眠りとは不思議なものだ。たとえ目覚めた時に夢の記憶がなかったとしても、眠りがもたらしてくれた心地良かったという感覚はしっかりと残っている。それは、眠りという存在が確かにあったという証拠だ。
夢がなくとも、眠った感覚は体と意識の片隅に残る。今、沙弥は、ほんの少しだけ覚醒している意識の部分で心地良さを感じながら、しばしの休息を取っていた。慣れないアルコールの勢いに任せての眠りだったが、そこに行き着くまでの時間は普段と変わらず、睡眠もいつも通りである。
スー、フー、スー、フー
安らかな寝息が聞こえる。
ん? 何かおかしい。
スー、フー、スー、フー
この息のリズム、自分とは違う。それに、音は横の方から聞こえてくる。
一体なんだろう。しかし、思考の大部分が休息している今、それを考えるためのメモリ領域はごくごく僅か。おかしい、おかしい、とは思いつつも、思考がそれについていかない。
!?
と、僅かな領域がようやく答えを弾き出した。途端に全身に厳重警戒警報が発令される。すぐさま眠っていた意識は全て瞬時に叩き起こされ、筋肉が対処のために緊張する。
がばっ、と布団を跳ね除けながら弾けるように起き上がる。
「……スー、スー」
まず初めに目に飛び込んできたのは、柔らかな光を放つ大きな羽だった。
そして、その羽の持ち主である少年の姿。
「……ルシフェル?」
そこに居たのは、紛れもなくあのルシフェルだった。
背中に羽があるためか、仰向けでは寝られないらしく横を向いて眠っている。先ほどまで沙弥が眠っていた方を向いて。
な、なんでコイツが私の横で眠ってるの!?
直後、声にならない叫びを上げる。辛うじて、取り乱すギリギリの所で理性がふんばってくれた。なんとか深呼吸をして気持ちを落ち着け、思考を冷静に動かし始める。
何故、コイツがここにいるのだろう? もしかして、また私はあのふざけた世界に来てしまったのだろうか?
ぐるっと部屋を見回す。
『最近調子はどうだい?』
『なんか節々が痛んできちゃてさ。ここを出る日もそう遠くないかもな』
『ああ、嫌になっちゃうなあ。毎日毎日、少しずつ身長が縮んでくんだもん』
『最近は働き詰で疲れたよ。いい加減、休みを取らせてくれないかなあ』
聞き慣れぬ、男とも女ともつかぬささやき声。そして、あの異形。
沙弥は視線をそらした。直視する勇気が湧いてこない。それに、万が一目でも合ってしまったら、どうしたらいいのかわからない。
これは一体、どういう事だろう? 私はあの時、元の世界に帰してもらったのではなかったのだろうか?
けど、こればかりは幾ら考えても答えが見つかるはずがない。それに、答えを見つけるにはもっと手っ取り早い方法があるではないか。
沙弥はおもむろに手を伸ばし、眠っているルシフェルの頬を掴んでぎゅーっと引っ張った。
「!? いたたたたたたた!」
お? 意外と伸びる。
するとルシフェルは、切羽詰った様子で慌てながら飛び起きた。何が起きたのかは分からないが、取り敢えず痛みに驚いたようだ。
ルシフェルが目を覚ましたのを確認すると、ぱちん、と沙弥は頬を解放してやった。
「おはよう」
「おはよう……って、あれ!? 沙弥!?」
沙弥に気づくなり、ルシフェルは途端に目を輝かせた。
「沙弥!? じゃないわよ。なんでこんな所にいるのよ、私」
対照的に、ブスッとした表情を突きつける沙弥。その不機嫌さが一目で分かる沙弥の様子に、ルシフェルはさすがに少したじろいだ。
「あれ? うーん、えーっと……何だろう?」
はて、と首を傾げるルシフェル。その様子に沙弥はますます苛立ちが募り、思わずルシフェルの襟に手が伸びた。
「何だろう、じゃないわよ! ええっ!? あんた寝ぼけてんじゃないの!?」
「うーん、そうかもしれない」
力の限りガクガクと揺さぶってくる沙弥に、ルシフェルは極めてマイペースな様子でへらへらと答えた。寝ぼけていて頭がちゃんと動いていないせいかまったく動じていない。
「ええい、早くしないとぶつよ!?」
「え? ああ、うん。それは嫌」
「じゃあ、話すのね!?」
「うん、分かった」
今ひとつ噛みあわない会話。だが、それでもルシフェルは沙弥のおかげかようやく本格的に意識が覚醒してきたらしく、なんとかこの状況を掴みきれてきたような表情を浮かべた。だが、依然として沙弥の表情はぶすっとしたままだ。
「それで、どういう訳? どうして私がまたここに来てるのよ。昨日、ちゃんと帰してくれたはずだったんじゃないの?」
「一応、帰したつもりなんだけど……」
「つもり!? 現にまたここに戻ってきてるでしょうがっ。ったく、どうしてこんな―――あ! そういえばアンタ、昨日私の胸を触ったでしょう! ぶちのめす」
殺気を込めた目つきでこぶしを握り締める沙弥。途端にルシフェルの顔がサッと色を失った。頭はちゃんと覚醒しているため、このぐらいの状況判断はできるのだ。
「ちょ、ちょっと待ってよ! とにかく、順を追って説明するから」
「説明? どうしてこうなったのか、分かるっての?」
「うん。だから、取り敢えず今は落ち着いて……」
仕方ない。ならば話を落ち着いてゆっくり聞こうではないか。沙弥は握り締めたこぶしを解き、表情はぶすっとしてはいたが、露骨に殺気立つのはやめる。
「あのさ、前に僕が、沙弥は反転しやすい体質なのかも、って言ったよね?」
「昨日の事でしょ? 憶えてるわ」
「だから今回も、多分そのせいだと思う。反転ってのは、一生に一度あるかないかぐらいの確率で起きる事なんだ。でも、たとえ反転してしまっても、すぐにその家々の守り神が元の世界に帰してしまうから、本人は変わった夢を見た程度にしか思わない。沙弥がまたここに来てしまったのは偶然なんだよ。それだけ反転しやすい体質だって事」
「ちょっと待って。だったら、どうして今頃になって急に立て続けに二回もしてしまう訳? 変じゃない。生まれつきそうなら、もっと前にだって反転する可能性もあるんだから」
「本当に前もなかったって言い切れる? 単に夢だった、と解釈しているだけかも知れないよ? 特に子供の頃の記憶なんか、起きてる時のだって曖昧でしょ? ましてや夢の記憶なんて、残ってる方が奇跡に近くない?」
「まあ、そう言われてみればそうね……」
「それに、二回も続けて反転した人って珍しいんだよ? そう思えば結構ラッキーって思わない?」
「思わない」
きっぱりと即答する。不幸、なら分かるが、どうしてこんな目に遭う事が幸運と呼べるのだろう? 99%安全というテーマパークの乗り物で事故に遭ったような気分だ。
「そう。分かったから、早いとこ帰して。こんな世界、さっさと抜け出したいわ」
「ええーっ。もう帰るの?」
露骨に不満げに口を尖らせるルシフェル。あまり歳相応の動作とは呼べない。
「何それ? どういう意味よ」
「だって、せっかく来たんだもの。少し遊んでいこうよ」
「あのねえ、私はそういう気分じゃないの。他のヤツと遊べばいいでしょうが」
「だってさ、僕、友達なんかいないから……」
急に落ち込み始めるルシフェル。泣き出しそう、とまではいかないものの、妙に罪悪感を感じさせる悲しげな表情をしている。
うっ……。私の苦手なパターンだ。
その時沙弥は、むくむくと自分の中の生来のお人好しの部分が鎌首をもたげるのを感じていた。それを理性が必死で説得する。だがお人好しの決意は固く、理性の説得に応じるどころか一歩たりとも退く様子はない。
まいったなあ……。明日はテストなのに。
とは思いつつも、今日は予定通りの勉強をし終えたし、テストも得意分野ばかりだ、と勝手に思考の一部が打算し始める。どうやらお人好しの管理下に置かれてしまったらしい。
「ここに来る前だって、友達なんか一人もいなかったし、だから友達の作り方も知らないから……」
グスグス、とは言ってなかったが、沙弥には今にもそうなるのではないかと不安で仕方なかった。このぐらいの年齢の男は人前ではまず涙を見せたりはしないものだが、このルシフェルだけはどうもそれを簡単にやってしまいそうな雰囲気で気が気ではないのである。
ねえ、まさか本当に言う気なの?
最後までお人好しの管理下に置かれなかった部分が、頭に浮かんだその言葉に対して異議を投げかける。だが、その言葉に対する反論よりも先に、口の方が遂に耐え切れず、これまで我慢していたその言葉を放ってしまった。
「……しょうがないわね。少しだけよ、少し」
ああ、言ってしまった。
心の中で誰かがそう溜息をついた。
だって仕方ないじゃない。コイツしか私を元の世界に帰せないんだから。
「え!? ホントに!?」
途端に表情をキラキラと輝かせ、嬉しそうに今の言葉の反復を乞う。
「そうよ。だけど、ホントに少しだからね」
「うん! わーい、やった!」
嬉しそうに小躍りを始めるルシフェル。
まったく、イイ歳してそんなにガキみたいに喜ぶか? コイツ、肉体年齢はともかくとして精神年齢は絶対に幼いな。
まるで子犬のようなはしゃぎぶりを見せるルシフェルに、沙弥は大きく溜息を漏らした。
「じゃ、早く行こう!」
「は? もしかして外に行くの?」
「うん。景色がとっても綺麗だよ」
「そう……」
もう好きにしてくれ、となげやりに沙弥は立ち上がり、部屋のドアへと向かった。
と、すると、
「あ、沙弥。そっちじゃないよ」
ルシフェルがそう言って沙弥を呼び止めた。
「そっちじゃないって、外に行くんでしょ? だったら下に下りて靴を履かないと」
とは言っても、この世界では下はどうなっているのか知れたものではないが。
「こっから行こうよ。その方が早いし、面白いよ」
「面白い?」
訝しげに眉をひそめる沙弥。
そんな沙弥にルシフェルは、指で一点を指し示した。
その先には、昨日ルシフェルが部屋に入って来る時に使った窓の姿があった。