体が冷たくなっていく。指先も爪先も、もうほとんど自分の意志では動かせない。
死ぬな……。
俺はベッドの上で、静かに近づいてくる死神の足音を聞いていた。
不気味なほど心が穏やかだった。意外にも俺は、あっさりと自分の死を受け入れられた。自分ではもう少し焦りや恐怖を感じるものだと思っていたのだが。人生の幕引きとは一生で一度しか経験の出来ぬ取り返しのつかない事だというのに、いざそれを迎えてみてみると意外とあっけないものだ。
アクエリアスの暗殺を、またもや失敗してしまった。しかもその上、彼女のナイトから逆に手痛い土産まで貰ってしまった。それが今、丁度胸の中に埋まっている。闇医者の知り合いは幾人かいるので、彼らにこれから連絡を取って処置してもらえば助かるかもしれない。だが、俺は既に二度も暗殺を失敗してしまっている。たとえこの銃弾で死ななかったとしても、ボスから嫌というほど別の弾丸をたらふく食べさせられる。一時の延命でしかないのなら、こうして静かに最後を迎えるのもいいかもしれない。死ぬ時ぐらい、飼い犬ではなく自分として死んでいきたい。
あの後、咄嗟に追っ手がかかるのを恐れた俺は、すぐさまホテルから逃げ帰ってきた。暗殺者として、表の住人の手に落ちる事だけはプライドが許さないのだ。
胸を撃たれていながら、自分でもよく部屋まで持ったと思う。吐く息からも血の匂いが滲んでいるし、咳き込めば必ず赤いものが大量に出てくる。間違いなくオリオンの弾丸は、胸筋を抜けて肺にまで到達している。百メートルの距離があったというのに、短銃でこんなにも正確に俺を狙ってくるなんて。やはり俺程度とはまるで役者が違ったのだ。
『その御手に抱え
安らぎの時を
主はあなたに
永久の安息を約束してくれる』
ローテーブルの上に置いていたディスプレイから、アクエリアスの歌が聞こえてくる。これが最後の曲になる。
四日間も続いたコンサートも今日が最終日だ。楽屋で俺の狙撃に遭ったというのに、そんな様子は微塵も見せず、切々と賛美歌を歌っている。
穏やかな曲だ。神なんてくだらない存在を肯定し、そして称え敬う歌。それなのに俺は、実に穏やかな気持ちでそれを聞いていた。今まで心の中に淀んでいた張り詰めたものが溶けていくような気がした。
暗殺は失敗したが、それで良かったと俺は思った。
やっぱり、アクエリアスはまだ死んではいけないのだ。このアンダーエリアに必要な人間なのだから。歌で人の心をこれだけ穏やかにさせるなんて、そうは出来る事ではない。音楽という物理的な力を持たないそれで、この世界に希望をもたらすなんて事は不可能だと言た人間がいた。でも、少なくとも俺は随分と救われてきたと思う。自分の手を血で染め続けている俺に、辛うじて人間らしい情緒を繋ぎ止めてくれたのがアクエリアスの歌だったのだから。
がちゃん。
と、その時。部屋のドアが外から開けられた。カギはオートロックだ。俺以外の人間がカギを外して入ることはほぼ不可能なはず。しかし実際は、組織にはこういうスキルを持っている人間は何人もいる。
やっと来たか……。
俺は姿を見なくともそれが誰なのか分かっていた。俺はもはや組織にとっては二度も仕事を失敗した汚点でしかない。それを掃除するのは当然の事だ。
「リーブラだな」
その訪問者はベッドの脇に立ち、横たわる俺を見下ろす。俺は彼の視線に応え、そしてまた天井を向く。どこかで見たような気もする顔の男だった。組織の集会か何かで見かけたのを憶えているのかもしれない。
「ああ……」
「用件は言わずとも分かるな」
こっくりとうなづく。
わざわざご苦労な事だ。こんな半死傷人にとどめを刺しに来てくれるとは。
「恨むな。ボスの命令だ」
「分かっているさ」
男はサイレンサーをつけた短銃を構え、銃口を俺に向ける。胸に二発、頭に二発。それが短銃で仕留める時のセオリーだ。もっとも、俺は既に一発胸に貰っているのだから、胸には三発受ける事になるだろうが。
「一つだけ、頼んでもいいか?」
「なんだ?」
「この曲だけでいい。最後まで聞かせてくれ」
男は俺が動けない事を察してくれたのか、意外にもあっさりと銃を引き黙ってこっくりとうなづいた。俺はゆっくりと目を閉じ、アクエリアスの歌に耳をすます。
『この世は光に満ちている
全ては主の大いなる御業
目を開き、前を見なさい
主はあなたの進むべき道を照らしてくれる』
俺はあの日から、ずっと自分の進むべき道を見失っていた。
たった一度の挫折に悲観し、全ての可能性を投げ出し、夢の扉を自ら閉ざしてしまった。本当は知っていたのだ。それを思い出すのが怖くて、現実を目の当たりにしたくなくて、何も見えない暗がりの脇道に逃げ込んでしまった。暗闇は辛い事を全て覆い隠してくれる。だがそれとは引き換えに、全ての光も遮ってしまう。
どうして今頃になって俺は気づいたんだろう? もう少し早く気づいていれば、叶わなかった夢にもう一度挑戦出来たはずなのに。たとえ結果が出せなくとも、観客の嘲笑を浴びながら最後尾を走る事になろうとも、今よりずっと輝く自分に生き甲斐を感じられたはずだ。
いや、よそう……。そんな後悔もあるが、達成感もある。俺は自分で自分の心の支えを摘み取らずにすんだのだから。
『どんなに深い眠りがあなたを誘っても
決して眠ってはいけない
目を覚ましていなければ
前に進む事は出来ない』
こうして目を閉じていると、まぶたの裏に彼女の姿がはっきりと浮かんでくるようだった。この潰えた楽園の天使と称された彼女は、生きる事を諦めかけた人々を輝くような笑顔で励ましている。どんなに己が苦しくとも、自分の事はおくびにも出さずに笑顔を振りまき続けている。彼女の苦しみを知る人間など、ほんの数えるぐらいしかいないだろう。ファンの大多数は、彼女が疲れ知らずの飛び抜けたスタミナの持ち主と錯覚しているはずだ。そんな姿を皆は天使のようだと称賛したが、本当に天使のようなのは、自らを犠牲にしてまでも希望を与え続けようとする彼女自身の心なのだ。
やがて大歓声の元にコンサートが終わりを告げる。いや、きっとここからアンコールがあるだろうし、それに応えない彼女ではないはず。もう少しこの宴は続くだろう。だが、俺はここでリタイアだ。かなり眠くなっている。まぶたも意識していなければ開いている事が出来ない。
「……もう、いいか?」
「すまないな。手間取らせて」
「構わないさ」
そう言って男は微苦笑。
「お前も、アクエリアス=ラーファが好きなのか?」
「デビューした時から、ずっとファンだったさ……」
「俺もだ」
ふと視線を向けると、男は口元に微かな笑みを浮かべた。それが不思議と俺に親近感を持たせてくれた。
そうか、と俺はうなづく。
「俺の後任はお前なのか?」
「そうだ。次は俺がやらなくてはいけない」
「出来そうか?」
「正直言うとな、お前が失敗した時点で俺にも無理だと思っている。俺もきっと、引き金が引けない」
「そうか……少し、安心した」
彼女を殺す事に何も躊躇いを抱かない人間の方が稀有だろう。俺やこの男のような暗殺者に役目が回ってくる限り、きっとアクエリアスは暗殺されたりはしないはずだ。それに、彼女の元にはオリオンという最強のボディガードがいる。ヤツの実力は身を持って実感している。少なくとも俺のような半端な暗殺者が束になったところでかなう相手ではない。
「じゃあな」
男は銃口を俺に向ける。
「ボスによろしく言っておいてくれ」
そして、それが俺の最後の言葉になった。
くぐもった銃声と鋭い衝撃、そして意識の喪失はほぼ同時だった。何の苦しみもなく、最後まで満ち足りた気持ちでいられた。
後悔はない。最後の最後に、俺は自分が忘れていた何かも取り戻せた。不本意な事と言えば、途中で夢を投げ出してしまった事ぐらいか。
それでも俺は生きた。この灰色の世界で。
I am