「って、窓?」
ずーん、と嫌な予感が頭に重く圧し掛かる。
ヤツは姿形こそ人間だが、その背中には決定的に違うものの存在が。
そう、一対の大きな羽だ。
「気持ちいいよ、夜の空を飛ぶのは」
にっこり微笑むと、さっそくカギを外して窓を開けるルシフェル。開かれた窓から外気が差し込んできた。夏の夜らしい蒸し暑さでじんわりと汗が浮き出た額に、外の涼しい風が当たり心地良い。
「あのね、私は飛べないんだけど」
「大丈夫、僕が抱きかかえるから」
あの白いスニーカーを履きながら、にっこりそう答える。
「はあっ!? 抱きかかえるってそんな―――」
まさか、初めからそのつもりだったの?
ルシフェルの思わぬ言葉に戸惑う沙弥。そして再び、険しく眉をひそめる。
もし、体重が重い、などど言われたらかなりヘコむだろうし、何より、何故こいつと密着して空中散歩しなければならないのだろうか? そもそも、もしも落ちてしまったら無事で済むはずもない。空を飛ぶなんて行為は、羽のない自分にとっては危険な行為に他ならない。
「大丈夫だってば。ほら、行こうよ」
そう言ってルシフェルは沙弥の手を取り、強引に窓の傍まで引っ張る。思わず抵抗するが、ルシフェルの力は自分よりも遥かに強く、まるで抵抗にならない。男と女でこれほど腕力に差があるのか、とがっくりする。
「ちょ、ちょっと! 離してよ!」
「まあ、いいからいいから」
ルシフェルは背後に回り、そのまま無理やり沙弥を後ろから抱きかかえる。すると、地についていた沙弥の足が僅かに浮き上がった。ルシフェルに持ち上げられたのである。こうして誰かに抱きかかえられるのは子供の時以来だ。
まったく、こいつのどこにこんな力があるのだろうか。こんな、なよなよっちい腕をしてるクセに。
沙弥を抱きかかえたまま、ルシフェルは窓枠に足をかける。
「よっと―――あうっ!?」
が、ゴン、という音と共にルシフェルは窓枠から下がった。頭をぶつけたらしい。
「いたたた……あ、ハハハ……」
ばつの悪そうな笑い。
「じゃ、改めて」
ルシフェルはもう一度、窓枠に足をかけた。今度は頭をぶつけないように背を丸めている。
「待ってってば! まさか、ホントに行く気!?」
「そうだけど?」
信じられない、と言った風な表情の沙弥。しかしルシフェルは構わずもう一度体を沈めると、窓枠を強く蹴って中空へ飛び出した。
がくん、と一瞬、エレベーターが降り始める時に似た感覚が駆け抜ける。が、すぐにそれは今まで味わった事のない異様な浮遊感に変わった。それは丁度、何かにぶら下がっている時の不安定なそれに似ている。
「んじゃ、行くよー」
あくまで能天気な口調のルシフェル。バッサバッサと背中の羽を羽ばたかせると、斜め上に向かって体が上昇を始める。ある程度の高度を得た所で、飛行はゆっくりと前方に向かい始めた。
「こら! 離してって言ってるでしょ!」
「いいの? 落ちたら痛いと思うけど」
眼下を見下ろすと、月明かりに照らされた自分の家があんなに遠くに小さく見える。
「……卑怯よ。ちょっとした監禁じゃない」
「そんなつもりはないんだけどなあ……。僕はただ、いつも一人で飛んでるから寂しいなあって思ってただけだから……」
急に口調がしょんぼりする。
またこれだ。こう出られると、自分の中のお人好しがうるさくなるのだ。
「……もう、分かったから。とにかく、絶対に離さないでね。私はあんたと違って飛べないんだから」
「分かってるよ。それに、あんた、じゃなくてルシフェルって呼んで欲しいなあ」
暗かった口調が、もういつもの能天気口調に戻っている。さっきまでのあれは、やはり演技ではないのか、と疑問に思ってくる。けど、たとえそうと分かっていても、自分のお人好しを説得するのは無理なのだが。
「あ! 思い出した! あんた昨日、どさくさに紛れて私の胸、触ったでしょう!!」
「だって、沙弥があれこれ考えてるんだもの。反転させるには、沙弥が思考を一つに統一してなきゃ出来ないんだよ?」
「だからって普通、触る!?」
「右なら良かった?」
「同じよ!」
「じゃあ、おしり」
「くどい! とにかく、次やったらどうなっても知らないからね!」
ルシフェルに抱きかかえられたまま、沙弥の異様な空中散歩は続いた。
眼下に広がる町の景色は、普通の町と変わりなかった。表の世界で自分の町をこのように高い所から見下ろした事はないが、町全体の大体の地形は分かるから、それと照らし合わせてみて遜色がない。
家の中は表と裏であんなに違っていたのに、外はどこもおかしい所はなかった。いや、表よりもやや静か過ぎるか。だが、自分の常識の範疇に収まるぐらいであるのは確かだ。
「ねえ、なかなか綺麗でしょ?」
「まあね」
真後ろから聞こえてくるルシフェルの声。初めは息が当たったりして嫌だったが、しばらくするとそれも慣れてくる。
「沙弥の世界でもこんな感じ?」
「さあ、私は空を飛んだ事はないから―――あ、そういえば」
「何?」
「あんたの喋り方って、ちょっとおかしくない?」
「そう? 別に変じゃないと思うけど。沙弥の世界でもこんな感じじゃないの?」
「そう、それ! 思ったんだけどさ、守り神ならともかく、どうしてただの住人のはずのアンタが、表の世界の事を知ってる訳? 他の人は、私を見ても表の世界の住人だなんて思わなかったわよ?」
「あ、そういう意味か……」
沙弥の言う通り、これまでのルシフェルの話し方はまるで表の世界の事を知っているかのような口振りだった。
これまで自分は、この世界に表と裏がある事自体知らなかった。それは私だけでなく、裏の住人でもあるあの妙な生き物達にとっても同じ事だ。表と裏を知っているのは、その両方を統括する守り神だけ。にも拘わらず、ただの住人であるはずのルシフェルの口から“表の世界”という単語が出てくる事は、本来ならば有り得ない事なのだ。
「どういう事なの? 説明してよ」
「うん……。ちょっと話が大きくなるけど、いい?」
「なんとか付いてく」
ルシフェルの言葉が、ややためらいがちに聞こえたのは自分の気のせいだろうか? とにかく、なんだか例の能天気口調ではなくなっているのは確かだ。
「あのね、広い意味での『世界』には、ここみたいな世界が沢山あるんだ。もちろん、どの世界にも表と裏とがあって、沙弥はその中の一つの世界の表の住人、僕は裏の住人なんだ。分かる?」
そう言われ、頭の中に太陽系の惑星の列がふと浮かんだ。宇宙をその『世界』とすると、自分達の住む世界はその惑星に当たるのだろうか? そんなとこだろう。
「まあ、なんとか」
「でも、一つだけ表と裏のない世界があるんだ。僕は元々は、そこの住人だったんだ」
「天使の国なの?」
「そんなトコかな。でも、多分、沙弥が思ってるようないい所じゃないよ」
ルシフェルの姿から言った、直感的だが安易なセリフ。だが、あながち見当外れでもないようだ。
「どんな所?」
自分のイメージだと、花畑があって気候は年中暖かく果物が豊富、と。やや仏教の天国に似たものだ。
「住み心地はいいかも知れない。物は何でもあるから。だけど、社会のあらゆる仕組みが全て合理的にシステム化されてるんだ。上の人が管理しやすいように。人もとにかく物の豊かさを求めるから心は冷め切ってるし」
自分達の世界にも似てる。沙弥はふとそう思った。
「学校では、僕は酷い落ちこぼれだった。全然勉強しなかった訳じゃない。自分なりに一生懸命やってたつもりだった。けど僕は生まれつき上がり性で、テストになるとどうしても上がってしまうんだ。だから成績は、いつも一番下。そのせいでみんなからはよく虐められた。それで学校に行くのがすごく嫌だった」
「じゃあ、家に閉じこもってた?」
「実は僕、両親の顔も知らないんだ。生まれてすぐに捨てられたそうだから。それで僕はそういう孤児を保護するための施設で育ったんだ。そこにはいわゆる代親に当たる人がいるけど、やっぱりその人達はお金のための仕事としてやっている訳だから、本当の意味での親とは程遠い。体調でも崩さない限り、僕は学校に行かなければならない。施設ではそう決まっているから。どんなに嫌でも、動ける内は行かなきゃならない。無理やりにでも。僕にとって安らげる空間なんて、あの世界にはどこにもなかった」
ルシフェルの意外な生い立ちを聞かされ、思わず息を飲む沙弥。
あのいつも陽気な姿からは想像もつかないほど悲惨な過去。そんな思いをしながらも、どうしてこんなに明るく振舞えるのだろうか?
「その世界に住んでたんだよね? それじゃあ、どうやってこの世界に来たの?」
「学校を卒業すれば、普通はどこかの世界の管理者として置かれるんだ。世界の管理者、国の管理者、町の管理者、そんな風にね。でも、僕は落ちこぼれだったから、卒業の前に退学になったんだ。退学になった僕の居場所はあの世界にはない。だから一番下の管理者の下に僕は飛ばされたんだ。そう、沙弥の住んでる家にね」
「それもやっぱり、そういうシステムになってるから?」
「うん。そういう事だね」
かけてやるべき言葉が見つからなかった。それでも何か言おうと、慎重に言葉を選んでは文を作る。けど、すぐにそれをかき消す。よけいに傷つけてしまいそうな気がして。
「っと、ごめんね。変な事を話して」
「え? あ、いや、ううん、いいよ」
「でも、こんな事を誰かに話したの、初めてだ。なんか気持ちが楽になったよ」
後ろにいたので見えなかったが、ルシフェルが微笑んだような気がした。
本当は何か言葉をかけてやるべきだと思う。同情というものは人によっては極端に嫌がられる独善的な自己満足だけど、それでも沙弥はルシフェルに同情してやりたかった。そうする事で、辛い事を一人で背負い込まないでいてくれるような気がするからだ。
「あ! そろそろ戻ろうか。少しだけって約束だったもんね」
「いいわ、急がなくても。もう少しぐらいならいいから」
「ホントに?」
「どうせ帰っても、寝られそうにないから」
その言葉は嘘ではなかった。だけど、ただその事実に便乗し、せめてもう少しの間だけルシフェルが寂しい思いをしないように一緒に居てやりたいと思ったのが一番の要因に違いない。
それが自分のお人好しの部分によるものなのか、今はもうよく分からなくなっていた。