* BAC

 

 

 息を殺し、足音を潜めてターゲットに近づく。

 闇と一体化した俺を見つける事は、人技では不可能だ。ましてや、ただの一般人に見つかる事など決してありえない。

 ターゲットは、アッパーエリアの住人だ。行政機関シリウスの内、一派の幹部である。早い話、派閥抗争というヤツだ。暗殺者の請け負う仕事なんて、そんな流れからのものがほとんどである。俺は金さえ貰えれば、誰がターゲットだろうと構いはしないが。

 依頼人も同じくアッパーエリアのお偉方だ。連中は、普段はアンダーエリアの住人がアッパーエリアに入る事を酷く嫌がるクセに、俺のような暗殺者だけは実にあっさりと通す。暗殺者のような即効性のある存在とは仲良くやっていきたいらしい。こんな連中が政治を動かしているのだから、U−TOPIAが荒廃するのも無理はない。今のシリウスに変わる前の政府の方がまだマシだった、と思ってるヤツは大勢いる。

 ターゲットの一挙一動に目を光らせながら、必要最低限の動作だけで接近。

 ガードは背後に左右に二人。左肩が僅かに下がっている。スーツの下にホルスターで銃を吊っているのだろう。だが、ホルスターから抜いて構え射出するまでには、最低でも一秒はかかる。本当のプロというものは一挙動で引き金を引けるように、袖の中ないし腰に携えるものだ。無用心な事、この上ない。

 俺の射程距離内にターゲットを捉えた。思考が接近からアクションに切り替わる。

 射程距離内にいる者は、隙さえ見せれば一瞬で仕留める事が可能だ。間合いとは俺の手足と同義であり、そこに自分が居るという事に気づけない人間は、棺桶に片足を突っ込んでいると言っても変わらない。

 三人の注意の方向や呼吸のタイミングまで手に取るように分かる。呼吸とは緊張と弛緩の繰り返しだ。暗殺で大切なのは、相手が弛緩する瞬間である。言うまでもなく、より確実なダメージを負わせるためだ。

 機を窺い、俺は踏み込んで無防備なその背中へ急接近。

 右手と左手の袖に隠したナイフを取り出し、それを同時にガードの喉へそれぞれ突き刺す。

 刹那。

 腰に携えていたパイクを取り右手に構え、再接近。

 背後で、ゴボッといううがいをするような音が聞こえる。俺のナイフは確実に喉を貫いた。二人はそれほどの時間も要せず、自らの血が気管に詰まって窒息死する。

 ターゲットはようやく背後の異変に気づき、振り返りかけた。表情には、未だ死神の足音が聞こえている様子はない。

 遅い。

 ぴったりとターゲットの背に張り付くと、左手で口元を押さえて強制的に左を向かせる。大きく隙間の出来た右肩から右側頭部の間を縫い、鎖骨の合わせ目に目掛けてパイクを突き刺す。

 全ては一つの動作で、僅か一呼吸の間に行われた。

 びくん、と僅かにターゲットの体が痙攣する。

 俺はパイクを左右に掻き回し、止めを刺す。

 この一撃で、大動脈と周辺の血管が壊滅的なダメージを負った。後は放っておいても数秒で事切れる。どんな治療措置を施しても助かる見込みはない。

 俺はパイクとターゲットを手放すと、床の上に放り捨てた。

 事を終えた暗殺者は、いち早くその場を脱しなければならない。捕まる事は自分自身だけではなく、クライアントの首すら締めかねないのだから。

 

 

 

 報酬を受け取りアンダーエリアに戻る頃には夜が明けていた。

 U−TOPIAには、本当の意味での昼夜は存在しない。全て一日二十四時間の単位で制御された巨大コンピューターによって、擬似的に昼夜や温度等を再現しているだけだ。それらは地球の自転とはまるで無関係に行われているため、その証拠に一年は三百六十五日で固定され、うるう年というものは存在しない。

 とは言っても、俺が生まれたのはU−TOPIAであるため、うるう年という概念や地球が一回転するのに要する正確な時間などは、全て知識的に見聞きした事だ。真実がどうかまでは知りはしない。

 埃だらけのアスファルトを踏みしめながら、俺はねぐらを目指す。

 昨夜から何も口にしてはいなかったが、食欲はなかった。胸の中に激しく渦巻いているものがあり、気持ちが苛立って仕方がない。仕事をする時の殺意とも違う。あれはもっと静かなものだ。今、俺を支配している感情は、この世にある何もかもを破壊し尽くしたい、そんな荒々しく暴虐なものだ。

 センター街は今日も殺伐としていた。行き交う連中は皆、生気の失せた死人のような表情をしている。また、今日という悪夢の始まりに絶望している表情だ。

 このU−TOPIAをこのようにしたのは、今の新行政機関であるシリウスだ。

 数年前、シリウスはアッパーエリアに強行突入し、国会議事堂を占拠した。そして当時の政府首脳陣の処刑シーンをあらゆるメディアで中継し、自分達が政権を奪還した事を大々的に主張した。

 それを機に、シリウスが行政機関として成り代わった。これまでの政府は、非人道的で徹底した管理体制を敷いていた。それによる民衆の不満は全て力ずくで捻じ伏せ、絶対的な権力者として君臨し続けてきた。

 そんな傲慢な政治態勢に真っ向から異を唱えたのがシリウスであった。当時の民衆にしてみれば、シリウスは自分達にとって自由をもたらす最後の希望だった。個人個人の力などたかが知れている以上、政府と対等に渡り合えるだけの組織力を持ったシリウスが望みの綱だったのだ。

 そのシリウスが政権を奪取した時は、民衆の喜びは凄まじかった。これでようやく自分達に自由が与えられる。そう誰もが信じ、光の差した未来に希望を抱いた。

 しかし、現実はそうもいかなかった。シリウスの政治体制は、かつての政府以上に酷いものだった。徹底した管理体制こそ撤廃されたものの、街の治安は乱れ、経済状態は迷走を続ける一方で貧富格差がより色濃く明暗を分けた。おまけにシリウス内部でも派閥抗争が行われ、汚職事件は連日後を絶つことはなかった。

 シリウスが政治を仕切り始め、僅か数年でU−TOPIAはここまで荒廃した。

 この世界は、もはや死人も同然だった。生きているのか死んでいるのかさえ分からなくなる瞬間が日常的に訪れ、誰もが本物の死神と背中合わせの生活を送っている。

 俺は酷く疲れていた。

 仕事を終えた後は、たとえどれだけ簡単なものだったとしても、まるで重りを背負っているかのような疲労感が込み上げてくるのだ。

 早く自分のねぐらに戻り、ベッドの中で泥のように眠りたい。

 アスファルトを踏みしめながら、俺はそう切に願った。

 と―――。

『こんにちはーっ! アクエリアス=ラーファです!』

 その時。突如、このセンター街にあまりに場違いな明るい声が響き渡った。

 まるで地獄の入り口へ行進している亡者のようだった、通りを行き交う人々は、その声が聞こえた途端、皆一斉に足を止めて顔を上げた。

 視線は、センター街に乱立する建物の一角、ビルの外壁に取り付けられた超大型プラズマディスプレイに集められる。

 声の主は、そこに実に瑞々しい生気に満ちた表情を映し出していた。

 人々の視線はプラズマディスプレイの一点に注がれ、そのまま微動だにしない。それは俺も同じで、仕事後の僅かな物音にも苛立つ荒んだ状態であるにも拘わらず、今は彼女に注目する事しか考えられなかった。

 今朝もまた、この地獄のような世界に彼女は颯爽と舞い降りた。

『さあ、人気絶好調の彼女に歌っていただきます! 曲は無論、”IN HIGH FEATHER”!』

 司会者の声と共に、軽快なテンポの曲がかかる。

 朝の通勤時間帯の番組の一角、主に新人歌手の曲を紹介する音楽コーナーだ。

 彼女は今、このU−TOPIAで最も人気のあるアイドル歌手だ。アクエリアスの名を聞いて、はてと首をかしげる者は皆無と言っても過言ではない。

 

『一人で泣いていた昨日の私。

 折れた翼がキリキリ痛む。

 目に映るもの全てが疎ましくて仕方がなかった』

 

 いつしか通りの人間は、彼女の歌に合わせて歓声を上げ、手拍子を鳴らし、そして共に歌い始めた。

 彼女の歌は、お世辞にも上手と呼べるものではなかった。圧倒的な歌唱力がある訳でもなく、ずば抜けた容姿を持っている訳でもない。

 そんな彼女に人々が夢中になる理由。

 それは、彼女のバイタリティだった。

 夢も希望も抱けないこの世界で、彼女の目は眩しいまでの光に満ち、その姿勢は常に明日を見ていた。しかも彼女は、俺達と同じアンダーエリアの出身だ。この絶望しかない世界で生まれたというにも拘わらず、目映い生の活力に満ち溢れているのだ。

 生も死も苦痛の代名詞でしかない、アンダーエリアの人間にとって、彼女のデビューはあまりに衝撃的だった。明日を見つめ、決して希望を捨てず、前向きに生きるその姿は痛いほど目映く、瞬く間に多くの人々を虜にし、羨望の対象となった。

 アクエリアスの生への姿勢は生きる望みを捨てた人達に、今一度、生へ挑戦する勇気を与えた。アンダーエリアを席巻していた巨大な死神を、彼女の歌声が祓い去ってくれるのだ。

 それは仮初の生命力でしかないのだけど。でも、彼女の生の活力に満ちた歌声は、今日一日を生き抜いてやろうという衝動を沸き起こした。理屈では説明のつかない事ではあるけど、現に大勢の人間が彼女の歌声に本来人間が生まれ持っている気力を呼び覚まされている。

 彼女は、たとえるならば、この無間地獄に舞い降りた一人の小さな天使だ。生きるも死ぬも苦痛でしかない人々に今一度生きる喜びを伝え、あらゆる苦痛に立ち向かう勇気と生命力を分け与えるために。

 それはきっと、俺だけの勝手な思い込みではないはずだ。そうでなければ、つい先ほどまで死人同然の顔をしていたヤツらが、こうして生き生きと歌い出すなんて事はありえない。

 あまり音律の取れた歌ではなかったが、それを耳にしている内に俺は、胸の中の張り詰めた暴虐的なものが薄れていくのを実感した。それが完全に俺の中から消え去っても、俺は依然としてプラズマディスプレイを見つめ続けていた。

 俺は、更なる癒しが欲しかったのだ……。