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 平穏とはいいものだ。

 俺の言う平穏とは、日常の生活を恙無く過ごし、かつ適度な刺激のある事を指す。

 今の俺の生活は、まさにそれだった。講師というものは教師よりも軽視されがちなので仕事に気は抜けないが、生徒の成長の如実な様を目の当たりにした時、なんとも言えない達成感を得られる。そういう意味では遣り甲斐のある仕事だ。真希との付き合いもうまくいっている。そろそろお互いの両親への紹介も考えているぐらいだ。

 だが、たった一つだけ、そんな俺の平穏に暗い影を落としているものがある。

 記憶喪失ではない。もう、今の俺には過去への執着はなく、ただ明日の事だけを考えて生活をしている。

 暗い影を落としているのは、あのどうしようもない頭痛だ。

 薬のおかげで気を失う事はなくなったが、そのたびに過去の映像が頭の中で映し出されるのである。いくら俺が過去と決別したつもりでいても、その発作が起こるたびに自分が失ったものを意識させられるのである。

 やはり、過去を捨て去る事は出来ないのだろうか? 過去と真っ向から向き合い、そして何らかの結論を導き出すまで頭痛は消えないのかもしれない。消えない事には、本当の意味での平穏はやって来ない。

 それに、まだ一つ、分からない事が残っている。あの髪の長い女性、ミドリの事だ。

 これまで、出来るだけ過去の事からは目を背けてきた。意識すればするだけ今の自分とのギャップに苦しむからだ。だが、そろそろ過去の自分を見つけ出してやるべきなのかもしれない。過去の自分も自分の一部として把握しておかなければ、本当の意味での決着にはならない。

 とは言ったものの、頭痛が見せる映像以外の手がかりなんて何もない。これは本当に難航しそうだ……。

 

 あれからも、頭痛の発作は収まる事がなかった。薬のおかげで痛みの度合いはそれほど酷くはなかった。しかし最近、発作一回一回の間隔が狭まっている気がする。

 そう、まるで何かを思い出し急いでいるように。

 俺は再び、過去の自分の事を考えるようになっていた。これまでは仕事の忙しさと、真希との時間の楽しさで忘れさせていた。だがやはり、視線を無理やり前向きにさせ続ける事に限界を感じ始めたのだ。過去は過去で大事なのだ。

 俺は時計に五分置きぐらいに目を配りながら、非常に落ち着かない授業をしていた。今日は久しぶりに真希と会う約束をしていたからである。

 と、そんな俺の緊張を解放するかのように、授業の終わりを告げるチャイムが流れる。思わず、溜息。

 あらかじめ用意しておいた宿題を配り、授業を終わらせる。そしてそそくさと教室を後にする。以前、そこを生徒に取り囲まれるように捕まって、急いでいる理由を断定形で問いただされた事がある。「カノジョと約束があるんだろ?」と。

男子は男子で、彼女の容姿やら職業やらスリーサイズやらを、女子は女子で、初デート場所やら二人の馴初めやら週何回やらを執拗に訊いてくるのだ。……まったく、そんな事を訊いて何が楽しいのやら。

 俺をはやしたてる声を背中で聞き流しながら、職員室へ駆けて行く。仕度を済ませた後、俺はすぐに待ち合わせ場所に向かった。俺がこの学校に通うために使っている駅だ。父は、新しい車を買ってやる、と言ったが、俺は免許の再交付はしたが丁重にそれを断った。正直、また事故を起こしそうで怖いのである。

「女性を待たせるなんて、いい度胸してるわね」

 待ち合わせ場所に着いた俺に向かって言った第一声がそれだった。

「悪かったよ。一応は急いだつもりなんだ」

「じゃあ、今日はミコトさんが奢って下さい。そしてら許してあげる」

「やれやれ……」

 肩をすくめて苦笑い。そんな俺の腕に自分の腕を絡めてくる真希。どちらも、もう慣れたものだ。

 春物を軽く見て回った後、比較的空いていた店を見つけて入る。店内に絡んできそうな酔っ払いがいない事を確かめて席に着いた。メニューを見ようとすると、それを真希が取り上げる。そうだ、今夜は俺が奢らねばならなかった……。

 真希は俺とは違って大の酒好きだった。俺は一杯だけは注文するものの、ほとんど付き合いのようなものだ。それに、泥酔した後の真希を家まで送らなければならない。俺まで駄目になってしまったら、それこそ恥をさらすハメになってしまう。

 腹が満腹になる頃、もっと飲む、駄々をこねる真希を連れて店を出た。真希は大分酔っていた。一人でも普通に歩けはするが、そのまま帰らせるにはあまりに不安だ。もっとも、たとえシラフだったとしても、夜道を一人歩きさせるのは男としてどうかと思う。

 電車に乗り、真希が降りる駅で一緒に途中下車する。そこから真希の住むマンションまでは往復で三十分といったところか。終電にはまだまだ時間があるのでゆっくり歩いても大丈夫だ。

「真希、こんなに飲んで大丈夫なのか? 明日、辛いぞ」

「大丈夫ですよぉ。明日は遅番しかありませんから、午後からの重役出勤ですぅ」

 看護婦の職場は本当に時間が不規則だ。夜を徹して働き、朝帰りをする事も珍しくはない。よくもまあ、健康でいられるものである。俺はきっとすぐに不眠症にかかってしまうだろう。

 酔っ払っている真希に気を払いながら歩く事、二十分。ようやく真希の住むマンションに到着した。

 真希の住むマンションはそこそこランクの高い物件だ。セキュリティも万全である。何でも真希は一人娘なので、親が安全な立地条件の部屋を捜したらしい。家賃も幾らか負担してもらっているそうだ。

「じゃ、これで俺は帰るわ」

 入り口は基本的に住人しか入れない仕組みになっている。関係者以外はマンションの中自体に入れないのだ。キーはダイヤルと指紋になっており、絶対に複製は出来ない。

「ねえ、泊まっていく?」

「またいつかな。俺はちゃんと朝に出勤しなきゃならないんだ」

 わざとらしく甘ったるい声で話す真希の頭をポンポン叩く。言葉に嘘はないが、幾らかは悪い気もした。

「じゃあ、」

 と、今度は目をつぶって顔を上向きにする。表情は、やや半笑い。

「さよならの、ちゅう」

「……はいはい」

 一応、周囲に人がいない事を確認して、接。真希には悪いが、酒の匂いが少し辛かった。

 こんな恥ずかしい事ばかりやっていて、俺はいつになったら過去の自分を見つけ出せるのやら。そう思ってはみたものの、目先の快楽にすぐ負けてしまうのも悲しい男の性だ……。