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 戦場の風は冷たかった。

 サイアラスは高台の上から眼下を見下ろし、まるで感慨に耽るように呟いた。

 あの身を切るような冷たさを思い出し、ぞくっと鳥肌が立つ。

 眼下には、ヴァナヘイム軍の実に総勢一万以上の大群が碁盤の目のようにきっちりと整列している。

「サイアラス様、全ての準備が整いました」

「ああ、分かった。では、直ちに出撃する。目標はヴァナヘイム第13国境関門」

 ニブルヘイムの報復侵略は既に始まっていた。国境付近がおそらく戦場と化すだろう。

 高台を降り、地上へ。

 下では自分の馬と、その見張りをやっていた聖騎士の姿が二つ。彼らはサイアラスの姿を見るなり、目を合わせないようにうやうやしく敬礼する。

 そう、この時サイアラスは、既にヴァナヘイム第十四期聖騎士団団長として正式に就任していた。若干二十七歳という異例の若さで。

 自分の軍馬にまたがり、ゆっくりと先へと進み出す。

 最終城門を抜けたその先には、真っ白な装いに身を包んだヴァナヘイムの栄えある騎士達の姿で溢れ返っていた。

 と、そこに姿を現した、若き新団長。一万の人間が、一斉に感嘆の溜息の大合唱を始める。

 二万を越える瞳が一斉に集中してくる。あまりに密度の高い視線は、肌に物理的な感覚を錯覚させる。

 サイアラスは一万の白の間を突き進んでいった。サイアラスの前に立つ騎士達は次々と左右に別れて彼に道を開けてやる。その光景は、古い宗教書に記されたとある高名な預言者が海を割った伝説を連想させる、壮大なものだった。

 白を割ってゆっくりと突き進んでいく、一つの小さな小さな黒。

 サイアラスの風体は、彼らの中ではあまりに異質だった。

 聖騎士団は白を基調とした装いをしているにも拘わらず、サイアラスは一人だけ、服、鎧ともにまるで漆黒の闇を表しているかのような黒を身にまとっているのである。まるで葬儀に参列するための装いをしているかのように。

 前後左右から集められる無数の視線。それは進めば進むほど強く自分にぶつかってくるように思えた。それが期待と信頼なのか、それとも嘲弄と不信の念なのかまでは知らないが。

 サイアラスは、その二万の瞳を前に少しも臆する事無く、むしろ逆に睨みつけるほどの覇気を放っている。それは既に故人となってしまった前団長に勝るとも劣らない、猛獣すら視線でいなしてしまうほどの強い光を秘めている。

 やがて、雲の中を突き抜けたかのように視界から白が消えていった。この大群の先頭までやってきたのである。

 サイアラスはゆっくり腰の剣を抜き放ち、剣先で天を指し示す。

 ひゅ、と音を立て振り下ろし、剣先で前方を指し示す。

 その姿、まさしく威風堂々。

「豊穣の国、ヴァナヘイムに純然たる勝利を!」

 と、たった一言。

 だがそれは、まるで獅子の雄叫びにも勝るほどの迫力を持っていた。

 それだけで、その場全員の魂を揺さ振るには十分過ぎる。

 直後、背後から爆発的な歓声がほとばしった。各々が高まった自分の士気を主張するかのように。

 ジュリアス、俺はお前の死を、いつまでも自分に刻み込む。

 正史に綴られないあいつの死は、いつしか人々の記憶からも消え去ってしまうだろう。あいつがいた事を証明するものは、全て処分されてしまった。後残るのは、人々の記憶の中に残る幻影だけ。しかし、それは時の流れがあっという間に押し流しかき消してしまうだろう。そうなると、お前は初めからこの世には存在しなかった事と同じになってしまう。

 だが、俺は絶対に忘れはしない。お前が死を悼む者がいなくなっても、俺はいつまでも胸の中に刻み付けておいてやる。

「……フッ、俺はさながら“黒鎚”といった所か?」

 表情を変えず、そんな自嘲めいた言葉を頭に浮かべる。

 正義も悪もない、ただの鉄塊。自分の都合だけで叩きのめすそれは、まさに今の俺にぴったりだ。

 サイアラスは毅然とした表情のまま、剣を鞘に収めた。

「前進!」

 

 数日後。

 基礎体力が普通人とは違うためか、ジュリアスは驚くほどの速さで回復していた。そして医者からも、もう起き上がって良い、との許可をようやく貰ったのである。

「ようやく外の空気を吸えますね。何日振りでしょうか」

 意気揚揚と、ニブルヘイム独特の仕立てが特徴的な、自分のために用意してもらった服を着る。

「さて、まずはクルスに会いに行ってあげませんと。きっと寂しい思いをしている事でしょうから」

 神獣は基本的に人間嫌いで有名だが、一度心を開いた人間に対しては、まるで家族のように愛情を持って接する事はあまり知られていない。神獣が人間に心を開くケース自体が珍しい事なのだから。

 クルスは私を自分の半身のように思っている。必要とあらば、我が身を投げ打ってでも私を守ろうとするだろう。だけど、そんなクルスを“神獣”という道具的な目で見た事は一度もない。彼女にとって自分が掛け替えのない存在であると同時に、自分にとっても単なる相棒以上の唯一無二の存在なのだから。

 障子を開けて廊下に出る。板張りの廊下はカタカナのコの字を描くように先へ伸びている。その廊下に囲まれた中庭は細かな砂利が敷き詰められ、踏み石が所々に置かれている。独特の情緒感を漂わす、実に落ち着いた作りだ。

 と、中庭の隅に人影。

 背は高く、体格ががっちりとしている。とは言っても筋骨が隆々としている訳ではなく、無駄な筋肉は一切つけていない引き締まった体型である。見た目の威圧感も必要とする用心棒職のそれではなく、明らかに相手と立ち合う事のみを重点的に的を絞って鍛え上げた、実戦的な筋肉だ。

 ふとその背中に、ジュリアスはサイアラスを重ね見る。彼もまた、日々鍛錬を繰り返していて、あのような実戦的な筋肉をつけていた。

 その人影の主はコンゴウだった。井戸から水を汲んで顔を洗っている。こんな朝早くから、半裸で。体からは湯気が立ち上っている。何か体を動かすような事をしていたのだろう。

「おはようございます」

「ん? ああ、何だ、もう起き上がれるのか」

 こちらを見るなり、何故か訝しげな表情。

「ええ、おかげさまで。もっとも、しばらくはリハビリが必要でしょうが」

「だったら、付き合ってやってもいいぞ? 丁度、新技の練習をしたかった所なんだ」

「……それはリハビリではないでしょう?」

「何を甘えた事を。気合入れりゃあ治るんだよ。ほら、お前も顔を洗え」

 そう言って、水の入った桶を向けられる。

 恐る恐る、その中に指を突っ込む。

 冷。

「ひいっ、ちべたい!」

 指先が痺れるような冷たさだ。慌てて指を引っ込める。

「ホント気合の足りねえヤツだな」

「だって、水で顔なんか洗った事はないですから……。それに、ニブルヘイムはただでさえ寒いし」

「いちいちうるせーヤツだな。ぶっかけて欲しいのか?」

「いえ……自分でやります」

 ばちゃばちゃと水遊びのように顔を洗う。

「ところで、クルスはどこにいるのですか?」

「クルス? ああ、あの白い馬か。裏の牧場にいるぞ。モミジが乗り回している」

「モミジが?」

 意外そうな顔をするジュリアス。クルスが自分以外の人間を、自ら乗せ事なんて今までなかったのに。自分の気に食わぬ人間に対しては、ジュリアスに何の迷惑もかからないのなら、触っただけで容赦なく蹴り上げるほどなのだ。

「まったく、女の子は馬なんか乗らなくていいのに……。でもさ、下手に怒れば嫌われちまうし……」

「ハハハ、叔父も大変ですね。さて、では早速クルスの所へ」

「待て」

 と、コンゴウががっしり肩を掴んでその場に留める。

「お前、分かっているだろうな……」

「何がです?」

 まるで地獄の底から響いてくるような、恐ろしくドスのきいた低い声。

「もしも、モミジに迂闊な事をしてみろ……。この俺が、仁王流剣術の全奥義を駆使して、必ずお前を殺す……!」

 ぎりぎりと肩を締め付ける。ケガ人だというのに、まったく容赦なしだ。

 凄まじい殺気だ。この寒さは気温のせいだけではないだろう。様子からして間違いなく、コンゴウの言葉に嘘はない。

「だ、大丈夫です、ご心配なく。ほら、私は自分の守備範囲を下は18からと決めてますから」

 それに、あれはモミジから一方的に寄せられているだけなのだが。とは言っても、この様子では聞いてくれないだろうな……。

「今の言葉、しっかりと憶えておけよ……」

 スーッと背後の黒い塊が消え去る。あそこまで殺気立った人間を目の当たりにしたのは久しぶりだ。それも戦場の事での話だ。まさかこんな民家でこんな緊張を味わう事になろうとは。

 この通り、コンゴウはある意味危険人物なのだ。普段はそれほどでもなく、ややぶっきらぼうな所があるものの明るく優しい好青年だ。ただ、姪のモミジの事になるとすぐに人が変わってしまう。それだけ溺愛しているのだ。モミジはそれをかなり迷惑がっている。年頃の女の子には、口うるさい大人は邪魔なだけの存在なのだ。

「はあ、意外と大きな屋敷ですね」

 裏に回って分かったのだが、この屋敷はかなりの大きさを持っていた。しかし、道場というぐらいだから全てが住居空間ではないだろう。どこかは道場の稽古場としてのスペースになっているのだろう。

 屋敷の裏には実に広い放牧場があった。多くの馬達が競い合うように走り合ったり、まるで談笑を楽しんでいるかのように戯れあっている。遠くには白化粧の山が見える。その麓辺りからここまで続いているようだ。

「環境が違うと、馬の体つきも違いますね」

 ニブルヘイムの馬は、ヴァナヘイムの馬とくらべて筋肉が大きく発達していた。おそらく瞬発力は特筆するほどでもないが、いわゆる馬力というものはヴァナヘイムの軍馬よりもあるだろう。考えてみれば、ヴァナヘイムの軍馬はほとんど競走馬界の中で名馬と呼ばれる血統の馬を親に持っている、生まれながらの競走馬だ。こちらの馬は生活のために使う馬なのだろう。と、なると、体型の違いは環境にはあまり関係ないようだ。

 と、その時。山の麓からこちらに向かってくる白い影が一つ。

「あ、クルスです」

 自分が見間違うはずがない。戦場で最も信頼できる相棒の姿を。

「おや?」

 だが、その相棒の背中には何やら別の影。

「って、やっぱり……」

 モミジだ。コンゴウが言った通り、クルスを乗り回しているのだ。それも、通常の馬には決して出せないような恐ろしい速さで。

 クルスはジュリアスの姿を見つけたのか、更に加速し向かってきた。思わずジュリアスは声を出す。モミジが振り落とされるかもしれないからである。が、

「ジュリアス〜!」

 当の本人は、いたって余裕の笑顔で愛想良く手を振っている。

 ジュリアスの目前で、ギューッと音を立てて止まる。止まった際に前足を交互に打ち鳴らすクセもそのままだ。

『ジュリアス! もう体は大丈夫なのですか!?』

「ええ。御心配をおかけしました」

 クルスの真っ赤な瞳が、ジュリアスを歓喜の表情でじっと見つめる。

 と、

「ジュリアス!」

「うわっ!?」

 突然、馬上からモミジが自分の元へ飛び降りてきた。慌てて受け止めるジュリアス。

 一瞬、稲妻のような鋭い痛みが胸に走る。傷はまだ完治した訳ではないのだ。

「な、何ですか、急に! 危ないでしょう!」

「だって、ジュリアスならきっと受け止めてくれると思ったから」

「普通、誰でも受け止めますって……」

 この無防備さが怖い。どうして十代初めから中頃の者は、こうも怖いもの知らずなのだろうか? 自分にもそういった経験はあるが、未だに当時の心理は理解出来ない。

『良かった……。もしあなたが死んでしまったら、私、本当にどうしようかと……』

 そんなクルスの頭をそっと腕に抱く。クルスはジュリアスの顔に自分の頬を摺り寄せてきた。ジュリアスはそれを優しく受け止めながら、そっと頬に口づける。

「あー、いいなー。ねえ、私にも」

 それを見ていたモミジが、自分も自分も、とせがむ。

 冗談ではない。そんな事をすれば、自分はコンゴウの奥義の餌食になってしまう。

「駄目。子供にはまだ早いです」

「ぶーっ。また、すぐにそうやって子供扱いする。お母さんだって、私ぐらいの時にお父さんと結婚したんだからね」

「え? またまた。幾らなんでもそんなに早い訳ないでしょう?」

 どうせ苦し紛れの出任せだろう。そんなに早く結婚したところで、どうやって生活していくのだろう。結婚とは愛情だけでは成立しない。必ず、生活能力という現実的な課題をこなさなくては、すぐにその生活は破綻してしまうのだから。

「!?」

 突然、背後から凄まじい殺気が向けられた。あまりにその殺気は鋭く、まるで矢で心臓を射抜かれたかのように錯覚する。

「何をしている……?」

 振り返ったその先では、コンゴウが右手に木刀を持ってこちらを睨みつけていた。

「い、いえ、モミジがクルスから落ちそうになったので、慌てて受け止めたという次第でして……」

 思わずしどろもどろになるジュリアス。完全に間違っている訳ではないが、これではかえって怪しさを増すだけだ。

「見え透いた嘘を」

 ぎゅっと木刀を握り締め、一歩、近づく。

「本当だよ、おじちゃん。ジュリアスに助けてもらったの」

「モミジ! そいつに騙されるな! そうやって恩を売っておいて、後で言葉では言えないような事を強要するに決まっている!」

「あの時、私が危ない目に遭ってたのに、私を見失った挙句、一人で勝手に迷子になってとうとう助けに来てくれなかったおじちゃんに言われたくないわ」

 がーん!

 そんな音が聞こえてきそうな、あまりに悲痛な表情を浮かべるコンゴウ。からん、と木刀を取り落とし、そのまま力なく、へなへなとその場に膝をついた。

 哀れ……。