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 事故から大分年月が経過した。手術のために剃り落とされた髪の毛はとっくに伸び、事故で壊れてしまった携帯も新しく契約し直した。だが、何もかもが元通りになった訳ではない。記憶喪失という爪痕は未だにくっきりと残っている。

 人は、失ったものがもう二度と帰ってこないと分かっていても、それを求めずにはいられない。それは俺の場合も例外ではなかった。

 人は人生を歩む中で大小様々なものを失っていく。それはどうでも良いもであったり、代わりがきくものであったりもするが、思いがけず両親や大切な人といった掛け替えのない唯一のものを失う事もある。だが、そのせいで酷く心が傷ついても、いつかはその傷も塞がり、また何事もなかったように歩み出す。人は、そんな強さと非情さを表裏に兼ね備えた生き物だ。

 乗り越える、とは悲しみだけを忘れる事だ。

 忘れる、とはそれを捨て去る事だ。

 愛情という呪縛に囚われがちな人類にとって、これは必要不可欠な機能である。悲しみに押し潰されてしまわないための自己防衛の機能だ。

俺もまた、この機能を切実に必要としていた。悲しみから抜け出したいがために。

忘れてはならない事だけど、それでも忘れ去りたかったのだ……。

 

 ヘルマン=ヘッセ作「車輪の下」において、一度は両親や周囲の期待に応える事が出来るも、結局は神学校を脱走してしまった主人公。そんな彼は自分の将来の展望をどのように見据えていたと思いますか?

 今日の授業の終わり間際、一人の生徒からそんな質問をされた。

いつも通り、頭の中に答えがポッと浮かんでくるのかと思っていたが、今回だけはいつまでたっても浮かんでこなかった。そう、過去の俺はその本を読んでいなかったのである。出てきたのは苦笑いだけ。

仕事を終えると、俺は市立の図書館に向かった。次回の授業であの質問に答えるためである。本自体は学校の図書室にもありそうだが、その姿を生徒に見られると、所詮は講師か、と見下されてしまいそうなのでわざわざ出張ってきたのである。気にし過ぎとは分かっていても、やはり人目を気にしてしまう自分が何だか情けなく思えた。

外国文学の棚を探すとすぐに見つかった。思っていたよりもページ数は少ない。何巻にもまたがるような長編作品だったらどうしようか、と身震いしていたが杞憂だったようである。

「さて、これを受付に持っていって―――ん?」

 と、その時、俺の視線があるものを捉えた。それは、大きなバインダーに挟まれた各種の新聞である。図書館には本だけでなく、新聞のような記録物もあるのだ。

 ふと俺は考えた。地方新聞ならば俺の事故の事も記事として掲載されているに違いない、と。

 俺は受付で本を借りる手続きをした後、昔の新聞があるかどうか訊ねた。すると受付係は、新聞自体は残っていないが、これまでの新聞記事を全て取り込んでデータベース化したパソコンが資料室にある事を教えてくれた。

 すぐさま資料室に向かう。資料室には数台のパソコンと一台のプリンタが置かれていた。部屋には誰もいない。

「じゃあ、始めるか」

 一台のパソコンの前に座り作業を始める。

昨年の12月と事故を検索キーワードに設定し、検索をクリック。数秒経ってから該当件数が表示された。314件。

「ま、気長にやるか……」

 見出しを一覧表示させ、一つ一つ確かめていく。だが、新聞ごとの整理がなされていないため、同じ事件の事を何度も読まされた。データベースの構築に問題がある。帰りに、意見箱にその旨を書いた紙を叩き込んでおこう。

 開始から三十分ほど経った頃、とある見出しに俺の目が止まった。

「『自動車、崖から転落』か……」

 すぐさま記事の内容を開く。ディスプレイにウィンドウが開き、その中には新聞記事がそのまま出力されている。

「24日の深夜、A峠にて乗用車がカーブを曲がりきれず崖から転落。これだ! ようやく見つかった!」

 小さく歓喜の声を上げる。左手が小さくガッツポーズ。俺はすぐさま続きを読んだ。

「運転していた会社経営、久我 命(24)は意識不明の重体。助手席に座っていた、劫 碧(24)は全身を強く打ち即死……。何だこれは?!」

 思わず叫んでしまった。図書館で叫ぶのは非常識な行為である。部屋に誰もいなくて良かった。

 ちょっと待て。俺一人じゃなかったのか?!

 俺の知っている事実とは異なる内容がそこには記載されていた。この文章は不特定多数の人間に読ませるためのものだ。有名人のスキャンダルならまだしも、一般人である俺の記事においてありもしない事を、それも大して人目を引くわけでもない内容を捏造するとは考えにくい。

 気を取り直し、とにかく続きを読むことにする。結論付けるのはそれからだ。

「運良く傍を通りかかった人が、それを見て通報。二次災害は事前に食い止められた。調べによると事故の原因は、スピードの出し過ぎにより急カーブを曲がりきれなかったため、とされている。クリスマスイブでドライバーも気が緩んでしまった、という見方が強い……」

 マウスを持ったまま硬直し、ディスプレイの前で自失茫然としてしまった。あまりのショックに思考回路が焼き切れてしまったかのように、しばらくは何も考えられなかった。

 我に帰ると、すぐに心臓が嫌な高鳴りを始めた。つつっ、と額から一筋の冷たい汗が伝って落ちる。

 俺は再び記事を探し始めた。何かに突き動かされるように。

 これは嘘だ。そうであって欲しい。そんな気持ちがそうさせたのだろう。

 数分後、俺はまるで打ちのめされたかのように頭を両腕で抱え、キーボードの上に両肘をついていた。該当する全ての記事を調べたが、どれも同じ内容だったのである。自分の名前の次に、必ず劫 碧という名前が即死の二文字と共に記載されていた。

 これは……一体何なのだ……?

 溢れてくるのはそんな疑問ばかり。俺は再び記憶を失ったような気がした。目覚めてからこれまでの自分についての記憶が、全て否定されたのである。もう、何から考えたらいいのか分からない。

 キーン……。

 と、追い撃ちをかけるかのように発作が始まる。こんな時に。苛立ちを覚えながら鎮痛剤を口にする。

 意識が俄かに暗黒の海に投げ出される事を意識する。だが今は、そんな事はどうでもよかった。

 

『かんぱい!』

 楽しげな女性の声。直後、チンッとグラスが鳴る音がする。

 パッと視界が開かれる。

そこはどこかのレストランのようだった。厳かな内装からして高級な店だろう。楽しげな音楽も聞こえる。場違いのような気もしたが、他の客も音楽の雰囲気と同様にどこか楽しげだ。

『やっぱり飲まないんだ?』

『俺が酒に弱いのを知っていて訊いているな? それに、俺は車を運転しなければならない』

 周囲の楽しげな雰囲気に取り残されたかのような、涼しげに冷めた声。視界の主の声だ……。

『もう、せっかくのイブなのに。堅苦しい事言っちゃって』

『悪かったな』

 憮然と言い放ち、水が入った方のグラスに口をつける。

『ほら、一杯ぐらい飲んでよ。せっかく苦労して生まれた年のワインを見つけたのに』

『……やれやれ。仕方ないな、一杯だけだぞ』

 そう言って、視界の主は目の前のもう一つのグラスを手にした。

 血のように真っ赤な液体が注がれた、ワイングラスを。