割れんばかりの歓声が、壁一つ隔てたこの通路まで響いてくる。
開演からおよそ三十分。アクエリアス=ラーファのコンサートは、開始早々から続く、この会場に袋詰になった大勢のファン達によって熱狂の渦が巻き起こっていた。
会場は中規模程度で、動員人数は三万人といったところだ。だがそこに、三万五千人のファンが押し込まれている。四日分のチケットが、発売から僅か十分で完売してしまった勢いに驚き、慌てて無理やり各日五千人ずつの追加席を用意したのだ。かなり強引な形ではあったが、それも完売するのにはものの五分をかからなかった。
それだけの人数が一箇所に集められ、しかも興奮の頂点を極めている。俺にとっては正に都合のいい状況だ。彼らが発する歓声が会場の壁や屋根に反響し、場内外あらゆる場所に質量を伴って浸透する。スタッフはコンサートを白けさせないよう潤滑に進めるため、効果や照明等の仕事に追われる。その上、熱に浮かされたファンの監視や対応もしなくてはいけない。多少の不審な行動には気を止めなくなる。
俺はあらかじめ用意していたスタッフジャケットと偽造IDを用いて、コンサートスタッフとしてここに侵入した。たとえ見知らぬ顔でも、IDを照会してエラーが出なければスタッフ用通用門は行き来できる。網膜センサーや輪郭スキャンが標準設備となっているアッパーエリアのセキュリティに比べたら、こんなものはあって無きに等しい。アクエリアス=ラーファの暗殺は、シリウスの役人をやるよりも遥かに大仕事と呼べるだろう。民衆はシリウスを構成する幹部の一人が死んだとしても、さしたる興味は持たない。だが、アクエリアス=ラーファのような有名人が死んだとすれば。その死は話題性十分である。
実行の方法は色々と考えてみたが、あまりに露骨な殺し方をすれば、おそらく民衆は政府に反感を強めてしまう。そうなると、政府は暴徒化した民衆の鎮圧に追われてしまい、アサシンギルドへの仕事が減ってしまう。暗殺者はクライアントの要求通りの仕事をこなすものだが、クライアントの不利になるような行動は望ましくない。クライアント側もさる事ながら、自分自身の仕事まで減らしてしまう事になる。双方の益にならない事は避けるべきだ。
その先で考えた手段。それは、事故死に見せかける事だ。
コンサートステージには、およそ五十台の照明が天井から吊るされている。照明の重量はおよそ三十キロ。それが頭部を直撃すれば、即死は免れられない。潰れたトマトのようにステージに倒れるだろう。
もちろん、ただ落としてしまっては怪しまれる。だが、限りなく事故を装う事だって出来るのだ。
会場の中は既に調査済みだ。
俺は真っ直ぐ天井裏へ向かう。そこで待機し、時期を待つのだ。
ふと、その時。
不意に俺は、床続きのどこかに人の気配を感じ取った。
廊下の向こう側から見覚えのある顔が向かってくる。
む、あれは……。
アクエリアス=ラーファのマネージャー兼ボディガードである、オリオンと呼ばれている男だ。
まずいな……。
俺は動揺を顔に出さぬよう、平然とした顔で歩き続ける。表情を装うのは大して難しい作業ではないのだが、それは素人に対しての場合だ。同じ狢ならば、僅かな不自然さや演技っぽい部分でも目ざとく見つけてしまう。だから視線一つにも細心の注意を払う。
と―――。
「待て」
すれ違う直前、オリオンが俺を止めた。
思わず高鳴った心臓を、俺は気力で体の奥へ抑え込む。
「見ない顔だな。名前は?」
「カプリカ=ワーズ。IDはAQ33S2」
無論、偽名だ。だが本物でもある。戸籍データにはカプリカ=ワーズという人間のデータがあり、IDも無断で発行した本物なのだから。
オリオンはPDAでIDを照会する。結果は分かりきっている。俺は平然さを装う事だけに注意を払う。
「チェンジがあったのか……。今、何をしている?」
「次のステージの機材確認へ」
「そうか。行っていいぞ」
俺は軽く一礼し、その場を立ち去った。
あの神がかった銃技を見せられた時は背筋が震えたものだが。その他は意外と大した事のない素人だ。まさか俺が、アクエリアス暗殺の命を受けた暗殺者とは思いもしなかったのだろう。
思わず口元を緩ませてしまう。
廊下を抜け、ステージ裏に回る。そこには調査通り、天井裏へ上るためのハシゴが備え付けられていた。
三枚の内緞帳の向こう側からひしひしとファンの歓声が聞こえてくる。
これから起きようとしている事も知らずに。
もう一度周囲に誰もいない事を確認すると、俺はハシゴに足をかけて素早く上った。
俺は静かに天井裏に立つ。足元の遥か下では、アクエリアスがステップを踏みながら熱唱している。ファンの歓声もここまでビリビリと聞こえてくる。足音がかき消されて都合がいい。
天井裏とは、ステージ頭上に照明器具を設置するために張られた足場板が無数に張られた場所の事だ。実際の天井裏ではなく、ただの俗称である。
丁度ステージ中央の位置までやってくると、俺は落下させる照明器具に目星を付けてしゃがみ込んだ。器具は三本のワイヤーで吊るされているタイプだ。ワイヤー一本が絶えうる重量は、およそ五十キロ。それが三本で計百五十キロ。ある程度時期が経っている事を差し引いても、百二十キロという所だ。
ポケットから小さな瓶を出す。
中には希硫酸が入っている。これで固定ワイヤーを腐食させて切断するのだ。すると、切れたワイヤーは如何にも老朽化して千切れてしまったような切断面になる。よほど深く調査でもされない限り、事故として片付けられるのだ。
俺は希硫酸を三本のワイヤー全て、順番に染み渡らせていく。満遍なくやるのではなく、ある一部分、それも三本とも違う高さにする事も忘れない。
ワイヤーの腐食時間も既に計算済みである。後はここで落下タイミングを微調整するだけだ。
「さて。準備はこれで完了だな」
この後間もなく、曲がバラード調の穏やかなものになる。それに合わせてアクエリアスもダンスをやめ、中央付近でゆったりと歌い始める事になっている。
直線に落下する照明器具をステージ上を所狭しと動き回るアクエリアスに当てるには、その曲の時間帯を狙うしかない。裏を返せば、動きをやめた瞬間を狙えばそれほど難しい事ではないのだ。これよりもずっと更に厳しい状況での暗殺をこなした事は過去に何度もある。
やがて、今歌っていたアップテンポの曲が終わり、ゆっくりとしたテンポの前奏が始まり出した。曲のタイトルは”Soulfully”。この世を去った人間を悼むレイクイエムだ。
アクエリアスがスタンドマイクの前に立った。それは丁度、俺がワイヤーを腐食させている機材の真下だ。
三本のワイヤーの腐食具合と下の様子を見比べながら時間を確認する。特に問題はなく、全て予定通りだ。このワイヤーは、後一分程度で千切れる。この曲は長く、初めから最後までおよそ五分だ。十分時間内に間に合う。
『あなたの、失った悲しみも
あなたの、傷の痛みも
私がみんな受け止めてあげる
私はあなたではなく、あなたも私ではないけど
同じこの世界に生まれた仲間だから』
アクエリアスの生命力に満ちた歌声が場内を埋め尽くす。
そういえば、初めて俺がアクエリアスの歌を聞いたのもこの曲だった。そして最後に聞くのもこの曲になるとは。なんとも世の中の巡りあわせとは不思議なものだ。
二度とアクエリアスの肉声を聞くことが出来なくなるかもしれないというのに。今は感傷に浸る気分にはなれなかった。哀しいとか悔しいとか、そういった感情を仕事に持ち出した事はこれまでなかった。そんな習慣に体が染まりきっていたせいなのかもしれない。
ただ一つだけ俺は分かっていた。仕事を終えた時、彼女の死を悲しむのは、ファンである俺もだという事を。矛盾した感情ではあるが、仕事中はそれだけしか考えられないのだ。理屈ではなく、ままにならない感情の問題なのだ。
と、その時。
「おい待て! 貴様、そこで何をしている!?」