戻る

 

 

 この家で一番偉い人って、女の人だったんだ。少し意外。

 そう思った沙弥の頭に、あの母の恐ろしい姿が浮かぶ。

 まあ、でもウチは母親が一切の決定権を一人で握ってるからなあ……。

『ルシフェルか。お前の連れなそうじゃが』

「はい。ほら、沙弥。挨拶」

 急にそう言われ、頭の中が真っ白になる。

「あ、えっと、その、沙弥です。よろしく……」

「(お願いします)」

「……お願いします」

 そんな沙弥の様子に、守り神はきゅっと結んだ口元を僅かに綻ばせた。

『そう固くならずともよい。楽にしたもれ』

「は、はあ……」

 未だに緊張が解けず、返事が曖昧になってしまう。

『ところでルシフェル。用件とは何ぞえ?』

「あ、はい」

 ルシフェルと守り神が話を始めた。その機に、沙弥はあまり露骨にならぬよう、今まで神々しい雰囲気が強過ぎてまともに見られなかった守り神の姿を観察する。

 歳は二十代の半ば頃だろうか。けれども見た目より中身の方はずっと老熟している雰囲気が漂う。真っ黒で長い髪は日本髪とも違う形に結われ、後ろ髪はずっと後ろの方まで長く伸びている。肌の色はまるで日本人形のように透けるような白さだ。しかし唇はまったく対照的な強い赤。口紅を引いているのだろう。そして、長く形の整った綺麗なまつげが上まぶたの下から伸びている。だが、まぶたは会話をしている今でも終始閉じたままだ。もしかすると目が悪いのだろうか?

『沙弥』

「はっ、はい」

 唐突に自分の名を呼ばれ、上ずった声で返事をする沙弥。答えた後で、みっともない声を出してしまった、と恥ずかしさが湧き出でてくる。

『なるほど。確かに表の住人のようじゃ。相違はないかえ?』

「はい。どうやらそのような感じみたいで……」

 こちらの世界にはまともなヤツはいないものだと思っていたが、守り神だけは外見も神経もまともなようだ。ただ、ちょっと言葉使いの節々に違和感を感じるのは否めないが。

「あの、それで、守り神様が何とかしていただけるとお聞きしたのですが」

『うむ。確かにそれは妾の管轄じゃが、いかんせん、妾自身には無理じゃ。表の世界の住人であるお主に妾がどう見えるのかは分からぬが、妾は既に200年の時を生きておる。本来、こちらの世界に迷い込んでしまった者は、妾がその者をもう一度反転させ元の世界に帰すのじゃが、今では体もすっかり老い衰え、反転の力は使えんのじゃ』

 その言葉に、再び沙弥の頭が真っ白になる。今度は動揺ではない。放心だ。

 が、どうにか茫然とする頭を叩き起こし、

「って言う事は、私は元の世界には帰れないって事ですか!?」

「いーんじゃない? 別に。こっちも楽しいよー。僕が色々と案内してあげるよ」

「黙れ、このボケ! それで、どうなんですか!? 私は一生ここに居なくてはならないのですか?」

『心配しなくとも良い。この家には妾以外にも反転の力を使える者がおる』

「えっ!? どこにですか!?」

『そなたのすぐ隣じゃ』

 ぎいぃっと隣を向く。そこには、まるで幼児のような屈託のない笑顔を浮かべたルシフェル。

「これ、ですか……?」

「これじゃないよ、ルシフェルだよ」

『心配するでない。ルシフェルの力は妾が保証する』

「は、はあ、そうですか……」

 なんだか、とんでもない事になってきた。反転はとても微妙な作業とからしいのに、幾ら守り神様が保証するとはいえ、本当にこんなお茶らけたヤツに出来るのだろうか? 失敗して、二度と戻れない所に行ってしまわないだろうか? とても不安だ……。

「それじゃあ、始めるよ? 手を僕の方に出して、雑念を払って」

「う、うん……」

 あまり気乗りはしなかったが、守り神は老体でこの力を使えない以上、ルシフェルに頼る他ない。いちかばちかの危ない橋だが、渡らなくてはこのふざけた世界に永住する事になってしまう。はっきり言って、それだけはごめんだ。

「じゃあ、よろしく」

 沙弥はそっと目をつぶり、ルシフェルの方へ手を伸ばす。その手をルシフェルの温かい手がしっかりと握り締めた。

 本当に大丈夫なのだろうか? こんなヤツに任せてしまって……。

「沙弥、何も考えないで」

「あ、うん」

 もし失敗してしまったら、私はどうなってしまうのだろうか? やっぱり消滅とか、そんな恐ろしい事になってしまうのだろうか? だったら、やはりこんなふざけたヤツに任せるのはかなり危険な事では……。

「もう。何も考えないでって言ってるのに。じゃあ、えい」

 ルシフェルは沙弥の左手を離した。

 あれっ? と思った次の瞬間、

 むにゅ

 と、左胸に違和感。

 触られた!

 そう頭の中に警報が鳴り響く。すぐに防衛システムが動作し、沙弥の自由になっている方の手が迎撃体勢に入る。だがそれと同時に、警報が鳴り響いているにも拘わらず、意識がまるで眠りにつくかのように遠のいていった。

 あんにゃろう、ぶっ殺す!

 最後に浮かんだのは、そんな言葉だった。