トントン。
「ん?」
ドアをノックする音。
サイアラスはゆっくりソファーから立ち上がった。
「う」
と、不意に腹を鋭い痛みに襲われ、思わず顔を苦痛に歪ませる。
決勝戦において勝敗を決定づけたジュリアスのあの一撃は、実戦用の鎧を難なく破壊し、自分の腹に大きな痣を作った。これはいわば敗北者の証。この痛みが消えぬ内は、少なくとも当分はジュリアスに自分は勝てなかったという事実を噛み締めさせられる事になるだろう。
サイアラスは出来るだけ普段通りの表情を作り、そしてドアを開けた。
「サイアラス様、お手紙でございます」
ドアの向こう側に立っていたのは執事だった。手には白い封筒が一つ。
「ご苦労」
短くそう伝え、サイアラスは封筒を受け取りドアを閉めた。
手紙か。一体誰だ?
すぐさま裏のサインを見て差出人を確認する。
「?! こ、これは」
途端にサイアラスの表情が陰る。
封筒の裏にされていたサインは、故郷の母親を診ている医者のものだったのだ。
「おふくろ……まさか」
一瞬、頭をよぎった考えを振り解くかのように、サイアラスはすぐさまビリビリと封を切った。あまりに焦ったためにペーパーナイフを使うことも忘れ、切り口は乱雑なものになった。
その中から願うような気持ちで手紙を取り出す。
すぐさま必死の形相で読み始めた。普段はそうでもないのだが、焦るあまり、目が文章を追うのと同時に口がそれを復唱していた。だが本人は、手紙の内容の事で頭の中が一杯でそんな事には気づきもしない。
「……くそっ」
やがて手紙を読み終えたサイアラスは、歯をぎりっと噛み締め表情を強張らせた。
と、急にサイアラスは、その手紙を八つ当たりするかのように粉々に破り床に叩きつけた。白い切れ端がひらひらと舞い散る。
その散らかりを無視し、サイアラスはソファーに座り頭を抱える。
そのまま、サイアラスは動かなかった。
「サイアラスもつれないなあ」
そんな事をぼやきながら、ジュリアスはてくてくと中庭を歩いていた。
先ほどジュリアスがサイアラスの部屋を訪れると、サイアラスは無愛想にたった一言、『悪い。今日は疲れている』と言ってドアを閉められた。大丈夫ですか、と症状を気遣う暇も与えられなかったのだ。その態度は、今は誰とも会いたくない、と言っているようだった。しかし、ジュリアスにはその拒絶の理由が分からなかった。
「じゃあ、クルスの所に行きますか。今日の結果報告も兼ねて、遠駆けにでも出かけましょうか」
そう呟いてジュリアスが向かったのは、離れにある馬舎。
「あ、ジュリアス様!」
と、入り口の所で作業をしていた使用人の少年が嬉しそうに叫んだ。
「やあ、こんにちは。クルスはどうですか?」
「相変わらずです。ジュリアス様に放っておかれたから、少し機嫌が悪いですよ」
「では、覚悟していきますか」
苦笑を浮かべ、手を振りながら奥に向かう。
クルスとは、シーザーの愛馬である。しかし、ジュリアスは立派な変わり者だが、その愛馬であるクルスもひとくせもふたくせもある変わった馬である。
馬舎の一番奥、そこにクルスはたたずんでいた。
クルスの体は、純白と呼んでも過言ではないほど真っ白な毛に覆われていた。そしてその瞳は、燃えるような赤。明らかに普通の馬ではない。どんなに鈍感な者でも、この容姿を見せられたらそう思うだろう。
この馬舎の馬は全て血統書つきの優れた軍馬である。風貌一つとっても普通の馬とは違って勇ましさや威厳が滲み出ており、筋肉のつき方や目つきも自分が別格である事を物語っている。
騎士達の間では、より優れた馬を持つ事がステータスシンボルになっているため、ここにはヴァナヘイムでも選りすぐりの馬ばかりが集まっている。だが、クルスはそんな馬達に囲まれたこの馬舎において、圧倒的なまでの存在感を誇っていた。それは、この場にクルスが居るだけで、周りの軍馬がその雰囲気に飲まれて普通の馬に見えるほどである。
「クルス、今日も綺麗ですね」
そう言って、ジュリアスはクルスに手を伸ばし、顔から首筋にかけてのラインを撫でる。
『また。あなたはいつもそればかりですね』
ぷいっ、とクルスはそっぽを向く。
「もう、そんな事を言わないで。私も色々と忙しかったのですから」
『女性にちょっかいをかける事がですか?』
クルスが冷ややかな視線を送る。
「男として当然の義務です。ほら、そんな顔をしないで下さい。綺麗なお顔が台無しですよ。私はクルスに嫌われてしまったら生きていけないんです。ですから、いつもの表情をして下さい。それだけで私は幸せなんですから」
『……まったく。嘘だったら承知しませんからね』
ジュリアスの屈託のない笑顔に、クルスは溜息。だが、とげとげしい武装は脱ぎ捨てていた。
「久しぶりに遠駆けに出かけませんか? ほら、最近は大会やら何やらで忙しかったですから」
『ところで、大会の結果はどうでしたか?』
「勝ちましたよ。優勝です。当然ですよ。沢山の女性達が私を応援してくれているのですからね」
奇妙な確信と共にニッコリ微笑むジュリアスに、やれやれ、とクルスは苦笑する。そして、
『私があなたを応援したからですよ。私はそういういい加減な感情で祈ったのではありませんから』