* 戻る

 

 

 人生は常時順風満帆とはいかない。むしろつまずいてばかりだと思う。そこから抜け出すには、散々あがき、苦しむ事になる。その上、必ずしも抜け出せるという保証はないのだ。

そんな時、自分はどうしていたのだろうか?

振り返ってみればすぐに分かる事だが、あいにく今の俺には記憶がない。

幾多の壁を乗り越え、転んでも立ち上がり、そしてまた転んで立ち上がって。何度も苦難に打たれながら人は形成されていく。刀鍛治と同じように。個人の歴史、今の自分を形成する要素、それが過去の記憶である。今の俺からして見れば、自分の歴史年表の途中に、ある日突然ぽっかりと現れたようなものだ。だが“俺”という存在は、今、まぎれもなくここに存在している。記憶自体はないのだが、確かに存在していた証拠として今の自分があるのだ。

 

次の日。

父は外せない会議があるとかで、ここには来ていなかった。父は著名な投資家なのだそうである。その会議とは、定例の株主総会らしい。かなり大口の投資先なので、欠席する訳にはどうしてもいかないのだそうだ。

ま、この歳になって、四六時中付き添われたくはないが。

代わりに部屋には、例の看護婦の檜山が来ていた。事故当時の俺の持ち物を持ってきてくれたのである。とはいえ、サイフと壊れて使えなくなった携帯ぐらいのものだが。

「ほら、これ免許証じゃない? うわ、目つき悪い」

 檜山が勝手に俺のサイフから免許証を取り出し、がやがやと批評する。

「勝手に人のサイフを開けるな。返せよ」

 俺はまだベッドからは一人で降りられないので、檜山がベッドの近くに居る内に素早くサイフと免許証を奪い返した。

「ったく、本人の目の前でそんな事を言わないでもらいたいな」

「でも、今とかなり人相とか変わってると思うけど」

 そう言われ、俺は自分の免許証を見てみる。

「久我 命。昭和××年生まれ。24歳か。交付は平成××年」

 取り敢えず先に文字の方から見ていく。名前は聞かされた通りであった。聞きそびれた年齢も、生年月日から逆算できた。

それから視線を右側へ移す。そこには青色のバックの写真が印刷されている。そこには自分の顔……らしきものが写っていた。

 こ、これは、俺か?

 思わず疑ってしまうほど、その写真は今の俺の顔とはかけ離れていた。まったくの別人という訳ではない。確かにそれは俺の顔だ。だが、あまりにも人相が違い過ぎるのだ。目つきが研ぎ澄まされた刃物のように鋭く、直接見える訳ではないが、写っている雰囲気も氷のように冷たいのである。髪のあるなしで片付くレベルではない。

「ね? まるで別人でしょ?」

 突然、顔の間近で檜山の声がし、ハッと我に返った。いつの間にか呆然としていたらしい。

「な、なんだ。顔を近づけるな、顔を」

 照れ隠しに免許証をサイフの中に仕舞い込み、それを取り敢えずベッド脇の小物入れの中に入れる。

「カッコイイけど、何かコワイ感じ。もっと笑えばモテたかもね」

「ああそうかい」

 からかわれている。まともに相手をすると疲れると思い、適当に受け流した。

「もしかしてイライラしてる?」

 分かりきった質問を……。白々しく思ったが、あえて無視する。

「昔の事を思い出せないから? でも、なんか記憶喪失ってロマンチックな感じよね。渚で無くした恋を探して、とか」

「あのな、それはドラマの見過ぎだ。そんなロマンチックなもんじゃない。それを恋愛と結びつけるヤツの気が知れんな。人がどれだけ辛い思いをしてるのか分かってるのかよ。昔の事が思い出せないんだぞ? 自分がこれまでにどんな体験をし、どんな時間を過ごしてきたのか、何にも思い出せないのに、どうして笑えるんだよ」

「でも、大事なのはこれから先の事じゃないの? そうくよくよしなさんな」

 にこやかに微笑みながら、俺の肩をバンッと叩く。その陽気さが、つくづく羨ましいと思う。

「……まあ、そうだけどさ」

 過ぎた事よりもこれからの事の方が大事だ、って事はよく分かる。けど、だからといって反故にしてもいいとは限らないのでは? いや、そういう考え方が、いつまでも俺をくよくよさせているのだろうか……。

「さ、そろそろリハビリ始めよっか? 早く自分の足だけで歩けるようになりたいでしょ?」

「そうだな。寝てばかりじゃ、考え方がネガティブになる」

 あまり深く考えるのはやめよう。とにかく今は、一日でも早く退院する事が先決だ。

 俺がベッドから起き上がりスリッパを履いている間、檜山が松葉杖を持ってきて俺に手渡す。

「じゃ、最初は私が支えますから、それで立ってみましょう」

 檜山の肩に右手を回し、左手の杖で体を支える。

「せーの、はい」

 檜山の掛け声に合わせ、両足と左手の松葉杖に力を込める。随分体が重く感じたが、なんとか立つことが出来た。だが、たったこれだけの事なのに大した重労働である。いかに自分の体が弱っているのかを改めて実感させられる。

「さ、行きましょ。最初は歩行訓練からです」

 にこやかにそう言われるが、俺はどんな顔をしていいのやら、表情が曖昧になってしまう。たとえ仕事とはいえ、見知らぬ女性の顔が間近に迫っているからである。いや、それ以上に、他人の体温を感じている事の方を気にしているのかもしれない。

 それにしても、こうも密着するとなあ……。

 檜山の息づかいやら女性の自己主張やらが伝わってくるのは、自分としてはかなりきつかった。気恥ずかしいというか、どう理性を保っていいのやら、とにかく、変な気分だ。男としては正常な反応かもしれないが、いちいち制御しなければすぐに暴走してしまうのだから始末に終えないのである。

「あのさあ、檜山」

「真希です、マ・キ。下の名前で呼んで下さい、ミコトさん」

 やれやれ……。わざとやっているのか、それとも天然なのか……。どちらにしろ、もう少しこちらの事情を察して欲しいものだ。

「早く歩けるようになるといいですね。退院したら、デートしませんか?」

「はあ?」

 いよいよ俺は理性の所在の困ってしまった。