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 信じる、とはどういう事だろう?

 俺には今、絶対的に信じられるものがない。

 世間には様々な種類の人間が居る。世の中には悪人など居ない、と本気で思い込み、いいように利用される者。表面上は取り繕っているが、自分以外の誰も信じず、孤独を孤独とすら思えなくなってしまった者。自分すら信じる事が出来ず、自らの可能性を自ら潰し、華を咲かせる事もないまま自滅していく者。

 俺は、とにかく人の言葉を信じるしかなかった。無くした過去の自分を見つけ出すには、人の記憶の中に居る自分の姿を教えてもらい、そこから推測するしかないのだ。だが、これでは真実の自分に辿り着けない事は分かっている。それらの情報はジョハリの窓で言うならば、自分は知らないが他人は知っている自分、だけなのだ。

 俺が本当に知りたいのは、かつての俺は何を考え何を想っていたのか、である。

 それは完全に失われてしまったのだろうか。二度と取り戻す事は叶わないのだろうか。

もし、何か取り戻す手段があるのなら、俺は身振りを構わず食らいつくだろう。

 

担当医である医院長の診断では、要精密検査、という事だった。色々な機械にかけられる事は別に構わないのだが、少なくとも、当分は退院出来そうもない。

午前中丸々かかって、検査の半分が終わった。正直言って、思っていたよりずっと疲れた。されるがままになるのもなるでしんどいものである。

途中でコーヒーを買い、部屋に戻る。既に松葉杖なしでも歩くには困らないほど回復している。俺は楽々とベッドの上に座り、買ったばかりのコーヒーを一口飲み人心地ついた。自分の足で歩きまわれる幸せを噛み締めながら。

トントン。

と、部屋のドアをノックする音。父が来るにはまだ早い時間だ。見舞いに来る友人もいない訳だから、消去法で。

「ミコトさ〜ん、ゴハンですよ」

 檜山―――いや、真希だ。相変わらずの調子である。ホント時々、コイツは本当に看護婦なのか? と疑ってしまう。

 真希は手馴れた手つきでテキパキとテーブルを出し、持ってきた昼食を置く。

 病院食。決してまずくはないが、体自体は健康体の俺にとってはあまりに味気ない代物だ。それが何日も毎食続いている訳だから、正直溜息をつきたくなる。

「はい、あ〜んしてあげますか?」

「悪ふざけはやめろよ。食事が殊更辛くなる」

「病院食って薄味ですからね。そうだ、私、お弁当作ってきます?」

「やめてくれ。これ以上、退院を先送りにしたくない」

「あ〜、バカにしてるでしょ? 一人暮らしだもの、料理ぐらい出来ます」

 ふて腐れて見せる真希。本当にころころと表情を変えるヤツだ。だからこそ退屈しないのかもしれない。

「退院を先送りにしたくない、って、そんなに早く退院したいんですか?」

 俺の口調を真似ながら問い訊ねる真希。

「病院の空気は体に悪い。廊下で別の患者とすれ違うたび、あの人と明日はすれ違えるのかな、なんて嫌でも考えてしまう。ともかく、早く退院したいと考えるのは普通だろ」

「さっさと私と別れたい、って聞こえる。ヒドイ、昨夜はあんなに優しかったのに」

「はいはい」

 また始まったか、と俺は適当に聞き流す。このセリフを聞いたのは既に三度目だ。

「もう。仕事への義務だけじゃないんだけどな」

「分かったから。番号なりメールアドレスなり教えるから、好きにしてくれ」

 表面上は迷惑そうにしてはいたが、正直な所、それほど悪い気はしていない。大なり小なり、女性に好意を持たれる事を喜んでしまうのが男の性である。

 やや本音を語れば、真希は好みのタイプである。記憶のない俺が好みのタイプがどうとか語るのもおかしな話だが、とにかく明るい女性には心惹かれるものがあるのである。俺自身が暗めの性格だから、正反対のタイプの女性に惹かれるのかもしれない。

「OK、って事ですか?」

 意味深な微笑みをぶつけられ、返答に戸惑う俺。

 僅かに逡巡した後、ぎこちなく微笑み返してうなずいた。そんな俺を見て、真希はクスクス笑う。

 なんだか変な事になってしまったな……。

 後悔混じりの溜息が出そうになる。こういうのは、やはり俺のキャラではない。

 と、その時、額の奥からあの鋭い音が聞こえてきた。

「う?!」

 激痛を恐れるあまり、咄嗟に額を押さえる。無論、そんなものに効果がある訳でもなく、俄かに俺の頭は気の遠くなりそうな激痛に支配される。

「ミコトさん? どうかし―――ミコトさん?!」

 真希の声が既に遠くから聞こえるようになっている。意識が健在と喪失の境目を彷徨っているのだ。

「ミコトさん、薬です! 飲めますか?!」

 口元に指が触れる感触。その指が俺の口を強引に開き、中につるつるした小さなものを割り込ませてきた。

 異物の感覚に、意識がやや健在側に引き戻される。俺は必死でその状態を保ち続ける。

「み、水……」

 口の中が乾ききっていて、カプセルを飲もうにも飲み込めない。

「はい、水です!」

 すぐに冷たいコップを握らされた。俺はすがるような気持ちで、カプセルを水と共に流し込む。少しでもこの痛みを紛らわせてくれるのなら何だって良かった。

 薬の効果はすぐには現れず、頭の中をかき回されるような頭痛はそのままだった。だが、冷たい水の感触に、意識はなんとか失わずに保てていた。もしかしたら慣れてきたのかもしれない。

 意識が暗闇の中へ放り投げられる。同時に周囲の一切の音も遮断される。だが、今ここに居る、という体の感覚は、これまでと違って微かに残っていた。空気がまだ肌で感じられる。

 また、あれなのか……?

 正直、あんな映像は見たくもなかった。未だ、あれが過去の自分だと受け入れられないのだ。そんな所に畳み掛けるように見せられても、嫌悪感と不快感を催させられるだけだ。

 しかし、そんな俺の意思など構う訳もなく、上映時間はやってきた。俺の過去、という映像の。