決心を固めるのに、結局夕方までかかった。
なんともまあ、立派な決意とは裏腹にいつまでも未練がましい人間なのだろうか、私は。
いつまでもこうしていたってしゃあない。
嫌な事はさっさと済ませてしまおう。
震える手で携帯を握り、
そして―――。
ふと、まるで不意打ちのように携帯から呼び出し音が鳴った。
誰からだろう?
滅多にかける事もかかってくる事もない、一体何のために持っているのか分からなくなりかけている携帯。
俺に用事があるからかけてくるんだろうけど……うちの親か? まさか、家に警察でも来ていたりして? もう大分経つ事だけど、随分無茶苦茶やったからなあ。
やれやれ……。だとしたらツイてないなあ。
うんざりした気持ちで出る。
「ああ?」
尻上がり口調で敵対心を込めているように聞こえるであろう俺の声。こんな喋り方をする自分が、随分と不自然に思えるようになったものだ。
『……天野?』
電波の向こうの相手は、何やら俺の口調に困惑したような感じだ。
「誰だ?」
『私……。九条』
かけてきたのは九条のようだった。
「ああ、お前か。どうかしたのか? 絶世の料理を味あわせてくれるんじゃなかったのか?」
俺はいつものように、相手をからかうような口調で話し掛ける。
『ああ、それなんだけどさ……』
「まあ、無理だったんだろ?」
『そんなとこ』
と、俺は妙な違和感を憶えた。
いつものあいつらしくないのだ。
こんな事を言われたら、たとえ嘘をついてでも意地を張るようなヤツだ。もっとも、その嘘自体はバレバレで下手くそな嘘ではあったが。
「で、突然なんだ?」
俺はあまり電話で話すのは得意ではなかった。元々愛想もなく人と喋るのが苦手な人間だ。姿の見えない人間と電波を介して話すなんて、とても自然に出来るような事ではない。
『んっとね、そろそろ実家に帰ろうと思って』
「は?」
思わず問い返した俺の声は、実にみっともなく裏返っていた。
『飽きちゃったのよ、庶民の生活。だから、実家の優雅な生活が恋しくって恋しくって』
「ちょっと待て。それはつまり、学校も辞めるって事か?」
『そーゆー事。ま、そこそこ楽しかったかな。色々とキチョウな体験もさせてもらったし』
「おい! お前、一体何のつもりだ?! 三年間だったんじゃないのか?! 自由がどうこう言って来たんだろ?!」
『ああ、アレね。なに? まさか本気にしてた? ジョーシキで考えてみなさい。今の時代のドコにそんな話があるってのよ。あんたって、普段からいけ好かない顔ですましてるかと思ったら、意外と単純ね』
「ふざけんなよ! 今度は何の冗談だ?! 何かの腹いせか?!」
『そんな事で、わざわざ電話なんかすると思ってるの? 私はただ、ずっと騙されたまんまってのも可哀相かなって思っただけよ。それに、突然私がいなくなったら、寂しがる人が居るじゃない』
俺は、どこまでが九条の本気なのかまるで掴めなかった。
それだけに、九条の露骨な挑戦的態度にカーッと熱くなってしまい、冷静に考えるとかそういった事が出来なくなってしまった。
「誰が寂しがるだと?! ふざけるのも大概にしろ! ああ、そうか。やっぱり所詮は御嬢様の道楽だったのかよ。なら引き止める理由もないさ。とっとと消え失せろ! どこぞの金持ちのボンボンとくっつけられて、せいぜい楽しい余生を過ごすんだな」
気がつくと、俺は電波の向こうの九条に向かってそう叫んでいた。
こんなにも我を忘れ、感情を爆発させるのは初めてだったかも知れない。今、この場に自分以外に誰も居なくて本当に良かった。
『そうさせてもらうわよ。じゃあごきげんよう。ケンカばかりしてないで、たまには将来の事も考えなさいね』
最後まで挑戦的な態度を崩さないまま、九条は一方的に切った。
俺は行き場のない憤りに全身が焼かれるような思いだった。ふと目をつぶっただけで、九条が俺を嘲笑する姿が浮かび上がってくる。そんな心象を浮かび上げるたび、俺は思わず頭を掻き毟りたくなるほどの感情の爆発に苦しんだ。
ふざけやがって……。何を考えてるんだ、あのボケは!
こぶしを振り上げ、コンクリートの床に叩きつけた。
直後、骨が震えるような鋭い痛みが走る。だが、それでも俺の感情を紛らわせるには程遠かった。
自分にとって唯一の理解者だと思っていたのに。
それが全部嘘で、演技だった?
悪い冗談だ。
世の中には結婚サギなんてものがあるが、あんなものはよほどのアホしか引っかからないものだと思っていた。
人の感情を手玉に取るなんて、どうやら対して難しい事でもないようだ。俺は人並み以上の警戒をしていたはずなのに。にも拘わらず、今まで九条の本気の嘘に気づかず騙され続けていたのか……。
目の前が真っ暗になるような怒りと絶望感。
重苦しい喪失感に、俺はどうにかなってしまいそうだった。
やりきれないこの感情はどうしたらいいのだろう?
しばし悶えた後、俺は答えを見つけてゆっくりと立ち上がった。
そうだった。俺は狼だったっけ。
だったら、狼は狼らしく、獲物を探しに行くとするか……。
「はあ……」
切るのと同時に、そんな溜息が勝手に漏れ出た。
自分はなんて事を言ってしまったのだろうか。
そんな後悔は感じつつも、決して自分を責めることはなかった。
そうだ。これで良かったのだ。
これが私達にとって一番いい形の別れだ。
彼は人間不信に陥るかもしれない。いや、元からその傾向は強かったのだけど。
こうでもしなければならないのだ。
彼は、自分では気づいていないかもしれないけど、優しい人間なのだ。
もし、私がこんな理不尽な目に遭っていると知ったら、それこそ何をするのか分からない。
そういう過ちを犯さないために、私はこうやって憎まれる必要があるのだ。
……私の買い被りかしら?
たとえ彼が私の状況を知ったところで、必ずしも何らかのアクションを起こすとは限らないのに。
もしかして、自分の願望が入ってるのかな?
と、首をかしげ、そんな事を真剣に考える自分に苦笑する。
バカな事を考えたって仕方がない。彼はもう、私にとっては他人も同然だ。
私はゆっくりと携帯を机の上に置いた。
頭ではそうと分かっているんだけど、
だけど、胸をえぐられるようなこの喪失感から、私は目を背ける事が出来なかった。