俺は銃口を窓辺に構えスコープを覗く。ピントを合わせ直し、目標をアクエリアスの楽屋に定める。
楽屋に戻ってきたアクエリアスはカーテンと窓を開け、空気を入れ替え始める。そしてあらかじめ用意されていたドリンクに手を伸ばした。テーブルの上に乗っているミニタンクからコップに注ぎ、一気に飲み干す。すると一杯では足りなかったのか空になったコップに再び注ぎ始める。よほど喉が渇いていたらしく、立て続けに四杯も一気に飲んでようやく落ち着いた。
ようやく喉の渇きがうるおうと、早速化粧台の前に置いていたステージ台本に手を伸ばす。後半の部の流れを確認しているのだろう。コンサート自体は初日から全く同じ内容で進んでいるというのに。未だに自信がないのか、それともよほどの心配性なのか。
しかし、長時間に渡るコンサートをまだ半分とはいえ、連日こなしていくには相当の体力がいるはずだ。一人で何万という客を相手にするのだから、誰にでも分かるだけの派手な動きやパフォーマンスだって必要になってくる。歌いながらのダンスとて、普通よりも呼吸が乱れやすくなるのだからかなりの体力を使う。それでなくとも、連日連夜仕事が次から次と押し寄せている。大人でも音を上げてしまうようなハードなスケジュールを、年端もいかない少女が気丈にこなしているのだ。体は相当こたえているはず。
だが、それはあくまで一般論だ。
皆がそう不安に思っているにもかかわらず、一度としてアクエリアスは仕事をキャンセルした事はない。むしろ、来た仕事は全て自分から引き受けようとするほどなのだそうだ。ある程度事務所が取捨選択をしてはいるが、それでもかなりのものになっているはず。更に、そのハードスケジュールの最中でも一度として笑顔を曇らせた事がなく、いつも溢れんばかりの元気を振りまいている。それがアンダーエリアの人間にとってどれだけ衝撃的な事だったか、今更説明は不要だろう。
一部の熱狂的なファン層は、アクエリアスは人間ではなく神の使い、神が自分達を哀れんで遣わせた天使だと崇めている。彼女のあまりに底なしの生命力に圧倒され、そう思わずにはいられなかったのだろう。さすがに俺はこの世に天使なんているとは本気で思ってはいないが、その言葉は彼女を表現するにはぴったりだろう。自分達と同じ人間の姿をしていながら、何から何までが羨むほど光り輝いている。それがそんな幻想を生み出したとしても少しもおかしくはない。
アクエリアスの活動は極めて精力的で、疲れるという言葉を知らないようにさえ思える。俺にはそれが不思議でたまらなかった。果たして人間はここまで身を粉にする事が出来るものなのだろうか? 一体何が目的なのだろうか。まさか目的もなしにこんな自分の体を痛めつけるような事はできないはずだ。
「あ」
突然、スコープの中に映っていたアクエリアスの体が床に崩れ落ちた。俺は思わず声を上げてしまう。
一体どうしたのだ?
すぐにスコープで追った先には、床にがっくりと膝をついた彼女の姿があった。彼女の動きは止まったまま、一向に立ち上がる気配がない。あんなにステージの上では動きに回っていたのに、それがまるで嘘のように固まってしまっているのだ。ただほっそりとした肩だけが静かに上下しているだけである。
やがてゆっくりとテーブルに手を伸ばしてタオルを取る。それで額に浮かんだ汗を拭い始めた。よく見れば、おびただしい量の汗が流れている。一通り拭うと、今度は大きく溜息をついた。そしてゆっくりと立ち上がり、またもコップにドリンクを注いで飲み干す。
動作が酷く緩慢だ。普段の元気や明るさがどこにも感じられない。さっきディスプレイで観た時の彼女は、もっと元気に溢れていたのに。
「これは……」
ふと俺の頭に過ぎった。
もしや彼女は、疲労のあまり床に座り込んでしまったのではないのだろうか?
そうだ。幾らなんでもこんなスケジュールをこなしていて平気でいられるはずがない。そのぐらい疲れても当たり前なのだ。
けど、いつもバイタリティに溢れている彼女からは、今の疲れ果てた姿はとても想像出来ぬもので、少なからず俺には衝撃的だった。やはり連日の過密スケジュールの影響は、確実に彼女の体を蝕んでいるのだ。それを押してまで、人前ではあんなに元気に振舞っているのだ。
疲れる事を知らないのじゃない。休む事に目を閉じているだけなのだ。それは金や名声のためではなく、自分を応援してくれるファンのためにだ。多少自分の体を酷使してでも、人々には元気な姿を見せたいのだ。
どうして人のためにああもなれるのだろう? ファンと言っても、見ず知らずの人間だ。自分が苦しい思いをしてまで応える義務などあるはずがない。どうしてそこまでするのだ?
しかし、俺は頭を振ってその考えから無理やり理性を離した。
今はそんな事を気にしている場合ではない。休憩のため動かなくなったのならば、こちらにとってこれほどの好都合はない。丁度窓からは肩から上がよく見える。頭の真ん中を完全に撃ち抜いてしまえば、どうやっても助かる可能性はない。ほぼ即死だ。
スコープを更に拡大させ、アクエリアスの後頭部に狙いを定める。アクエリアスは、まさか自分に銃口が合わせられているなんて思いもせず、僅かに肩を上下させたまま動かない。
狙いは定まった。ここから彼女までは直線距離でたった百メートル。ライフルを使い慣れていない俺でも確実に撃ち抜く事が出来る射程距離だ。
別に俺は恨みなんかはない。死んでも、俺じゃなく依頼主の政府を恨んでくれ。
俺はゆっくりと引き金に指を当てる。
が。
その時突然、再び俺の脳裏にあの戸惑いが浮かぶ。
俺は、あんなに人のために必死になって頑張っている人間を撃つのか?
何を戸惑う。
これまでだって同じ事は何度もやってきたはずだ。ターゲットはあくまでターゲット。それは自分の意志こそ持って動くが、マネキンと大した代わりはないのだ。
それなのに、何故……。それも今になって。
ターゲットがアクエリアスだからか?
違う。そんな単純なものじゃない。
そうだ。
半死人ばかりのアンダーエリアを、アクエリアスは何とか少しでも元気を取り戻させようと頑張っているのだ。それを俺に奪う権利はあるはずがない。俺だって本当は生を求める半死人の一人なのだ。ついさっきまで動いていた人間が、俺の手によって動かなくなる事でしか生きている事を実感できなくなっていた。自分が何かを忘れている事は分かっていた。だが、一体何が欠落してしまっていたのかは分からなくて、今までずっと半死人の境界線をふらついてきた。そんな俺とは違って輝くほど生き生きとしているアクエリアスに、俺は忘れてしまった何かを思い出せそうな気がしたのだ。だから俺は今日までずっと彼女のファンをしていたのだ。
引き金に当てられた指が酷く震えた。
あとほんの少し指に力を加えれば。ライフルに装填された弾丸がバレルから飛び出し、一直線にアクエリアス目掛けて飛んでいく。そのコンマ数秒後には、アクエリアス=ラーファという一人のアイドルはこの世を去る。それで俺に当てられた任務は終了だ。一度目の失敗も、これで少しは返上は出来る。
しかし、トリガーを人差し指で引く、たったそれだけの行動が俺には出来なかった。狙いも定め、完全に狙撃態勢に入っているにもかかわらずだ。
何故撃てない?
撃たなければお前は組織に処分されてしまうのだぞ?
ターゲットは自分とは一面識もない赤の他人ではないか。
なのに、何故撃てない?
撃とうとする自分と、それを阻止しようとする自分が真っ向から対立している。
あれはターゲットだ。
いや、アクエリアスだ。
ターゲットだ。
アクエリアスだ。
―――。
俺の中の葛藤は激しさを増し、まるで嵐のように暴れ始めた。次第に銃身がぶれ、狙撃態勢を維持する事すらかなわなくなってきた。
自分がまるで自分ではなくなってしまう感覚だった。一つの体に二つの自分が主導権を取り争っている。そしてその光景を傍観している自分もいる。一体どれが俺なのか、もはや存在意義すら崩れ始めてきた。
―――と。
楽屋のドアが開き、何者かの姿が現れる。
それはまぎれもなくオリオンの姿だった。時計を見れば、既にそろそろ後半の部が始まる時間帯だ。
「くそっ―――!」
これ以上は考えても無駄だ。どっちみち、やらねば俺は組織に始末される。
撃つしかない。
俺が生きるためにも。
遂に俺はそう決意を固めた。自分が生きてこそなんぼだ。他人を気づかうセンチメンタリズムで身を滅ぼすのはあまりに愚かしい。自らが生き延びるためにも、アクエリアスには貴い犠牲となってもらう。
俺は震える手を落ち着け、再度アクエリアスに向けて狙いを定める。
これで、さよならだ。
しかし、その時。
オリオンが急に眩しそうに顔に手をかざした。刹那、オリオンと俺はスコープ越しに目があった。スコープのレンズが光を反射してしまったのが伝わってしまったのだ。。
その瞬間、世界がスローモーションになった。
オリオンは危険を察知し、一挙動で銃を構えて俺に向ける。
無理だ。ここまでは百メートル近くの距離がある。……いや、ヤツほどの腕があれば。
額にぞわっと悪寒が走った。既にオリオンの殺気が撃ち抜く予定にしていた個所を撃ち抜いたのだ。
危機を感じた体が反射的に後ろに飛ぶ。このままでは撃ち殺されるのは確実だと本能が警告しているのだ。
う―――。
胸に衝撃が走る。
その衝撃を確かめる間もなく、そのまま俺は床に背中を強かに打ちつけた。
この距離で……。どうやら、初めから俺とお前では各が違い過ぎたようだな……。