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 悲しみを埋めてくれるものは何だろう?

 気分転換とか開き直りとか宗教とか、そういった精神論がまずは上げられるだろう。けど俺は、最終的には誰かの優しさに行き着くと思う。そう、特に親しい誰かのだ。

実際、今の自分がそうだ。どんな理屈理論を並べても、実際に肌で感じる優しさには勝てないと思う。見えなくて不確かなものよりも、目に見える確かな存在の方がずっといい。たとえ唯物論者だと嘲笑を受けても。

正直、弱音を吐いている。だからこんな下らない事をぐだぐだと述べているのだろう。

ああ、とにかく、少しでも早く楽になりたい。心の隙間を埋めて欲しい。この傷を塞いで欲しい。優しい言葉を耳元でささやいて欲しい。誰か傍にいて欲しい。強く抱きしめて欲しい。俺の悲しみを理解して欲しい。

……記憶を失った俺は何て弱いのだろう。かつての俺の強さの源は、一体何だったのだ?

碧の存在か?

ならばかつての久我 命は、碧と共にあの事故で命を落としてしまったのだろう……。

 

劫家では、意外にも俺を丁重に出迎えてくれた。碧を死なせた張本人なのだからたとえ殴られても仕方がない、という覚悟で来ていた俺にとっては、まさに寝耳に水だった。

「すみません……。正直、何も憶えていませんのに、こんな時間に厚かましくもお邪魔してしまって……」

「いえ。久我さんにうちの碧は大変お世話になっていましたから」

 いましたから。過去形。そう、これが現実だ。

 碧の父は、俺を仏間に通してくれた。

 途中で母らしき人物とすれ違った。俺を見ても何も言わず、ただ心痛な表情を浮かべただけだった。そんな様子に、ここに押しかけた事を少しだけ後悔した。

「碧、久我さんがお見えになったよ」

 碧の父は、仏壇に飾られた写真立てに向かってそう話し掛けた。見た目の歳よりも遥かに老いた声だ。

「久我さんもどうぞ」

「失礼します」

 俺は仏壇の前に座った。そして意を決して顔を上げる。

 その先には、色褪せない碧の姿。

「……」

 言葉も出なかった。頭の中が真っ白になり、自分がここへ何をしに来たのか今更考えてしまう。自分は一体どうしたいのだろう? 碧に謝りたいのか? 冥福を願いに来たのか? それとも、越える事の出来ない壁に隔たれたから、別れを告げに来たのか?

 何も分からないまま、ただ機能的に線香を一本手に取り、火をつけ上げる。りんを鳴らし、目を閉じて手を合わせる。りんの乾いた音が、鳴り止んでからも耳の奥でずっと鳴り響いていた。

 俺は碧が死んだ実感がないのかも知れない。ここに来たのも、単に義務的な感情だと言えなくもない。本当に申し訳ないと俺は思っているのだろうか? 今の俺は、過去の俺とは違って碧の事はほとんど知らないのに。

 やがて、俺はゆっくりと目を開いた。そこには変わらない姿の碧。ぎゅっと胸を締め付けられるような痛みを覚える。

 と、俺はその下に小さく輝くものを見つけた。思わず体を乗り出してそれを確かめる。

「指輪……?」

 それは、本当に飾り気のないシンプルなデザインの銀色の指輪だった。部屋の明かりを受けキラキラと輝いている。

「それは、碧が持っていたものです」

「碧が?」

 碧の父の言葉に、俺はそう中途半端に問い返す。

「あの日……碧の指にあったものです。左手の薬指に。ですからそれは、おそらく久我さんから戴いた物だと思います」

「そうですか……。あの、触ってもよろしいですか?」

 どうぞ、との返事を受けてから、俺はそっと指輪を手に取った。

 俺からの贈り物か……。それにしては少し地味過ぎるよな。

「指輪、随分綺麗でしょう? 碧は、まるでそれを守るかのようにしていたそうです。それだけ、大切にしていたのでしょうね……」

 碧の父は何かを思い出したらしく、失礼、と短く断ってから取り出したハンカチで目元を拭う。

 君は、俺の事をどんな風に想ってくれていたのだろう? これが俺からの贈り物で、本当に君がこれを守りながら死んでいったのだとしたら、それが答えだと思って良いのか?

 かつての俺にとって、君はどれだけ大きな存在だったのか、今の俺には推測の範囲でしか分からない。けど、掛け替えのない大切な人であったのは確かだと思う。不器用だった自分を理解し、そして笑顔を向けてくれた君。だけど、今はもう、なんて儚い存在になってしまったんだ……。

 キーン……。

 その時、俺の額の奥からあの不快な音が響き始めた。俺は咄嗟に指輪を置き自分の額を押さえる。もう一方の手はアンプルボックスを求めてポケットの中へ。

「久我さん? どうかなされましたか?」

「いえ……発作みたいなものですから。すぐに収まります……」

 薬を飲み下しながら、どうにかそう答える。

 最近、この頭痛は穏やかになってきている。苦痛が和らぐのは良いのだが、それと同時に、自分と碧との接点が希薄になっていくような不安感も否めなかった。

 意識が暗黒の海の中へ放り投げられる。

 

『もう飲まないの? おいしいんだけどな』

『……いらん』

 あ……あの時の続きだ。俺はそう思った。

 視界の主は、かなり辛そうな口調だった。かなり酔いが回っているようである。

『やあねえ、顔が真っ赤よ』

『誰のせいだよ。飲めない事を知っているクセに……』

『だって、せっかくのワインがもったいないじゃない。なんか私一人で飲んじゃったし。あ?! ねえ、ちょっと外見てよ!』

 酒のためか、少しはしゃぎ気味の碧。その言葉に、視界が窓の外へ向けられる。

『雪……か』

『いいタイミング。ドラマみたい』

 うっとりした表情で景色を見ている。二人で過ごしているこの時間に満足しきっているようだ。

『なあ、碧』

『ん、なあに?』

 すると視界の主は何やら取り出し、白いクロスの敷かれたテーブルの上に置く。

 それは、手のひらに乗るぐらいの小さな箱。

 碧の表情が僅かに変わる。碧はそっと箱を手に取り、上半分をぐっと押し上げて箱を開けた。

『これ……』

『俺の会社の方もさ、ようやく形になってきた。だから、その、そろそろこういう話がしたいんだ』

 柄にもなく、言葉に詰まっている。慣れない話題に照れているためか、それとも、酒のせいで呂律が回らないのか。

『本当に……?』

『ああ……』

 すると、碧はその箱をこちらに返してきた。そして、一緒に自分の左手を差し出す。

『ミコトがして』

 その表情は、輝くような笑顔だった。

『分かった』

 ぎくしゃくと箱の中に手を伸ばす。

 取り出したのは、飾り気のない銀色に輝く指輪。

 

 劫家を逃げるように後にしたのは、それから間もなくの事だった。発作の事もあり、少し休んで行くように厚意を受けたが、それも断らせていただいた。何故なら、これ以上碧の傍に居るのは耐えられそうもなかったのである。

 胸が掻き毟られるような思いだった。これほどの苦痛は、かつて感じた事はなかっただろう。

 あの時間も、暗黙の約束も、碧の笑顔も、それらを形作る全てのものを俺は壊してしまったのだ。

 この手で。

 そして、そこには罪も罰もない。あるのは、罪悪感と無数の涙だけ。

 俺はおもむろに携帯を取り出した。同時に今週の早番と遅番を思い出し、ダイヤルする。

「真希、今から行ってもいいか?」