crossing back

 

 

 

 今日から私の生活は変わる。

 この日をどれだけ待ち望んでいた事だろう!

 あんなに息苦しかった家から飛び出せるなんて夢のようだ!

 昨夜など、興奮のあまりほとんど眠れなかった。だけど、目の下に隈など出来ていない。これには少しホッとした。

 さ、早く行こう。初日から遅刻では格好がつかない。

 私は姿見の前で最終チェックをし、部屋を出た。

 

 

「ふん、ザコが……」

 俺の足元に、まるで芋虫のように男が二人、うめきながら転がっている。

 一人は膝を、もう一人は肘を押さえて顔を真っ赤にしている。

 何の事はない。俺が折ったのだ。

 膝は、相手の足が棒立ちになった所を狙って打ち抜くように蹴れば、間接に逆向きの力がかかってあっけなく折れる。肘もそうだ。相手が殴りかかった腕を取って引っ張り、肘が伸びきった所に外側から内側へ掌底を打ち込めばいとも簡単に折れる。人間の体なんて脆い物だ。少しの工夫とタイミング次第で、実にあっさりと壊れてしまう。

「スゲエな天野」

「さすがだぜ」

 ギャラリーを気取っていた俺のツレが、さも自慢気に肩を叩く。

 くだらねえ……。

 毎日、こんな事の繰り返しだ。

 いくら渇いた喉を潤しても、潤せば潤すほど喉が渇いていくような空虚な感覚。

 どんなに強いヤツを倒しても、俺は決して満たされる事がない。

 まるで、果てしなく続く砂漠を歩いているかのようだ。

 いや、俺にとってはこの街なんて砂漠も同然か……。

 

 

 高校を卒業するまでの三年間だけ。

 以後は父親の命令には絶対服従する。

 散々我侭を押し通した結果、父の首を縦に振らせるために突きつけられた条件がこれだった。

 私はそれを承諾した。たとえ条件付でも、間違いなく三年間は私に自由が与えられるのだ。この機会を逃してしまったら、私には一生自由などというものは巡って来ない。

 どうせ、この先の人生など見えている。適当に大学に進み、後は父親が自分の企業にとって利益をもたらす企業の御曹司でも見つけてきて、私と結婚させるだろう。いわゆる政略結婚というヤツだ。

 無論、父の命令に私が逆らう事など出来はしない。九条家は政界にも深い繋がりを持つほどの一大コンツェルンだ。その頂点に立つ父の権力というものは凄まじいのだ。指先一つで、並の企業ならば簡単に潰れてしまうのである。

 だったら、こんな条件などあって無きに等しい。最終的には父の敷いたレールの上に乗せられるのだったら、少しでも多く楽しい思い出を作った方がいい。

 市内のごく普通の高校に通うためだけに、これほど私は苦心した。おそらく普通の人には想像できないであろうが、これが私にとっては普通なのである。

 私の生まれた九条家は旧華族の出。祖父は生まれながらにして商才があったらしく、一代で莫大な財産を築き上げ、後に生まれた父には徹底的に英才教育を施し自分の跡を継がせた。そのため、必然的にそれが孫の代にも渡ってくるのである。

 私には兄がおり、彼が将来的に父の跡を継ぐ事になるだろう。現在は海外留学中で、随分長い間顔も見ていない。

 男は男の、女は女の使い方がある。この時代錯誤的な言葉が父の信条だ。つまり、男が生まれたら後継ぎに、女が生まれたら政略結婚に使う、という事である。

この時代に、と思うかもしれないが、こういう世界は世の流れからは隔絶されており、時代の流れとは無関係に閉鎖的なのである。

 はっきり言って、私は不幸だ。欲しいものの大概は、望むだけで簡単に手に入るだろう。だが、どんなに望んでも決して手に入らないものだってある。

 ごく普通の生活。

 どんなに長い間憧れ続けてきたであろうか。

 今それが、たった三年間とはいえ、私に許されたのである。

 おそらく、最初で最後の自由かも知れないけど。

 

 

 視線。

 それは、俺が最も忌み嫌うものだった。

 俺に向けられる視線は、いつも決まって同じものだからである。

 敵意。

 嫌悪。

 全てが俺の存在を否定する念に満ちている。

 だから俺は、ケンカに明け暮れるようになった。

 街をうろつく有象無象共が哀れみを求めて俺を見上げる瞬間が、一番逆立った気持ちを落ち着かせた。少なくともその瞬間だけは、俺の存在を否定する事が出来ないからだ。

 人は俺を見ただけで敵意を向ける。

 俺を見ただけで嫌悪をあらわにする。

 それが俺の心を荒ませ、再びこぶしを揮わせた。

 そして暴力に染まった俺を人々が敵意と嫌悪の視線で見つめる。

 こぶしを揮う自分。

 この悪循環の始まりは一体どちらからだっただろうか?

 今ではもう、分からない。

 別にどちらでもいい。

 とにかく今は、この渇きを癒せればいい。

 癒せれば。