「あのねえ、裏側って漠然と言われても分からないわよ」
いらただしげな様子の沙弥。ルシフェルのまどろっこしい喋り方に焦燥感を掻き立てられているようだ。
「うーん、それじゃあねえ、何か着る物を想像してみて。ほら、僕の着てるシャツとかさ」
沙弥とは対照的に、ニコニコしながら自分の襟元を摘み上げるルシフェル。
「服? それがどうしたのよ」
「服には表と裏があるでしょ? だからもっと広い意味で言うと、この世界はこれと同じようなものなんだ。沙弥は表向きに着るけど、僕は裏の世界の住人だから裏返しに着る。こういう事なんだけど、分かった?」
「つまり、私が住んでいる世界とは全部逆の世界って事?」
昔、そんなホラードラマを見た記憶がある。確かあれは鏡の中の世界の自分と入れ替わってしまう話だった。鏡の中の世界の住人は、自分も含めて全てが正反対の性格をしていた。
「ううん、正確には逆じゃなくて裏返し。つまり、反転してるって事。反転だから一応、ある一定の法則があるみたいなんだけど、僕には全然分からないんだ。すっごく複雑だから。トランプみたいに、表側は同じ模様でも引っ繰り返したら全部違う模様だったり、かと思ったらステンドグラスみたいに表裏どちらから見ても同じだったりね」
ふうん、なるほど。本当は何が何だか分からない説明だったが、一応表面上は分かった風に取り繕った。
なんだか随分と複雑な所に自分は迷い込んできてしまったようだ。表と裏がどうこうとか反転するとどうだとか、もう考えるだけで頭が痛い。あの時に見たヤツみたいに、正直者は嘘つきに、優等生は不良に、陽気な人は陰気に、という感じでもっと分かりやすければ良かったのに。
「それで、どうして私はこんな所に来てしまった訳? 帰る方法はあるの?」
それが一番大事な事だ。冷静になって考えてみれば、この世界が一体何なのかはさして重要な問題ではない。大事なのは、自分は元の世界に帰られるかどうかだ。
「本当なら、裏の世界ってのは簡単に来れる所じゃないんだよ。あくまで僕の推測だけど、沙弥はきっと生まれつき反転しやすい体質なんじゃない? たまに居るんだ。偶然、迷い込んでしまう人」
「それで、その人はどうなる訳?」
「ちゃんと帰れたよ。手段はない訳でもないから」
その言葉に、沙弥は思わず安堵の溜息を漏らした。最悪ここに永住するかも、との覚悟を決めかけていたのだから。どうやらそこまで深刻になる必要もなかったようだ。とにかく、今は一安心。
「なんだ、あるにはあるじゃない。だったら早く私を帰してよ」
帰る手段があるとなると、がぜんとして余裕が出てきた。イライラもすっかり収まり、この異常な状況を冷静に捉えられる余裕も出てきた。そうなると普段通りの調子で振舞えるようになる。
「ちょっと待って。反転については僕一人では決められないよ。この家の守り神様にお訊ねしなきゃ」
「守り神様?」
胡散臭い響き。それが最初の印象だった。
「この家で一番エライ人だよ。反転ってのは、とても微妙で危ない事なんだ。下手すると、表と裏の世界の均衡が崩れてしまう事もあるから」
「そうなると、どうなるの?」
「さあ? 多分、何もかもなくなるんじゃない?」
笑顔で言う事か……。沙弥は思わず苦笑い。
まあとにかく、早い所その守り神様とやらに会いに行こう。私は一刻も早く、こんなふざけた世界から脱出したいのだから。
「とにかく、そのエライ人の所に案内して。さっさとナシつけて帰してもらうから」
「分かった。それじゃあ、僕の後に着いてきてよ」
そう言ってルシフェルが先導に立ち、部屋のドアに向かった。
が、突然立ち止まって振り返る。
「そうそう、絶対に僕から離れないでね」
「はあ? 何言ってんの? 自分ちで迷子になる訳ないじゃない」
「なるよ。忘れた? ここは沙弥の住んでた世界とは違うんだよ? 下手したら、一生帰ってこれなくなるかもしれないんだから。という訳で、ここは僕に任せてね」
「……そうね」
はあ、と深い溜息。
なんで自分はこんな目に遭っているんだろう。目が覚めたらふざけた世界に飛ばされちゃっててさ。まともなヤツもいないみたいだし。良い事を積極的にしてきたつもりはないけど、そんなに悪い事だってしてきたつもりはないのに。ホント、どうしてこんな目に遭ってるんだろ……。
今更どうでもいい事だが、やはり愚痴をこぼさずにはいられなかった。
これこそまさしく“不幸”というヤツだ。どうやら自分は、幸薄い星の下に生まれたようだ。