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 今日は読書がはかどるなあ……。

 今朝から読み始めた、少し厚めの文庫本。通常なら、読み終えるのに早くてもニ、三日はかかるのだが、既に半分まで到達している。丁度、午前中まるまる読書に当てたからだ。

 一時期、こんな事もあった。俺がいつもつるんでいた連中と別れ、この高台で一人で過ごしていた時期だ。特にする事も話し相手もいないので、趣味にしている読書をして過ごしていた。

 こうなったのには理由がある。

 いつも俺の読書を邪魔する騒がしい女、九条が、今日はいつまで経っても現れないのだ。

 不覚にも、なんだか物寂しさを覚えてしまった。

 いや、断じてこれは違う。これは、騒がしいゲーセンから静かな所に出てきて、思わずホッとするあれだ。

 そういや、携帯に番号入ってたな……。

 あいつは携帯に番号が入ってないらしく、俺のを勝手に入れ、そのお返しにとこれまた勝手に俺の携帯に登録していったのだ。俺としても、まあ特に削除する理由はないからそのまま残していたのだが。

 メールでもやっとこうか?

 ふとそう思いつき、ポケットの携帯に手を伸ばしかけ……

 やめた。

 これではまるで、俺があいつを心配しているみたいではないか。

 別にどうだっていいのだ。

 それに、女には女の都合がある。

 俺は文庫本にしおりを挟み、カバンの中に仕舞い込んで立ち上がった。

 さて、そろそろ腹も減ったしな。学食にでも行ってみるか。

 と、その時。俺は何故か、昨日の九条の言葉を思い出した。

『明日こそ、文句のつけようのないのを作ってくるからね!』

 食えないならそれで儲けモノだ。あれははっきり言って料理とは呼べないシロモノだからだ。

 別に楽しみにしていた訳ではないって。

 そう誰となくつぶやき、俺は高台から降りて行った。

 

 

 ふと気がつくと、枕元の目覚ましが鳴っていた。

 気だるい動作で腕を伸ばし、それを黙らせる。

 もう朝なの……?

 ベッドの上でうつ伏せの姿勢で目が覚めた。服も着の身のままで皺だらけになってる。

 自分は何時寝たのか、それとも寝ていないのかよく分からない。

 顔がやけに腫れぼったい。

 昨夜は随分泣いたから、そのせいだろう。

 まさか泣いてしまうとはなあ……。

 自分の意外な脆さに溜息をつかずにはいられなかった。

 ゆっくり体を起こしてはみたものの、とても起きる気にはなれなかった。体の位置を変え、今度は仰向けに倒れ込む。

「ふざけんじゃないわよ……ったく」

 口から飛び出したその言葉は、いつもの勢いがまるで感じられなかった。

 私は酷く打ちひしがれていた。自分では割と神経は太い方だと思っていたんだけど、さすがに今回は駄目だったようだ。

 それは、昨日の父からの突然の電話から始まる。

 あの男は挨拶もなしにこう言い放ったのだ。

『今週中に部屋を引き払って帰って来い』

 一体、何のために?

 そんな事は訊くまでもない。

 父は、とうとう私というカードを切る事にしたのだ。

 法的には問題がない。

 たったそれだけの理由で。

 私に約束したはずの三年間の自由も破棄された。

 どうせ、初めからあの男に人間らしい倫理観など期待はしていなかったからそれほどショックではなかったが。

 悔しかった。

 己の無力さが。

 一体、私は何のために生まれ生きてきたのだろう?

 その答えがこれなんて、あんまりだと思う。

 帰りたくなかった。

 もっと、普通の生活というものを続けていたかった。

 生まれて初めて、自分が満たされていくような楽しさを実感できたのに。

 ……仕方がない。

 何もかも決まってしまった事だ。

 どうあがいたって、変える事は出来ない。

 だったら……。

 だったら、潔く受け入れよう。

 これまでの事は、単なる夢としてしまおう。

 辛いけど。

 

 

 そろそろ放課後だな……。

 結局読み終えてしまった文庫本をカバンに仕舞いながら、俺は誰となくそう呟いた。

 九条は来なかった。ま、だからといってどうなんだ、って事もないんだが。

 意外と一人は寂しいもんだ。

 色々と試行錯誤を繰り返して辿り着いた結論がそれだ。

 一人になる事が耐えられなくなってしまった自分を、俺はようやく受け入れられ始めた。

 そんな自分を、かつては“牙の抜けた狼”と罵った。

 誰にも頼らず、誇り高く生きる。

 なんて大見得切って生きてきたが、今ではただの意固地な子供にしか見えない。

 人は一人じゃ生きられないものだ。

 九条と言葉の掛け合いをするようになって、俺はその事を強く思い知らされた。

 だからだろう。牙の抜けた自分を認められるようになったのは。

 依存する訳じゃない。

 今まで誰も彼も跳ね除けてきた心の垣根を、ほんの少しだけ開くだけ。

 そうだ、俺は何も変わらない。

 俺は俺のままだ。

 思えば、牙なんて初めからなかったのだ。

 単に歯を剥いていただけだ。

 怯えた子犬のように。