* BAC

 

 

 時刻はPM9:40。

 俺は、シルキー通りという繁華街の通りを歩いていた。

 若者の情報発信源となるここは、この時刻になっても人通りは一向に減る気配がない。U−TOPIAは眠らない世界だ。アンダーエリアとはいえ、一晩中活気に満ちている場所は無数にある。その一つが、このシルキー通りだ。

 人々は、昼間の憂さを晴らすために光の溢れる所に群がる。一晩限りの仮初の快楽がここにはある。

 薬、賭博、売春。かつては人の生み出した悪徳と言われてきたそれらも、今では一時の間苦痛を和らげる精神の麻酔薬のように重宝されている。その先に待つのは自滅だけだと知っていながら。

 通りに立つ売春婦が送ってくる媚びを払い除けながら、俺は一軒のバーに足を踏み入れた。

 店内は赤と青のカラーライトに淡く照らされ、一種幻想的な雰囲気を作り出している。

 俺は真っ直ぐカウンターに近づいた。

「景気はどうだ? 土曜だというのに浮かないな」

 そう大柄なマスターに俺は囁く。

 するとマスターは、それを合図にくいっと親指で奥を指差した。

 俺はそこから奥へ向かう。

 薄暗い廊下の突き進んで行く。その突き当たりに黒塗りのドアが構え、両側に屈強な男が二人、立ちふさがっている。

 俺は彼らに携帯していた銃とナイフを手渡し、中へ。

 ドアの向こう側は陰気な廊下とは打って変わり、豪華な調度品の並ぶ実に品のいい部屋だ。床には禁制であるはずの獣毛の絨毯が敷かれ、クリスタルガラス製のシャンデリラが天井から吊るされている。

「来たな」

 豪奢なソファーにゆったりと腰掛けた壮年の男が一人、チューリップグラスを傾けながら俺を見る。

 彼が俺の属するアサシンギルドの元締めだ。

「突然どうしました? まだ仕事には早いように思いますが」

「まあ、座れ」

 俺は促されるまま、彼の向かいのソファーに腰を下ろす。

 すると厚化粧をした女が俺の前にチューリップグラスを置き、高級そうなブランデーを注いだ。

「仕事ですか?」

「そうだ。普段はメールだけで済ませるんだが、今回はターゲットが大物なのでな。送信ミスが起こっては笑い事にはならん」

「そうですか」

 俺はブランデーを一口含んだ。

 メールサーバーの送信エラーは、かなり低い確率だが起こりうる可能性はゼロではない。万が一にでも外に漏れては危険な依頼内容なのだろう。これまではシリウスの党派幹部のばかりだったが、政治に興味などない民衆にとっては、それがどこの誰なのか知りうるはずがない。

 部外者の目にさらされる事を避けたということは、よほど今回のターゲットは著名な人物なのだろう。

「それで、ターゲットは誰ですか?」

 ボスはブランデーを二口ほど含み、ゆっくり足を組み直す。

「ターゲットは、アクエリアス=ラーファ。お前も知っているだろう?」

「アクエリアス=ラーファ?」

 ……え?

 と、俺は思わずそう言いかけた。喉元まで出かかったその言葉を無理やり飲み込む。

「ああ、はい。知っています。というより、知らない人間の方が珍しいでしょう」

「ならば話は早い。皆まで言う必要はないな? これが彼女のスケジュールだ。先に目を通しておけ」

 差し出されたメモリスティックを受け取る。

 意外にも、僅かに手が震えていた。その動揺を悟られぬよう、素早くスティックを胸のポケットに押し込んだ。

 本当に彼女が次のターゲットなのだろうか? アルタイルの話からすれば、彼女が狙われる事は考えられなくはない。彼女の人気を利用して、政府にとって良からぬ事を企てる人間の出現は十二分に考えられる。だからシリウスがその不安要素を消そうとしてくるのは当然の発想だ。

 しかし、それがよりによって俺に回ってくるなんて。俺よりもずっと優秀な暗殺者はいるというのに。どうしてそんな重要な仕事を俺に―――。

 と、俺は自分の中に現れた、暗殺者としてはあるまじき感情に気がつき、焦った。

 何故、一暗殺者である俺がターゲットの種類を意識する必要がある? 仕事を行う時は、標的はあくまで標的、それ以上でもそれ以下でもない。自分と同じ人間ではないのだ。標的の種類など、勧められた酒がブランデーなのかウィスキーなのか程度の違いしかない。俺が依頼を躊躇う要素は何一つないのだ。

 おかしな胸の昂ぶりを鎮めようと、グラスの中のブランデーを一気に飲み干す。

「言うまでもないが、依頼主はお上だ。ただし、これまでのような党派の一党首ではない。もっと上からだ。それの意味する事が分かるな?」

 にこやかな表情と裏腹に、その視線は鋭い凄みを湛えている。

 俺は無言でうなづく。

 仕事は迅速、かつ正確に。そして、如何なる事があろうとも依頼主、そして自分の素性を明かしてはならない。暗殺者が遵守しなくてはいけない鉄の掟だ。掟を反故にする者には、必ず血の粛清が与えられる。未だかつて、それから逃げ延びた者はいない。

「私はお前の能力を高く評価している。くれぐれも失望させるな」

「分かりました」

 

 

 

 部屋に戻った俺は、早速メモリスティックをスロットに差し込み、中のデータを開く。

 アクエリアス=ラーファのスケジュールは、その人気に違わずびっしりと仕事で埋め尽くされていた。たまに仕事がなければ、そこにはボイストレーニングやメディアの取材やらが入っている。

 ここまで過密した日常を送って、よくああも笑っていられるものだ。スケジュールの厳しさに耐え切れず引退していったアイドルだって山といるというのに。見た目は何ら普通の少女と変わらないのに、どこにそれだけのバイタリティがあろうのだろうか。それが彼女の天性のカリスマ性を生み出している由縁か。

 今日のスケジュールは、午前は番組収録が二本、午後からは新曲の打ち合わせ。それと似た内容で今週の火曜からずっと続いている。

 明日のスケジュールを確認すると、そこからはこれまでと一変して、一日中コンサートのリハーサルになっている。翌週月曜からは四日連続のコンサートが始まるようだ。そういえば、どこかでそんな話を聞いたような気もする。

「コンサートか……」

 彼女の人気から察すれば、会場では不特定多数の人間が頻繁に出入りする事になるだろう。特にコンサート中の混乱は避けられない。興奮のあまり観客が警備員と衝突を起こすなんて、毎度のようにある事だ。

 これはチャンスだ。

 熱狂の渦は、こちらの多少の不整合もかき消してくれる。スタッフも逐一顔など確認する余裕などないはずだ。とりあえず服装さえ合わせれば良いので、会場への潜入も実にやりやすい。

 俺はデータを閉じてマシンの電源を落とすと、出かける仕度を始めた。

 コンサート会場は既に準備を始めているはずだ。今の内に間取りなどを調査しておくのである。凄腕の暗殺者の華麗な仕事振りも、あらかじめ行っていた綿密な下調べの元に成り立っているのだ。暗殺で必要なのは、ターゲットとその周囲に関する出来るだけ多くの詳細な情報である。暗殺そのものの技術が未熟であろうとも、情報さえあれば仕留めること自体は可能なのだ。暗殺者にとって優先すべき事項は、安全に帰ってくる事ではなく、ターゲットを仕留めたかどうかだ。

 アクエリアス=ラーファを殺す。

 普段と同じ、実行に移すまでのプロセスを踏み始めると、その事が自然と頭の中でリフレイン出来た。

 幾ら繰り返しても動揺が生まれない事を確認する。それでようやく俺は、自分が暗殺者に徹しきれている事を自覚して安堵する。

 もう自分に迷いはない。

 後はターゲットを迅速かつ的確に仕留めるだけだ。

 だが、ふと俺の頭の中に一つの疑問が生まれた。

 何故いちいちそんな事を意識しなければいけないのだろう?

 それが何よりも自分の動揺を表す事であるはずのに。

 迷いがないのではなく、迷いがない、と思い込んでいるだけに過ぎないのでは……?