人は自分自身を満たすため人生を歩み続けている。
人の原動力とはこの飽くなき欲望だ。どんな精神論をぶつけた所で、一切の欲望を捨て去る事は出来ないだろう。仏教では、そんな欲望に囚われた人間を無明と呼んで馬鹿にしているが、果たして彼らには欲というものが本当にないと言い切れるのだろうか? 釈迦でさえ、あの有名な言葉と共にこの世に生まれ出、自分が世界の頂点に君臨する存在であろうとしたではないか。
欲望、というのは醜いだけのものではない。純然たる原動力だ。
真に醜いのは、その原動力を正常な方向に動かせない理性の方だ。
しかし、何を持って醜いとするのだろうか?
その定義は時代と共に常に移ろい変わっていくものだ。
善も悪も、醜いのもそうでないものも、定義づけるのは全て人間だ。そして大抵は、自分にとっての都合の良し悪しで決められてしまう。
あとは、快か不快か。たったそれだけの簡単な問題である。
とは言っても、その感覚も既成概念に大きく左右されやすい訳なのだが。
「真希か?」
『ミコトさん? やあねえ。今夜に会えるのに。待ちきれなくなった?』
電話の向こう側の真希は相変わらず陽気で朗らかだった。
それは生来のものか、それとも演技なのか。今の俺には分からなかった。
「話があるんだ」
『話? 会った時でいいじゃないですか。あ、はい! 今行きます! ごめんなさい。呼ばれてますから切りますね。続きはまた今夜』
「待て。さっき、お前の弟と逢った。檜山直哉。間違いないな?」
『?!』
直接言葉では出てこなかったが、明らかに真希が動揺しているのが伝わってきた。
ああ、やっぱりか……。
確信が後悔に変わる。そう、知らなければ良かった、という悔恨の念が。
「待ってる。じゃあな」
返答を待たず、俺は一方的に電話を切った。暴力的な切り方だと思った。
今の俺、嫌な感じだ……。
無理に酒を飲んだ翌朝のような重い不快感が胸に渦巻く。食道や胃が収縮し、何かを嘔吐しようとしている。しかし、本当に嘔吐したいのは俺自身だ。何を嘔吐したいのかまでは分からないが……。
待ち合わせの時間の五分前に真希は現れた。俺はそこで直哉と別れた後からずっと待っていたが、あまり待った気はしなかった。むしろ、その時間にならないで欲しいと願いたいぐらいだった。
「来て」
何の挨拶もなしに真希は先立って歩き出した。静かな所に場所を変えるのだろう。あの電話で、俺が一体何の話をしたいのか理解している。そのためか、表情に普段の色はなく、無表情なほど神妙だ。
俺も何も言わなかった。いや、真希の胸中を知るまでは必要な言葉以外は何も話さないだろう。普段のように明るく談笑する気にはなれない。
そして俺達は人気のない公園に足を踏み入れた。街灯も壊れかけ、街の明るさとは正反対で真っ暗だ。
壊れた街灯が立ち並ぶ中、一つだけぽつりと灯りを灯している街灯の下までやってくる。そこで真希は立ち止まり、くるっと振り向いた。
表情は、相変わらず無表情だった。
「私の事、全部聞いたんですか?」
いささか唐突な切り出し方ではあったが、俺は冷静にその問いに対して肯いた。
「そうですか……」
と、一瞬ではあったが、どこか寂しげな表情を浮かべた。
「どうしてだ? 何故、今まで自分の素性を隠していたんだ? そんな必要はないはずだ」
「碧のせいですよ」
「碧の?」
思わず問い返した先の真希の表情は、寒気がするほど冷たかった。
「直哉の事だから、きっと喋っちゃってるでしょうね。私がミコトさんのことが好きだった事。でもあなたは碧を選んだ」
「い、いや、それは……」
「いいんです。感情の問題はどうしようもない事ですから。私が言いたいのはそういう事じゃありません。ミコトさんが、最後まで私を恋愛の対象として見てくれなかった、という事です」
そこでくるっと真希は背を向けた。まるで自分の表情を悟られぬように。
「私はミコトさんや碧とは一つ年下でした。今ではそんなの大した問題ではないかもしれません。けど子供にしてみれば、そのたった一年が、時にはとても厚い壁になるんです」
そんな大げさな。そう言いかけ、慌ててその言葉を飲み込む。
「碧は自分の方が年上だから、私にはいつもお姉さんぶった態度を取っていました。そのせいでミコトさんまでも、私を妹のようにしか見てくれませんでした。だから私がミコトさんに自分の気持ちを伝えても、ミコトさんは今のように受け止めてはくれませんでした。分かりますか? どう頑張っても、私は可愛い後輩止まりなんです。もっと大人になったら考え方が変わってくれる。私の気持ちも分かってくれる。そう信じていたけど、結局碧に先を越されてしまいました」
ぐっと握り締めた真希のこぶしが震えている。
「ミコトさんは悪くありません。私を勝手に手のかかる妹のような扱いをしてきた碧が悪いんです。正直、ミコトさんの記憶が戻らないって聞いて、私は喜びました。あんな過去を全て忘れていたら、今度こそミコトさんは私をちゃんと恋愛の対象として見てくれる。妹のようにあしらわれる事もない。だから私は、今日まで嘘をつき続けました。あの日に初めて出逢ったかのように」
「真希……」
真希が俺の言葉を待っているように思えた。だが俺は、かけてやるべき言葉が見つからなかった。
一体、何て言ったらいいのだろうか。このわだかまりのような切ない感情をたとえるのに相応しい言葉が見つからない。まるで失語症に陥ったかのように何も喋られなくなっていた。ただ、何か優しい言葉をかけてやりたい、という気持ちだけが先走る。
「でも、それ以外で私はミコトさんに嘘はついてませんよ? 好きって言ったのも、いつまでも一緒にいたいって言ったのも、私の本心です。本当は、ずっと小さい頃にも言ってたんですけどね」
その言葉は途中で涙に潰れ、はっきりとは聞きとれなかった。けど、真希の言いたい事ははっきりと伝わった。
俺はそんな真希を背後から抱きしめた。言葉は見つからなかったが、こうする事が一番言いたかった言葉に近いと思ったからだ。
「……ごめん」
結局頭に浮かんだのは、そんな稚拙な謝罪文句だけだった。
俺は、また人を傷つけてしまった。俺が無理に知ろうとしたせいで。
本当は、知らない事はそのままで良いのかもしれない。知らない方が良い事もあるのだから。
まるでこれまでの自分の行動を批難するかのように、俺は自分にそう戒めた。