たとえるなら、青天の霹靂といったところだろうか。日常と非日常は常に背中合わせである事をこれほど実感させられた日はないだろう。もっとも、俺には過去の記憶などないのだが……。
眼に見えるものはあくまで真実と虚構との掛け合わせであり、心にあるものは想像と固執との世界である。どれも正しいとは呼べず、どれも間違っているとも呼べず、ただ俺には、選択の自由だけが許されている。
まるでスイッチを入れられたテレビのように、俺の意識は覚醒した。
目覚め。その良し悪しは主に昨夜の経緯と本日の予定に左右される。大半の人間にとっては憂鬱なものだが。
と、俺は普段の目覚めとはまるで異質な目覚めである事に気づいた。目を開いているのに、目の前が真っ暗なのである。これは一体どういう事なのだ……?
『久我君』
誰かが俺を呼ぶ。最近知ったばかりの、自分の名前。だがそれを呼ぶ声に聞き覚えはない。優しげな男の声。単に忘れているだけだろうが。
『何か御用ですか?』
久我、と呼ばれた誰かが俺よりも先に答える。その口調はあまりに素っ気無く、会話する事に煩わしさを感じさせる。まるで人が寄り付かないよう、威圧的になっているかのようだ。
おい、待て。それは俺じゃないぞ。俺が久我だ。
『何か御用ですか、ではなくて。君は何故、クラスのみんなと遊ばないんだい?』
『馴染む必要がありますか? 朱に交われば赤く染まる。ああいう人種にはなりたくないだけです』
『確かに君は成績は優秀だし、スポーツも万能だ。けど、人とのコミュニケーションだって大事だよ?』
『取りたくないものを無理に取れとおっしゃるのですか? 無闇に大衆の中に溶け込んで集団生活における自分の居場所を獲得しようという心理は分からなくもありませんが、それでは自分の個というものを見失いがちになってしまいます。特に日本人にはその傾向が強い。私はあくまで自分は自分としてありたいのです。他人に都合を合わせる事は、自己を否定する事と同義です』
『久我君、それは違うよ。人を気づかう事というのは、その人を同じ仲間として認めてあげる事と同じなんだ。人間だけが出来る、とても尊い事なんだよ。君だって、誰かに認められたいと思うだろ? そうやって誰も彼も遠ざけていたら、誰も君の事を仲間として認めてはくれないよ?』
『尊い? 人間は卑しくも理屈でそれをしますが、動物は本能だけでそれをやりますよ。それに、私は誰も彼も遠ざけている訳ではありません。本当に信用できる人しか、先生の言う仲間とやらに認めないだけです』
『あ、まだ話は終わってないよ!』
『これ以上は時間の無駄です。失礼します』
再び、俺に目覚めが訪れた。今度の目覚めは先ほどのような唐突なものではなく、ずっしりと重い睡魔をやっとの事ではねのけたような穏やかなものだった。
切れかけた蛍光灯のように、なかなかはっきりしない俺の意識が鮮明になるよりも先に、まぶたが反射的に開く。そして飛び込んできたのは、やはりあの目が痛くなるほど真っ白な天井だった。
「俺は……」
そうつぶやいたその時、
「ミコトッ?!」
傍らでガタガタと音がしたかと思うと、目の前に見慣れぬ中年の男が飛び込んできた。
「な、なんだ?!」
思わずあたふたと狼狽する俺。当然だ。誰だって、起き抜けの頭がボーッとしている時に見慣れぬオヤジが目の前に飛び込んできたら驚くに決まっている。
「ワシだ! ほら、分からないか?!」
男は必死で俺にそう問い掛ける。何やらその様子が尋常ならぬように見えた。
まさか……。
直感的に、俺はこの男が自分の父親ではないかと考えた。息子が生死の淵から生還した訳だから、このぐらいは普通の範疇の反応だろう。
「すまない。分からない……」
「そうか……」
申し訳なく思いながらも、俺はそう答えた。言ってしまった後で、どうして嘘をついて、知っている、と言ってやれなかったのかと後悔する。
彼、いや、父の口振りからいって、どうやら俺の記憶喪失の事は聞かされているようだ。子供に自分の顔を忘れられた親の悲しみとは如何なるものだろうか。少なくとも今は、それをたとえるのに丁度いい言葉が見つからない。
「あの、ミコトって……」
「お前の名前だよ。イノチと書いて、ミコト。久我命。それがお前の名前だ」
ミコトか……。俺の名前らしいが、何だか女みたいな名前だな。だが、あえて名前として選ばれたイノチという文字。とても奥深い響きにも聞こえる。
「父さん、ですよね?」
おそるおそるそう訊ねてみる。すると意外にも、彼は驚いた様子の表情で俺の顔を見た。
「あの、違いましたか?」
「いや、そういう訳じゃない。ただ、今までワシは、お前には『お父様』と呼ばれていたからな」
「では、そう呼びましょうか?」
「今のお前が呼びやすい呼び方で構わんよ。元々、その呼び方はワシがそう教育したせいだったからな」
「分かりました」
実の親と対面しているというのに、自分がどこか他人行儀になっている事を感じた。記憶がないため、父を父と思えないのだから仕方がないが、こんなにまで心配してくれている事を考えると良心が痛む。
「ところで、母さんは?」
ふと、父が一人で駆けつけた事が気になり、俺は幾分か話しやすくなった父にそう訊ねる。
しかし、今度は父は悲しげな色を目元に浮かべ、気まずそうに表情を歪めた。
何かまずい事でも訊いてしまったのだろうか。俺が何か言おうとしたそれよりも先に、父は深く溜息をつき話し出した。
「無理もないか……。お前の母親は、とっくに死んでしまったよ。病気でな……」
その言葉に、思わず息を飲む俺。だが父は、そんな俺に、気にするな、とでも言いたげに僅かに微笑む。
せっかくの心遣いだが、それはかえって痛い……。
「とにかく、無事に眼を覚ましてくれて良かった。たとえ命が助かったとしても、寝たままでは生きているとは呼べないからな。もしお前があのまま寝たきりだったら、天国の母さんになんと言ったらいいのか分からなかった。本当に良かった。本当に……」
最後の方は既に涙声になっていた。父はハンカチを取り出し、二度三度目元を拭う。だが、それでも涙はまたすぐに溢れ出てきた。
「ハハハ……いかんなあ、歳を取ると涙もろくなって」
ばつの悪そうに笑う父に、俺はどんな顔をしたら良いのか分からず、ただうなずくばかりだった。
けど、これだけは分かった。俺はこんなにも父に愛され、そしてその父をひどく心配させたのだと。
父のばつの悪そうな笑い声が俺の胸に、二度と過ちを繰り返すな、と楔のように深く突き刺さった。