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「ただいま……」

 翌日。沙弥はげっそりした様子で帰ってきた。

 原因は今日のテストだ。

 確かに勉強はやれるだけやった。しかし、どうしても気が散ってしまって実力が出し切れなかった。おそらく点数は、赤点を挟んだその前後だろう。

 そもそも、昨日あんな事さえなければこんな事にはならなかったのだ。

 裏の世界? ふざけんなってえの。

 明日のテストは比較的得意科目ばかりだ。苦手な人には悪いが、はっきり言ってこのまま勉強しないで受けたとしても半分は確実に取れる自信がある。無論、取れるものならもっと上の点数は欲しいので、それなりに勉強はするが。

 家には誰もいなかった。どうやら一番最初に帰ってきたようだ。

 世羅はおそらく部活動にでも出ているのだろう。忍は悪い友達となんかしてるだろうし、母はまだパート中、父は会社で仕事中だ。

 家に上がるなり、まずは冷蔵庫に向かう。そして冷たく冷えた麦茶を一杯飲む。世羅がわざわざ煮出して作ってくれるヤツだから、自動販売機なんかのヤツよりずっと味や風味がいい。

 コップを流しに置き、部屋に向かう。まずは空調のスイッチを入れる。この暑い中では勉強などやる気にもならない。そして汗ばんだ下着を交換する。今日も外は暑く、十分も歩けばすぐに背中や額に汗の粒がびっしりと浮き上がってくる。ベトベトしたものをいつまでも着ていたくはない。

 机に向かい、昨日もやったようにまずは今夜勉強する範囲のチェックから始める。

 今日はそれほど時間はかからなかった。憶えなければいけない事は圧倒的に少ない。やる事といったら、ここを憶えておけば五点は取れるな、というポイントのチェックぐらいだ。

 昨日よりは楽な気分で勉強を進めていく。気持ちが張り詰めていないためか、集中力が随分と長続きする。やはりノルマは低い方がやる気になるのだろう。

 そして時間はあっという間に過ぎ去った。

 

 コンコン。

 と、ノックの音。

 ふと勉強の世界から引き戻される。時計を見ると、時刻は十時になろうとしていた。

 このノックの音は世羅の音だ。

「入ってもいいよー」

 そうドアの方に呼びかける。するとドアが静かに開かれた。

「お姉さま、お風呂あきましたよ」

「うん、分かった」

 それだけ告げて静かに下に下りて行く。明日の朝食の準備か、もしくは父に酒のツマミでも作らされるのか。そんな所だろう。

 さて、そろそろ勉強を切り上げて今夜は早めに寝る事にしよう。

 机の上をさっと片付け、明日の準備を整える。そして着替えを用意し風呂場に向かう。

 リビングから、父と忍の声が聞こえてきた。やけに明るく甲高い。確実に酔っ払っている。

 また呑んでるな。やれやれと溜息をつきながら脱衣所に入った。

 するすると服を脱ぐ。洗面台の鏡には代わり映えのしない、自分の見慣れた体が小さく映っている。

「ん?」

 その時、脱いだスカートのポケットから何かが滑り落ちてきた。

「これ……」

 拾い上げたそれは、ルシフェルのハンカチだった。

 何故こんな所に入っていたのだろう? 入れた憶えはないのに。一体どこから紛れ込んだのか。

 洗濯物を洗濯機に放り込みながら首をかしげる沙弥。

 まったく、また思い出してしまった。せっかく意識を明日のテストの方に向けて思い出さないようにしていたのに。今日はこのせいで、テストは散々だったのだ。思い出すくらいなら、さっさと処分しておくべきだった。

 視線が洗面台脇のゴミ箱に向けられる。ハンカチをぐしゃぐしゃと丸め、腕を振り上げる。が、やはり思い留まり、ハンカチを持ったまま風呂の中へ。

 まったく、何やってんだろ……。

 浴槽に入ったまま、湯を張った洗面器にハンカチをつけてもみ洗い。

 借りたハンカチを洗って返すのは当然の事だ。しかし、それも相手によりけりだ。何故なら、これの持ち主とはもう逢えるわけがないのだ。わざわざこんな事をする必要もない。

 しかし、なんとなくこうしなければ気が済まなかった。返せる訳がないとは思っても、どうしてもしてしまう。

 これは生まれ持った性だ。沙弥はそう自分を納得させた。

 風呂から上がり、寝着に着替える。洗い終えたハンカチを再度絞り、取り敢えず折り畳んで胸のポケットへ。部屋でこっそりと乾かす事にする。詮索されても、自分の物だ、と言えばいいのだが、何となく他の人の目について欲しくない。

 さて、寝ようかな……。

 風呂場を出、部屋に戻ろうと階段を一歩二歩上る。

 が、くるっと踵を返しリビングへ。

「今年も優勝は巨人かなあ」

「だろうな。人材はいいのがそろっているから、メジャーに脱出でもしない限り間違いないだろ」

 リビングのテーブルの上にはビールの瓶が三本。その内二本は既に空になっている。

「ほら、忍」

「お、どうも」

 父が瓶の口を向け、忍がそれを自分のコップで受ける。白い泡と琥珀の液体がトクトク音を立てながら忍のコップに注がれていく。

「ん? ああ、沙弥。上がったのか。おっとっと」

 と、危うくコップに注ぎ過ぎそうになり、慌てて瓶をコップから放す。

「あれ? テスト勉強でもしてたんじゃなかったのか?」

「まあね」

 そう言って沙弥は突然、忍の手からコップを奪い取った。

「あ、何すんだよ!」

「うっさい」

 コップを奪われた事を抗議する忍を、沙弥は冷ややかに跳ね除けた。

 そして、コップを口に運び、

 一気。

 ゴクゴクと喉を上下させている沙弥の姿を、二人は呆気に取られた様子で見ていた。

「ぷはあ……あーマズイ」

 コップ一杯のビールを沙弥は一息で飲み干してしまった。

「んじゃ、おやすみ」

「あ、ああ……」

「おやすみ……」

 空になったコップをテーブルに置くと、沙弥はスタスタと部屋に戻っていった。

「何かあったのか? なんかイラついてるようだったけど」

「さあ? 腹でも痛いんじゃないのか?」

 沙弥の取った謎の行動に、二人は顔を見合わせて首をかしげた。