優しさの定義とはなんだ?
人に接するに当たり、まず最初にぶつかる壁の一つだ。
その人が望むようにする事。それは甘やかしというものだ。
自分が正しいと思った事をしてやる事。それはただの押し付けだ。
優しさとはその両者の中間に位置する極めて不安定な感情だと俺は思う。自分では優しさだと思っても、ほんの少しのズレで容易に奴隷にも独善的にもなりうる。だからこそ、優しさを与える時は慎重にならねばならない。
だけど、そんな計算し尽くされた完璧な優しさは、果たして素直に喜べるだろうか? むしろ俺は、たとえ結果的には迷惑だったとしても、自分に対して優しさを与えようとしてくれる純粋な気持ちの方がずっと嬉しい。
少しくらい、不器用な方がいい。
完璧を求められるのは機械だけだ。俺達は機械じゃない。人間だ。
人間だからあるさ、失敗ぐらい。
結果を批難するな。気持ちを素直に受け止めよう。
バンッ!
挨拶もなしの俺の唐突な行動に父は、驚きに両の目を見開いた。
「これはどういう事だ」
出来るだけ冷静になりながらそう問う。だが、無理に怒りを押し殺しているせいで、かえって声の凄みが増している。
父は手にしていたチューリップグラスを置き、恐る恐る俺がテーブルの上に叩きつけたものに視線をやる。
叩きつけたもの。それは図書館で見つけた記事をプリントアウトしたものだ。
「この記事にある久我 命とは俺の事だ。だが、その次にある劫 碧とは一体誰だ? 何故、今まで俺に隠していた?」
父は震える手でプリントアウトした紙を見つめている。広がり始めた額には俄かに汗がふつふつと浮き出てきて流れ落ちていく。そんな様子を見て、俺は確信した。父は俺を騙していたのだと。
「黙ったままじゃ、分からない」
断腸の思いで、そんな父に残酷な追い打ちをかけた。事実が知りたいだけでそんな事を強要する自分が嫌になる。
それから数十秒後、父は何かを観念したかのように大きく溜息をついた。慎重に言葉を選ぶかのようにゆっくり口を開く。
「お前の言う通りだ。ワシは今までお前を騙し続けてきた。だが、それは決して悪意があった訳じゃないんだ。それだけは理解して欲しい」
そして俺に、向かいに座るように手を差し出す。一度深呼吸した後、それに従って腰を降ろした。
「碧さんは幼馴染だとお前からは聞かされている。お前は昔から変に秘密主義だったからな。正確には知らない。その幼馴染を、お前は去年の夏、改めてワシに紹介した。自分の恋人として」
「恋……人?」
「ああ。そして秋にはお互いの両親の挨拶も済ませ、事実上の婚約者になった。お前達の間ではどうだったのかは知らないが、ワシと劫さんのご両親は二人は結婚するものだと喜んでいた。だがしかし、去年の十二月二十四日、あれは起こってしまった……」
そこで父は一度、チューリップグラスの中のブランデーで喉を湿らせた。しかし、俺にはそれが告白する苦痛を紛らわせているように見えて仕方がなかった。
「お前は簡潔に、碧さんと出かけてくる事だけを言い残して出て行った。クリスマスイブだ。一人になるのは寂しい気もしたが、お前と碧さんが仲良くしている事の方がずっと嬉しかった。なのに、深夜、突然かかってきた電話を受けた時、ワシは愕然としたよ。お前が事故を起こしたと聞かされてな。ワシはすぐさま病院に駆けつけた。ワシにとって、お前は最後の家族だ。ワシが行った所でどうなる訳でもなかったが、せめて傍に居てやりたかった。手術が終わってお前が助かったと聞かされた時、ワシは思わず嬉しさで泣きそうになった。碧さんが助からなかった事は悔やまねばならないはずなのにな。しかし、ワシはそれから執刀医にある事を聞かされた」
「ある事?」
「事故の原因は、お前の飲酒運転だ、とな」
「飲酒……」
と、その時、図書館で見た映像の中の真っ赤な液体の注がれたグラスがフラッシュバックする。ハッと咄嗟に額を押さえる。だが、そこに痛みはない。
「そしてワシは、法に背く事を行った。その執刀医を始め、お前の事故の詳細を知る全ての者や関係者に対して口止めをし、事故の原因を単なるスリップ事故に書き変えさせたのだ。お前の経歴に傷をつけたくなかったからな……。それから、碧さんの事もお前には知られないようにした。お前の部屋から碧さんに関する物を全て処分し、劫さんの方にもその事を了承して頂いた」
「どうして、そんな……」
「執刀医から、たとえ目を覚ましたとしても記憶は絶対に元には戻らない。そうワシは聞かされた。それで思ったのだ。ならば、わざわざお前に伝える必要はない、と。たとえ正直に話したとしても、お前をいたずらに傷つけるだけだ」
父はもう一度ブランデーをあおった。チューリップグラスの中身を飲み尽くす。
「幼い頃からほとんど笑わなかったお前が、碧さんをワシに紹介した時に見せた嬉しそうな表情をワシは今でも鮮明に憶えている。お前がどれだけ碧さんを愛し、そして愛されていたのかはそれだけで十分に分かる。それを、たとえ改ざんされていたとしても、自分の起こした事故で死なせてしまったと知ったら、お前がどれだけ悲しむ事か。考えただけでもワシはおかしくなりそうだった。だからワシは、真実を都合の良いように変えたのだ……」
頭の中に、ミドリの―――碧の笑顔が浮かび上がる。あんなに無愛想で、冷たくて、不器用な生き方しか出来なかった俺に何の陰りもなく微笑んでくれた君。その声、その髪、その表情、その全てが今も美しく想う。
だけど、俺はもう君との事は全て忘れてしまった……。そして、君と会う事ももう叶わない……。
「ミコト、お前を騙していた事は心から謝る。ワシをお前が気の済むようにしても構わない。だけど、これだけは分かってくれ。ワシにとってお前は、この世でたった一人の―――」
「もう、いい。いいよ、父さん。分かったから」
涙ながらに語る父を、俺はたまらず駆け寄って制止した。
親の愛情を無下にしてしまったようで、自分が恥ずかしかった。何度も何度も、すまなかった、と繰り返す父に、俺もまた同じ言葉を繰り返した。
「父さん、碧の家の住所、教えてくれないか? 自分の目で確かめたいんだ……」
父は涙に濡れた顔でこっくり肯いた。