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 記憶喪失の一番恐ろしい所は、以前に親交の深かった人に対しても見ず知らずの他人のように接してしまう事である。たとえどれだけの恩があっても、たとえどれだけの信頼関係があったとしても、その人に関する事を全て忘れてしまえば他人も同様なのである。

 忘れ去られてしまった人は悲しむだろう。俺に対して失望すら抱いたとしても、それを批難する権利は俺にはない。けど、俺だって安穏と構えている訳ではない。忘れ去った者には忘れ去った者の苦悩がある。こう言うと聞き苦しい自己弁護にしか聞こえないだろう。それでも、これだけは分かってもらいたい。何もかもを忘れてしまった悲哀というものを。大切な思い出は誰にでもあるだろう。だが俺の場合、それを失っただけでなく、一体どれだけのものを失ったのかすら分からないのだ。

 

『ありがとうございました』

 心から言っているのではなく、ただ機能的に言っているのがすぐに分かる、乾いたセリフ。この口調を聞いた俺は、遂に始まってしまったか、とうんざりした気持ちになる。

 視界には、どこかのドアから出て行くシーンが映し出されていた。廊下に出た時、チラッと視界の端に表札が見えた。保健室、と書かれている。

 視界はスタスタと何物にも興味を示さず、機械的に玄関へ向かっていく。視界の主があまりに淡々としているため、事の状況が全くと言って良いほど窺い知る事が出来ない。

 これが、忌まわしい過去の俺の姿。自然と、今の俺とお前は違う存在だ、と決別さえ決心させられる。そうだ、それでいいのだ。過去に拘らず、今の自分が思い描く人生を歩んでいけばいいのだから。

『だーれだ?』

 と、突然、視界が急に真っ暗になった。映像が途切れた訳ではない。何かが目の前に覆い被せられたのだ。

『ミドリ、待ってたのか?』

 驚く俺とは裏腹に、視界の主は極めて冷然と問い返した。同時に視界を覆っていたものが外される。

『何よ、それ。今日の帰り、買い物に付き合ってくれる約束だったでしょう?』

 そう言いながら視界の中に現れたのは、ふて腐れたかのように唇を尖らせた髪の長い女の子。

『トラブルに見舞われた。不可抗力だ』

『不可抗力? どうせ、またケンカでもしたんでしょ』

 説教がましい口調の彼女。どうやら視界の主を案じているようだ。

 誰だ、彼女は? こんな話は聞いていないぞ……。俺には友人もいなかったはずだ……。

『正当防衛だ』

『どうして相手が救急車で運ばれるの? そういうの、過剰防衛っていうんだよ』

『ちょっと手首の間接を外してやっただけなんだがな。オーバーなんだよ。救急車だって、連中の仲間が勝手に折られたと勘違いして呼んだだけだ。救急隊員もいい迷惑さ』

 これは、あの時の続きの映像のようだ。保健室から出てきたのも、殴られた手当てのためだろう。

『カッコつけちゃって。いいわよね、理事長を抱き込んで好き勝手やれて』

『人聞きの悪い事を。単に俺の親がこの学校に投資しただけだ』

 憮然としたまま、下駄箱に向かう。彼女はその脇についていく。

『これから行くのか?』

『何時だと思ってるの? 今日はもう帰るわ』

『そうか。じゃあ、家まで送っていくよ』

 は? 今、何て言った?

 視界の主が言い放った言葉は、あまりに意外なものだった。思わず問い返す俺。無論、答えは返ってこない。

『え〜。なんか身の危険を感じるなあ』

『そのセリフは聞き飽きた』

 彼女の冗談に、視界の主は僅かに苦笑した。

 あの機械然とした視界の主が笑った事に俺は更に驚いた。こんな人間らしい情緒を見たのは初めてだ。

 と、ここで映像が唐突に途切れた。

 ちょ、ちょっと待て! まだ途切れるな!

 初めて俺は続きが見たいと思った。今まで忌み嫌っていた過去の自分について、もっと知りたくなったからである。

俺は思わず暗闇の中に向かって叫んだ。だが、俺の叫びは無情に吸い込まれるだけ。映像が再開される事はなかった。

 

「ミコトさん!」

 耳元で叫ぶ真希の声。その大声に、俺はハッと我に帰った。

「……あれ? ま、真希?」

「ミコトさん?! 良かった、気が付いて!」

 そう言うなり、ぎゅっと俺を抱きしめる。

「おい、ちょっと。真希さ」

 その熱烈な喜び方を引き剥がす。

「俺、今までどうしてた?」

「ミコトさん、薬を飲んでから頭を押さえたまま急に動かなくなって……。それで私、必死で叫んでいたら、やっと気が付いてくれて……」

「どのくらいだった?」

「ほんの一分ぐらい。でも、本当に良かった……」

 そう言って、また抱きついてくる。今度はさせたいようにさせておいた。

 一分。それはどう考えても短過ぎる。俺が見た映像は、少なくとも五分はあった。あれはやはり幻覚だったのか? いや、あれは間違いなく過去の記憶だ。記憶の中と現実とでは、同じ出来事でも流れる時間が違うのだから。

 それよりも、あの、ミドリという女の子。彼女は一体誰なのだろうか? 父からもそんな話は聞かされていない。それに、俺が事故を起こしたのならば見舞いにぐらい来るはずだ。それとも単に俺が秘密にしていただけなのか? だから俺が事故に遭った事自体を知らされていないだけなのか?

 父にこの事を訊いてみよう。何故だか胸騒ぎがする。この事を忘れたままにしてはならない、と、心の奥深くの何かが警告するのだ。

 少しだけ、俺は過去の自分と向き合えそうな気がしていた。