「えー、本日からこのクラスにお入りになる事になられました……」
担任教師が下手な敬語を使いながら黒板に私の名を書いている。
クラス中の視線は私一点に注がれていた。
梅雨明けという中途半端な時期の、突然の転校生。誰もがその正体に興味津々といった感じだ。
「初めまして。九条優理子です。よろしくお願いします」
軽く礼をし、ここでとびっきりの笑顔。
人間、何事も第一印象が肝心だ。この教師の態度といい、おそらく生徒には事前に私が九条家の娘である事は知らされているだろう。お高く止まった嫌味な女、という先入観や偏見もあるかもしれない。だから、こうフレンドリーな雰囲気を出し、本当はみんなと同じなんですよ、とアピールしつつ明るく朗らかにしていれば、おのず友達も出来るはずだ。
この瞬間のため、昨夜は三十分も鏡の前で練習した。顔の筋肉が疲れるほど笑顔の特訓に特訓を重ねたのである。
ほう、とどこからか感嘆の溜息がもれた。
みんなは唖然とした感じの表情をしている。いい意味で期待を裏切られた時の顔だ。
よし、これは好感触。
「……えー、そういう訳で、九条様はかの九条家の御令嬢であらせられますので、皆さんくれぐれも粗相の無いように」
そういうのが一番不愉快だっての。
ま、この学校も九条の傘下の一つだっていうし、万が一私の機嫌を損ねれば首をはねられてしまうから、こうも卑屈な態度を取っているのでしょうね。先生自体に罪はないけど、やっぱあの態度はムカツク。
「九条様のお席は、この列の一番後ろであらせまして……」
ったく、使い慣れてないのを無理に使うんじゃないっての。余計聞き苦しいわ。
自分で言うのもなんだが、私は優雅な足取りで指定された席へ向かう。
机と机の間を静かに軽やかに歩んでいくさまをさりげなく強調しながら。
「それでは、出席を取ります」
出席簿をトントンと教壇の上で叩き、胸ポケットからボールペンを取り出して開く。
また、あれでも一人だけ違う呼び方されるんでしょうね……。自分の待遇について理事長にでも直訴した方がいいかもね。
私は自分に当てられた無人の席に着き、カバンを横にかける。窓際から二番目の席。ちょっと日差しがキツイかも。
左隣を見ると、隣の席には男の子が座っていた。右隣にはずっと向こうまで席はない。丁度、ここの二人だけがはみ出しているようだ。クラスの人数の切りが悪いせいだ。
隣の男の子は、寝不足で眠いのだろうかボーッとした感じの様子で窓の外を見ている。
見た目は、まあカッコイイ方……かもしれない。
「ねえ」
私は声をひそめて話しかけてみた。
ったく……。今朝は珍しく誰にもからまれずに学校に来れたと思っていたら。
就職戦線で敗北し、こんな私立学校に何とか転がり込んだ、自称高学歴教師。そいつが俺のクラスの担任な訳だが、朝来るなり、いきなりとんでもない事を言いやがった。
『本日は、転校生がいらっしゃっています』
聞くに堪えない日本語だったが、それ以上に俺はその転校生という言葉に鬱陶しい思いがしていた。
一番後ろの、隣には誰も居ないこの席が俺は好きだった。隣に誰か居ると視線が気になり、余計な干渉をされやしないかと落ち着かなくなるからである。
その俺の席の隣に、朝来ると机が一つ増えていた。昨日の掃除当番のヤツが並べ間違えたのか、と辺りを見回してみたが、一つ足りなくなっているような列はない。そう、席が一人分増えているのだ。
そして、その席に着いた転校生。
よりによって、どこぞの御令嬢様だそうだ。
大方、下界の民を見物に戯れに来たという所だろう。
鬱陶しい話だ。
「ねえ」
隣から早速声がかけられた。いちいち答えるのも面倒なので、俺は聞こえない振りをする。
「ねえってば」
「天野」
「はい」
丁度、出席を取っていた先公が俺の名を呼んだ。俺は隣からかけられた声に返事を被せてまたも無視する。
「ねえ、天野君っていうんだ?」
しつこいヤツだな……。無視されてるって分かんないのか?
「下の名前は?」
御嬢様育ちのヤツは人に無視された事なんかないから分からないのだろう。こんな事なら、授業は午後から出る事にしていつもの場所に行ってサボってれば良かった。でも、出席日数には余裕があった方がいいしな……。
ったく、仕方ないな……。
「あのな」
俺は視線を窓から隣に移し、俄かに殺気立って見せた。
普段よく使う、相手を威圧するための視線。度胸のないヤツはこれだけですっかり戦意を喪失するか浮き足立ってしまう。
だが、お嬢様はきょとんとして俺を見ている。おそらく理解が出来ないのだろう。
「うるさい。黙ってろ」
私は、彼が言った言葉がしばらくの間理解出来ず、ただ茫然としてしまった。
そんな私を他所に、再び視線を窓の外へ戻す彼。
え……? これって一体、どういう事?
私は何故彼が“黙れ”と言ったのか理解出来なかった。私はただ、早くクラスに馴染もうと、まずは隣の人に声をかけただけなのに。これって何かいけない事だったのだろうか?
一体何が彼をそうさせたのか分からず、私はただ彼の言葉の意味を考えるしかなかった。
しかし、幾ら考えても理由がさっぱり見つからない。
やがて、私はある一つの結論に辿り着いた。
今の発言は怒ってもいい所だ、と。