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『御前様、これでよろしいですか?』

『うむ、御苦労』

『……こんな事をして、上から何と言われるか』

『妾は、単に自分の管轄下に置かれた者を保護したに過ぎぬ。法に問われるいわれはない』

『物は言い様ですね』

『御主ならば見捨てるというのかえ?』

『まさか。私とて同じです。命の問題とは法律以前の問題ですよ。御前様もそうお考えになられているから、二人とも助けるように御命令なさったのでしょう?』

『多少の細工は施させてもらったがな』

『記憶の書き換えですね』

『これでルシフェルは死んだ事になる』

『やはりルシフェルが可愛いからですか? そこまでなさるのは』

『言葉が過ぎるぞ』

『失礼』

 

 沙弥は夢の中で泣いていた。

 ただひたすら、さめざめと。

 何故自分が泣いているのか、よく分からなかった。

 悲しいのか、それとも悔しいのか。とにかくそんな感情が胸に渦巻いている。

 とめどなく溢れ出る涙を、自分でも止める事が出来なかった。

 まるで涙腺が壊れてしまったかのようだ。

 どうして私は泣いているんだろう?

 そんな疑問を抱きつつも、涙はとどまる事を知らない。

 ふと、肌寒さが体を襲う。反射的に体がぶるっと震えた。その拍子に、現実世界の自分の体が床と擦れ合う感触が伝わってきた。

 それをきっかけに、夢の中特有のおぼろげな感覚が急にリアルなものになってきた。

小さくなっていく夢の世界。それに反比例し、大きくなっていく暗闇。だがこの暗闇は、目を閉じているための暗闇だ。目を開ければすぐに消えてしまう、本当に僅かな暗闇だ。

体の感覚が現実のものに戻る。朝の涼しさや床の固い感触が全身に伝わってくる。その感覚に刺激され、夢の世界に片腕だけでぶら下がっていた意識が完全に現実の世界に引き戻された。

 と、ハッと弾けるように飛び起きた。普段のベッドの感触ではない事に驚いたのである。

 目覚めると、見慣れぬ光景。自分がいつも朝起きた時に見る光景ではない。

 いや、冷静によく見ると、ここは紛れもない自分の部屋だ。だが、今自分が寝ていたのはベッドの上ではなく、冷たい床の上だ。

「どうしてこんな所で―――ハッ!?」

 疑問の答えを探すより早く、昨夜の記憶が次々と雪崩れ込むようにフラッシュバックする。その断片が、あっという間に全ての疑問を埋め込んでしまった。

 ルシフェル……。

 その名が、やけに物寂しく心の中に響いた。

考えてみれば、最後まで名前で呼んでやらなかったっけ。そうやって自分は、最後まで一線を引き続けてきたのだ。住む所が違うのだから、と。だけど、そんな事はどうでもいい事なのだ。住む所の違いなんて、単なる距離の問題でしかないのだから。

たとえ自分にとっては納得のいかない形だったとしても、あんなに誠意を尽くしてくれた人に対して一線を引き続けた自分が冷たい人間に思えてしまう。今更、遅過ぎる後悔が頭に圧し掛かる。たったそれだけの事を拒んだ自分に。

「そうだ!」

突然、沙弥は立ち上がって窓辺に向かった。

そう、あの天使の置物! あれを貰ったその日に、私はルシフェルと逢ったんだ。全てのものに表と裏の姿があるのなら、もしかして、いや、絶対にあれがこちらの世界でのルシフェルだ! ルシフェルが無事かどうかは、あれを見ればすぐに分かる!

が、

「え―――?」

 窓辺で沙弥が見たもの。それは、窓辺から床に落ちた天使の像だった。

「そんな……」

 床に落ちた天使の像は砕け散って散乱していた。

 いや、よく見ると、砕けているのは羽の部分だけだ。

 破片の中から体の部分だけを拾い上げ、まじまじと見つめる。

 大丈夫、頭も手も足も、羽以外のどこにも傷はついていない。と、いう事は、

「生きてる事は、生きてるんだ……」

 良かった……。

沙弥は思わずその像を、いや、ルシフェルを抱きしめた。

 ハンカチ、返し忘れちゃったな……。

 ふと、胸のポケットの中に突っ込んでおいたハンカチの事を思い出す。

 いいや、別に。次に会った時にでも返せばいい。

 自分は反転しやすい体質なのだから。

 いつか、逢える事だってあるはずだ。

 絶対に。

 

 

『よお、ルー公。毎晩毎晩、窓から外の景色ばっかり見て楽しいか?』

「だって、羽がなくなっちゃったんだもの。だから、一番いい景色がここなんだ」

『へえ。飛べない俺には分からんなあ』

「一度飛んでみれば分かるよ。高い所から外の景色を見るとすごく気分がいいんだ」

『そんなもんかねえ。ところで、お前が連れてたあれはどうした? 最近見なくなったが』

「ちょっとね。しばらく逢えないんだ」

『逃げられたのか』

「違うよ。人聞きが悪いなあ」

 

 

「やばい、遅刻する!」

 ばたばたとカバンを引っ掴み、鏡の前で顔と髪型をチェックする。

「テストで遅刻なんてしたらシャレにならないじゃない!」

 苛立ちと半泣きが入り混じった声で嘆く沙弥。

「よし、早く行かなきゃ!」

 ドアの方へ飛び出す。

 が、ふと立ち止まり、窓際の方へ。

 そこには、羽のなくなった天使の置物と、ガラスの瓶が一つ。ガラスの中には砕けてしまった羽の破片が収まっている。

「じゃ、行って来るね」

 そう言って、慌しく沙弥は部屋を飛び出し、階段を何段か抜かしながら下りていった。

「沙弥! 階段は静かに下りなさい!」

「は、はい!」

 

END