あれから俺の担当医がやってきたのは、本当に間もなくの事だった。50代前後の中年の男で、見た目の印象はそれほど悪くはなく、いかにもベテラン医師らしい風格と落ち着きがあった。患者としては安心して自分を任せられるタイプの人間である。
彼は俺の担当医でありながら俺の執刀医でもあり、更にこの病院の医院長でもあった。俺も、また随分とたいそうな人間の世話になったものである。もっとも、そのおかげで一命を取り留めた訳なのだが……。
俺が座っていた床が生温かくなる頃、この部屋に一人の中年の男がやってきた。その後ろには、先ほどの看護婦が付き添っている。ネクタイを締め白衣を羽織っている事から、この男が俺の担当医なのだろう。直感的にそう思った。
「目を覚ました、と聞いて来てみたのだが、何故、床の上に座っているのかね?」
彼は不思議そうな顔で俺を見下ろす。どうやら彼の前例に、こういった事はなかったらしい。
俺は彼の手を借りてベッドの上に座った。人の手を借りなければならない屈辱は否めなかったが、彼が仕事でしているのだと考えれば幾らかプライドは楽になった。
「喉が渇いて、そこで水を飲もうとしたんだ。だが、歩けなかった」
「それは当然の事だよ。君はもう一ヶ月近く昏睡していたのだから。平衡感覚も衰え、筋肉も衰弱している」
一ヶ月。その言葉に、俺は頭の中が一瞬真っ白になった。そう、彼の言葉が信じられなかったのである。
「い、一ヶ月?!」
辛うじて言えた言葉が、そんな何の面白みのないありきたりなセリフだった。
「まあ、驚くのも無理もないだろう。檜山君、彼に水を」
その言葉に、俺は自分が喉を渇かせていた事を思い出した。
彼の指示を受け、背後に控えていた看護婦が洗面台の方へ向かう。そこにはよくホテルにある、半透明で殺菌済みと書かれたビニールに包まれたコップが備え付けられてあった。その袋をバリバリと破って傍らのダストボックスに捨て、水道から水を汲む。
「どうぞ」
差し出されたコップを受け取り、喉を鳴らせて一気に飲み干す。冷たい感覚が喉を通る感触は心地よかった。その冷たい感覚は喉から食道を通り、じんと胃に染み渡っていく。
冷たい水が熱くなった自分の頭を冷やしてくれたのか、水を飲み終えた自分がやけに冷静になっている事に気づいた。そんな俺の様子に彼は気づいたらしく、再び話を切り出し始めた。
「訊きたい事は山ほどあるだろうが、先に簡単な検査をさせてもらうよ」
彼は胸ポケットからペンライトを取り出し、まぶたを押さえながら俺の眼球を左右交互に照らす。瞳孔の反応でも見ているのだろうか。それから口を開けさせられ、舌や喉を見られる。まるで風邪の診察のようだが、患者が医者に口出しするものではない。
「さて、何か変わった事はないかね?」
一通りの検査を終え、ペンライトを胸ポケットにしまいながらそう訊ねてくる。
「何も思い出せない。いや、知識的なものはあるんだ。ただ、自分自身については何も思い出せない」
「やはりな……。思った通りだ」
やや苦みばしった表情で溜息混じりに答える医師。
その言葉に、俺は思わず眉をひそめた。思った通りだ、とはどういう事だ? まるで、初めから俺が記憶喪失に陥る事を知っていたかのような口調ではないか。
「では、まずは一ヶ月前の事から説明しようか。君がここに搬送されるまでの経緯を」
医師は傍のパイプイスに腰を下ろした。
「君は一ヶ月前、車で事故を起こしたんだ。市外地の山沿いに走る道路を走行中、路面が凍結していたにも拘わらず、おそらくスピードを出し過ぎたのだろう、カーブを曲がりきれなくてそのままガードレールを飛び出し、20メートル下の山林に転落したのだ。たまたま事故を目撃していた方がいてね、すぐさま救急車を呼んで君はここに運ばれてきた訳だよ」
医師の話に、背筋に冷たいものが走るのを感じずにはいられなかった。なんとなく事故だろうとは予想はしていたが、まさかそれほど悲惨なものだったとは。既に過ぎた事とはいえ、今更ながら恐怖を感じてしまう。
「木々がクッションになった事もあるが、最近の車の頑強さにも助けられたようでな。それでも君は辛うじて生きていたのだ。ただ、頭部を酷く負傷していた。それに比べたら、他の傷などないに等しいほどに。私はそれでも諦めず出来る限りの手を尽くさせてもらった。手術を二度も行い、それでなんとか一命を取り留める事が出来たのだよ」
「じゃあこの包帯は、その?」
「その通りだ。傷痕は残るが、髪が伸びれば目立つ事もないだろう。見た所、身体機能に異常はないようだ。今後の生活に支障を来たす事はないだろう」
「俺の記憶は戻るのか? 記憶がなければ困る。なんとかならないのか?」
「それは難しいな……。君の場合、精神的な記憶喪失症ではなく、単純に脳を負傷したための記憶喪失なのです。すまないが、現在の医学レベルでは不可能だ」
不可能。おそらく、医者から一番聞きたくない言葉だろう。
頭を打って記憶が消えたり戻ったりするのは、所詮マンガだけという事か。悔しいが、諦めるしかないのか……。
「そう落胆なさらず。あれだけの事故を起こして、後遺症がそれだけというのは奇跡に近いのですよ? 私はもっと悲惨な目に遭った患者を大勢知っている。君の場合、それは贅沢な悩みというものだ」
「贅沢、か……。五体満足な分、それでよしとするか……」
妥協、という言葉は好きになれないが、彼がそう言うのであれば、確かに失ったのが記憶だけというのは幸運なのかもしれない。それに、彼が尽力してくれたおかげで自分はこうやって話す事が出来るのだ。その事だけでも感謝しなければならない。
「追々リハビリを始め、ゆっくり体を元に戻すといいでしょう。彼女を補助につけますから、困った時は彼女に言うといい」
その彼女に視線を移す。先ほど檜山と呼ばれた看護婦は、ニコッと微笑んで見せた。最初この部屋に入ってきた時とは随分な違いだ。
「それから、君のご両親にも連絡をしておこう。きっとすぐに駆けつけてくれるはずだ」
両親? ああ、そうか。俺にも両親はいるんだな……。
だがその二人の事は、名前はおろか顔すら思い出せない。このまま会ったとしても、きっと他人のように思えてしまうに違いない。そんな俺の事を知ったら、二人はどう思うのだろう。想像しただけでも胸が痛む。
「さて、檜山君。私はそろそろ戻らなければならないから、久我さんの事は頼んだよ」
「久我?」
「ああ、そうか。君の名前の事だよ。詳しくは彼女に訊くといい。檜山君がこれまで君の身辺の世話をしていたのだから」
俺の名前は久我というのか。それにしても、自分の名前だというのにまるで他人のようにしか聞こえない。今の自分なら、どんな名を言われても、それが自分の名前か、と納得してしまいそうである。
と、その時、頭の奥からキーンという甲高い音が聞こえてきた。それはまるで近づいてくる航空機の音のように、徐々に大きくなり周囲の音が何も聞こえなくなる。しかも酷い頭痛を伴いながら。
「檜山です。よろしくお願いします、久我さ―――久我さん?」
頭痛が酷くなり、俺は思わず額を押さえる。だが、そんな程度で誤魔化せるほど生易しい痛みではない。ただの頭痛とは思えないほど凄まじい痛みだ。まるで頭の中をかき回されているかのような。
「ぐ……ぐああああ」
苦しさのあまり、頭を抱えうめき声を出す。だがそれも、すぐに凄まじい激痛の奔流に飲まれ、何が何だか分からなくなった。
「先生! 久我さんが!」
「鎮静剤だ! ショック症状を併発するかもしれないから、念のため強心剤、それから心電図も用意しろ!」
激痛にのた打ち回りながら、二人のそんなやり取りが聞こえた。だがそれは、同じ部屋ではなく、どこか遠くの方から聞こえてくるような気がする。
そして、数秒の抵抗の後、俺の意識はスイッチを切られたかのように途切れた。
目の前が真っ暗になる。だが最後に見たのは、その深遠が白く明るく開ける光景だった。