撃たれた傷口が熱く痛む。
随分と久しぶりに撃たれたものだ。昔はしょっちゅうこんな傷を作っていたのだが。つまりは、それだけ俺のスキルは上達し、そして撃ったオリオンの射撃能力が優れているという事だろう。
痛みをこらえ、一時的な止血のために貼り付けていた殺菌ジェルパックを剥がす。途端にドロッとした赤黒い血の塊が転がり出してきた。
俺はバスルームの床に座り、体を捻って傷口を確かめる。赤黒い塊がぐじゅぐじゅとゼリーのようになっている。ボスにやられたおかげで、少し広がったかもしれない。見ているだけで気が滅入ってくる光景だ。
「さて、と……」
俺は傍らにおいていた安酒を、痛み止め代わりに瓶口からあおる。口当たりと後味の悪さに思わず顔をしかめるも、すぐに喉から胃にかけての間がカーッと熱くなってきた。徐々に酔いも回ってくるだろう。
そして今度は、用意しておいたランプの炎でナイフの刃を焼き始める。
徐々に熱を持ち始めるナイフの刃を他所に、俺は時折安酒をあおりながらボーッと炎を見つめていた。
なんてザマだろう。
初めての失敗。小さな仕事からコツコツと積み重ねてきた暗殺者としての信用と評価が、たった一度の失敗で全て水泡に帰してしまったのだ。これから俺には、ターゲットも殺せずに逃げてきた暗殺者というレッテルが貼られる事になる。
だが、そんなものは俺を苦しめる頭痛の要素としては大したものではない。今の俺を苦しめるものは、もっと自分の意識の奥、根底に根付くものだ。
俺はアクエリアス=ラーファを仕留めそこなった。
なのに。
どうして俺は、安堵を感じているんだ?
彼女は暗殺のターゲットだ。それ以上でもそれ以下でもない。これまでもそうであったように、標的がたとえ丸腰の無防備な人間だったとしても、己の目標に突き進んでいる情熱に燃えた青年であっても、今まさに生涯を終えようとしている老人であったとしても、ただ一度たりとも人間として対等に思った事はない。
だが、これは一体なんなのだ?
この安堵感は何だ?
彼女が死ななかったからか?
確かに俺は、好んで彼女の歌を耳にする。新曲などのスケジュールも頻繁にチェックしているし、まだ一度も当選した事はないが、コンサートチケットの抽選に応募もする事だってある。
しかし、仕事に私情を挟んだ事などこれまでに一度もなく、今日の依頼主が明日の標的だったとしても躊躇う理由になる事は有り得なかった。今日までそう自分を律し、暗殺者としてあるべき姿でいられるよう、暗殺者の鉄則を遵守してきたのだから。
自分の価値観を塗り替え、生命に優劣の格付けをする事を常とするまでに意識改造するのは、それほどの時間は必要としなかった。創世の物語で原始の人類が金のリンゴを口にした瞬間から知性を手に入れたのと同じように、俺は闇という名の毒を飲み込んだ瞬間から日影で這いずり回って生きる暗殺者となった。
少なくとも俺は、そう自分を信じていたのだ。
このU−TOPIAに、希望なんてあるはずがない。
夢は所詮、夢でしかなく、いつかは覚める甘い幻想だ。確かに約束されているのは、限りない絶望と終わりない悪夢だけ。幻想は苦い挫折と共に消え去り、そこから灰色の日々が始まる。誰もがその灰色の時間を這いずり回っている。
俺もまた、その辛い現実から逃れるため毒を飲み込んだ。その暗い臭気が、絶望の淵に突き落とされる苦痛を和らげてくれるのだ。
そんな現実の中、彼女は栄光の輝きを背に、人々に希望を歌い続けている。
強く生きて。
立ち上がって。
笑って。
切なる彼女の想いが歌として配信される。その暗に込められたメッセージが大勢の人間の心を掌握し、彼女の今日の地位を確立している。
言うなれば、俺もまた、彼女の地位を確立させるために一役買ったいちファンである。
そう、俺はファンとしての自分と暗殺者としての自分の間で揺れているのだ。この安心感は、ファンとしての俺が抱いているものだ。
飲み込んだ毒が回りきっていない部分があったなんて。
いや、そんな事はどうでもいい。
大事な事。
それは、暗殺者としての俺の抱くべきものはどこにある、という事だ。二つの自分がいるのなら、失敗した事に対する落胆が等しくあるべきなのに。
俺は本当に暗殺者なのだろうか?
もしかして、毒に染まりきらなかった部分があったのではなく、元々毒に染まった部分が僅かしかなかっただけではないのだろうか? これまでの俺が、ただ僅かなその部分に対して固執し続けていただけに過ぎないのでは……?
俺は、本当にアクエリアス=ラーファを殺すべきなのだろうか?
建前も毒もない本心は、一体どちらなのだろうか……?
やかましい!
俺は、悩む自分に怒鳴りつけた。
そんな事で悩んでどうする? 今はアクエリアスの暗殺をどうするかを考えなくてはいけない事態なのに。こちらは体調だって万全じゃない。前以上に綿密な計画を立てなくてはいけないのだ。
俺は焼いたナイフの刃に安酒をかける。ジューッと音を立てて安酒は揮発していく。純度が悪いせいか、安酒に火はつかない。
俺は残りの安酒で傷口を洗った。
激痛が走る。だが、それに構わず俺は傷口をナイフでえぐる。
「くっ……」
中にはまだ弾丸が残っている。これを摘出しなくてはいけないのだ。
弾丸は主に鉛で出来ている。鉛は生物にとっては毒物なのだ。鉛中毒で死ぬ事だってある。銃創が治りにくいのもそれが原因だ。
傷の手当てが終わったら、すぐに仕事の準備を始めよう。俺に残された時間は幾許もない。チャンスもこれで最後なのだから……。
見る間に赤く染まっていく自分の手とナイフを見つめながら、俺はそう自分に言い聞かせた。