暴力というものは人間社会において二種類に大別される。一つは直接的な力を行使する事により、人を一方的に死に至らしめる暴力。もう一つは、知性によって策略を謀る事によって第三者に力を行使させたり、もしくは自発的な死に至らしめる暴力である。
暴力とは人間特有の野蛮な行為と言っても過言ではない。何のためにするのか、その理由は“人間が理性的な動物だから”と答える以外に他ない。理性のない動物は生存と種の繁栄以外の行動は取らない。人間よりよほど理性的である。
諍いの原因のほとんどは、相互の不理解によるものである。全人類が心から理解しあえば、あとほんの少しの思いやりを持つだけでこの世から諍いはなくなるはずだ。お互いの事をよく知れば、争う理由はなくなるのだからだ。にも拘わらず、何故、人はコミュニケイトの媒介に言葉という難解なものを選んでしまったのだろう。先人の考えは“理解”に苦しい。
『どちら様でしょう?』
突然、背後から何者かが視界の主=俺を呼び止めた。一瞬、ドキッとしたが、視界の主の方は何慌てる事無く、スッと振り返ると極めて冷静にそう問い返した。
背後に立っていたのは、いかにもな先輩面をした生徒が三人。あまり有効的な雰囲気ではない。
『お前、あの久我なんだって? だったら、金持ってるだろ』
カツアゲか。まあ、今更驚く事でもない。少年犯罪、なんてとっくに使われなくなった言葉だ。それだけ日常的な事になったためである。
文部省とPTAと教育委員会の頭脳があまりに化石化した現代、そんな頭を捻りに捻って出した苦肉の策如きで子供達の風紀が改善される訳がなく、むしろ退廃に拍車をかけてしまった感さえある。その上、好転する兆しが見えない責任を自分達ではなくマスメディアに押し付けるばかりだから始末に終えない。
とにかく、相手は三人だ。適当に言う事を聞いて逃げ出すのが賢い選択だ。
『欲しいのか? 欲しいならそう言え』
冷ややかな冷笑さえ思わせる、露骨に相手を見下した口調。
俺は我が耳を疑った。たとえそう言った所で、じゃあお金を下さい、と三つ指をついて言い直すような相手ではない事ぐらい分かるはずなのに。
その言葉に、三人は顔を見合わせて何やら合図する。一人が廊下に見張りに出た。残った二人が並んで立つ。
『ねえ、ミコトちゃん? 俺たちはあまり気は長くないんだけどね?』
君の悪い猫撫で声。だが、悪意だけはビリビリと伝わってくる。そのために見張りをつけたのだ。
『おや、急におとなしくなったね。女みたいな名前だけど、君は本当に男かね? 一つ、調べてやろう』
と、ぐいっと荒々しく襟元を掴み上げる。口調とは裏腹に乱暴な仕草だ。
『おい、先公いないな?』
『ああ、大丈夫だ』
見張りの男に確認を取る。そしてこちらを振り返り、ニタリと残虐な笑み。
ガツン! という衝撃が頭の中から聞こえる。殴られた、と俺は咄嗟に感づいた。
だから言ったんだ。おとなしくしていれば痛い目を見ずに済んだのに。
『さて、これで正当防衛は成立だ』
これからどんな目に遭わされるのか考えたくもなかった。が、何故か視界の主はそんな不適なセリフを言い放った。案の定、殴った男も意外な反応にやや首をかしげている。
正直、血の気が退く思いだった。直接痛みは感じないとは言え、どんな事を感じているのかぐらいはリアルに伝わってくるのだ。下手に痛みを感じない分、どれだけのダメージを負ったのか分からないからである。
『はあ? 何を言って―――痛ッ……!』
嘲笑していた男の声が、急に切羽詰る。しかし、この視界からでは何が起きたのか分からない。ただ、男の顔が急に苦痛に歪んだ所だけが見えただけだ。
一体、何が起きたんだ?
そう思った次の瞬間、腕の方から何やら鈍い振動が伝わってきた。何か硬いもの同士が擦れ合ったような、本当に嫌な感触だ。
が、それを確かめる前に、突然、目の前が真っ暗になった。目をつぶった訳ではない。まるで意識を失うように、急に映像がプツンと途切れてしまったのだ。しかし、視界は途絶えてしまったが音だけはこれまで通りに聞こえた。
どういう事だ? そう俺が不思議がっている間にも、事は待つ事無くとうとうと流れていく。
『う、うわあああ?!』
『騒ぐな、見苦しい』
聞こえてきたのは、目の前に居るであろう男の叫び声と、それに向かって冷たく言い捨てる俺の声。
視界の主が一体何をしたのかは分からないが、男の絶叫からして、それの行為がどれだけの苦痛をもたらせたのかは想像できる。ちょっとやそっと殴ったり蹴ったりしたぐらいではああはならない。
『刑法第三十七条、緊急避難の第一項の規定だ』
だが、男の絶叫に哀れみを見せるどころか、薄ら笑いとも取れる視界の主のそんな言葉。
俺は本当にこの視界の主が自分だとは思えなくなった。これは俺の過去の記憶の映像だ。だから視界の主は間違いなく俺自身である。それは分かる。だが、自分で自分の言葉に戦慄するほどの恐怖を感じてしまったのだ。とても、これが自分の言葉とは信じたくはない。そして、この視界の主が過去の自分であるとも。
『テ、テメエ! ふざけやがって!』
そう粋がってはみたものの、どこか尻込みしていて迫力を感じられない。お遊びの暴力で満足していた者が、本当の意味での暴力を目の前にしてメッキが剥がれてしまった瞬間だ。
それを機に、音が段々小さく聞き取りにくくなっていく。そして間もなく聞こえなくなった。
再び、俺の意識は漆黒の海を漂う事になった。が、ほどなくして、漂っている事を自覚している自分自身の意識も、まるで眠りにつくかのように穏やかに朦朧としていき、最後にはぷっつり途絶えてしまった。
これが俺の過去の姿だというのか?
認めたくないし、信じたくもない。それが正直な感想であった。本当は、こいつは俺とは何の関係もない全くの別人ではないのか? しかし、名前も声質も間違いなく俺のものだった。双子でもない限り、この事実を否定することは出来ない。
何故、ここまで今の俺と違うのだろう。現在の自分が受け入れられないほど、性格や価値観が変わることなどあり得るはずがない。人の性格とは、そんなに簡単に変わるものではない。時間をかけて、ゆっくりと形成されるものなのだから。
俺が記憶喪失だからあいつを受け入れられないのか? なくした記憶を全てを取り戻せたら、あの自分も受け入れられるようになるのか?
もしそうだったら、過去の自分が受け入れられずに戸惑っている今の俺は、一体どこへ行くのだろう。
記憶が人の自我を形成するのだとしたら、今の俺を形成しているものは一体何なのだ?