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 辛い過去ならば、忘れたままで良かった。

 常識や人情やらを全て取っ払った、本当に素直な気持ちだ。

 失った過去はあまりに美しかった。だからこそ、それら全てを失った今の俺には残酷な記憶である。

 失った過去が美しければ美しいほど、俺にとっては辛さを増す。そんな時間を、俺は自分のミスで断ってしまったのだから。

 罪悪感が俺を締め付ける。

 碧のあの笑顔を思い出すたび、酷く心が苛まれる。

 全てが壊れてしまった現実が、俺を隅へと追い込む。

 それでも、俺は生きていかなければならない。少なくとも、俺を慈しんでくれる人がいる内は。

 そして、その想いには全力で応えようと思う。

 

 深夜。

 ふと俺は目を覚ました。

 傍らに自分ではない誰かの息づかいが聞こえる。真希だ。

 彼女を起こさないように、そっと体を起こしてベッドに座る。

 そして、溜息。

 まったく、俺は何をやっているんだか……。

 今更、自分のしている事が情けなくなってくる。夜中、いきなり真希の元に転がり込むなんて……。

 もう一度溜息をついた時、カーテンから柔らかな明かりが差し込んでいる事に気が付いた。音を立てぬよう、そっとカーテンを開ける。

「月、か……」

 夜空には月が真円を描いていた。吸い込まれるような、美しい月。その柔らかな光に包まれ、気持ちが解きほぐされていくような気がした。

 そっとベッドに戻り、しばし月光を眺める。頭がボーッとしてくる。酒を飲んだ時とはまた違った感覚だ。あれは不快感しかもたらさない。

 と、背後からもぞもぞと布が擦れ合う音がする。

「ミコトさん?」

「ん? ああ、起こしたか」

 真希はもぞもぞと布団をたくし上げて胸を隠しながら体を起こす。

「どうかしたの?」

「いや。ただ、月が綺麗でさ……」

「ううん、そうじゃなくて。何かあったの? ミコトさん、何か変」

「ちょっとな……」

 俺は表情を悟られないように、うつむき加減になって顔を隠す。

「昔の事を思い出したんだ……。いや、知った、というべきかな……」

 そんな自分の声が自嘲じみていた。

「俺にはさ、恋人がいたんだ。結婚まで約束した。なのに俺は、酒に酔ったまま彼女を車に乗せて事故を起こして……。彼女は即死だった。なのに俺は、今日までおめおめと生き延びてしまった。そんな事があったのも忘れたままな……」

 手を額に移す。俺が頭痛に耐える時の格好だ。

 今は頭痛などない。だが、胸の奥が酷く痛んでいる。

「ホント、馬鹿だよな……。何も知らないで、ただ周囲の人間に気を使わせて、自分だけ被害者ぶってさ……」

「ミコトさん……」

 もしかしたら、俺は泣いてしまっていたかもしれない。もしそうならば、それは自分のあまりの不甲斐無さが情けなくての涙だ。

「仕方ないよ……。もう、そんなに自分を責めないでよ。ミコトさんは悪くない」

「……俺は」

 と、何かを言いかけたその時、額の奥からあの音が―――。

「う……」

 うめくような声を漏らす。だが、それだけだった。これまでになく微かな痛みである。頭痛が起きるたびに失神していたのが嘘のようだ。

「ミコトさん?!」

「いや、大丈夫だ……。すぐに収まる」

 だが、すぐに収まっては欲しくなかった。少しでも俺は碧の事を思い出したかったのだ。それが、俺が死なせてしまった碧への償いのような気がして。

 意識の中に暗黒の海が広がり、そして投げ出される。だが暗黒は、前よりも明るくなってきているような気がした。

 

『帰ろ』

 突然目の前の幼女は、俺の手を取って歩き出した。

 視界から辺りを確認する。だが、映像はいつもと様子が違った。何故かモノトーン調に色褪せているのである。

 いや、おかしいのはそれだけではない。周囲の建物がまるでマンガのように曖昧な形をしているのだ。積木を乱雑に積み上げたような感じだ。

 幼女は鼻歌混じりに、やけに楽しそうに歩いている。

 この子は碧なのか? じゃあこれは、俺が子供の頃の記憶か……。通りで視線の位置が低い訳だ。

 俺達は街中の歩道を歩いていた。しかし、マネキンのようなものが歩道を歩いていたり、道路を箱に丸いものがついただけの自動車のようなものが走っていたりと、明らかにそこは普通ではなかった。おそらく、あまりに昔の記憶だから鮮明さを極端に欠いているのだろう。

 碧とは、こんなに小さな頃からの付き合いだったのか。だからこそ過去の俺は碧をあれほど信用し、また碧も俺を理解し得たのだろう。

『ミコト君は、帰ったら今日もお勉強?』

『うん。先生が待ってるから』

『大変だね。お勉強ばっかりでいやじゃない?』

『でも、お父様と約束したから』

『約束?』

『頑張ってお勉強して、将来は偉い人になるんだ』

 子供心から来る、他愛のない夢。頑張れば何でも出来ると信じて疑わなかった、純粋な時代。

 特別な懐かしさはなかった。だが、無垢な自分に対して不思議と親近感があった。そして、そっと思う。頑張れよ、と。

『ミコトく〜ん、ミドリちゃ〜ん! 待ってよ〜!』

 と、後ろから女の子の声が聞こえてきた。

『あ、―――ちゃんだ! お〜い、早く早く!』

 あれ? 今、碧は何て言ったんだろう?

 

「あ……」

 俺は額から手を離し、ゆっくり顔を上げた。

「ミコトさん、落ち着きましたか?」

 傍らには真希がいた。心配そうな面持ちで俺を見上げている。

「大丈夫だ。ありがとう」

 そう答え、微笑んでみせる。すると真希も安堵の表情を浮かべ、微笑んだ。

「ミコトさん、私、ミコトさんとずっと一緒にいたいんです。駄目ですか?」

「いや、そんな事はないさ。俺だって真希とずっと一緒にいたい」

 そして僅かに言葉を探した後、

「嬉しいよ」