「僕のって……はあ!?」
ルシフェルの言葉に我が耳を疑う沙弥。
「なによ、それ! つまり初めから私は、あんたの我がままでここに来させられてたって事!?」
「あ、いや、その、違うんだ……」
「違う!? 何が! あんた今、自分の口でそう言ったじゃない!」
「そうじゃなくて……その、沙弥が反転したのは、初めの二回は本当に偶然の事だったんだ……。僕が沙弥をこっちに連れてきたのは今日だけ。本当なんだ、これは……」
必死でそう訴えかけるルシフェル。
その声に、ハッ、と昨夜の悲しげなルシフェルの声色を思い出し、急激に荒立っていた感情が静まっていった。
「分かったわよ……。それで、どうしてなの? これってマズい事なんでしょ?」
「うん……」
僅かに逡巡するが、またすぐに口を開いた。
いざとなるとすぐにグズグズするルシフェルからは想像もつかない。どこか吹っ切れたようにも思える。
「沙弥がさ、似てるんだ」
「似てる? 誰に?」
「僕がまだ学校に通ってた頃に、同じクラスにいた女の子」
「……って?」
「その、好きだったんだ……。でも、結局は言えなかったけど。多分、向こうは僕の名前すら知らないと思う」
今にも消え入りそうなルシフェルの声。
だからか……。
ふと、不覚にも落胆を覚える。
どうして? 落胆する必要などどこにもないのに。
そう言い聞かせればするほど、言い知れない不思議な落胆が大きく膨れ上がる。そしてある時、ふと、カチン、と来たような気になった。
「……ふうん。で、いい代わりを見つけたって思ったんだ?」
何を言ってるんだか……。
言った自分でそう思った。これじゃあ、自分の落胆した所在を認めた事になるのに。
「え? ううん、そうじゃないよ。僕は、その、初めはただ、似てるなあ、と思っただけで、その、そういうんじゃないんだ……。二回目の時も、まさか逢えるなんて思ってなくて。だからその、何となく……」
途切れがちなルシフェルの声が、そこまで言ってとうとう消え入ってしまった。
それを合図に、会話がぷっつりと切れる。
気まずい沈黙。自分にとって一番苦手な瞬間だ。
「ねえ、あいつとは同級生だったんでしょ?」
たまらず口を開く。
「いつもイジメられてたけど……。正直、もう顔も見たくなかった……」
「断罪って、もしかしてあの剣で……?」
「うん……」
再び沈黙。
が、すぐに、今度はルシフェルの方から沈黙を破ってきた。
「やだなあ、大丈夫だよ。沙弥の事はちゃんと帰してあげるから」
「帰すって……どういう事!?」
「あのね、全ての物の表と裏の姿を把握するのは不可能なんだ。あまりにも量が多すぎるからね。だから、向こうは沙弥の姿は知ってるけど、裏の姿までは知らないから大丈夫」
「違う! そうじゃなくて、それって私一人、先に逃げろって事でしょ!? 嫌だからね! そんな無責任なのは!」
「沙弥には何の責任もないよ。こうなったのは、全部僕の責任だもの。沙弥の安全は僕がきっと保証するから」
「しなくていい! とにかく、一人だけ楽するなんて死んでもお断りよ!」
激昂し続ける沙弥。だが、それとは対照的にルシフェルは普段通りにヘラヘラとしていた。
「あ、ほら、沙弥の部屋に着いたよ」
見るとそこには、一枚のドアが。普通、壁などにつけられるはずのドアが真っ黒なこの空間に、さも当たり前のように浮かんでいるのだ。
「着いたって……、ちょっと、聞いてるの!?」
ルシフェルは耳も貸さず、ドアノブを握ってドアを引く。
そのドアの向こうには、紛れもない反転世界での沙弥の部屋が広がっていた。
一体どうなってるの? 普段ならばそんな疑問の一つも投げかけたかもしれない。しかし、今はルシフェルが自分だけを逃がそうとしている事への反論で頭がいっぱいだ。
ルシフェルは沙弥の体をそっとドアの向こうへ置く。
「沙弥、それじゃ反転させるよ」
「待ちなさいよ! どうして勝手に決めるの!? あんた一人じゃ心配だから言ってるんじゃない!」
「沙弥、心を落ち着けて雑念を払って」
一向に態度を変えないルシフェル。そんなルシフェルに、沙弥は思わず掴みかかった。
「人の話を聞いて! あんた、まさか死ぬ気!?」
「そんな事ないよ。そしたら沙弥と二度と会えなくなるもの」
「だったら―――!」
と、ルシフェルが襟を掴む沙弥の手を取った。離すものか、と抵抗する沙弥。が、しかし、ルシフェルの力の前に難なく引き剥がされてしまう。
「とにかく、今は心を落ち着けて?」
「嫌って言ってるでしょ! そんな事は出来ない!」
どうして私は、こんな事をしつこく言うのだろう?
私はルシフェルが好きなの?
まさか。
ただ、知っている人が困っているのに、見て見ぬ振りをするのが嫌なだけ。
そうだ、自分はお人好しなのだ。困っているならば、助けずにはいられないのだ。
「お願いだから……。沙弥の事が本当に大切なんだ。だから、お願い」
「だからって、だからってそんなの……」
出切る訳ないじゃない。
あんたの事を放っておくなんて。
「沙弥」
と、不意にルシフェルの腕が沙弥を抱き寄せる。
わ……。
「な、何よ、急に」
突然の事に戸惑う沙弥。だがルシフェルは、その細い腕でより強く抱きしめる。
ルシフェルは何も言わなかった。
ただ、抱きしめるだけ。
しかしそれが、どんな言葉よりも胸に響いた。眠りにも似た安らかな律動が感情を満たしていく。
「ごめんね」
ぼそっと小さな声でルシフェルが耳元にささやいた。
え?
そう思った次の瞬間、沙弥の意識が急激に暗くなっていた。思わずその誘いに抵抗してしまう沙弥。だが、その誘いの方が遥かに強く、目を閉じるとどうしようもないほど心地良かった。
こんなのって、卑怯よ……。
その言葉は実際に放たれただろうか? 意識が混濁して分からない。
ただ、確かな事はこの二つ。
不覚にも涙を流してしまった事と、ルシフェルが完全に意識がなくなるまで自分を抱きしめていた事だ。
「ごめんね……。これ以上、僕のせいで迷惑はかけられないんだ……」
そう呟き、ぎゅっと抱きしめていたものをそっと放した。
それは、聖母を象った一つの小さな置物。
「さ、行かなきゃ」
ルシフェルはドアを閉めた。
「よっと」
そして、今閉めたばかりのドアの両端を掴み、ベリッと引き剥がした。剥がした後には何もない。ただ、真っ黒な深遠がどこまでも続くだけ。まるでドアが真っ黒な空間にくっついていたかのようだ。
ルシフェルは剥がしたドアを膝で半分に叩き割った。その片方を右へ、もう片方を左へ向けて思い切り投げ飛ばす。かけらはすぐに黒に飲み込まれ見えなくなった。
「これで、ここには来れない。後は―――」
ベリアル君を。
そうしなければ、表の世界に行って沙弥を殺してしまうから。
だから、絶対に何とかしないと。
けど、僕に出切るだろうか? 腕力しか取り得のなかった僕に。
ううん、大丈夫。僕はテストが苦手なだけだ。僕だってやれば出来るんだ。
そうだ、死ぬ気になれば、何だって出来るんだ……。