クルスに乗って出かけるのは久しぶりだ。
心地良く風を切りながら雪原を駆ける。クルスもさくさくと雪を踏む感触を楽しんでいる。
今日は近くの自由市場に買出しを頼まれて向かうところだ。他の馬を使うと往復で相当疲れてしまう距離だが、クルスにとっては、普段行く遠駆けの半分にも満たない距離だ。
「クルスってはやーい」
わざとらしく怖がりながら腰にしがみつくモミジ。今回のお使いのオマケである。
自由市場は初めてのため、地理や通貨が分かる者が同行しなくてはならなかった。しかし、大人達は狩りなどの仕事に、ヤシャとコンゴウは丁度稽古の日であるためどうしても村から出る事が出来ない。それで真っ先に名乗りを上げたのがモミジだったのだ。まあ、こうなる事は大方予想していたが。
下手な真似はするなよ……!
出かける前、コンゴウがわざわざ耳元でささやいた、本物の殺気が込められた言葉を思い出す。
そう、そしてこうなる事も予測の範囲だ……。大分自分も周囲に慣れてきたようだ。
最近は四六時中モミジがくっついている。おかげで、綺麗な女性を見かけても話すらする事が出来ない。禁断症状という訳ではないが、やや欲求不満気味だ。かと言って、くっつくな、とはとても言えないし、そのせいで泣かれでもしたらコンゴウが黙っていない。今度こそ命に関わる。
ま、その内に飽きるでしょう……。
こういうのは一過性の熱病と一緒だ。時間が経って大人になれば、自分は単にうなされていただけだという事に気づくものである。大体このぐらいの年齢の時は、概して歳上の異性に憧れがちなのだ。それは愛でも恋でも何でもない。まさに熱病という言葉がぴったりだ。
当面の心配は、その時まで何事も起こらずに済むかどうかだ。生傷の一つや二つは覚悟しておかないと。傷は騎士の名誉と言うが、こういうケースでの傷はねえ……。
自由市場には普通の馬の脚でおよそ三時間程度かかるという話だった。しかし、クルスは別段急いだ訳ではなかったが、市場には二時間弱で到着した。やはり元々のポテンシャルが違うためだろう。
「ほう、凄い人込みですね」
クルスを市場の入り口近くに待たせ、早速市場の中へ足を踏み入れる。
市場とは言っても、そこは雪を払っただけの平地に敷物を敷いて商品を並べている露店が立ち並ぶものだった。屋台や店舗らしきものもあるが、いかにも手作りといった雰囲気である。ただ、その数が半端ではない。少なくとも、ざっと見渡しただけでも100は下らないだろう。その上、まだまだ向こうにも広がっているようだ。
「これ、一体幾つぐらいあるんですか?」
「う〜ん、今は寒期だから2、300ぐらいかな? 多い時の半分ぐらいしかないよ」
これで半分? 気が遠くなる話ですね……。
「こんなに人がいっぱいいるとはぐれちゃうでしょ? だから、しっかり手を繋いでてね」
モミジがジュリアスの手を取り、きゅっと握った。
はぐれるって、まるで人を子供みたいに。
そういえば、ヴァナヘイムにいた頃も、どうも自分は周囲から大きな子供のように扱われてきた。自分では終始紳士然と振舞っているつもりなのだが。
「えっと、取り敢えず何から買いに行きましょうか?」
「んーっとね」
ごそごそとモミジがメモを取り出す。
本当はそのメモは自分が受け取ったものなのだが、モミジが自分が預かると言って取り上げられたのだ。これさえ死守すれば、自分も一緒に行けると考えていたのだろう。
「あ、お医者様の頼まれ物だ。んっと、地獄熊の胆嚢を30gだって。きっと薬に使うんだよ」
「地獄熊ねえ……いかめしい名前ですね」
そういえば先日、オニイノシシとかいう獣の相手をしましたっけ……。
「では、早速薬屋さんを探しませんと」
「ううん、こういうのは薬屋さんじゃなくて、漁師さんを探すの。熊を仕留めるのは薬屋さんじゃなくて猟師さんの仕事でしょ?」
「なるほど。では、漁師の方の店を探しましょうか」
「大丈夫。ここの店の場所は大体分かるから」
メモには、村中の物入りの人からの頼まれ物が記されていた。大小様々で、およそ三十。しかも、中にはどう考えても今すぐ必要とは思えないどうでもいいようなものまでが書かれている。確かに自分は比較的暇人だが、かといってそういう使い方をされるのも考え物だ。
買い物は、ほとんどモミジに主導権を握られていた。というより、自由市場の事など何も分からないジュリアスは荷物持ちに徹するしか他ないのだ。店を探すにしても、ここの地理はモミジの方が遥かに詳しく、買い物をするにしたって、明らかに初めてここに来たような者には値段を吹っ掛けるような店だって珍しくはないため、交渉は全てモミジに任せるしかない。
「今、どの辺まで来ました?」
一時間後。大分重くなった荷物を抱えながら訊ねるジュリアス。
「次で最後だよ。最後は、桐の耳かき(限定百個)だって」
「……それ、冗談ですか?」
「ううん、ちゃんと書いてるよ。ホラ」
モミジが目の前にメモを広げて見せてくれる。
確かに、リストの一番最後には桐の耳かきと記されている。おまけに、(限定百個)の下には赤で線が何本も引かれ、超重要、急げ! と大きく注意書きがされている。
「普通、耳かきって木製ではないでしょう?」
「あると思うよ? ここって本当に色んなものが集まるんだもの。中にはそういう奇特な品物があったって全然不思議じゃないよ」
何故、わざわざそういう奇特なものを買うためにこんな遠くまで来なければいけないのだろうか? 冗談にしてはタチが悪い。いや、案外本気で欲しいのかもしれない。人間には他人には理解出来ないものを集めたがる習性があるから。
「早く見つけてお昼にしよ」
「そうですね。いい加減、お腹も空いてきましたし」
太陽が真上に昇ろうとしている。そろそろ昼食時だ。
「ねえ、私達って周りの人にはどんな風に見えるのかな?」
またそういう質問をする。当初はよく戸惑っていたが、最近はすっかり慣れてしまって驚きもしない。
「少なくとも、親子には見えないでしょう」
「もう。私が何を言いたいのか分かってるクセに」
はいはい、と微苦笑。
女性がそういう言葉を貰いたがるのは知っているが、この場合は自分の首を絞めかねないから自粛している。モミジはすぐに尾ひれや背びれをつけて話を脚色し、みんなに流すからだ。そしてそれがコンゴウの耳に入り―――。まったく、コンゴウのあの過保護を通り越した異様な執着はいい加減やめてもらいたいものだ。姪が可愛いのは分かるが、それよりも先に自分がいい人を見つければいいのに、と思う。
「ん?」
ふとジュリアスはとある露店の前で足を止めた。
「どうかしたの?」
「新聞ですよ。あ、それも昨日出たばかりのです」
ガルムの村は、外の情報を知るための媒体が極めて乏しい。唯一定期的に情報が得られるのが、週に一回やってくる商人の売る週間新聞だ。しかし、週間では情報は一週間遅れで入ってくる。それではもはや情報の意味がほとんどない。
「日刊ですね。自由市場には日刊のもあるんですか。すみません、一つ下さい」
ジュリアスは早速日刊の新聞を一つ購入する。
「ねえ、何か載ってるの?」
「今の時期ですと、戦争の事なんか書いてると思いますよ」
買った新聞を折り畳みしまう。
ガルムの村にいる時は、戦況はやはり一週間遅れで、それも詳細は不明のままで情報が入ってくる。聖騎士団にいた頃とは勝手が違う訳だから仕方がないが、どうしても詳しい戦況が知りたくて仕方がないのだ。新聞などに載っている情報の大抵は当り障りのないものだが、かつて在籍していた時の知識と経験からすれば大方の戦況は予想がつく。
「さて、耳かき探索を続けましょうか」
「うん。そして早くゴハン食べよ。私、おいしいトコ知ってるんだ」
「それは楽しみですね。あ、そうです。耳かきは売り切れた事にして、ゴハンを先にしませんか?」
「だーめ。もう、子供の言い訳じゃないんだから」
と、その時。
どこからか、まるで絹を裂くような悲鳴がこだまする。
人々の熱気に溢れているこことはいえ、その声は周囲の人間の注目を集めるには十分過ぎる。
「んっ? 一体何が―――」
見ると、向こう側から土煙が上がっている。あれは馬が走っている証拠だ。
どうしてこんなに人が沢山いる所で馬を走らせているのだろう?
そんな疑問が浮かぶが、答えはすぐに見つかった。
土煙の上がっている所から、人々が先を争って逃げ出しているのである。
「まさか、野盗?!」
野盗とは、組織化された盗賊団の名称である。彼らは頭となる人物の命令で町や村を荒らしては糧を得る犯罪者集団である。組織を構成するのは、社会に適応できなかったアウトローや脱走した罪人などである。それゆえ世間体というものは一切に気にせず、目的のためならば手段は選ばないやり方で人々を恐怖に陥れているのである。
「ジュ、ジュリアス! 早く逃げよう!」
「いえ、それではかえって被害が拡大するばかりです」
そう言ってジュリアスは荷物をその場に置く。
「いいですか? 一刻も早くみんなと同じ所へ避難して下さい。ここは危険です」
「ジュリアスはどうするの?」
「連中を追っ払ってきます」
と言い残し、ジュリアスは逃げ惑う人々とは反対の方へ駆け出した。
まさかニブルヘイムにも野盗がいようとは。やはり、どこの国にもああいった犯罪者集団はいるものですね。
駆けながら、途中の露店で一本の剣を手に取る。店主は既に逃げ出した後だったので無断の拝借になるが、後で理由を言って返しておこう。
「ハッハー! 逃げろ逃げろ!」
「金目のものと食い物を探せ! 残らずだ!」
予想通り、馬を駆っていたのは一目でそれと分かる風体の男達だった。武器もまた粗雑なもので、いかにこれまで本能に忠実に暴れてきたのかが窺い知れる。
数は十三ですか。相手がプロなら事ですが、素人ならば何の問題もありませんね。
ジュリアスは勝利の算段がつくと、彼らの前に立ちはだかりゆっくりと剣を抜いた。
「お? 頭、一人逃げ出さねえ野郎がいますぜ!」
「なんだありゃ? 気でもふれたのか? ケッ、踏み潰してしまえ!」
下品な号令がかかり、野盗達は意気揚々と馬を駆る。
まずは、右からいきますか。
ジュリアスは剣を構え、狙いを右端の野盗に定める。
よし、今だ!
相手との距離を十分測り、ジュリアスは剣を構えたまま飛び上がる。
「お?!」
スタッ、と着地したのは、狙いを定めた野盗の馬上。ジュリアスは背後から容赦なく野盗を叩き落した。
「な、なんだ、こいつ?!」
「野盗如きにこいつ呼ばわりされる筋合いはありませんね」
更にジュリアスは次の標的の元へ飛び移る。
「無抵抗の人間を蹂躙して、楽しいですか?」
悲鳴を上げながら落馬していく野盗。
「止めろ! 馬を止めろ! 乗ったままじゃ勝ち目はねえ!」
頭の命令が飛ぶ。すぐさま野盗達は行進をやめ、馬を止めて飛び降りる。
「この野郎!」
斧を振り上げて飛び掛ってくる野盗。
稚拙な攻めですね。
ビシッ、という鋭い音。ジュリアスは難なくその野盗を一刀の元に斬り伏せた。
「ふざけやがって! やれ! 一気に襲い掛かってぶっ殺せ!」
わあーっ、と叫び声を上げながら襲い掛かってくる野盗の面々。だがジュリアスは、それを目前にしても眉一つ動かさない。戦場では、これの倍以上の数に一度に襲い掛かられる事だって珍しくなかったからだ。
ピッ、という空気を切り裂く音と共に、一陣の風が駆け抜ける。
頭を含めた残り九人の野盗達が一斉に襲い掛かってきたのも拘わらず、ジュリアスは瞬く間に彼らを粉砕してしまったのだ。しかも、あれだけの動きをしていながら息一つ乱していない。それは、ジュリアスが本気を出していない事の現われでもある。
逃げ遅れた人々は、その光景を我が目を疑いながら見ていた。
たった一人の男が、あれだけの数の荒くれ者を物ともせずに次々と打ち倒していくのである。その体捌き、剣術、どれをとっても神技としか言いようがない。
最後の一人が倒された瞬間、言葉を忘れていた人々は思わずうなるような歓声を上げた。自分達の危機を救ってくれたジュリアスに最大限の賛辞を込めて。
辺りに横たわる野盗の面々を見下ろし、ジュリアスは満足そうに剣を鞘に収めた。
「さて、後は保安関係の方にでも彼らの身柄を引き渡しましょうか」
考えてみれば、自分はあまり目立ってはいけない存在だった。元とはいえ聖騎士団の人間で、しかもヴァナヘイム人である。おまけに公式的には死んだ事になっている存在だ。下手に国関係の人に目をつけられてしまったら、自分だけでなくガルムのみんなに迷惑をかけてしまう事になる。
ヒーローは名も告げず、颯爽とこの場から立ち去るとしますか。
とは思いつつ、自分に向かって賛辞を送る人へいちいち手を振ったりするジュリアス。
「くそが……」
その時。地面に倒れている野盗達の一人が意識を取り戻した。
男は地面に倒れたまま背中に手を回し、それを構える。
それは、一丁のクロスボウ。
野盗は霞む目で狙いをジュリアスの背中にしっかりと定める。
「おい! まだ一人やられてないぞ!」
「死ね!」
クロスボウを構えた野盗に気づき、誰かが声を上げる。野盗が引き金を引いたのは、それと全く同時だった。
「?!」
ハッと背中に冷たいものを感じ、ジュリアスは身をそらす。直後、自分のすぐ脇をボウガンの矢が抜けていった。
「ふう、危なかった……」
そこでガクッと完全に頭を突っ伏す。最後の力を振り絞ったようだ。
久しぶりに剣をふるったので、少し勘が鈍っていたようだ。まさか仕留め損ねるなんて。
と。
「おい、大丈夫か?!」
「馬鹿! 下手に動かすな!」
何やら向こうが騒がしい。
はて、と思い、ジュリアスはそこへ駆けた。
「この辺りに医者はいねえか?」
「駄目だ、どこも戦争の衛生兵として借り出されちまってる」
切羽詰った様子だ。一体何があったのだろうか?
集まりだした人垣を分け入って、その中心へと急ぐジュリアス。
「―――ッ?!」
途端、ジュリアスはその場で絶句した。
そこで見たもの。
それは、地面に倒れるモミジの姿だった。
その胸には、一本の矢が突き刺さっている。
ガタガタと震え出す奥歯。
絶望感のあまり、まるで世界がスローモーションで動き始めたような錯覚に陥った。