「僕は、君の断罪に来たんだよ。僕が選ばれたのは、これも何かの縁でしょうか」
「だ、断罪ってそんな……」
「この期に及んで、身に覚えがない、とでも言いたいのかな?」
「……でも」
饒舌なベリアルに対し、まるで失語症にかかったかのような舌回りが鈍いルシフェル。
「でも? でも、なんだい? 何か超法規的措置として認められるだけの理由があるのかい?」
「……それは、その……」
「ないんだろう? だったら、素直に罪を認めるべきだね。言い逃れは出来ない」
くっ、と言葉を詰まらせるルシフェル。
それはつまり、ルシフェルがベリアルの言う事の正当性を認めた、という事だ。
「ちょ、ちょっと待って! ねえ、いまいち話についていけないんだけど」
「おや? 話についていけないとは、もしかして貴女はルシフェルから何も聞かされていないのですか?」
「聞かされてるって、ここが裏の世界だってことでしょ?」
「そうです。反転については?」
「知ってるわ。本来なら守り神がするんだけど、私の家の場合、守り神がその力を使えないから、代わりにルシフェルが許可を得て反転する事になってる」
「そう、“許可を得て”。そこがポイントなんだよ。ねえ、ルシフェル君?」
ビクッと体を震わせるルシフェル。
「なによ。こいつはちゃんと守り神の許可を得てやったわよ」
「それはもしかして、帰りの事ではありませんか?」
「そ、そうだけど……」
「では、貴女はどうやってここへ?」
「どうって、私がたまたま反転しやすい体質だったからよ」
「なるほど。しかし、偶然の反転が三日も続けて起こるなんて本当に有り得ると御思いなのでしょうか?」
「それって、どういう意味よ」
「過去2000年のデータの中に、三日間続けて反転した者の記録などありません。確かに確率的にはゼロではないかも知れない。ですが、それだけ確率的に低いものならば、偶然ではなく必然と考えるのが普通ではありませんか?」
「必……然?」
「そう、何者かによって仕組まれたという事ですよ」
にい、とベリアルは意味ありげに笑った。その笑みが爬虫類的に思え、背筋に冷たいものが走る。
「反転とは、世界のバランスを壊してしまいかねないほど危険な行為。従ってその作業は厳重に管理されなければならない。たった一人のために世界を崩壊させてしまわぬようにね。ですから、その禁を破った者には然るべき処置があって当然です」
ベリアルは右の手のひらを正面に向けて広げた。それをくるっと翻す。と、突然の眩しい閃光。次の瞬間、ベリアルの手には巨大な両刃の剣が握られていた。その刀身は彼の身長ほどもあり、また、刃幅は彼の体の倍もあった。
「待って! 沙弥は関係ないから見逃してよ!」
「空間法第三十条、第二項不正な反転行為について。『不正な反転行為において、機密漏洩を防ぐため対象となったものも当該者の断罪と同時に消去せねばならない』。僕は法の守護者だ。その申し出には応えられないな」
然るべき処置って……ルシフェルが断罪されるって事!? え、だってルシフェルはちゃんと守り神の許可を得て私を反転させ―――まさか、私がここに来たのって……。
「すぐに終わらせますからおとなしくして下さい。苦しいのはほんの一瞬です」
じゃきっ、と巨大な剣を軽々と構える。だが表情は、不気味なほど終始笑顔に徹していた。
「さあ、悔い改めなさい!」
疾、と踏み出すベリアル。その一挙動で剣を振り上げ、勢い良く斬りかかる。
「くっ!」
その刹那、ルシフェルは沙弥の体を強く抱きしめ、同時に凄まじい勢いで身を翻してベリアルの剣をかわし、その場から飛び出した。
世界がぐるっと回転する。それに気を取られ、沙弥の思考はそこで中断する。
な、何!?
そのあまりの速さに、思わず沙弥は絶句する。感覚は、テーマパークにあるジェットコースターの類に乗った時のそれに似ている。強烈な風が顔に吹き付け、息をするのも困難になる。いや、それ以上に、速さと高さと不安定さの三段構えの恐怖で頭がパニックを起こしていた。
「待ちなさい! 逃げるだけ無駄ですよ!」
後方からベリアルの声。
風を切る音が耳にうるさいにも拘わらず、やけにはっきりと聞こえる。
「舌を噛まないように気をつけて!」
ルシフェルはそれの返事を待たず、更に加速し続ける。もはや恐怖で目を開けていられず、余計なものを見なくて済むようにぎゅっとつぶった。
一体、時速幾らぐらい出ているのだろうか? 考えるのも、速度に比例した速さで景色が流れる様を見るのも、怖い。
少しでも紛らわせようと、ルシフェルの華奢な腕にしがみつく。
と、ふと思った。
ルシフェルの腕は、見た目以上に力強い、と。
「大丈夫、沙弥の事は僕が絶対に守るから」
ベリアルに対する恐怖のため、声が酷く震え怯えきっている。明らかに虚勢を張っている。
どうして。
沢山の“どうして”が胸に渦巻いている。
一度に訳の分からない事が次々と飛び込んできて、頭の中が処理しきれなくなって過負荷状態に陥っている。胸が苦しい、とはこんな状態を指すのだろうか。
「切れ目……あった!」
何かを探していたルシフェルの視線がパッと輝く。その先にあるのは、一本の何の変哲もない街路樹。
ルシフェルはその街路樹に向かって全力で飛行した。
「む、いけない!」
ルシフェルの意図に気づいたベリアルは、自分も全力でその後を追った。
ルシフェルと街路樹の距離がどんどん狭まっていく。20m、10m、5m。目をつぶったままの沙弥は、ルシフェルが一体どこを飛んでいるのかなど知る由もない。もし目を開けていたならば、きっと大声で、衝突する! 、と大声で叫んだ事だろう。
3m、2、1、
そして。
消失。
二人の姿が街路樹に飲み込まれてしまったのだ。
「ちっ……逃げられてしまいましたか」
街路樹の前に降り立ち、二人の姿が消えた場所に直接触れて見る。しかし、その腕が街路樹の中に飲み込まれる事はなかった。
「クズが!」
どん、とベリアルのこぶしが街路樹を貫く。すると街路樹は、まるでガラスのような破砕音を立てて粉々に砕け散った。あとは何も残らない。跡形もなく消え失せてしまったのだ。
「必ず見つけ出して殺してやる」
「もう大丈夫だよ」
体感速度が急激に弱まった。耳うるさかった風を切る音も聞こえない。
おそるおそる目を開ける。
え……? 何、ここ……。
沙弥の目前に広がっていたのは、どこかしこも真っ暗な空間だった。しかし、どこからも光が差し込んでいないにも拘わらず、何故か周囲はよく見渡せた。普通、暗闇の中に行けば何も見えなくなるはず。いや、ここは暗闇ではなく、単に黒い空間なだけかもしれない。
「ここは?」
「ここは亜空間。空間と空間の繋ぎ目みたいな所だよ」
繋ぎ目、ねえ……。こいつには常識かもしれないけど、私にはいまいち理解出来ない。
「あいつは? ベリアルって言ってた人」
「入った時に入り口を塞いだから、別な入り口を見つけない限りここには入って来れないよ」
「そう……」
大分気持ちが落ち着いてきた。ゆっくり思考する冷静さも戻ってくる。
「ねえ、あのベリアルって一体何なの? 断罪って? あんた何をやらかした訳? 知り合い見たいだけど、どういう関係なの?」
冷静になった途端、これまで滅裂としていた漠然的な疑問が次々と浮かび、それに急かされ口が一呼吸でそれらを喋らされる。まるでマシンガンのようだ。
「さ、沙弥……一度に言われても……」
「分かったわ。じゃあ、あのベリアルって人から説明してよ。出来るでしょ? なんか会話が顔見知りみたいだったもの」
「うん……。じゃあ、それから話そうか」
ふわふわと真っ黒な亜空間を浮遊する。
上を見上げても下を見下ろしても、前後左右、どこを見ても景色は真っ黒だった。そのせいか、自分が一体どこを向いてどんな姿勢をしているのかが分からなくなってきた。平衡感覚が麻痺してしまったのである。しかし、ルシフェルは普通の道を行くように平然と飛んでいる。時折、どこかを目指しているのか曲がったり上昇したりする。ナビでもついているのか、自分の現在位置をしっかり把握しているようだ。
「ベリアル君とは、学校の同級生だったんだ……」
「同級生?」
「うん……。前に、僕が学校でイジメられてたって言ったよね? その一人がベリアル君」
だからあんなに怯えていたのか……。ルシフェルの先ほどの異様な怯え方を思い出しながら納得する。
「ベリアル君は成績が良かったから、多分卒業後はどこかの国の管理者候補になったと思う。僕の断罪に選ばれたのも、選考者が適性を見るためかも」
いつになく、落胆した様子の声。たとえイジメられたとは言っても、自分の顔見知りに本気で殺されかけたのが相当ショックだったのだろう。そして、向こうがそんな事など少しも躊躇わなかった事も。
「ところで、断罪って何? 断罪って事は、あんた何か悪い事をしたって事でしょ? 裁判もなしのあんな横暴なやり方をされるほど、そんなに悪い事したの?」
「うん……」
躊躇いがちな口調。
やはり、ルシフェルは何か良くない事を犯したのだ。喋る事に気後れを感じているのが何よりの証拠だ。
「あのね、先に一つ、言っておきたいんだ」
突然、ルシフェルが真面目な口調でそう言う。
ドキッ、と胸が高鳴る。普段、まるでガキっぽかったルシフェルが真剣になると、口調や雰囲気が急に大人っぽくなるからだ。
沙弥は答えることが出来ず、ただただ肯く。
「僕は、自分でも過ちを犯した事を十分承知してるんだ。こうなるかもしれない事を覚悟の上で。沙弥には迷惑をかけてしまって、心から悪いって思ってる。でも僕は、本当にいい加減な気持ちじゃなかったんだ。多少は頭が熱くなっていたかもしれないけど。それだけ。それだけでいいから、分かって欲しいんだ」
「……うん」
静かに一度だけ、そっと肯く沙弥。
ルシフェルは大きく深呼吸した。気持ちを落ち着けているのだろうか。
たっぷり間を空けた後、ゆっくり口を開いた。
「沙弥がこの世界に反転してきたのは、実は僕の仕業なんだ」