突然の声に慌てて振り向くと、いつの間にか俺以外誰もいないはずの天井裏に一つの人影が現れていた。
まずい……。
それは先ほど廊下ですれ違ったあの男、アクエリアスのマネージャー兼ボディガードを務めるオリオンだった。
「貴様、ここで今、何をしている?」
俺に対する明らかな不信感を露にしながらこちらへ歩み寄ってくる。
「いえ、照明器具の点検ですよ」
「見え透いた嘘を。本番中に点検を行うバカがどこにいる」
自分がここにいる理由をうやむやにしようと試みたのだが、オリオンは間髪入れずにそう返答する。
やはり誤魔化しきれるものではないか……。
俺はちらっとワイヤーを確認した。細い鋼線を幾つも束ねて作られたワイヤーは、酸を浴びたため半分以上腐食しほつれかかっている。ワイヤーが照明器具の重量を支えきれなくなり千切れてしまうのは、もはや時間の問題だ。
できれば、誰にも見つからず穏便に仕事を済ませたかったのだが。こうなっては仕方がない。ヤツをこの場で始末し、照明器具が落下した混乱に乗じて逃げる事にしよう。
「もう一度聞く。自分の名前を正直答え―――」
不用意に近づいてくるオリオン。俺をただの不審人物と思い込んでいるようだ。
一撃で決めてしまおう。悠長に時間をかけている余裕はない。
狙うは喉の一箇所。
瞬間、俺は持ち前の瞬発力を生かし、オリオンの懐に入り込む。
「!?」
一挙動で袖に隠したナイフを構え、その刃先をオリオンの喉に目掛けて閃かせる。
が。
俺のナイフが喉を貫く寸前、オリオンは一瞬早く背後へ飛び退いた。
「貴様……」
さすがにオリオンの表情は一変した。今の動作で、俺がただの侵入者ではない事が分かった、もしくは確信を持てたためだ。
「政府の手の者だな」
「知りたければ、力ずくで聞き出せばいい」
そのまま間髪入れず、次々とナイフを繰り出す。
人体の急所である、鳩尾、大動脈、村雨、人中、眼球と次々に狙い、ナイフを繰り出し続けていく。だが、しかし。刃は体を掠めはするものの、的確なオリオンの動きと防御は急所を捉えさせてくれず、ただ薄皮一枚を切っていくだけだ。
こちらも、急所以外の個所に迂闊にナイフを突き刺す訳にはいかない。刃が突き刺さると収縮した筋肉に取られ、致命傷を与えるどころか逆に刃を抜く事が出来なくなってしまうのだ。それに、余計な血で濡らすと刃の切れ味が落ちてしまう。
「アクエリアスを狙ってきたな。何度も何度も、性懲りもなく!」
オリオンの問いに俺は一切答えず、ただ機械のように急所を狙ってナイフを繰り出し続ける。そんな俺の行動を自分の問いに対する肯定の返事と受け取ったオリオンは、いよいよ視線が鋭くなり俺に対する殺気を放ち始めた。
涼しげな風貌に似合わず、放つ気迫はまるで炎のように熱い。ここまではまだ本気でなかったようだ。
俺は次第に焦り始めた。完全に立ち回りの実力はオリオンの方が上だ。元々、暗殺者というものは立ち合いや斬り合いをする事を重点には置いていない。如何に相手に気づかれぬように仕事を達成するかが重要なのだ。
「という事は、ここに居る目的は―――」
それに該当する何かを探してオリオンの視線が周囲を巡る。その視線は、先ほど俺がしゃがみ込んでいた照明器具に止まった。同時に、偶然にもワイヤーが一本、プツンと音を立てて千切れる。ハッ、とオリオンの表情が緊張する。
気づかれたな……。
だが、たとえここからステージに向かって叫んだとしても、その声は異常とも言うべきこのファンの歓声や歌に用いる設備音響に飲み込まれてしまうため、アクエリアスに届く事はない。この照明器具の落下を止めるには、直接手で持ち上げる以外に方法はない。
腐食しつつあるワイヤーは、もう間もなく千切れて照明器具を下へ落とす。ならば俺は、それまでオリオンを近づけさせず時間を稼げばいい。
「なるほどな……」
状況を把握し、苦みばしった表情で肯くオリオン。
プツン、とまた音がした。二本目のワイヤーが切れた音だ。これで照明器具を支える力は三分の一になった。もう幾許も持ちはしない。稼ぐ時間も数十秒程度のものだ。
と―――。
突然、オリオンは俺に向かって突進してきた。
強引に突破する気か?
だが、それは賢い選択ではない。自分から俺の間合いに飛び込んで来るのだ。防御に専念していればこそ避ける事が出来た俺のナイフ。だが、自ら飛び込んできて避けられるものではない。
ナイフの刃渡りは十三センチ。その内の三センチも突き刺されば致命傷だ。たとえ即死とまではいかなくとも、短時間の内に大量の血液を失ってショック死する。もしくは、気管に血が詰まって窒息死だ。
獲った。
そう確信を込め、ナイフを喉に目掛けて繰り出す。
だが。
「ふんっ!」
するとオリオンは、あらかじめ俺が喉を狙う事を予測していたかのように、喉に目掛けて繰り出したナイフに自らの左腕を突き出した。研ぎ澄まされたナイフの刃はオリオンの腕に飲み込まれる。ぐにゅっ、と肉を切り裂く感触が刃を通して伝わってくる。
咄嗟に俺はナイフを引き抜こうとしたが、それよりも早くオリオンが筋肉を収縮させてナイフを固定する。ナイフは完全に取られてしまった。仕方なく俺はナイフを手放す。
「どけっ!」
その僅かな間隙をつき、オリオンが俺の腹に膝を叩き込んだ。
「ぐはっ!」
油断していた俺はその一撃をモロに食らい、足場に背中から転倒する。そのまま体が足場の外へもつれ込んでいく。天井裏とは、足場の板を必要な分だけ繋ぎ敷いた簡易的なフロアだ。足場の板がない所に転げてしまえば、当然下へ落下する。
「チッ!」
一瞬、体が宙に待った。俺の体が何も足場のない所へ放り出されたのだ。
咄嗟に手を伸ばした先に、偶然にも足場の板を支える鉄パイプがあった。それを掴み、どうにかステージ下へ落下する事だけは免れる。
俺を蹴散らしたオリオンは、ワイヤーが二本も切れ、残った最後のワイヤーもほとんどが千切れかかり、今にも落下しそうなた照明器具へ駆け寄っていく。
間に合うはずがない。そう俺は確信していた。今もなおどんどんほつれていくワイヤーは、もう彼が数歩踏み出すのに要する時間分ぐらいしか持ちはしない。
「ならば……」
と、その時。何故かオリオンは立ち止まると、リボルバー式の銃を取り出して構える。
一体何をするつもりだ?
何にせよ、もう何をするにも全て遅過ぎる。照明器具の落下は誰にも止められない。そして、それが下で歌っているアクエリアスに直撃する事すらも。
もはや彼女が確定的になっているはずだった。後は自分が如何に安全にここから逃げ出すかを考えれば良い。そんな、彼にしては絶望的な状況なのだが、にもかかわらず俺の胸には不思議と不安感があった。それは、漠然としたオリオンに対する不安感だ。この男の神がかった射撃が、自分の予定を狂わすのではないのか心配で仕方なかった。そのせいだろうか、俺は銃を構えたオリオンから目が離せなかった。
ぷつん。
そして遂に最後のワイヤーが切れ、照明器具は一瞬、宙に浮いた。だが、この世のある全てのものはこの星の持つ重力という名の鎖に繋がれている。支えを失った照明器具は、上下の張力の拮抗がゼロになり、後は下に落ちる以外に他ない。それも、アクエリアスに目掛けて。
その刹那。
ガァン!
突然、オリオンは落下を開始する寸前、照明器具に向かって発砲した。弾丸が射出された反動による凄まじいノックバックで、右手が大きく後ろへ飛ばされる。
銃身から飛び出した弾丸は、まっすぐ照明器具へ突進していく。
着弾。
ボツッ、という鈍い音がしたかと思うと、照明器具はそのまま大きく奥へ飛ばされていった。
しまった!
ようやく銃を構えた意図に気がついたが、もう既に事は終わってしまっていた。オリオンが銃を構えたのは、落下していく照明器具の側部を撃つ事で横向きの力を加え、落下軌道をずらす事にあったのだ。
支えを失った照明器具がまっすぐステージに吸い込まれるように落ちていく。
歓声の中でありながら、どん、という着地の重質の音がよく聞こえてきた。アクエリアスの頭上にあった照明器具は、オリオンの弾丸によって落下軌道をずらされ、彼女から一メートルほど離れた床の上に衝突した。
『きゃっ!?』
彼女の悲鳴がマイクを通じて場内へ響き渡る。
歌っていたアクエリアスは突然の事に驚き、思わず歌を中断してしまった。場内は蒼然とし、ただ穏やかな曲だけが変わらず流れていた。
「くそっ……」
とにかく逃げるしかない。
だが、下へ続くハシゴは運の悪い事にオリオンの向こう側にあった。逃げるためにはオリオンを突破しなくてはいけない。それは幾らなんでも無謀だ。
ならば。
俺は視線を下に降ろす。
距離は目測で十メートル。普通に落下すれば足を折りかねない高さだ。だが、理屈に基づいた着地法を行えば、このぐらいならば足を痛めずに着地できる。
落下地点を決定すると、精神を集中し、着地動作のイメージを作る。
そして、鉄パイプから手を離した。
「待て! 逃がすか!」
オリオンの怒号が遥か上に離れていく。
俺に残された道は、このまま下に降りてアクエリアスを直接手にかけるだけだ。暗殺者の最低条件とは、ターゲットは何が何でも殺すことだ。それが出来なければ、ギルドによって血の制裁を受ける事になってしまう。
体が空を切る。
落下の最中は全てがスローモーションになり、耳にはただ風の音だけが聞こえる。
迫ってくるステージ。俺は速度を計りながら、着地動作に入るタイミングを取る。
3。
2。
1。
着地。
両足が衝撃よりも早くステージに到着する。衝撃が到着するよりも早く足を踏み出し、前にのめりながらステージに両手をつく。そのままゴロゴロと転がって、着地の衝撃を緩和させた。
衝撃は全て分散された事を確認すると、俺は全身に意識を向ける。大丈夫、どこにも異常はない。
さあ、アクエリアスを―――。
と。
起き上がった瞬間、背後にオリオンの気配を感じた。
いる!
振り向きざまに、俺はもう一本の隠したナイフを構える。そして視界に入るなりオリオンとの立ち位置と姿勢を即座に認識し、迷わず首元へナイフを走らせる。
だが、それと同時に俺の額に銃口が当てられた。
互いに相手を殺す瞬間、互いが相手に自分の急所を取られた事に気づき、咄嗟に手を止める。
そして、しばしの静寂が訪れた。
「よくあの高さから無事に飛び降りれたな」
「昔取った杵柄、ってヤツだ」
オリオンもどこかで高所からの着地法を訓練したのだろう。こいつほどの人間ならば不思議ではない。
「いつ、俺がそうだと気づいた?」
「廊下ですれ違った時だな。この忙しい状況で平然と落ち着いているのが気にかかってな」
どうやら、冷静に振舞ったのがかえって裏目に出たらしい。ヤツの観察眼に対する評価を改めなくてはいけないようだ。
「最近の暗殺者は、随分とセコイ真似をするな」
「自分の力をやたら誇示するのは二流のやる事さ」
お互い相手の命を握っているからか、やけに余裕の表情が出来た。