うっ……。
ふと思い出したように、頭に鋭い痛みが走る。その感覚が、どこかボーッとしていた俺の頭をたちまち鋭敏化させた。
目覚めるとそこは、学校の保健室だった。この清潔感漂う薬臭い部屋は馴染みがあるのですぐに分かった。
ゆっくり体を起こす。ぎしぎしときしむような音と鈍痛があちこちから伝わってきた。今朝起きた時よりも確実にひどくなっている。
「ああ、目覚めたようね天野君」
と、そこに現れたのは白衣を着た中年の女性。保険医だ。
「まったく、あなたぐらいなものよ? この学校でこんなに保健室に来ているのは」
それで名前を憶えられたのか。しかし、俺以外にももっと沢山来ていると思うのだが。
「確か俺は、気を失ってたと思ったんだが」
「憶えてないでしょうね。ほら、そこの娘が運んできたのよ」
そう言って保険医が部屋の隅を指差す。
「あいつが……?」
その先にいたのは、今日口論したばかりの九条の姿だった。
九条は何やら睨みつけるような視線で俺を見ている。助けてもらったと思えば、何故ガンを飛ばしているのだろう? 本当に訳の分からないヤツだ。
「じゃあ、もう帰る」
俺はベッドから降り、傍にあった制服の上着に腕を通した。
「ちょっと待ちなさい。頭のケガは大した事はないけど、こんな事を続けていると今に大変な事になるわよ」
保険医が厳しい口調でそう言い放った。しかし、俺はその言葉を無視し、さっさと帰り支度を済ませた。
ったく、関係ねーだろうが。俺がどうなろうと、あんたらにゃあどうでもいい事。違うか?
「では、お世話になりました」
心にもない言葉を、きわめて事務的に言って足早に保健室を後にした。
既に日は暮れかけ、校舎は薄暗く不気味な雰囲気をかもし出していた。薄気味悪い、とは思うものの、怖い、とは思わない。俺にはそんな感情はない。とっくの昔に欠落したのだ。
さっさと帰って寝るか。体中が痛くてたまらない。歩くのさえ苦痛だ。
と、背後から乱暴にドアの開ける音。直後、バタバタと足音が俺の元へ近づいてくる。
「待ちなさいよ」
がしっ、と足音の主が俺の肩を掴んでその場に止める。
「なんだよ」
俺は面倒臭さそうに振り返った。
声の主は分かっている。九条だ。
「私に黙って帰るつもり?」
ひどく苛立った表情が薄がりの中に浮かぶ。
「ああ、それもそうだな。アリガトウ、助ケテクレテ」
適当にそんな事を言って、俺は九条の手を振り払い再び玄関へ歩き出す。
「そうじゃないわよ。あんた、何であんなとこで倒れてた訳?」
つかつかと俺のすぐ後ろにぴったりと九条がついてくる。
なんでついて来るんだよ鬱陶しい、とは思ったが、考えてみればこいつも玄関に向かってるだけだ。それにしても、何でまた俺のすぐ後を歩くのだろうか。
「教えなきゃ分からんか? ま、御嬢様に下々のケンカなんて分かるはずもないか」
嘲笑を込めてそう答える。と、さすがに俺の言い方に腹が立ったのか、ス−ッと背後の九条が深呼吸する音が聞こえた。
「なに? 血まみれになって倒れてるのが好きな訳?」
「アホか。好きでなったんじゃねえ。そんなのも分からんのか」
「そうよねえ。まさか“負けた”なんて恥ずかしくて言えないもんねえ」
と、今度は九条が俺を嘲笑する番だった。
こいつ、知ってて言ってやがったか……。とことん性格の悪いヤツだな。
「るっせーな。相手は四人もいたんだ。普通勝てる訳ねーだろ」
「だったら、こっちも友達つけときゃいいじゃない」
友達。
その言葉が俺の一番痛い所を突いた。思わず言葉を失ってしまう俺。
「いないの? 随分荒んだ生活してるみたいだし、そういう物騒な友達、何人かいるんでしょ?」
「その友達にやられたんだよ」
「へーっ、そうなんだ? 仕方ないよね、あんたって性格悪いし」
「テメエには言われたくないな。御嬢様」
「その呼び方、やめてって言ったでしょう?」
苛立ちも相乗し、ドスの聞いた低い声で九条がそう言う。それが、ヘコミ気味だった俺に精神的優越感を与えた。
「こんな時間まで外出してていいのかね? 家族やお友達が心配するよ?」
おちょくるような猫撫声で背後の九条に追い打ちをかける。
自分でも子供じみたやり方だと思ったが、退くに退けず、なんとか九条を打ち負かしたい気持ちでいっぱいだったのだ。
「いないわよ、そんなもの」
「は?」
「いないって言ってるのよ! 心配してくれるような家族も友達も! あんた、私の事なんにも知らないクセに、適当な事言わないでよ!」
また、あの時のと同じセリフだ。
同時に、あの時に感じた罪悪感が胸に込み上げてくる。
「御嬢様御嬢様ってさ、いい加減やめてくれる?! あんたが思ってるほど楽しいもんじゃないんだから!」
「じゃあ、言うがな。お前も俺の事、一体何が分かるってんだ? 性格が悪いだの、物騒だの、野蛮だの、そっちこそ適当な憶測で言ってんじゃねえよ!」
ほぼ無人に近い夕暮れの校舎内に俺達の罵声が響き渡る。
異様な光景だ。
沸騰した頭の片隅で、冷めた俺がそう呟いた。
「ハッ、憶測? 現に血まみれで倒れてたのはどこの誰?」
「テメエこそ何様のつもりだ。なんでこんな学校に入ってきたんだよ? 敬遠されるって、普通思わないのか? そうやって自分より格下の人間を哀れんで楽しいのか?」
「哀れんだ憶えはないわよ。私はただ、普通の生活ってのをしてみたかっただけ」
「そういうのを、道楽って言うんだよ。金持ちの一日貧乏体験みたいなヤツだ。それを見た周りのヤツらは何て思う? 普通は考え付くだろ。それが分かったら、さっさと自分ちに帰れよ」
「……」
突然、そこで九条はようやく黙った。
勝った。
一瞬そんな喜びで胸が満たされる。しかし、すぐにそれは出所が不明な後悔に変わった。
そうだ、こんな事で勝って何になる? ガキじゃないんだ。こんなバカらしい言い争いにムキになって、恥ずかしくないのか?
と、タンッと背後から床を蹴る音。
直後、俺の脇をそよ風が通り過ぎた。
目前に見えたのは、まるで何かから逃げ出すように走っていく九条の小さな後姿。
まったく、俺は何をやってるんだか……。
いや、悪いのは九条の方だ。俺の事なんか何にも知らないクセに、勝手な事ばかり並べやがって。
翌日。
私はいつもにも増して気持ちが乾いていた。
昨夜はあんなに感情を爆発させたのに。今は情緒らしい情緒がなくなってしまっている。残ったのは、腫れた目元だけ。
そっか……私って、やっぱり居ない方がいいのかな? だったら、予定を切り上げて実家に戻ろうか?
昨夜からずっとそればかり考えていた。
だけど、どうしても後一歩が踏み出せない。
そんな自分が未練がましいとは思ったが、やはり捨てきれないのだ。
せっかく三年間限定で手に入れた自由なのに。それを自ら反故にするのが勿体無いのだ。
もしかしたら、というのがどうしてもある。悲観的希望的観測でしかないが。
「おい、九条」
突然、背後から声。
私はボーッと考え事にふけっていたせいか、驚きのあまり体が見っとも無いほどビクッと震えた。
「な、何?」
慌てて振り返る。と、そこに立っていたのは天野の姿。
「何だよ、その反応は……」
「なんでもないわよ。それより、何か用?」
「いや……。話があるんでちょっと」
そう言って、天野は指で上を指した。
屋上に行かないかって事?
でも授業があるしなあ、と一瞬躊躇うが、よく考えてみれば、そんなものはどうだっていいのだった。どうせ教室にいた所で辛いだけだ。気に入らないヤツだけど、ぎゃあぎゃあ言い合っていた方がまだ気が楽だ。
「分かったわ」
私はそう答えた。すると天野は無言のまま踵を返した。着いて来い、とでも言いたげな後姿だ。
無愛想なヤツ。
そう思いながらも、私はその後に着いて教室を後にした。
目前にある天野の背中。それを憎々しくも苦々しい気持ちで見つめながら。