俺が憶えていたのは、視界が真っ白になるほどの眩しい閃光と、鼓膜が張り裂けそうな轟音だけだった。
人間がどのような過程を経て誕生するのか、その事を知らない訳ではなかったが、自分に限っては、変な話だが、それが信じられそうにない。自分だけは、ある時にどこからかポッと湧いて出た。そんな気がしてならない。
気が付くと俺は、ベッドの上に横たわっていた。まず目に飛び込んできたのは、眼が痛くなりそうなほど真っ白な天井。そして、何故か懐かしく感じる、薬品の芳香。部屋の外からだろうか、忙しそうな人の声や足音が聞こえる。なんて騒がしいのだろう。
病院だ。未だはっきりしない意識の中で誰かがそう呟く。俺自身もそれにつられ、何となくそう思った。
「俺は一体……」
随分長い間使っていなかったせいか、喉がうまく震えず、聞き苦しい濁声が漏れる。
その問いに答えが返ってくることはない。この部屋には、自分以外には誰もいないのだから。
このまま、こうして寝ていても仕方がないので、俺は取り合えず起き上がる事にした。布団を跳ね除け、ベッドの下に足を置く。リノリウムの床のひんやりした感触が素足に伝わってくる。
部屋をぐるっと見渡す。廊下の外は騒がしかったが、この部屋は外の喧騒とは切り離されているかのように、非常に静かで落ち着けた。この部屋について特記すべき物は見当たらない。備品もベッド脇の簡素なタンスとパイプイスぐらいしかない。後は簡易的に付けられたような小さな洗面台があるだけ。ただ、部屋は割と広いのだが、ベッドが一つだけしかないというのは、おかしいと言えばおかしい。病院というものは、ベッドの数=利益、と考える生き物ではなかっただろうか。どうしてこんなスペースの無駄遣いとしか思えない部屋があるのだ?
ふと俺は、思い出したように強烈な渇きを感じた。まるで炎天下の中を散々歩き回った後、自宅にたどり着いた時ような感じだ。猛烈に何かを飲みたい衝動に駆られる。
俺は洗面台の蛇口から水を飲む事にした。そこに辿り着くため、立ち上がろうと膝に力を入れる。が、
「おあ?!」
思わず裏返った情けない声を上げ、ベタッと床に這いつくばってしまう。すんでの所で手をついたため、なんとか床とキスする事態だけは回避できた。しかし、うっかり床に手をついてしまった屈辱だけは消えない。この部屋に誰もいなかった事が唯一の救いだ。
うまく歩けない? そう俺は思った。とはいえ、自分がそうなる理由に心当たりが全くない。
いや、待てよ。そういえば、何故、俺は病室に居るのだ? 病室で目覚めたという事は、俺はなんらかのトラブルを起こしたか、それとも巻き込まれたかのどちらかだ。
トラブル? 俺は自分の記憶を探った。一体俺の身に何が起こり、どのような経緯でここに運ばれたか、を。だがしかし、それに当たるような事柄は一向に浮かんでこない。
……そもそも、俺は誰だ?
記憶の代わりに、笑い話のようなセリフが浮かんできた。そして、口に出して復唱してみる。だが、返ってきたのは外の喧騒だけ。
不意に俺は、身の毛もよだつほどの恐怖を感じた。背中から冷水を浴びせられたような悪寒が背骨を走る。
そんな不安をかき消そうと、俺は必死で自分の記憶を掘り返した。どうせ寝ぼけているだけだ、すぐに思い出して自分に苦笑する事になるんだ。そう自分に言い聞かせ、何度も何度も、どうにかして自分の頭に思い出させようとする。しかし、何度繰り返しても、何一つとして思い出せなかった。ただ、自分の頭が空っぽになってしまったという空虚な気持ちと、耐え難い喪失感だけは嫌というほど味わったが。
「記憶喪失……ってヤツか?」
泣き笑いのような自分の声が耳に痛い。
正直、どうして良いのか分からなかった。こんな馬鹿らしい事が、まさか自分の身に降りかかるなんて。
たとえ様のない不安が幾千もの波となって精神を揺さぶってくる。それはいつしか本物の頭痛と錯覚するまでになり、俺は苦しさのあまり奥歯を噛み締めながら頭を抱えた。すると、手のひらから明らかに髪とは異なる、ザラついた感触が伝わってきた。
ハッ、とした俺は、改めて両手で自分の頭を確かめるように撫で回す。ザラついた感触以外には、何やら小さな金属のようなものの感触もあった。
「これは……包帯か?」
頭に包帯が巻かれているという事は、頭に何か大きな傷を負ったという事か? じゃあそれが、俺が記憶喪失になった原因だというのだろうか。
駄目だ。まずい。どうなかなってしまいそうだ! とにかく、とにかく落ち着かなければ……!
俺は力の入らない膝を叱咤し、床を這い回るようにしてどうにかベッドの上に戻ろうとする。しかし、衰えていたのは足だけでなく腕も同じで、スタミナもすぐに底を尽き、俺はゼイゼイと息を切らせ始めた。一度方向転換をすれば、ベッドは本当に目と鼻の先なのに。にも拘わらず、手を伸ばせば届く距離にあるベッドが、やけに遠くに見えた。
「くそ……」
どうにかベッドの上に腕を乗せる事が出来た。しかしここからが問題だ。幾ら腕に力を入れても、体が持ち上がらないのである。足で何とか立ち上がろうとするが、疲労のためか、うまく動かない。
ベッドに自力で上れない自分に、苛立ちや怒りを越え、悔しさすら覚え始めてきた。どうしてこんな簡単な事が出来ないのか、と、うっかりしたら涙すら流しかねないほどだった。
ガチャ。
背後から金属の擦れ合う音が聞こえた。ドアノブが捻られた音だ。聞き憶えがある。
一体誰だ? 看護婦か? ノックもしないで入ってくるなんて、新人か?
不本意ではあったが、俺は自力でベッドに戻る事を諦め、ベッドに乗せた腕を降ろして床に座り込んだ。ひやりと冷たい感触にぞくっとする。
ドアを開け入ってきたのは看護婦だった。制服は薄い青である。患者を落ち着かせる心理作用があるそうだが、いまいち俺には信じられない。
ん? こういう事は憶えているのか……。
入ってきた看護婦は、何やら書類のようなもの手にしている。検温に来たのだろうか。
「ああ、悪いが―――」
そう俺は彼女に話し掛けた。が、しかし、
「え……?」
彼女は目を見開き、俺と視線を合わせるなり、その場に硬直した。理由はよく分からないが、驚いているようである。
「あ、あのさ……」
いきなり驚かれ、俺もどう対応して良いのか分からない。何と言ったらいいのか分からず、しどろもどろになってしまう。
「た、大変!」
そう言うなり、彼女はサッと身を翻して部屋の外へ駆け出してしまった。あまりに突然の動作だったので、俺が制止する間もなく彼女の姿は見えなくなってしまった。
「担当医でも呼びに言ったのか……?」
それならそれでいいから、先にこっちをどうにかして欲しかった……。
俺はふう、と溜息をつき、彼女が呼びに行ったであろう医者の到着を待つ事にした。もう少し、この冷たい床に座っていなければならない事が、少々不本意ではあったが。