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 人は集団生活の場で自分の居場所を得るために様々な仮面を被る。

 親切な人間、強面の人間、勇気のある人間、臆病な人間、仮面は実に様々な種類が存在する。その中でほぼ共通して言えるのは、仮面と素顔が全く正反対な性質を持っている事である。

 気をつけて欲しい。仮面とは人を騙すために被っているのだ。

粗雑な仮面もあれば、素顔と判別がつかないほど精巧な仮面も存在する。その人の顔が仮面なのか否かを判別するのは、個人の鑑定眼にかかっている。

だが、一つ考えてみよう。何故その人は自分を騙そうとしているのか、を。

騙す、という行為には悪意が付きまとっているイメージがある。しかし、それは常ではないのだ。

 

日曜日。俺はとある喫茶店でコーヒーを飲んでいた。この間借りた本を返しにいった途中の事である。

せっかくの日曜日だが、真希は仕事だった。看護婦に定休日はないそうである。遅番はなかったので、帰りに食事の約束はしていた。しかし、待ち合わせの時間までは、後、四半日。

「はあ……」

 思わず、退屈色の溜息が漏れる。特にする事もないのだから、映画でも見て時間を潰そうか。

 ティースプーンでカップの底をかき回しながら、そんな事を考えていた。

 と、

「いらっしゃいませ。お一人様ですか?」

 店員の愛想の良い声が店内に響き渡る。何気なく入り口に視線をやると、そこには体格のいい筋肉質の男が一人。

 何かスポーツでもやっていた体格だな。そんな感想を抱いたその時、俺とその男の視線が偶然かち合った。

「あ……」

 咄嗟に視線をそらす。見知らぬ人間と視線が合うのは気まずいものだ。

 男も視線をそらしただろう。そう思って視線を男に戻すと、男はまだ俺の方を見ていた。しかも、男は先ほどよりも近くに来ている。そう、男は俺の席に向かって来ているのだ。

 あれ……? 何か気に障ったかな……。

 ずん、と嫌な予感が胸に圧し掛かる。

これは誰かに聞いた話だ。この世で最も難解なのは学問を究める事ではなく、ケンカの理由と酔っ払いの理屈を理解する事だ、と。とにかく、世の中には信じられない理由で人を殺すヤツが居るという事だ。

男はずかずかと俺の前まで近づき、そして何の挨拶もなくテーブルを挟んだ向こう側の席に腰を下ろした。

まずい。取り敢えず、謝っておくか……。

男は俺の何が気に食わなかったのかは分からないが、つまらない意地を張って殴られるのは馬鹿らしい。謝って分かってくれればそれでいいと、口を開きかけたその瞬間、

「やっぱり! ミコ―――いや、久我さんじゃないスか!」

 男は俺よりも先に口を開いた。

「え……?」

 見知らぬ人間に親しげに話し掛けられ、思わず戸惑う俺。だが男は、そんな俺の様子に気づきもしない。

「今日はですね、たまたま取材でこっちの方によこされたんスよ。いやあ、奇遇っスねえ。あ、そうそう、姉貴からミコ―――いや、久我さんが事故ったって聞いて、ビックリしましたよ。なんだ、思ったより元気そうじゃないスか!」

「あ、あのさ……」

「それにしても、姐さ―――いや、碧さんの事は心中御察しするっス。辛いとは思いますが、頑張って欲しいっス」

 男は一方的に次から次へと捲くし立てるように喋り出す。俺は辛うじて男は自分や碧の古い知り合いである事だけは聞き取れた。大柄な体格に似合わず、早口で良く喋る男である。

「あ! 一人でペラペラ喋ってしまってスンマセン。いっつもミコ―――いや、久我さんに、お前は喋り過ぎだ、って言われてましたっけ。あ、俺はコーヒー、ブレンドで」

 話を休める事無く、そのまま通りかかったウェイトレスにコーヒーを注文する。本当に、見ているだけで騒がしい男だ。

「あの、悪いんだが……」

「あれ? 久我さん、何だか元気がないっスね? どっか体の調子でも悪いんスか?」

「あのさ、俺、事故以前の記憶がほとんどないんだ。だから、あなたがどこの誰なのかも分からないんだ」

「き、記憶喪失ッてやつスか?!」

 男の驚嘆した大声が店内中に響き渡り、客と店員の視線が一斉にこちらに集中する。男は自分が場違いな大声を出してしまった事に気づき、慌てて頭を下げ下げ謝る。

「って事は、俺の事も憶えてないんスか?」

 こくり、と肯く俺。男は額に皺を寄せ、困ったような顔つきをする。

「そりゃ難儀な話っスね……」

「すまないが、詳しく説明してくれないだろうか? 出来れば、俺の昔の事も」

「分かりました。出来るだけの事はするっス」

 と、そこへコーヒーがやってきた。男はいきなりそれをがばっと飲む。次にカップを置いた時は、中身は半分ほどになっていた。こちらは体格通り大味である。

「俺の名前は檜山直哉、ミコ―――いや、久我さんとは同じ中学と高校の二個下でした。俺もあの頃は大分イキがってまして、調子に乗って久我さんにケンカを売って返り討ちにあって以来、ミコトさんの舎弟をやらせてもらっているっス」

「しゃ、舎弟?」

「ええ、そうっス。いやあ、懐かしいっスねえ」

 男には嘘や冗談を言っている様子は見られない。おそらく本当の事を言っているのだろうが、やはり俄かに信じる事は出来ない。一体どうすれば、俺みたいな凡人がこんな大男を力で捻じ伏せられるのだろう。

 と、前に見た、過去の俺の映像が頭に浮かぶ。騒ぐな見苦しい、と冷たく言い捨てた俺の声に。

「そうそう、久我さんは下の名前で呼ばれるのを嫌がってましたね。俺もそのせいでボコにされたようなモンです。それで結局、下の名前で呼んでいたのは姐さ―――いや、碧さんと姉貴だけでしたね。まあ、二人はミコ―――いや、久我さんとは小学校に上がる前からの幼馴染だったっスからね」

 なるほど。この男、直哉はそういう経緯で俺の事を知っていたのか。俺と碧の事もよく知っているようだし、まあ、多少受け入れ難い部分もあるが、直哉の言っている事は信じても構わないだろう。

「ところで、ミコトさんは今、何をやっているんスか?」

「ああ、高校の講師をやってる。まあ、生徒には飲まれっ放しだけどさ。君は?」

「やだなあ、直哉でいいっスよ。俺は東京の小さな雑誌社に勤めてるんス。取材と出張ばかりで家にすらほとんど帰れませんけど、なかなか遣り甲斐のある仕事なんスよ」

「なかなか体力勝負な仕事みたいだな。あ、ところで、えっと、直哉の姉って、俺と面識があるんだろ? 今はどこに住んでいるんだ? 出来ればその人からも俺についての話が聞きたい」

 ふと直哉が先ほど言っていた姉貴なる人物の事を思い出し、慣れない呼び方でそう訊ねる。

下の名前で呼ばれる事を嫌がる俺をあえて下の名前で呼んでいた、碧以外の人物だ。過去の俺は父にも交友関係は明かさなかった訳だから、碧の他に親しい人物がいたとしてもおかしくはない。むしろ、ここで直哉と出会えて幸運だった。もし、ここでその人の存在を知る事がなければ、一生知らないままでいた訳なのだから。

「あれ? 久我さん、知らないんですか? 姉貴はこの街に住んでるっスよ? 事故の事も詳しく知ってたみたいスから、てっきり連絡を取り合ってたんだと思ってましたけど」

「はあ?」

 思わぬ直弥の言葉に、俺は眉をひそめだらしなく口を大きく開けてしまった。