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「っ……。こんな時に限って切れ目が見つからない」

 苛立ちながらベリアルは、見失った二人の姿を求めて夜空を飛び回っていた。

 まず間違いなく、ルシフェルはあの女を逃がすつもりだろう。いや、おそらくもう逃がしてしまったはず。まあ、あの女自体は始末出来ようが出来まいがどうでもいい。とにかくルシフェルを始末せねば、今後の自分の出世に大きな影響が及ぶ。与えられた仕事を的確にこなしたか否かで、自分の評価は天と地ほども差がある。

「これでは埒があかない―――ん?」

 と、ふと前方に自分に向かって上昇してくる一つの人影が。

 その背中には、自分と同じ一対の大きな羽の姿。ぼんやりと柔らかな光を放ち、その周囲を照らし出している。

「ほう、自分から出向いていただけるとは」

 ニヤリと笑うベリアル。

 ベリアルの目の前に現れたのは、自分が血眼になって探していたルシフェルだった。わざわざ殺されるために現れたとしか思えないルシフェルの心意の程は計り知れないが、少なくとも自分が恐れる必要はない。何と言っても、ルシフェルは所詮、ただの劣等生に過ぎないのだから。

「あの頃みたいに逃げ回ると思っていたよ。無様な表情で醜態をさらしながら」

 あの頃とは、学校時代の事だ。そう、ベリアルが虐げる側でルシフェルが虐げられる側だった時の事である。

 当時の悪夢を思い出し、ハッと表情を青ざめるルシフェル。だが、すぐに頭を振ってそのイメージを追い払う。そして一度大きく深呼吸して心を落ち着け、キッと気丈な表情で眼前のベリアルを見据える。

「逃げないよ……。僕には、やらなくちゃいけない事があるから」

「ほう? それは一体何ですか?」

 虚勢を、と嘲笑を浮かべるベリアル。

「沙弥を守るために、ベリアル君をここで……!」

「ハハハハハ! 君が? 僕を? なかなか面白い冗談だ」

「冗談なんかじゃ―――」

 が、突然ベリアルはルシフェルに向かって凄まじい速さで突進してきた。驚く間も与えずベリアルはルシフェルの目前まで詰めより、おもむろにルシフェルの首を剣を持っていない左手で掴んだ。

「調子に乗るな。マテリアライズ(物質化)も出来ない落ちこぼれが、私を倒すだと? 身の程をわきまえろ」

 穏やかで紳士然としていた表情が、鬼のような形相に歪む。まるで別人のように言葉の節々に恐ろしいまでに冷たい殺気が込められている。

 首を掴むベリアルの握力がどんどん強められ、見る間にルシフェルの顔色が真っ赤に充血していく。

 しかし、

「!?」

 その腕を、ルシフェルは苦しげな表情を浮かべながらもがっちり掴んだ。途端、ベリアルが首を締め付ける以上の力でぎりぎりと締め付け始める。たまらずベリアルは首を掴む手を放す。同時にベリアルの手を振り払う。

「知らないよ! それでも、僕はやらなくちゃいけないんだ!」

「その、沙弥とかいう女のためにか?」

 ルシフェルに締め付けられた部分を撫でながら、クックックと息巻くルシフェルを嘲笑。表情からは少しも余裕が消えていない。

「じゃあ、今からそいつを殺しに行こうか? 表の世界に」

 サディスティックな表情。あの頃と少しも変わっていない、とルシフェルは思った。

「そんな事、絶対にさせない。僕の命にかけても」

「クズの命など、今日の夕食分の価値もないんだがな」

 ぶん、と右手の剣を振り、ルシフェルに向けて構える。

「君にはこれまで随分と悪い事をしたからね。そのお詫びも込めて、苦しまないように終わらせてあげるよ」

 にやり、と笑うベリアル。

 ルシフェルは表情に恐怖が見え隠れしてはいるが、気丈にも迎え撃つために身構える。

「往生際が悪いね。ま、少しは楽しめるかな?」

 と、その刹那、ベリアルの姿が消えた。

「ッ!?」

 瞬間、ルシフェルは咄嗟にその場から急降下した。

 今まで自分がいた空間を、ベリアルが背後方向から剣で横に薙ぐ。ぶん、と空気を切り裂く音がやけに鋭く響いた。

 ベリアルが瞬時にして自分の背後に移動したのである。ルシフェルは殺気だけを鋭敏に感じてかわしたのだ。

「ハッハーッ! なかなかいい反応です!」

 急降下していくルシフェルのすぐ背後に、またもベリアルが瞬時に移動してくる。

 背筋に冷たい殺気が走る。咄嗟に身をよじると、すぐ脇からベリアルの剣先が現れる。同時に鋭い衝撃が脇腹に走る。どうやらベリアルが繰り出した突きをかわしきれず、僅かにえぐられたようだ。

「くっ……」

「逃げる事だけは一流ですね!」

 更なる追撃を逃れ、急降下から前方に飛行方向を変えようと重心を変える。が、

「でも、まだまだです」

 ドンッ、という大きな衝撃が背中に走った。体が自分の制御を離れ、きりもみしながら急降下、いや墜落していく。咄嗟に上を向くと、ベリアルの靴の裏が見えた。あの体勢から、下へ蹴り落とされたのだ。

 落ちるな!

 しきりに羽を羽ばたかせ、なんとか体勢を立て直す。無理な方向に羽ばたかせたため羽の節々が痛む。

 が、

「まだ終わりではありませんよ?」

 上からベリアルの声。

 直後、何とか羽ばたかせた浮力と下方向への加速との力の差がゼロになった所に、丁度腹の辺りを踏みつけるようにベリアルが上空から降ってきた。

 内臓を押し上げられるような衝撃。肺に溜まった空気を全て吐き出しながら、再び地面へ向けて落下を始める。あまりの衝撃の強さに、羽を羽ばたかせる暇もなかった。

 ドォン!

 轟音と同時に、背中から気の遠くなるような衝撃が全身に伝わる。そのせいで一瞬、意識が消えかけたが何とかギリギリのところで踏み止まった。

「あれだけ偉そうな事を言っておきながら、逃げるだけとはね。本当にやる気があるのでしょうか?」

 ルシフェルが墜落したのは、街のとある公園の芝生の上だった。落下の勢いでそこに体を半分ほど埋もれさせている。その埋もれかけたルシフェルの体を、ベリアルがまるで石ころにするように踏みつけた。

「まあ、君にしては上出来でしたよ。意外と素早くて驚きました」

「く……」

 胸を強く踏みつけられ、苦悶に歪むルシフェルの表情。だが、ベリアルは相変わらずサディスティックな笑みを浮かべるだけだ。

「さ、そろそろ楽にしてあげますよ」

 そう言ってベリアルは剣先をルシフェルの真上に掲げた。

「そうそう、あの女もすぐにあなたの元へ送り届けて差し上げますよ。私からのせめてものはなむけです」

 駄目だ……。やっぱりかなわないや……。やっぱり劣等生の僕なんかが初めから相手になるような人じゃなかったんだ。

 駄目だ! ここであきらめたら、沙弥にまで迷惑をかけてしまう! これ以上、僕の責任で迷惑はかけられない!

「ん?」

 と、その時、ぐったりしていたルシフェルが手を伸ばし、自分を踏みつけるベリアルの足を掴んだ。

「一体何のつも―――」

 その刹那、ベリアルの体が横飛びに宙を舞った。驚きも束の間、すぐに体勢を立て直すベリアル。ルシフェルが自分の足を掴んで力づくで放り投げたのだ。

「悪足掻きを!」

 間髪入れず、ルシフェルがベリアルに向かって突進する。そのままたたみかけようというのだ。

「調子に乗るな!」

 ベリアルは右手の剣を両手に持ち直し、ルシフェルとの間合いを計る。

「うわああああ!」

「死ね!」

 間合いに入った途端、目にも止まらぬ速さでベリアルの剣が横薙ぎに閃く。

 直後、それよりも一瞬早くルシフェルの体が沈む。

 ベリアルの剣はルシフェルの羽だけを捉えた。

 パッと光の粒が夜空を舞う。

「何!?」

 羽を失ったとはいえ、突進してきた勢いまでは消えていない。そのままルシフェルは剣を振った形で硬直しているベリアルに向かって体当たりを繰り出す。

「ぐわっ!」

 絡まりあいながら吹っ飛ぶ二人。そのまま高度を徐々に下げ、芝生の上を滑りながら墜落する。

 止まるなり、すぐにルシフェルはベリアルの上に馬乗りになった。

「クズが!」

 辛うじて離さなかった右手の剣を繰り出す。が、あまりにも距離が近すぎたため、あっさりと持っている腕を押さえられてしまった。

「ごめん!」

 ルシフェルはそう一言謝った。

 貫く形に構えた手刀。

 ばしゅっ、と鈍い音が辺りに響いた。

 悲鳴。

 動きを止める一つの人影。

「お、終わった……」

 そして、もう一つの人影がよろよろと立ち上がる。

 が、

 直後、糸の切れたマリオネットのように、ばったりとその場に倒れた。

「……沙……」

 どこかに向かおうと芝生の上を這いずる。だが、すぐに力尽きて指一本すら動かせなくなった。

 そのまま、その人影は動き出す事はなかった。

 立ち上がることも。

 二度と。

 それに僅かに遅れ、パリン、と音を立ててベリアルがマテリアライズした剣が砕けた。