夕暮れ時。
俺は傷だらけの姿で足を引き摺るように家路に着いた。
さすがに久しぶりのケンカはきつかった。体が思うように動いてくれない。
再び、街を行き交う人々が砂のように見えてきた。
自分は孤独で、しかも今はそれが胸に痛い。
先ほどから左腕がしくしく痛む。押さえる右の手のひらにはじんわりと不快な熱が感じられる。折れたのかもしれない。
本来の自分の姿に戻れたのだけれど。心に隙間風が通り抜けるような寂しさが辛かった。
その寂しさを紛らわすかのように、久しぶりに、しかも自分の方から売ってまでケンカをしてはみたものの。やっぱりガラにもない事は控えるべきだったようだ。こんなザマになってしまった。
昔の、恐れを知らず我武者羅に突き進んでいた自分が懐かしかった。
あの頃に戻りたい。
そう願ってはみたものの、九条に空けられた胸の穴は思ったよりも大きく、今の俺では塞ぎようがない。
いつもこうだ。
昔から、どうでもいい事は叶えられるけど、絶対に譲りたくない事だけは叶わない。
自分を言い分を聞き、そして理解して欲しい。
子供心にそう切実に願ったけど、周囲は無下にそれを退け、俺の訴えを力で飲み込む。
周囲から貼られたレッテルも剥がす術がなく、いつの間にか俺は逆に開き直り、そのレッテルに倣った人間を自虐的に演じてきた。そうすれば、たとえ自分を理解してくれなくとも、それなりに諦めがついて気持ちが楽だったから。
周囲から疎まれ蔑まれようとも、“どうせ俺はそういう人間だから”と自分に言い聞かせれば、それでなんとか自分を支えられる。
一人きりで、周囲と自分を傷つけながら過ごして来た日々。
だけど、九条という理解者が出来た事により、俺はそんな自分が“変わった”と思った。
確かに変わる事は変わった。九条が茶番を演じていた事を告白した時に、俺は痛いほどそれを実感した。
変わった、というより、弱くなった、と表現する方が正しい。
一人で生きる力を失った一匹狼ほど哀れな存在はない。
誰かが傍に居る心地良さを知ってしまった俺には、一人で耐えねばならない逆境という波はあまりに冷た過ぎた。
さて、一体俺はどうしたらいいんだろうなあ……。
自分の事だけど、どこか他人の事のように思えて実感が湧かなかった。
どうしてこうも自分は自虐的なのか。
それだけ、人生や世の中、更に自分自身の生について頓着が無いという事なのだろう。
このまま一生をボンヤリと過ごしていくのだろうか?
まあ、それも悪くないかな……。
と、その時。
「ん?」
携帯の呼び出し音。
なんだよ、こんな時に……。
俺は痛む腕をゆっくり動かしながら、ポケットの中に入っている携帯を取り出して見る。
「メール……?」
一体誰だ……?
フィルター越しに見ているかのように、自分の周囲に起こる全ての事象が希薄な感覚だった。
なるようになる。
そんな自虐的な気持ちで、俺はメールを開いた。
連絡を受けてから、もう迎えが来るなんて。
いつもなら地団駄を踏んで怒り狂うところなのだが、今はそうやって感情を爆発させる気分にはなれなかった。
脳裏にはいつまでもアイツの声が響いてくる。
私を蔑み疎む声。
別に私は慣れていた。九条の財産が全て真っ当な手段で築き上げた訳でもない事は知ってるし、そういった行為の裏には必ず恨み言が付き物だ。今も九条家をひっそりと恨んで暮らしている人だっているだろうし。だから、自分は生まれながらに賛美と同時に怨恨の対象でもある事を理解していた。受け入れ難い事だったけど、それも仕方のない事だ。周囲にとって私は『九条 優理子』ではなく、『九条家の娘』なのだから。
父の使いと共にエレベーターに乗り、一階までやってくる。
迎えの車の中には、父と、そして相手方が乗っているそうだ。まったく、気が早いというか何と言うか……。
今更、私が逃げるとでも思ってるのかしら?
逃げられる訳ないじゃない。何もかも、自分の人生さえも雁字搦めにされた私には、囚人の足につけられるものよりも遥かに重いおもりがつけられているのだから。
送迎にしてはあまりにも可愛げのない防弾使用の特別車。さすがに幾ら厚顔な父とはいえ、自分がどう思われている人間なのかは分かっているらしい。
一般人など決して乗る事のないであろう、この車を目にした時、ようやく私は自分の自由が完全に断ち切られた実感が湧いてきた。背筋をぞくっと嫌な感覚が走り抜ける。
本当に、私の自由なんてこの世のどこにもないのだ。
その事に嘆きこそすれ、抵抗はもう考えなかった。私に出来る抵抗なんて、口だけの我侭しかないのだから。
いや、もう一つあるにはあるんだけど……。でも、成功するのは家の屋根に隕石が振ってくるくらいの確立かな?
「さあ、御嬢様」
従者が物静かな仕草で車のドアを開ける。
広い車内には、うっすらと人影が三つ見える。この先、自分の人生を利用する三人の姿。
しゃあないか。悪足掻きもここまで。結局私は、こうなる星の下に生まれて来たのだろう。
何もかもすっかり諦め、私は歩を車内へ向け踏み出した。
と―――。
「九条!」
え?
突然、私は誰かに呼び止められた。
私をこういう風に呼び捨てるようなヤツは一人しかいない。
振り向いたその先には、俄かには信じられなかったけど、その一人がえらく薄汚れた姿で立っていた。
車に乗り込もうとした九条を、俺は思わず大声で呼び止めてしまった。
どうでもいいヤツと思っていたのに、何故か、乗っていって欲しくない、という気持ちが満身創痍の俺にそんな重労働を行使させたのだ。
「……なに? どうかした?」
明らかに一瞬目を驚かせた九条。だが、すぐにつんとすました高飛車な態度に変わる。
「それはこっちのセリフだ。なんだよ、このメール。ここの住所が書いてたぞ」
「知らないわ、そんなもの」
「知らない? 非通知にしないで、よく言えたもんだな」
ハッ、とまた表情が変わる。すぐに顔を戻そうとするが、うまくいかないのか、かえって不自然で妙な表情になる。
「いちいちうっさいわね……。用件があるなら、さっさと話したら?」
自分の動揺を誤魔化そうとしているらしく、わざと苛立だしげな様子でつかつかと俺の元へ向かってくる。
「んなもん、ねえよ。お前が用事があると思ったんで、わざわざ来たんだよ。携帯の電源も切りやがってるしさ。なのに、さっさと話せだと? ふざけんな」
そんな九条を睨みつける俺。
「で、何の用なんだ? さっさとしろ」
睨みつけたまま、俺は冷ややかにそう吐き捨てる。
わざわざここに出向いておいて言うセリフではないな、と内心ではそんな自分に苦笑していた。
九条は、一体何を考えているのか、苛立だしげな様子を見せながらも顔をうつむけたまま急に黙りこくった。そんな九条に俺は首をかしげる。あんな事を言った後で、理解に苦しむ不可解なメール。そんな事をした理由は何だというのだ? まったく訳が分からない。
「……別に。ただ、一応面と向かって挨拶するべきかなあ、と思って」
「だったら、テメエから出向けよ」
「ケガ……またケンカなんかしたんだ?」
「関係ないだろ。他人に心配される筋合いは無い」
だったら、どうしてこんな所まで来たんだ?
矛盾する俺の行動を指摘するその声を、俺は無理やり奥底へ押し込んだ。
「そんな事ばっかり続けてたら、いつか取り返しのつかない事になるって言ってるのに」
「……説教したいだけなら、俺は帰るぞ」
そう言い捨てて、俺はくるっと踵を返しスタスタと歩き出す。
付き合いきれない。
俺は思わず溜息をついた。どうせこれも茶番だ。こう何度も茶番に付き合わされる俺の身にもなってもらいたいものだ。こんな事をして何が楽しいのやら。金持ちの考える事は本当に不可解だ。
ふと、自分にそう言い聞かせる“自分”に気がつき、思わずハッと息を飲む。
つまり、茶番と知りながらあえて付き合おうとする自分がいたのだ。そうまでもして繋がりを持ちたいという、俺とは思えないあるまじき自分の姿。
これがどういう事なのか、と理由を考え、すぐにそれは判明する。
俺は、ただ胸の隙間を埋めたかったのだ。
「待って!」
と、すぐに背後から俺を制止する九条の声。
もうやめろよ……。こんなの、ただの傷口の擦り合いだ……。
この場に俺は居た堪れなかった。正直、今にも逃げ出したかった。散々殴られ蹴られ、あちこちがぎしぎしと痛むこんな体でも、出来る事なら全力で走り去りたかった。
次で終わりにしよう……。
そう決意し、俺はゆっくり振り返る。
の、直後。
?!
突然、九条が俺の不意を突き、両手でしっかりと頭を押さえて唇を重ねてきた。
この場から逃げ出す事ばかりに気を取られていた俺は、予想もしなかった出来事に頭が真っ白になる。
「……じゃあね」
そう言い残し、九条は小走りに車に乗っていった。
まるで雷に打たれたような衝撃に思考が止まる。
一体、あいつはどういうつもりだったんだろう?
考える余裕もなく、俺はただ消え去っていく車を唖然と見送っていた。
と、いう訳で。私は実に大変な事になってしまった。
今まで散々と酷い仕打ちは受けてきたけど、ここまでの罰は初めてだったと思う。
でも、これはこれで良かった。むしろ、大歓迎ってカンジ。
それは何故かと言うと―――。
俺は今日もまた、ボーッと授業にも出ずに空ばかり見上げていた。
左腕には無骨なギブスの姿。案の定、折れていたようだ。無理も無いだろう。警棒で徹底的に打たれたのだから。
この事で、俺は両親に散々怒られ、そして悲しまれた。
どうして、いつもそんなに無茶ばかりするの?!
ふと、俺は思った。
本当に、周囲は俺を理解してくれないのか?
それは違う。
単に俺が目をつぶって、一人で傷ついているふりをしているだけだ。本当に理解していないのは、周囲の言葉を素直に受け止めなかった俺自身だ。
どうしてこんな事に気が付かなかったんだろう? もっと早く気がついていれば、こんなに俺自身が歪み傷だらけになる事もなかったはずだ。変に片意地張って、耳を塞いで、自分だけの独り善がりな解釈をぶつけて、結局俺はあの頃から少しも成長してない。体が大きくて屁理屈を憶えただけの子供だ。
おっと。こんな風に自分を責めて満足するのも、もうそろそろやめにしておこう。こんなくだらない事をした所で、自分のためには何一つならないのだから。
―――と。
真下の入り口から、がちゃんとドアの開く音が聞こえた。
「ん? 先公か?」
特にそれほど危機感を抱いた訳でもなかったが、何となしに俺は高台から身を僅かに乗り出して下を見下ろす。
「あ! やっぱり居た!」
は!?
俺は屋上にやってきたその人物に驚愕し、なんとか表情に出るのは押さえたが反射的に体がびくっと震えてしまった。
「く、九条?」
俺の目に映っている人物。それは確かに九条に見えた。
いや、あいつがここにいるはずがない。あいつは確かに実家に戻ったはずだ。それが何故、こんな所に居るというのだ? 俺がどうかしているのか? だからこんな幻覚を見ているのか?
「なあに、その反応? 冷たいわね。相変わらず無愛想で可愛げがないわね。あれ? 腕折ったんだ。おバカな所も変わんないわね。ん? あん時のかな?」
聞き慣れた挑戦的な口調。意図してやっているのか生来のものかは分からないが、人格の歪みを感じさせる口調だ。
こいつ……マジでここにいるのか?
俺は理性が自分の義務を放棄して騒ぎ出そうとするのを必死で押さえ、なんとか冷静になろうとする。もしこいつが本物であったら、見っとも無く慌てふためく姿は見せたくはない訳で―――。ん? いかん、もう混乱しとる……。
「信じられないって顔してるわね」
「当然だろ。お前、どっかのボンボンと結婚させられたんじゃなかったのかよ?」
「一応はそうなりそうだったんだけど、色々あってね。あ、そうだ。あの時はゴメンね、利用させてもらって」
「は? 利用ってなんだよ」
「ほら、アレよアレ」
ふと俺の脳裏に、あの時の柔らかな感触がフラッシュバックしてくる。
「ああ、アレね……って、何だよ、利用って?」
「んっとね、なんだかんだ言ってもさ、やっぱり嫌じゃない? 自分の自由を拘束されるのってさ。だからさ、最後にちょっと悪足掻きしようって思ってね。あんなメールを送ったの」
「話が見えないぞ」
「つまりね。アレを見られる事で、関係とか訊かれるでしょ? まあ、実際に相手方に訊かれたんだけどさ。で、その時にある事ない事答えた訳」
「下品な作戦だな……」
思わず苦笑する俺。
「何か私の相手もさ、もう他に好きな人がいて気が進まなかったんだって。でも、九条の言う事だから無下にも出来ないでしょ? で、たまたまあんな事になったんで、丁度恙無く断る理由が出来たんで、めでたく御破談って事になったの。でもさ、親父がその事でえらい怒っちゃってさあ。んで、見事に勘当されちゃったの、私。今はね、九条の遠い遠い遠い分家の家に住んでるの。この学校も引き続き通えるよん」
にっこりと嬉しそうに微笑む九条。その笑顔を見ると怒る気にもなれず、再び苦笑するしか俺にはなかった。
「やれやれ……見事に利用されちまったな……」
「まあまあ。これも人助けと思って」
「なめんな。んな一方的な人助けがあるか。俺の人格汚しやがって」
「なによーっ。少しぐらい、ラッキーとか思いなさいよ」
「お前がもっと可愛かったら、百歩譲ってそう思ったかもな」
「ムカツク! そこを動くなよ!」
途端に頭に血を昇らせた九条は、歯を剥き出しにしてハシゴを登り始めた。
やれやれ、なんだかなあ……。
あれからもう一度自分を見つめ直して、自分がどうあるべきかを考えた。答えはちょっと感覚的で言葉では説明しづらいが、少なくとも一人きりでどうとか牙がどうとか、そんなレベルで思い悩む自分を捨てる事は出来た。
だからといって、九条がこうして戻ってきた事を喜ばない訳ではないけど……ま、騒がしくガヤガヤやっていた方がくだらない悩みでうじうじしなくて済むと俺は思う。
「このアホ!」
と、思ったよりも早く登りついた九条が、俺を踏みつけるように足を振り上げた。
ぼーっとしていた俺は、慌ててそれを防ぐ。
が、俺はすっかり忘れていた。
今、俺の左腕が折れている事を。
「痛ェ! なにしやがる、このヒス女!」
END