* BAC

 

 

『さあ、先頭グループが最終コーナーにさしかかった!』

 実況が興奮した声が響き渡る。

 ファイナリストには周囲の一切の音は聞こえず、視界はただ前だけを見つめているものなのだが。

 その世界はどこか異質な感じがした。

 ああ、自分は夢を見ているんだ。

 そう直感的に俺は思った。

『先頭はゼッケン十三番のリーブラ=クレイモア! 二位以下に大きく差を開けている!』

 俺はゴールを目指してひたすら走り続けていた。

 視界の両隣には誰の姿もない。そして前方には、ゴールのテープが見えている。

 それを破った時、俺には本選出場の権利が与えられる。

 年に一回、それも出場できる選手は僅か三十二人という過酷なレースであるキングスカップ。そのキングスカップで優勝するのが俺の長年の夢だった。いや、事実それは叶う確信があった。前年度の優勝記録よりも俺のベストタイムの方が速いのだ。

 こんな予選会。俺にとってはただの通過点でしかない。幾ら各地から強豪ばかりが揃ったとしても、俺の眼中にはなかった。予選会にはおよそ千人のアスリートが集まったそうだが、その中で俺が最も速いと確信していたからだ。

 俺の敵は文字通り自分だけだ。非公式だが大会記録を上回る俺のベストタイムを更新する事が出来れば、俺の優勝はより確実なものになる。

 そのはずだったのに……。

 俺は夢の先を見たくなかった。起こる出来事が、未だに俺にはあまりに酷なのだ。

 がくっと視界が崩れた。

 残りコンマ数秒の距離を残して、俺は転倒した。

『ああーっと、クレイモア転倒!』

 転倒の瞬間、俺は自分が立ち上がれない事を悟った。

 それでもすぐに立ち上がろうとしたが、体重をかけた右膝は負荷に耐え切れずにもろくも崩れた。

 あまりの事に、俺はこの状況が理解出来なかった。

 茫然と座り尽くす俺の脇を駆け抜けていく選手達。

 怒りとも悲しみともつかぬ気持ちで、俺はゴールに吸い込まれていく彼らの後姿を見送っていた。

 後日の診断では、俺の膝は三本ある靭帯の内の二本が完全にが切れ、残る一本も切れかかっていた。連日に続く練習のせいで疲弊しきっていたのに気づかず、レースで酷使したのが原因だ。

 治療手段はない事はなかった。だが、それには相応の金が必要だった。

 それほど裕福でもない俺の家にそんな金はない。靭帯は一本でもあれば、通常の生活に支障はない。それを理由に、医療保険が適用はされなかった。

 二度とトラックに立てなくなった俺の夢は、静かに終わりを告げた。

 

 

 仕事は基本的に週一回のペースで入ってくる。ターゲットは様々だが、基本的にはシリウスのどこかの党派に属する人間、もしくはアンダーエリアの出身でありながらシリウスに干渉出来るだけの力を持つ人間だ。

 前回は派閥抗争からの依頼だった。対抗勢力の重要人物を、自分達とは無関係なアサシンギルドに安全に消してもらうのだ。これはシリウス内部では当たり前の事であり、重役クラスの人間は皆、常に自分の周囲に数人のボディガードをつけている。

 俺は大抵、週の内三日前後を仕事に当てる。ターゲットの詳細な情報はギルドの方から与えられる。それを元に武器を選択し、綿密な計画を立ててから実行に移す。

 言葉にすると簡単だが、実際は非常に神経を使う作業ばかりだ。武器の選択一つ間違えただけでターゲットを仕留めそこなう危険性が増大する。標的はマネキンではなく、生きた人間だ。たとえどれだけ綿密に練った計画を立てたとしても、ターゲットが予想外の動きをする事もある。それにどう柔軟に対処していけるかが重要なのだ。それが出来るか否かで、暗殺者は評価される。

 しかし、暗殺者の評価はたった二つしかない。

 使えるか否か。

 使える暗殺者には相応の仕事を与え、使えぬ暗殺者は始末する。それがこの業界での常識だ。

「……昼、か」

 時計が示す時刻を見て、俺は溜息をついた。

 昼食を取りに行こうかと思ったが、それも面倒でわざわざ出かける気にはなれなかった。いつ戻れなくなるか分からないこの部屋の冷蔵庫には、これといった食料は入れていない。空腹はあったが、どうしても満たしたいという程でもなかった。

 誰もいないこの部屋で、俺は床に座りベッドに寄りかかっていた。

 仕事のない日は一日中こうして過ごしている。

 これといった打ち込める趣味もなく、生涯かけても成し遂げたい目標もない。やる事といったら、まばたきと呼吸ぐらいなものだ。

 虚無としか言様のない時間を無為に過ごす自分の姿に、焦りも疑問もない。

 今から自分が打ち込めるものを見つけ出す事を、俺は諦めていた。かつての自分の胸に燃え盛っていた情熱を、再び取り戻せる何かがこの世にあるとは思えなかった。そんなものが存在しない事を認識させられて失意のどん底に突き落とされるより、初めから諦める方が遥かに気が楽だ。

 俺は退屈しのぎにディスプレイの電源を入れた。メールをチェックするがダイレクトメール以外は届いていない。削除するのも煩わしく、今度はネットの中に入る。

 無趣味の俺がアクセスするサイトは、これといって決まっていなかった。ただ、何となくリンクをクリックしてはサイトを回り巡ったり、掲示板をただ眺めてみたり。

 行動自体に意味はなかった。次の仕事までの時間を消費するため以外の目的はない。

 そして、最終的にはいつも同じサイトに辿り着く。

 マーキュリーミュージック。

 アクエリアアス=ラーファと音楽面で契約している会社だ。

 トップページから、彼女の写真やらがそこかしこに見られる。彼女の人気は曲の売上にも比例しているため、こうして大々的に宣伝して更に伸ばそうとしているのだろう。所属事務所にしてもそうだが、音楽会社にとってもアクエリアスはいい金づるである。

 更新一覧に、アクエリアスの新曲試聴の文字があった。俺は試聴ページに飛ぶ。

 タイトルは『HESITANCY』となっていた。早速クリックしてみる。

 しかし、イントロが終わっても彼女の歌声は聞こえてこなかった。レコーディングが終わっていないようだ。

 こんなものを聞いていても仕方がない。俺はネットから落ちた。

 そしてケースに入れていたメモリスティックをスロットに差し込んだ。

 スティックには、これまでアクエリアスが出した曲がカップリングも含めて全て収められている。

 再生ソフトを立ち上げ、ランダム演奏モードを選択する。

 曲がかかったのを確認すると、俺はベッドに寝転がった。

 彼女の歌は、実に心地良く俺の胸に響いてきた。音楽自体は大したものではない。歌詞もありふれているし、歌も決してうまいとは呼べない。

 けど、彼女の歌を聞いていると、不思議と心が安らいだ。

 ささくれ立った気持ちが穏やかに鎮まっていくのを感じながら、いつしか俺は眠りについていた。