世界は広い、とはよく言われる。だがそれは、単にこれまでの自分の世界が狭かった事を認識しただけに過ぎない事が多い。
病院の敷地内が今の俺の世界である。そこから外の事は憶えていないし、今は出る事も出来ない。退屈、といえば退屈ではあるが、愉快な話し相手がいるのでそれほど苦痛でもない。
過去の事に目を向けると、俺は自分の世界が狭まっていく事に気がついた。過去の事となると自然に自分に限定された事ばかり考えてしまうからである。自分と自分の対話からは何も生まれないだろう。言葉とは自分と対話するためにあるものではなく、他の誰かと対話するためにある。人と繋がっていく事が自分の世界を広げる事だと俺は思う。そして言葉は、そのための手段の一つにしか過ぎない。
あれから一週間。
俺は既に一人でも自由に歩けるようになっていた。極端に衰えていたのは平衡感覚ぐらいで、歩行に必要な筋力はすぐに取り戻せた。ただ、平坦な道は大丈夫だが、階段や急な坂道となると手すりが必要になる。真希には、エスカレータを使えばいいのに、としょっちゅう言われているが、それではリハビリの意味がなくなる。
「調子はどうだ?」
午後になって、父が見舞いにやって来た。一日に一度は大体この時間にやってくる。別段、だらだらと長話をする訳でもないが、俺のリハビリの経過が気になるらしい。
「ああ、まあまあだ。体の方もかなり思い通りに動くようになってきた」
読んでいた新聞をたたみながらそう答える。
「なんだ、今日はあの看護婦さんはいないのか?」
「あのな、アイツはアイツで忙しいの。付きっきり、という訳にはいかないんだ」
「ワシはてっきり、お前に気があるとでも思ってたんだがな」
訳の分からん事を。ふう、と溜息一つ。
「さて、そろそろ俺も退院後の事を考えなきゃな」
「気の早いヤツだな。お前の会社はワシがしっかり監督しているから、もう少しゆっくり療養してもいいのに」
「はあ? 会社? 俺の?」
「ああ、その話はまだだったな。お前は高校を卒業した後、外国の大学に留学したんだ。そこを飛び級で二年で卒業し、帰国した後、ワシが資金を融資して会社を設立したんだ」
「会社、ねえ……。何の会社だ?」
「日本国内の会社を格付けし、その情報を提供する会社だ。ま、広告の発展系みたいなものだな」
「はあ……。それにしても、社員は見舞いにも来ないんだな」
「会社といっても、初めはお前が一人でやっていた小さなものだ。ようやく仕事が軌道に乗り始めた矢先の事だったからな。お前の事故は」
まさか自分が、小さいながら会社を経営していたとは。自分の事ながら他人の事のように驚いてしまう。
「それに、お前には昔から友人が一人もいなかったからな。まあ、誰も見舞いに来なくても無理はないさ」
「一人も……」
ふと、免許証の自分の写真の事を思い出す。
あの刃物のような目つき、とげとげしい表情、確かにあれでは友人は出来ないだろう。
そうだ、前に見た、夢の中の会話。もしあれが自分だとしたら、俺は意図的に人を避けていたようにも思える。どうしてそんな事をしていたのだろう? 何故、ああも頑なに人との関わりを拒絶する必要がある? 自分の事なのに、またも他人の事のように理解する事が出来ない。
キーン……。
と、その時、急に頭の奥から鋭い音が響き始めた。
「うっ?!」
この感覚、憶えている。そうだ、この鋭い音が伴う頭をかき回される感触、あの時、俺を失神まで追い込んだあの頭痛だ。
「ん? どうした、ミコト?」
急におとなしくなり額を押さえたまま動かなくなった俺に、父が不思議そうに覗き込む。だが俺は、既に激痛が頭の中を思うがままに走り回っており、答えようにも舌が自由に動かない。
「く、うううっ……」
「おい、ミコト! どうした?! しっかりしろ! 苦しいのか?! よし、今すぐ医者を連れてくるからな、待っていろ!」
父のそんな声がどこか遠くから聞こえた。まるで壁越しに聞いているかのような、くぐもった聞き取りにくい声。
がくん、という浮遊感を感じたかと思うと、俺の意識は暗い闇の海へ放り出された。既に頭痛はなかったが、同時に自分が今ここに居るという感覚もなくなっていた。
そして、最後に見たのは、またもや開けていく白だった。
『さて』
気が付くと俺は、学校の教室にいた。見覚えはないが、おそらく俺が通っていた中学か高校だろう。
『忘れ物は……ないな』
視界が俺の意思とは別に勝手に動く。視界はまず机の中を確認した後、急に高くなった。どうやら立ち上がったようである。
これは一体……。
まるで、誰かと視界を共有しているかのようであった。他人の視覚情報を俺が盗み見たらこうなるに違いない。
視界の主は周囲に注意を払う事無く、スタスタと教室を出て行く。授業は既に終わったらしいが、どうしてこんなに急いで帰ろうとするのだろう? いや、単に人が大勢居る所が嫌いなだけなのかも知れない。
視界はやがて下駄箱にたどり着く。そして慣れた感じで自分の下駄箱を見つける。
やっぱり……。
案の定、下駄箱には、久我 命の文字。どうやらこれは、俺の過去の記憶のようだ。
視界の右側からにゅっと手が現れ、中から靴を取り出して下に置く。かつて俺が見た事をそのまま第三者の視線で見ているからだ。だがその違和感も、慣れてくるとまるで映画のように見えてくる。
さて、これから一人で家路につくのか。靴を履いている手の主にそうぼやく。当然ながら、返答が返ってくる事はない。が、靴を履き終え、鞄を持って立ち上がったその時、
『お前か? 久我っていうヤツは』