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 過去、現在、未来。人生はこれの繰り返しだ。

 現在はやがて過去になり、未来は現在、そして過去と移ろう。この世の全ての存在はこの流れに逆らう事は出来ない。だからこそ、人はじっと先を見据えなければならないのだ。後ろを振り返っていいのは、この先どちらに進めばいいのか迷った時だけ。それ以外は望郷の念と同じだ。

 俺もそろそろ過去の幻影を追うのはやめようと思う。過去の自分との対峙は十分にした。失った事実も全て知る事が出来た。

 さあ、決着の時だ。

 過去の呪縛を断ち切る事が出来るのか否かは自分自身の問題である。

 余計なしがらみは断ってしまおう。

 前に向かって歩き出すため。

 

 その日、俺は街外れの寺を訪れていた。目的は一つ、碧の墓参りのためである。

 梅雨の時期に入ったためか、今日は朝からしとしとと雨が降っていた。まるで誰かの胸中を象徴しているかのように。

 右手には傘、左手にはラッピングされた花束を携え、雨の墓所を劫家の墓石を求めて歩く。足を一歩ごと踏み出すたび、道の上に所狭しと敷き詰められている濡れた砂利がぶつかり合い、しゃりしゃりと心地良い音を立てる。

 昼の墓所は静かだった。もし、今日の天気が晴れならば、本当に無音に近かっただろう。今は雨が降り注ぐ穏やかな音が厳かに響き渡っている。

 こんなに物寂しい場所の片隅で、碧は眠っているのだ。

 この世には君が生きてきた足跡がくっきりと残っている。だが、それも時の流れと共にかすれていき、やがては消えてしまう。心の中に焼きついた君の姿も、時間の流れが『癒し』と称して儚い存在に薄めていき、最終的には忘れ去ってしまうだろう。そして、初めからなかった事になってしまう。

 死んでしまった人は、あまりに無力だ。たとえどんなに大切な人だったとしても、少しずつその人の事を考える時間は減っていき、最後には思い出しもしなくなる。

 失った悲しみを乗り越えるため、人は失ったものを忘れてしまう。

 それは失った本人にしては良い事なのかもしれない。だけど、自分が存在していた事を忘れられるのはどんな気持ちだろう? その気持ちを抱きながら君は、こんな所でひっそりと眠っているのか……。

「あ、これだ……」

 見つけた。劫家の墓だ。真新しい木簡もある。

 墓の前にしゃがみ込み、花束を捧げる。そして持ってきた線香を取り出し、火をともして上げる。

「随分と遅くなったな……」

 微苦笑。

 何を言うはずだったのか忘れてしまった。本当は昨晩から考えていたのだが。

 言いたい事は沢山あった。自分の事、事故の事、それに真希との事も。だけど、それぞれが強過ぎてこんがらかってしまったのだ。

 と、そんな中、たった一つだけ言葉が思い浮かんだ。俺はそれを口にする。

「俺は、君の終の棲家になれただろうか?」

 返事はない。目の前にあるのは単なる石の造形だ。

「すまん。今度来る時は、もっと言葉を整理しておくよ。それじゃ、また」

 ばつの悪そうに踵を返す。

 俺も、まだまだ整理がついてないみたいだな。

 自分に再度苦笑する。と、

 キーン……。

 額の奥から、かすかにあの音が。今にも消え入りそうだが、確かにはっきりと聞こえる。

 針で刺すような鋭い痛み。咄嗟に雨で濡れた手で額を押さえる。しかし、それはほんの数秒で収まり消えた。

 時間は僅かでも、微かに映像が見えた。

 それは、街中を手を繋いで楽しげに歩く二人の姿だった。

 彼女達は笑顔のまま振り返り、俺に向かって何やら叫ぶ。

 音は聞こえない。多分、早く来い、のような事を言っているのだろう。

「……碧」

 僅かに振り向きかけ、やはり思いとどまって再び歩き出した。

 今度来る時は、もっと色々話すよ。

 空を見上げながら、俺はそうつぶやいた。どんよりと曇っていたが、心は晴々としていた。

 その時、携帯に着信音が鳴った。俺は携帯を取り出し、耳に当てる。

「もしもし。ああ、俺だ。ん? 今夜? ああ、大丈夫だ。じゃあ、いつもの場所でいつもの時間に」

 

                                                     了