変わりはない。

 結局自分も、何かに餓えながら戦っていたのだ。

 満たすために剣を振るっていたのだ。

「よう、ジュリアス」

 と、廊下の向こうから声。

 見るとそれは、コンゴウだった。

「さっきは悪かったな、殴ったりしてよ」

「いえ……それだけの事を私はしてしまったのですから」

「なんだ、辛気臭いな。お前がそんなだと、こっちまで調子が狂う。いつもの馬鹿ヅラしてろよ」

 バン、とコンゴウが背中を勢い良く叩く。

「そういや、今日、村に来た旅人から聞いたぜ。ヴァナヘイム、負けたってさ」

「知ってます。新聞で読みましたから……」

「聖騎士団の団長がやられてから、ガタガタと一気に崩されちまったんだと。戦場には、未だに何千という死体が転がってるらしいぜ」

 戦場の跡地の悲惨さは嫌というほどよく知っている。焼け焦げた匂いと腐臭とか入り混じり、赤黒い荒野を生ぬるい風が吹き付ける。とてもこの世のものとは思えず、地獄という言葉がぴったりなほどだ。

 その中に、今はサイアラスの姿も転がっているのだろう。寂しく打ち捨てられたように。

「まあ、その、お前も色々辛いとは思うけどさ、とにかくお前自身は生きてるんだから、それで良かったじゃねえか」

 ぎくしゃくとした、意味があるようなないような言葉の羅列。

 しかしそれは、コンゴウなりに自分を慰めようとしているのだ。そう、ガラにもなく。

「いい加減、こんな寒い所じゃなくて中に行こうぜ。お前が体を風邪を引くとさ、モミジが心配するからよ」

 と、互いに顔を見合わせ微苦笑。

「そうですね……」

「おう、じゃあ行くぞ。ん? ああ、お前の馬か。ったく、中庭になんか入れんなよ。糞とかしたら誰が掃除すると思ってるんだ。しっしっ」

 クルスに向かい、歯をむいて向こうへ行けと追い払う仕草をする。

 と、

「あ」

 おもむろに近づいたクルスは、前足の蹄鉄をコンゴウの顔に叩き込んだ。

「痛ェ! こぉの馬! 何しやがる!」