* BAC

 

 

『どうして気づいてくれないの?

 私のこの気持ち

 熱い眼差しを向けても

 あなたの表情はいつも涼しげで』

 

 俺はベッドの上に仰向けになって横たわったまま、ボーっと天井を見上げていた。

 ホテルの柔らかいベッドは体に合わず、すぐに背中がむずがゆくなってくる。だがそれも、ずっと無視し続けている内に何も感じなくなった。意識だけを遠くに放り出すのは慣れている。

 天井に埋め込まれているプラズマディスプレイには、先ほどからアクエリアスのコンサートの様子が中継放送されていた。同時に百チャンネル以上がこのコンサートを放送している。主催者側の配慮で、一つのチャンネルが放送権を独占しないようにしたためだ。

 開始から丁度中盤に差し掛かっている。歌った曲は十曲を数える。場内のテンションもピークに達している。

 彼女の歌に熱狂する観客は、自分の中にたぎるパッションを思い思いの形で表現している。彼女の名を叫び続ける者。両手をかざして自らの存在を誇示する者。曲に合わせて共に踊る者。

 誰もが皆、彼女の存在に夢中になっている。

 灰色に曇った世界であるはずのアンダーエリアに、これほど人々が生き生きとしている場所があるなんて、これまではとても考えられなかった事だ。

 この常識を覆した事実がアクエリアスのもたらす影響力の強さを物語っている。どんなに努力したとしても、そういったカリスマ性だけは身に付けることは出来ない。これは天性の素質があってこそ、初めて発揮出来るものだ。

 アクエリアスの幸運は二つある。

 アイドルとしてこれだけの影響力を発揮できる天性の素質を持って生まれた事。そしてそれを生かし伸ばせるチャンスに恵まれた事だ。

 だが、それだけではただの有名人にしか過ぎない。名前だけを大勢に知ってもらえたアイドルなら、これまで幾人もいる。名前を問われれば知っていると答える事が出来ても、その本人について問われると一切何も答える事が出来ないのだ。今、道行く人間にアクエリアス=ラーファについて訊ねてみれば、大抵の人からは好意的な返答が得られるはずだ。生き生きとして、何事にも精一杯で、いつだって笑顔を絶やさない。その認識の深さもまた、彼女の持つ影響力の賜物である。

 ここまで民衆がたった一人の少女に夢中になっているのは、彼女の容姿でも歌でもカリスマ性でもない。実際のところ、カリスマ性なんてものは視線と注意を引きつけるだけのものでしかない。心を掴み離さないのは、もっと他に別の要因がある。

 それは、彼女の決して希望を失わないその姿勢と、瞬間瞬間を精一杯生きている表情だ。

 これは才能でもなんでもない。彼女の真っ直ぐな気持ちが自然と自身をそうさせているだけなのだ。たったそれだけの事だが、それがなにより生きることを半ば放棄している人々の心に深く響いたのだ。

 彼女の姿に本来人としてあるべき姿を奮い起こされた人々が、こうして今、彼女の姿をしきりに追いかけている。そこには、誰しもが忘れかけていた自発的な生があるのだ。この名ばかりの楽園に住む同じ人間であるにも拘わらず決して希望を失わない事実が、希望を失った人々の希望になったのだ。

 俺自身、あまり認めたくはないが、数ヶ月突然現れたアクエリアスの存在がなければ、こんな人間的な感情を保ち続けるのは不可能だったと思う。

 それなのに……。

 俺はベッド脇に立てかけているそれに目を向ける。黒く冷たい光を放つ、細長い鉄の塊。撃つためだけに作られた、無駄な装飾が一切ない無機な物体。そのある種の機能美も、存在理由を考えれば忌まわしくさえ思えてくる。

 どうして俺はアクエリアスを殺さなくてはいけないのだろう?

 愚問だ。それは俺が暗殺者だからに他ならない。

 けれど、本当に俺はそれだけの理由でアクエリアスを殺せるのか?

 俺にとってのアクエリアスとはなんだ? 俺は彼女のファンじゃないのか?

 違う。それ以前に俺は暗殺者だ。暗殺者は標的を人間と見たりはしない。ターゲットが誰であろうとやる事は同じなのだ。

 ファンがアイドルを殺せるのか?

 もし殺してしまったら、あの生き生きとした生に満ちた表情は二度と見る事が出来なくなるのだぞ? お前は本当にそれでいいのか?

 かつて抱いていた夢に挫折し、心に空いた穴を塗り潰すために始めた暗殺稼業。人を殺す事に嫌悪する本能を押し殺し続けた結果、まるで感情らしい感情も欠落していき、荒んでいった自分。

 俺は、そんな自分の慰めるために彼女の歌を聞くようになっていた。そんな事をしたって何も現実は変わらない事ぐらいは知っている。だが、そうやってすがりついている事で本来の自分の姿を保つ事が出来るのだ。彼女の歌が消えてしまったら、理性の均衡があっさり崩れてしまうのは目に見えている。

 葛藤のあまり、眩暈と頭痛で頭が破裂しそうだった。

 振り払う事もかなわない俺は、ベッドから飛び降りるとすぐさま冷蔵庫まで張って行き、中に入っていたウィスキーをそのままボトルごとあおる。

 ウィスキーの苦味が熱く喉を焼いていく。慣れない感触に、思わず俺は洗面所へ駆け込んで嘔吐した。飲んだばかりのウィスキーが胃液と一緒に残らず吐き出される。

 一体俺はどうしてしまったんだろう……?

 何がどういう訳でこんな事になってしまったのだろうか?

 仕事が終われば、再び自分の何かが渇いていく事を知っているのに。それでも、あえてやらなければいけないのだろうか……。

『これより十分の休憩に入ります』

 天井のディスプレイから一時休演の知らせが聞こえる。

 休憩という事は、一旦アクエリアスが楽屋に戻ってくる。つまり、後何度あるのか分からない狙撃のチャンスだ。

 俺は頭の中に吹き荒ぶ嵐を振り払い、ライフルに手を伸ばした。

 これから自分の行う事がどれだけ重大な事なのかは十二分に承知している。

 だが、そのために使うこの道具は、あまりに軽々しい。