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 女性とは難しいものだ。とは言っても、これは真希に限った俺の個人的な見解かもしれないが。

 異性と完全に理解しあうのは不可能だ、という意味の言葉を残した哲学者がいたが、彼もおそらく俺に似た気質の持ち主で、同じく真希のような女性に出会ったのだと思う。

 俺は真希と出会った、と呼んでもいいだろう。恥ずかしい言い方だが。とにかく、俺の心の中における真希の存在は、あの時から日に日に増大していた。おそらく、いや、きっと好きになったのだろう。

 さて、困った。真希にもっと好かれるようにするには一体どうすればいいのだろう? 嫌われないような振舞い方とはどういったものなのだろう? 女性に対する男性の接し方とは、単に誠実なだけでいいのか? いや、優しさも必要だ。しかし、どういった優しさを求めているのだろう? そもそも俺は、これまで通りで良いのか?

 まずい、分からない事だらけだ……。

 

 後日に出た精密検査の結果では、身体に何らかの異常は認められなかった。つまり、頭痛の直接的な原因は不明なままなのである。それで結局はストレス性のものという事に落ち着いた。普段の生活に慣れればその内に消える、と言うのである。なんともなげやりな診断結果だ。

 その数日後、俺はようやく退院を迎える事が出来た。目を覚ましてから一ヶ月もかかってしまったが、もっとも医者に言わせれば、リハビリ期間としては短いそうではある。

 記憶の問題上、俺は自分の会社を続ける事が出来なかった。そういう訳で、俺の会社はこれまで通り父に任せておく事となった。と言っても、実際に父が運営する訳ではない。父が融資している別の企業に仕事を委託するのである。それではほとんど吸収されたのと変わりないが、俺自身が仕事のノウハウを思い出せない以上、仕方のない事である。

 そして俺は現在、何故かとある高校の教壇の上に立っていた。父の口添えで名目では講師として押し込まれたのである。担当教科は国語だ。高校レベルについていけるのか不安だったが、過去の俺はよほど勉強家だったのだろう、生徒の質問に首をかしげる事はなかった。一瞬戸惑ってしまうような質問をされても、どこからか答えがポッと頭に浮かんでくるのは何とも不思議な感覚である。頭の中にもう一人誰かが居るみたいだ。

 真希とは、あれからも続いている。真希の職業上、お互いの時間が一致する機会は少ないが、それでも週に一回は会っている。父にその事を言ってはいないが、まあ時機が来たら話そうと思う。

「ただいま」

 夕方頃、俺は帰宅した。

 我が家は市内から僅かに離れた住宅地の一角にそびえる一軒家だった。最寄りの駅から歩いて十分弱。初めて帰ってきた時は、実際引いてしまったものである。使用人が一人いたが、それすらも驚きの一言である。

 取り敢えず先にリビングを覗いてみる。すると父はそこでウィスキーを飲んでいた。

「おお、帰ったか。早く荷物を置いて着替えて来い。夕食にするぞ」

 挨拶もそこそこにして自室に向かう。部屋はこの家の二階の奥だ。

 どうやら俺は、実家から仕事場に通っていたらしい。母のいない父を残していくのが気がかりだったからだろうか? 最初はそんな事を考えていたが、最近は仕事の事で精一杯なのであまり考えなくなっていた。

 自室に入り、荷物を置いて着替える。今夜は今日行った小テストの採点をつけなくてはならないので、出来るだけ早く取り掛かろう。

 初めてこの部屋に入った時、正直言って自分の部屋のような気がしなかった。空気に新鮮さは感じられたが、懐かしさは感じられなかったからである。

机と椅子、パソコンと周辺機器、本棚、埋め込み式のクローゼット、ベッド。部屋にはこれぐらいの物しか置かれていなかった。本当に必要なものだけしか持たないといった感じの部屋だ。本棚には多少趣味らしき本はあったが、それでも文学や実用書ばかりである。本当に、一般世俗とは無縁の生活を送っていたかのような状況だ。

一応、過去の手がかりになりそうな物は探した。しかし、見つかったものはどれも仕事関係のものばかりだった。パソコンの中も調べたが、やはり仕事関係のデータベース、仕事関係や資料集めに使用しているらしきサイトへのショートカットぐらいなものだ。メールボックスの中身も覆歴も綺麗に消されている。かなり几帳面な性格だったようだ。

部屋を後にし、食堂へ向かう。そこでは既に夕食の準備がなされ、父も席についていた。俺も向かいの席につく。使用人は準備だけして、自分は別室で夕食を取るらしい。なんだか変な感じはする。

「じゃあ、食べるとしようか」

 初めの内はこの雰囲気にいまいち溶け込めなかったが、最近はもう慣れてしまった。この家は世間一般から外れた部分が多々あったが、それでも慣れてしまえばあまり気にはならないものだ。

「ミコト、いい赤ワインが手に入ったんだ。たまには付き合え」

 父は俺の返答を聞く前に、さっさとワインを開けてしまった。

「あのな、俺が酒に弱いの知ってるだろ?」

 退院祝い、と称し、シャンパンを飲んだ時の事を思い出す。あの時はたったグラス一杯で、頭がボーッとして何が何だか分からなくなった。それで初めて、自分が下戸である事を知ったのである。

「少しだけだ、少しだけ。一人で飲む酒は寂しくてな。誰かが付き合ってくれんと、せっかくのうまい酒もまずくなる」

 まだ仕事が残っているのに……。そう思ったが、父に差し出されたワイングラスを俺は渋々受け取った。取り敢えず、一口だけ飲むことにしよう。それ以上は仕事に差し支える。

「おお、いい味だ。直輸入しただけはある」

 一気にグラスの中身を飲み干し、満面の笑みを浮かべる父。そんなに勢いよく飲んで、味わうひまがあったのだろうか。

「ほら、匂いばかり楽しんでいないで、味わってみろ」

 そう父にせかされ、仕方なくグラスに口をつける。グラスを傾け、赤い液体を口内へ。はあ、やれやれ……。

 俺にしてみれば、二千円のワインも十万円のワインも一緒だ。心の中で溜息をつく。

 が、

「う?!」

 途端に強烈な嘔吐感が込み上げてきた。不意をつかれ、思わず口の中のワインを吐き出す。

 しかし、その嘔吐感はそれで止まらなかった。激しく胃が痙攣し、その中身が逆流してくる。俺は身を屈め、痙攣のままに床に胃液をぶちまけた。

「お、おい?! ミコト?! どうしたんだ急に!」

 吐けるものは全て吐き出してしまった。にも拘わらず、未だに痙攣は収まらず喉に激痛が走る。一体何を吐き出そうとしているのだろう? だが、そんな事を考える余裕はない。

 どう考えてもこれは異常だ。体がアルコールを拒絶しているにしたって、ここまで酷くはない。

 キーン……。

 続いて、例の発作が始まる。泣きっ面に蜂、とはまさにこの事だ。

 なんでこんな時に限って……。

 久しぶりの発作だったが、俺は冷静になる事を努め、ポケットからアンプルボックスを取り出す。中には病院から貰った薬が入っている。前に真希が俺に飲ませた鎮痛剤の一種だ。迷わずそれを飲み込む。

 頭痛はこれまでのように意識を失うほど酷くはなかった。薬のおかげだろうか。それでも、全く平気という訳でもない。

 激しい頭痛と嘔吐感の中、例の映像が頭の中でおぼろげに始まる。

 何とか見る事が出来たのは、テーブルの向こう側で微笑んでいる髪の長い女性の姿だった。

 ミドリだ……。そう俺は直感した。