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 ルシフェルの案内で、まずは廊下に出た。廊下も部屋と同じように暗く、足元がおぼつかない。

「えっと、確かこの辺りにスイッチが」

 自分の家なのだから、どこにスイッチがあるのかぐらい、見なくとも分かる。沙弥は手探りで壁を伝っていく。

 が、

 ガブッ

「キャッ!?」

 突然、手に違和感が。妙に手の辺りだけ生温かい。そう、まるで、何かに手を噛み付かれたかのように。

「ほら、だから勝手に歩かないでって行ったでしょ?」

 ルシフェルは沙弥の手を掴み、勢いよく引っこ抜く。慌てて噛み付かれた自分の手を確認する沙弥。ちゃんと感覚はあった。指も五本揃っている。それどころかケガも何もない。唾液でベトベトになっている事を除いて。

「はい。これで拭いて」

 そう言ってルシフェルは真っ白なハンカチを手渡す。他に拭くものは手持ちにはなく、かと言って放っておくのも不快なので、沙弥は取り敢えずそれを受け取って唾液まみれの手を拭いた。

「自分の世界のものが、そのままあるとは思わない方がいいよ。中には同じのもあるけどさ、ほとんどは表と裏とではまったく違う姿になってるから。ほら、あれなんかも」

 ルシフェルが指差す。そちらの方へ目を向けると、廊下の奥の方から何やら発光する物体が。

「!?」

 よく見るとそれは、人の形をしていた。発光する人間である。発光人間はこちらに気づくと急に驚いた風に立ち止まり、恐々と様子を見る。だがやがて、また奥の方へ大急ぎで引き返していった。

「……そのようね」

 もはや、何を見ても驚くまい……。自分が達観の境地に近づいていくような気がした。

 おそらく自分の手に噛み付いたのは、表の世界ではスイッチなのだろう。位置が丁度同じだったから。あの発光する人間も、この廊下にある何かなのだろう。それにしても悪趣味な変わり様である。今この瞬間、こうして落ち着いて構えていられる自分自身が不思議なくらいだ。

「じゃあ、行くよ」

 ルシフェルが奥に向かって歩き始めた。沙弥ははぐれてしまわぬよう、急いで後を追う。

 廊下は真っ暗なのだが、ルシフェルの光る羽のおかげで歩く分には困らなかった。便利な照明器具である。

 歩き続けて、一分は経っただろうか。沙弥はふと違和感を感じた。

 廊下が、自分が知っているのよりも広くなっている気がするのである。これは単に周囲が暗闇で見えなくなっているための錯覚かもしれない。けど、時間の感覚まで狂うだろうか? いや、そもそも、こちらの世界が自分の世界と同じように時間が流れるとは限らない訳だし。

 もう、いい。いちいち自分の世界と比較しているとキリがない。ここはもう自分の家とは思わない事にしよう。単に大まかな作りが似通った建物だという認識ならば余計な事に頭を悩まさずに済む。

「さ、着いた。ここだよ」

「やっと着いたの」

 ニ、三分は歩いただろうか。いや、それはどうでもいい。とにかく、自分を元の世界に帰してくれるという人が居る所に到着した訳だ。これでこの悪夢ともオサラバできるというもの。

 トントン、とドアをノックする。

 と、沙弥の目がドアにつけられたプレートに止まる。そのプレートには『SERA‘s Room』の文字。

 あれ? ここってもしかして、世羅の部屋?

 ガチャッとドアが少しだけ開かれる。

 部屋の中から光が漏れ出てきた。どうやらこの部屋は照明がつけられているらしい。

『どちら様でしょう?』

 が、その漏れ出た光を遮るかのように人影がにゅっとドアの間から現れる。いや、普通の人間の人影にしてはやや大き過ぎる。

「ルシフェルです。連れがいますけど、ちょっといいですか?」

『御知り合いの方ですか? 素性の知れない方はお通しできません』

 げっ。あれは、私が何年か前に世羅にあげた―――。

 熊のぬいぐるみ。しかし、サイズが人間大もある。自分があげたぬいぐるみは片手で持てるほど小さなヤツだ。

「僕が保証しますから大丈夫です」

『承知しました。それではどうぞ。くれぐれも粗相のありませんように』

 そう言って熊のぬいぐるみがうやうやしくドアを開けてくれた。動作は洗練されたものであったが、それをしているのがぬいぐるみであるためか違和感は拭えない。

「ほら、沙弥。行くよ」

「あ、ああ、うん」

 沙弥はルシフェルの背中にくっついて部屋の中に入る。

 わ……。

 まず目に飛び込んできたのは、一面に広がる青々しい畳。その奥は、まるで江戸時代のお殿様が座る場所のように一段高くなっている。そして中が見えないように簾のようなものがかかっている。

『履物はこちらで御脱ぎ下さい』

 横から熊の声。

 足元を見ると、ドアの近くだけが畳より一段低い石畳になっている。まるで部屋の中に玄関があるようだ。

 ルシフェルは言われた通り靴を脱ぎ爪先を揃えて並べる。しかし、沙弥は履物を履いていない。取り敢えずこのまま上がるのも何なので、靴下を脱いでポケットに突っ込んだ。

 部屋には言い知れぬ荘厳な雰囲気が漂っていた。まるで、神社とかお寺とか教会とか、神聖な場所である事を空気が物語っているようである。

 その空気に圧され、沙弥は口を開かなくなった。そのままルシフェルの後に続いて簾の元へ向かう。と、簾の傍まで着くとルシフェルは急にその場にしゃがみ込んだ。慌てて沙弥はそれに倣う。

 熊のぬいぐるみが簾の傍に近づき、小声で中にささやく。そして何やら確認を取った後、端からぶら下がっていた紐を引っ張る。すると簾が静かにしゅるしゅると上がっていく。

 いよいよ、例のこの家で一番偉いという人との対面だ。沙弥は急に緊張してきた。それはこの部屋の空気だけではない。あの奥からこちらに伝わってくる、威圧感にも似た迫力というか存在感というか、とにかく尋常ならざるもののせいでもある。いつの間にか時代劇のように、恐れ入るように沙弥は頭を下げていた。

 どうしよう、緊張してきた……。

『苦しゅうない。おもてを上げよ』

 と、下げた頭の天辺に声がかけられる。

 女性の声だ。

 沙弥は言われた通り、ゆっくりと恐る恐る頭を上げる。

『妾がこの家の守り神じゃ。名はない』

 そこに居たのは、十二単を身にまとった黒髪の女性だった。