眠りとは不思議な感覚だ。
人類は地上に降り立ち、その二本の足で大地を踏みしめ、今日まで繁栄の一途を築き上げてきた。
人は地に足がついていなければ不安を覚える。それは、生まれてから今まで大地に自分の体重を預けて生活してきたからである。走る時に地面を強く踏み出せるのも、無意識の内に現れた地面への信頼なのである。
しかし、眠っている時は違う。
現実に起こっている事ではないとはいえ、夢を見ている時の自分の体はまるで体重を失ったかのようにふわふわと落ち着かなく、地面を踏みしめている感覚が非常に曖昧だ。
にも拘わらず、何故かその感触が心地良い。不思議な浮遊感に思わず身を任せたくなる安堵を得られるのだ。
それは、羊水に包まれていた頃の記憶のためだ、とある者は言った。
それは、人類は海中で進化したからだ、とまたある者は言った。
どちらが正しいのかは定かではないが、いずれにせよ睡眠時の不思議な感覚は誰にでも心地良いものだ。
沙弥は今、まさしくその感覚の中にいた。
波間に漂うような、優しく穏やかな流れが全身を包み込む。その中へ身を任せれば、あらゆる不安事が消え去っていく。流れと一体化するような錯覚を覚えながら。
が。
至福の安心感に包まれていたその時、何者かが自分をこの流れから引きずり出そうとする。海中に沈んだ錨を引き上げるかのように。
一体誰?
疑問は、妨げられる事への怒りと相手が分からない事への恐怖に変わる。それらの感情が、流れの中に溶け込んでいた沙弥の意識を一気に明確化させ、覚醒をうながす。
一体何? まだ朝には遠いはず。こんな時間に何の用だっていうの……?
「さーや」
そんな間の抜けた声で、沙弥は目を覚ました。
寝起きで霞んだ視界に映り込んだもの。それは、まじまじと自分を見詰める見覚えのある金髪の彼の顔。
「ぎゃっ!?」
思わず、普段ならば決して出さないような濁声で叫ぶ。突然、女性には不似合いな声を上げられたルシフェルは、声こそ出さなかったものの、同じように驚きに顔を歪めた。
「な、何? 急に。ビックリしたなあ、もう」
さほどでもないような表情で、大げさに胸を押さえながらベッド脇に座り込む。
「ビックリしたなあ、じゃないわよ! あんた、人の寝込みを狙って何をするつもりだったのよ!」
慌ててベッドから起き上がり、轟と怒鳴りながら着衣と髪の乱れを整える。
「べ、別に何もしてないよ! ただ、起こそうと思っただけで」
「ただ起こすために、あんなに接近する必要あるの?」
「なんかおかしかったかなあ? 沙弥っていっつもよく分かんない事で怒ってばっかりだね」
不思議そうにきょとんとするルシフェルに、どっと疲れが出てくる。ダメだ。コイツとはまったく話が噛み合わない。まともに取り合うだけ疲れて損だ。
「……で、私はまた反転した訳?」
「うん、その通り。三夜連続なんて、多分史上初めてじゃないかな? おめでとう」
そう言ってニッコリ微笑むルシフェル。
めでたくないわ! 反射的にそう叫びそうになったのを、寸出の所で言葉を飲み込んだ。ルシフェルのその笑顔には、少なからず自分と会えた事に対する喜びが含まれているはずだから、にも拘わらずそんな言葉を吐くのは可哀相だ。
しかし、我慢するのもなんだか面白くない。ルシフェルの事は別件にして、とにかく私はこんな突拍子のない事件に巻き込まれるのは嫌なのだ。ただでさえ、この世界は何が起こってもおかしくはないというのに。
「まったく、こんなに簡単に続くものなの? 反転って」
「全然。沙弥みたいに続けて反転する人は、百年に一人か二人ってトコだって授業で聞いた事あるよ。全ての要因は体質で決まるからね。本人の意思とは無関係だからどうしようもないよ」
「だから腹を括れって? まあ、いいけどさ。不本意ながら、三度目ともなるとちっとも驚かないわ」
自分の意外な順応能力の高さに、正直不安を抱かずにはいられなかった。こんなふざけた世界にすぐ慣れてしまう人なんて、どう考えても普通とは言い難い。少なくとも、普通の神経はしてないだろう。
「ねえ、沙弥。昨日の続きに行こ!」
「昨日の?」
嬉々とするルシフェルに、もう何度したのか分からない、訝しげに眉をひそめる沙弥。
背後から抱きかかえられての空中散歩だ。はっきり言って自分の体が不安定な状態になるからあまり気が進まないのだ。
今回はパス。
そう言おうと思った沙弥だったが、ルシフェルがまるでエサを貰えるのを待つ子犬のような目でこちらをじっと見つめている。そんな表情に、またしても脳裏に浮かんだ言葉を飲み込まされる。例のお人好しの部分が鎌首を持ち上げてきたのだ。もはや、自分は断る事は出来なくなってしまった事を悟る沙弥。
「……分かったわよ」
「よし! それじゃあ、早速行こう!」
沙弥の胸中を知る訳もなく、また昨夜のように窓を開け白いスニーカーを履き始めるルシフェル。ルシフェルが意気揚揚とするのに反比例し、沙弥のテンションは見る見るうちに下がっていく。
ま、つきあってやるか……。友達いないコイツも辛い思いをしてる事だろうし。
これも人助け、と自分自身を納得させる沙弥。しかし、終始嬉々としているルシフェルからはそんな様子はちっとも窺えない。いや、単に抑圧された感情が解放の機会を得たため、それで浮かれているからそう見えないだけかも知れない。
「では、出発!」
「はいはい」
溜息混じりに返事し、微苦笑。
窓辺に向かい、それを背後からルシフェルがそっと抱きかかえる。だが、この感触だけはいまいち慣れない。もっとも、そんなものには慣れたくもないのだが。
「では」
と、沙弥を抱きかかえたまま窓枠に足をかける。
「また頭ぶつけないでよね」
前もってそう忠告する。が、しかし。
ごん。
鈍い衝突音。
「いたたたたた……。あ、ハハハ……」
ばつの悪そうな笑み。何から何まで昨晩の繰り返しだ。まったく、コイツには学習能力というものはないのだろうか?
「ほら、ここってさ、窓枠が低いから」
「見苦しい言い訳はやめて。第一、ここは普通は足を置く所じゃないんだからね」
「そうなの?」
そして二回目はまた昨晩と同じように背を丸めて窓枠に乗り、そのまま強く体を外へ蹴り出す。一瞬の落下から浮遊感、そして飛翔へと変わる。
「さって、今日はどこへ行こうかなあ。ねえ、どこか行きたいトコある?」
「行きたいトコって言われても、こっちの事は分からないわよ」
「そっかあ。じゃあ、昨日は街を右回りしたから、今日は左回りしよっか」
「それでもいいわ。でも、出来るだけコースは昨日と外して」
「単調じゃあつまらないから、アクロバットにしてみる?」
「絶対嫌」
そんな訳で、昨日のコースとあまり重複しない程度に、街を左回りに回る空中散歩が始まった。
眼下に広がるのは、月明かりに照らされた建物の森。こういう高さと視点から見る事はこれまでになく、知っている所でも新鮮に見えるものだったが、それも昨日までの話。よく見れば、夜の街なんてどこも一緒に見える。ただでさえ、建物がきっちりと土地を区切られて建てられている訳なのだから。
正直、退屈だった。それに、沙弥は同年代の男の子と話す事はあまりない。だからルシフェルにどういう話題を持ち込めばいいのか分からないのだ。その上、ふと会話が途切れてしまうと非常に気まずくなる。だからこういうのは気が進まないのだ。
だけど、ルシフェルは本当に楽しそうだ。話し相手がいるのといないのではかなり違うのだろう。さっきから愚痴ばかりこぼしてはいるが、そんなルシフェルの様子を見ていると、付き合ってやって良かったと思う。本当にただの付き合いだけど、自分のために誰かが喜んでくれるのは気分がいい。初めからそのつもりでやった訳じゃないけど。
「ねえ、四度目の反転ってあるかな?」
「うーん、多分無理じゃないかな? 普通の人四人分の一生の確率だもの」
そして、少し間を空け、
「残念だけど」
と、付け足す。
これで本当に最後になるのか。
そう考えると、急に寂しさが込み上げてきた。
情が移っちゃったかな?
しまった、と初めは思ったが、よく考えるとそれも別にいい、と思い直した。そうなった所で後悔はないだけの価値が、この三日間にはあったのだ。確かに自分の常識からは外れた事ばかりが起きて散々イラついたりしたけど、今となるとそれも、良い、とは言い切れないけど、思い出としては留めておける。
「僕と会えなくなって寂しい?」
わざと冗談めいて訊ねてくる。
バカ。
それはアンタの方でしょ?
そうやっていつもヘラヘラしてるの、そういう気持ちを覆い隠すためなんでしょ?
私、鋭いから分かってるんだからね。
「どうかね……」
さて、本当に自分はどっちなのだろうか?
いや、どっちでもいいだろう。寂しいという感情と現実の問題とは完全に切り離されているのだから。
「そろそろ戻ろうか? 沙弥もまた明日、学校に行かなきゃダメなんでしょ?」
言いたくないのに無理しちゃって。
そっと微苦笑を浮かべる沙弥。
「一晩ぐらい、眠らなくたって平気よ。それに明日は―――」
と、その時。
「!?」
突如、凄まじい突風が辺りを吹きつける。肌にびりびりくる、凄まじい風圧だ。
考える間もなく、風が一箇所に集まり始めた。まるで局地的な台風のように。
「な、何!?」
その問いにルシフェルは応じず、ただぎゅっと沙弥を強く抱きしめ、風に飲み込まれぬよう強く羽を羽ばたかせ、その謎の竜巻を凝視する。
「まさか……」
竜巻がいよいよ激しく凝縮していき、その勢いを増す。そのまま限界まで凝縮したかと思うと、急に四方へ激しく弾けとんだ。
あれ……?
ルシフェルの手が、僅かに震えている。それに気がついたかと思うと、ますます激しく小刻みに手が震えだす。まるで何かに怯えているかのように。
「こんばんは。いい夜ですね」
竜巻の中から現れたのは、ルシフェルと同じ輝くような金髪と金の瞳を持った、同じぐらいの年頃の少年。
その背には、ルシフェルと同じ大きな一対の羽。
「ベ、ベリアル君……」
そう言ったルシフェルの声は、酷く震えていた。
「お久しぶり、ルシフェル君。元気そうで何よりだ」
人懐っこく笑顔で挨拶を交わす、ルシフェルに“ベリアル”と呼ばれた彼。
彼はルシフェルと非常によく似ていた。顔形のことではなく、その姿だ。髪や瞳の色素、男にしては色白な肌、そして普通の人間では絶対にあり得ない、背中の羽。おそらく、同じ天使なのだろう。沙弥はそう推測した。
だが、何かがルシフェルと違う。同じ人当たりのいい笑顔を浮かべているにも拘わらず、背中が何故かゾクゾクするのだ。言い知れぬ異様な空気を彼は持ち合わせている。それは彼が真っ黒な詰襟の服を着込んでいるせいではないはずだ。
「どうして? そんな事を言いたげな顔だね?」
ごくっと唾を飲み込む音が聞こえる。ルシフェルの緊張が伝わってきた。
でも、どうして緊張しているのだろう?
「でもね、それは僕のセリフだよ。君は自分が何をしたのか、幾らどうしようもない劣等生とは言っても、ちゃんと分かっているのだろ?」
ルシフェルが……何? 一体、何かとんでもない事をやらかしたとでも言うの?
沙弥はおそるおそる背後のルシフェルの顔を見た。
その顔は酷く青ざめ、可哀相なほど恐怖に怯え震えていた。