* BAC

 

 

「オ、オリ、オリオン……さん?」

 交錯する俺達の様子を、傍らにいたアクエリアスは口をパクパクとさせながら唖然とした表情で見ている。

 ざわざわと俄かに会場がざわめき出す。突然の俺達の乱入があらかじめ予定されていたアトラクションの類ではない事だけは、この刺々しい不穏な空気から読み取れるだろう。

「下がっていろ。こいつは暗殺者だ」

 暗殺者。その言葉にアクエリアスはごくりと唾を飲み込む。

 間近で見るアクエリアスは、思っていたよりもずっと色白で小柄だった。本当にこんな小さな少女が、アンダーエリアで絶望に打ちひしがれながら生きている大勢の人々を勇気付けているなんて。更に、そんな彼女の人気ぶりとカリスマ性に危機感を抱いたシリウスからの、数々の妨害や襲撃に何度もさらされて、そのたびに乗り越えてきたのだ。一体こんな少女のどこにそれだけの力があるのだろうか。

「今更、どうしてなどとは訊ねない。だが、彼女は決して殺させない」

「なるほど。殺されてしまえば、お前も仕事にあぶれてしまうからな」

「そういう意味じゃない。彼女は、このアンダーエリアの人々にとっては希望そのものなのだ。彼女の歌に勇気付けられて、生きることを諦めかけた人達が生きる力を取り戻してきている。それを今、シリウスの都合で毟り取られる訳にはいかない」

 オリオンの口を突いた思わぬ言葉に、俺は口元を綻ばせた。

「希望? そんなもの、アンダーエリアからはとっくの昔に消え去ったと思っていたが。貴様の言う希望など、所詮はお為ごかしでしかない」

 この世界で、何かに対して期待感を抱くのがどれだけバカらしい事なのか、それを知らない人間は皆無だ。何かを手に入れるためには相応の代償を払わねばならず、そしてそれは決して保証される事がない。全てが灰色の絶望に彩られたこの世界に、希望や夢などという救いは存在しないのだ。

「たとえ仮初の希望だとしても、それがなくては生きていけない人間だっている。たとえ今は仮初でも、それがきっかけで生きていくための本当の力を呼び起こせるかもしれない」

「根拠のない発言は、ただの虚言と同じだ」

「少なくとも、俺はそう信じている。そのためには、お前のような人間は排除しなくてはいけない」

 真剣な眼差しが俺を真っ直ぐに射抜く。

「出来るのか? お前に」

 僅かにナイフを首に食い込ませる。すると、お返しとばかりに銃口がより強く額に押し付けられる。

「やれないと思うのか?」

「俺より速くは無理だな」

 より挑発的な言葉で答える。

 俺はナイフに気を取らせている間、俺は左手の袖からスタングレネードを取り出す。

 これは通常のグレネードとは違い、殺傷能力は一切ない。本体から激しい光と轟音を発し、それにさらされた相手は数秒間身動きが出来なくなってしまう。効果が続いている間は完全に無力化してしまうのだ。

「無駄な抵抗はやめておくんだな。じきにここの警備員が一斉にここへ押し寄せる。お前はもはや袋のネズミだ。おとなしく投降しろ」

「有象無象をかき集めたところで何になるという」

 尚も挑発しながら、静かに後ろ手でグレネードのピンに指をかけて引き抜く。

 抜けた。これは十秒ほどで着火するように調節してある。その前に、自分まで無力化してしまわぬようにこの場から離れなくてはいけない。

 俺はオリオンに気づかれぬように細心の注意を払いながら、静かにアクエリアスの方へ転がす。

「あ……これ」

 自分の元へ転がってきたそれに、アクエリアスは思わず声を上げた。

「ッ!? まずい!」

 次の瞬間、オリオンは俺から銃口を離して飛び出した。そのままアクエリアスの手を取り、向こうのステージ袖に引いていく。

 その隙をつき、俺は奴らとは反対方向のステージ袖に走り出した。

「待―――」

 背後のオリオンが銃を俺に構える。だが、構わずに俺はそのまま走り続ける。

 ガァン!

 と、快音。

 その瞬間、右の脇腹に衝撃が走った。

 くっ……もらっちまったか……。

 カーッと衝撃を受けた部分が熱くなっていく。だが俺はよろめきそうになるのをこらえて尚も走る。

「動くな!」

 既にステージ袖には警備員がこちらに銃を向けて俺を待ち構えていた。

 オリオンに比べれば、銃だろうがライフルだろうが問題はない。素人など物の数には入らないのだ。

 俺は手にしたナイフを警備員に投げつける。ナイフはそのまま狙いどおりに警備員の喉に突き刺さった。茫然とした目で天井を仰ぎながらがっくりと膝を落とす男の脇を素早く駆け抜けていく。

 直後、凄まじい閃光と轟音がステージを包み込んだ。

 

 

「しくじったのか」

 ボスは普段のようにゆったりとした様子でソファーにもたれ、ショットグラスで酒を楽しんでいた。

 アクエリアス=ラーファの暗殺に失敗しました。

 そんな報告をするのは、何より暗殺者として屈辱的だった。

「すみません。思ったよりもボディガードが有能でして」

 ボスはショットグラスをテーブルの上に置くと、ゆっくり立ち上がって俺の元へ歩み寄ってくる。

「専属のボディーガードがいたな。確かに入ってきた情報ではかなり腕の立つヤツだそうだが」

「ですが、今度こそは必―――」

 瞬間、俺の腹部にボスの膝が入った。

 油断していた俺は思わずその場に膝をつく。

 更に続けて俺の頭を蹴り飛ばす。そのまま床に伏せった俺に、容赦なく蹴りが何度も叩き込まれる。

「暗殺者の失敗が何を意味するのか、お前は分かっているよな?」

 ボスは相変わらずの落ち着いた口調で、俺を踏みつけながらそう訊ねる。

 それは血の制裁だ。

 暗殺者は何よりもターゲットの暗殺を優先させなければいけない。つまり、俺のようにターゲットの暗殺に失敗し、おめおめと生き延びてくるなど許されない事なのだ。

「この結果は実に残念だ。私はお前の能力を高く評価していたのだがな。しかし、これまでのお前の仕事振りに免じて、今回だけはもう一度だけチャンスをやる。今度こそ、確実にアクエリアス=ラーファを仕留めろ。いいな」

「……はい」

 床の上にへばりつきながら、そう答えるだけで精一杯だった。

 撃たれた右の脇腹が痛む。

 もはや俺には失敗は許されない。本来ならば、暗殺者にとって次などはないのだ。それを特別に許された俺は、今度こそは失敗が出来ない。何が何でも、アクエリアスを暗殺しなければ。

 この、命に代えても。