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 愛憎。執着。欲望。人と人の繋がりには、必ずこういった副産物が生まれる。そして、それらはほとんどの場合は人との間に摩擦を生じさせる。

 百害あって一利なし。

 とはいえ、そんな非効率的なものを生み出してしまう事も人間性の現れでもある。

人は自ら問題定義をし、それを克服する事によって自己を高めてきた。それを成長、または発展と呼ぶ。

大事なのは、その問題をいかにして取り除くかではなく、いかにして克服するかだ。

歴史とは小さなものをコツコツと積み上げてきた、いわば積木のようなもの。無駄だから、と言って下の部品を取り除いてしまえば、せっかく積み上げてきた積木が崩れてしまうのは自明の理である。

不必要なパーツなどないのだ。パーツ自体の良し悪しはあっても。

目は、積み上げてしまったパーツから悪いものを探し出す事よりも、新しいパーツの中から良いパーツを探し出す事の方に向けよう。

より良い積木を積み上げるために。

 

「あれ? 本当に知らないんですか? おかしいなあ……。うちの姉貴、実はミコ―――いや、久我さんの事が好きみたいなんスよ。あ、これはオフレコって事で。普通、自分の好きな人が事故を起こしたって聞いたら、あれこれ心配したり世話を焼きにくるってもんでしょ? まあ、その、姐さ―――いや、碧さんがいるとは言ってもね……。それに、幼馴染なんスから。なんだ、姉貴のヤツも冷たいっスねえ。人の男はもう他人、って事スか? やっぱ」

 確かに直哉の言う通りだ。それだけ親しかったのなら、入院中の身の回りの世話を何から何まで、とは言わないが、一回くらいは見舞いに来てもいいはずだ。それが無理だとしても、手紙とか電報とか、間接的な見舞いの手段は幾らでもある。だけど、その類は一度もなかった。見舞いに来てくれたのは、唯一父だけだった。

「俺の事故を知っているのは確かなんだよな?」

「はい。そもそも、俺は久我さんの事故の事は姉貴から聞いたんスから。久我さんの事故は全国紙で取り上げられるほど珍しくはなかったスから。そもそも、事故のあったクリスマスイブは全国的に事故の数は多かったスからねえ」

「そうか……」

 これは一体どういう事だ? その彼女に何らかのやむにやまれぬ事情があったり、また、あまり考えたくはないが、俺の事を本当にどうでもいいと思ってでもいない限り、俺は直哉よりも先に直哉の姉と顔を合わせ、そして自分の昔の事を聞いているはずだ。やはり、これはどう考えてもおかしい。

 キーン……。

 と、その時、額の奥からあの不快な甲高い音が聞こえてきた。俺は慣れた手つきでアンプルボックスを取り出し、薬を飲み下す。

「あれ? 久我さん、どうかしたんスか?」

「発作の一種さ……。すぐに収まる」

 そして次第に増長してくる痛みのパルスに備え、いつものように額を右手で押さえる。

 痛みが徐々に頭の中を支配しだす。だがそれも、前よりもずっと穏やかな痛みだ。まるで、もう今の俺はこれ以上過去を思い出す必要はない、とでも言いたいかのように。

 

『ナオヤ君、あれからどう?』

『体の方は全然大丈夫。だけど、ケンカで負けたの初めてだったみたいだから、ちょっと落ち込んでるみたい』

 視界から辺りを見回すと、そこは学校の敷地内のどこかのようだった。乾いた草地が一面に広がり、そよ風にその体をなびかせている。耳をすますと、遠くの方から生徒達の喧騒が聞こえてくる。

『ミコトも少しは手加減してやれば良かったのに』

『手加減出来る相手か。何を食べたらああなるんだ。あの和製ゴリラは』

 相変わらずの調子で憮然と言い捨てる視界の主。

 俺の隣には髪の長い少女が座っていた。その膝元には可愛らしい弁当箱。

『あ〜、ミコト君ひど〜い。じゃあ、私は和製ゴリラの姉ですか?』

『あ、いや、別にそういう意味じゃない。それは単なる皮肉を込めた蔑称であって―――』

 慌てて弁解する視界の主。理屈っぽい口調の中にも動揺がありありと感じられる。

『アハハハ! すぐ、そうやって本気にする! ミコト君って面白いね!』

『……悪かったな』

 ぶすっとした不機嫌な口調。だが、単にふて腐れているだけのようにも聞こえる。

 これは、一体誰だ? もしや、彼女が直哉の姉なのか?

 しかし、視線は彼女の声がする方を向かない。俺は何度も視界の主にそちらを向くように言ったが、一向に向く気配はなかった。当然である。そんなの、ブラウン管に向かって叫ぶのと同じ事なのだから。

『でも、そういう所、可愛いですよ? やっぱり男の子も可愛げがなくちゃ』

『もう。ミコトに可愛いは禁句よ? その辺にしてあげたら、マキ』

『ええ〜。別にイジメてる訳じゃないですよぉ?』

 え? マキだって?

 ハッとしたその時、無情にも映像が途切れた。

 

「……あれ?」

 頭痛と映像から解放され、我に帰る。起き抜けの時のように頭がややボケていたが、それもすぐに普段通りに戻る。

「久我さん、大丈夫っスか? 水でも持ってきましょうか?」

「いや、大丈夫だ。もう、落ち着いた」

 そして深呼吸。頭痛が完全に収まった事を確認してから、ゆっくり手のひらを額から離す。

「もしかして、事故のせいっスか?」

「そんな所だ。徐々にではあるが、収まってきているんだ。心配はない。それより、一つ訊きたいんだが」

「何スか? 俺に答えられる事なら何でも」

「お前の姉の名前は何ていうんだ? 一応、聞いておきたいんだ」

「姉貴の名前スね? 姉貴の名前は真希、檜山真希っス。この街の病院で看護婦をやっているっス」

 やっぱり……。

 俺はテーブルの下でこぶしを強く握り締めた。

 怒りが少なからず感じたかもしれない。だが最後には、何故? という本当に単純な疑問に落ち着いた。

 真希……。君は一体、どうしてこんな事を?

 これまで真希と過ごした時間が全て否定されてしまったようで、本当に悲しかった。