俺達には人知れずよく足を運ぶ場所があった。
そこは市街地から遠く離れた、開発途上区域とのほぼ境界線上に位置している辺鄙な場所だ。そこにあるものと言えば、とてつもなく長く古びたコンクリート製の塀だけだ。
市街区と開発途上区は長いコンクリートの塀で区切られている。しかしそれは厳重に締め出すためではなく、地図を作る上で明確に区別するために便宜上建てられたものだ。
俺は塀の傍に静かに車を止めると、アクエリアスと共に車を降りる。
この場所は塀の終始点に当たる。ここから始まる塀が街を一周し、そしてまた再びここに戻ってくる。気が遠くなりそうなほどの長さだが、この上を歩き続けていればここに戻ってこれるのである。
そこには長い塀の他に、コンクリートの高い見晴台がそびえ立っている。この塀の管理塔と呼ばれる建物だ。実際は管理目的に建てられたものではなく、建物の中には階段以外に何もない。通信回線やエネルギーの供給も届いていない、本当に単なる塔だ。
塔の中に入ったアクエリアスは急な階段をどんどん登って行く。俺はその後をついていく。うっかり踏み外してケガでもされたら、俺が事務所に怒られるのだ。事務所側は俺達がこんな所に来ているなんて知らないのだから。
一分ほどかかる長い階段を登り終えると、塔の最上階である見晴台に到着した。見晴台は、まるで歴史資料に載っている中世の城のそれのような造りになっている。これだけ科学が発展したこの時代、目視による観察や監視がどれだけ非効率的で安全性に乏しいのかは周知の事実となっている。一体何の目的のためにこんなものが建てられたのかは知らないが、おそらくは過去の文献のそれを見て戯れにデザインしたのかもしれない。
見晴台は高所のため若干風が強く、少し肌寒かった。俺はコートの襟元を閉めて風を遮る。
この場所は、街を一望する事が出来た。夜の闇を照らす人工の光が幾つも輝いている。絶望ばかりに溢れた世界ではあるが、この輝き一つ一つの下には、それでも生き続ける人間がいる。人工の光は人が暗い闇夜の中でも生きている証なのだ。
街からは上に向かって幾本か細長い塔が伸びている。アッパーエリアとアンダーエリアを行き来するための唯一の手段、高速エレベーターの通るパイプラインだ。かつて一度だけ、俺もあれに乗ったことがあった。シリウスが必ずこの世界を真の意味での楽園に変えてくれる。そう信じて止まなかった頃だ。
かつて俺がシリウスにいた頃。シリウスは横暴な振る舞いをする政府の解体に心血を注ぎ、自分達が理想国家を築く新政府になろうと切願していた。しかし、実際に政権交代が実現した今、結局シリウスは前政府の陋習的システムの上に乗っかり、何一つ理想を実現出来ぬまま今日に至っている。
自由を手に入れた民衆は、完璧な管理体制に長年抑圧され続けてきた反動で倫理観を大きく逸脱した行動に走り、更にそれを鎮圧させるだけの力は行政を始めたばかりのシリウスは持ち合わせていなかった。一時しのぎ的な応急処置ばかりを繰り返すも、それは結局、荒廃を加速させるだけの結果にしか繋がらなかった。
そして、楽園は潰えた。
犯罪率の著しい増加、出生率の激減、そんな考えられるだけの低迷が毎年報告されている。唯一発展しているのは経済ぐらいだろうか。しかしそれは公式の記録ではなく、麻薬や銃器の密売を初めとするアンダーグラウンドの経済だが。
そんな悪夢が日常化した現実に、人々は徐々に心までも荒廃させていった。生きる事も死ぬ事もせず、ただ心臓を鼓動させているだけの毎日。目的も、希望も、夢も抱く事はない。それらが近い将来に否定されてしまう事を知っているからだ。
だからこそ、この世界にはアクエリアスのような人間が必要だった。夢も希望も必ず否定される訳ではない。アクエリアスは、ただ無為に日々を過ごさず、目的を持って生きる事を訴え掛けている。そんな言葉だけですぐに劇的な変化が訪れる事はない。しかし、必ず近い将来、この潰えた楽園は生まれ変わるはずなのだ。それがアクエリアスの希望であり、今の夢である。
アクエリアスは見晴台から街を眺めていた。
やがて、静かに息を吸い込み口を開く。
『あなたの、失った悲しみも
あなたの、傷の痛みも
私がみんな受け止めてあげる
私はあなたではなく、あなたも私ではないけど
同じこの世界に生まれた仲間だから』
Soulfullyというタイトルの曲だ。数あるアクエリアスの曲の中で、彼女自身が作詞をした数少ない曲の内の一つだ。
アクエリアスはいつもここでこの鎮魂歌を歌っていた。スケジュール上、さすがに毎日という訳にはいかないものの、時間さえあればここへ来ている。三日以上間を空けた事はない。
この世界では、一日に数千という人間が命を落としている。出生数のほぼ二倍の数だ。その内のほとんどは、親しい誰かの手によって看取られ、あるいは手厚く葬られている。だが、誰にも気づかれる事もなく孤独に朽ち果てていく無縁仏も数多く存在する。アクエリアスはそんな人達のためにここで鎮魂歌を歌っているのだ。孤独な死を迎えた人達を慰めるために。
『泣かないで
うつむかないで
私達はまだ歩き続けるから
今は静かに眠っていて』
今の科学水準を持ってしても、霊魂の存在というものは解明されていない。そのため、アクエリアスのこの行為が本当に死者へのはなむけになるのかどうか不明である。でも俺もアクエリアス同様、霊魂というものは実在すると思っている。俺は普通の過程を経てこの世に生まれてきた存在ではない。本質的には人間の定義から半分外れている。だが
『光溢れる明日を信じ
心地良い風を肌に感じ
前を見つめながら歩き続けます
明けない夜はないのだから』
歌い終えたアクエリアスが、スーッと静かに大きく息を吸い込み、吐く。
じっと街を見つめるその瞳は、どこか深い悲しみを湛えていた。
「そろそろ戻ろうか。夜は冷える」
「うん。でも、もう少し」
そうか、と俺はうなずき、そっとアクエリアスの肩を抱き締めた。
「私、また明日からも頑張りますね」
「ああ」
そう短く俺は答えた。
俺がしてやれる事は唯一、彼女を守る事だけだ。必ず守り抜いてみせる。彼女が自分の夢を叶えるその日まで。
「寒くないか?」
「いえ、大丈夫です」