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 家に着く頃は、全身が汗だくになっていた。夏の日差しが照りつける中をむきになって走れば当然である。

 沙弥は真っ直ぐに風呂場に向かい、冷たいシャワーを浴びた。この暑い中を走ってきたのだから、頭から冷たい水を被るのは気持ちいいものと思っていたのだが、ほてった体が引き締まる事は引き締まるが、同時に急激な温度の変化に体が驚き、心臓が嫌な高鳴りをして気持ち悪くなった。

「あら、お姉様ですか?」

 と、その時、脱衣所から声がした。

 妹の世羅である。母曰く、自分の最高傑作だそうだ。世羅は幼い頃から徹底的に躾られた結果、母が理想としている姿に成長してしまった。本当は自分の事もあのようにしたかったそうだが、途中で失敗したらしい。失礼な話である。

 早い話、母が自分のエゴを押し付けて歪んだ成長を遂げてしまっただけである。そのせいか、あまりに年齢に似つかわしくない立ち居振舞い方や言葉使いをする。とは言っても、普通に育てられなくて可哀相とは思いつつ、目上の者の言う事は素直に聞き、細かい所にもよく気がつき、いつも笑顔で人当たりのいい世羅は、不本意だが、可愛いと思ってしまう。

「お帰りになられていたのですか。気がつきませんでしたわ。お着替えの方をご用意いたしますか?」

「あ、忘れてた。うん、お願い」

服を着替えた後、沙弥はカバンを引っ掴んで早速自室に向かった。

冷水のおかげですっかり頭は冷えた。予定よりも開始時刻は遅れてしまったが、まあ何とか取り戻せる範囲だ。

カバンの中からテキストとノートを取り出す。そして机の横のコルクボードに画鋲で止めてあるテスト範囲のメモと照らし合わせながら、最後の悪足掻きの範囲を別なメモ用紙にピックアップする。

「こんなとこかな」

 一通り範囲はチェックし終わった。だが、改めてその範囲を見直すと、名を連ねたその面々に一層嫌気が差してきた。

「……休憩するか」

 沙弥は部屋を出て下に下りていった。

 キッチンに入ると、そこでは世羅が夕飯の仕度をしていた。母はパートに出ていて、代わりに世羅がしているのである。料理の方も母に仕込まれた訳だが、これは単に自分の家事の負担を減らすためだと思っている。こんな事、口が裂けても本人の目の前では言えないが。

「あら? お勉強なさっていたのでは?」

「ちょっと休憩」

「随分お早い休憩ですね」

 ニコッと微笑む世羅。

 嫌味に聞こえる発言ではあるが、本人には悪気はまったくない。単に感じたままの事を言っているだけである。しかし、かえって悪気がない方が言われた方は辛いのだが……。

「お茶でも淹れましょうか?」

「自分でやるからいいわ」

 わざわざ世羅の手を煩わすほどの事でもない。沙弥は自分でコーヒーを淹れる事にした。

 が、インスタントコーヒーがどこにあるのか分からない。それだけでなく、砂糖もミルクもどこにあるのか分からない。ここかと思って開けて見た引出しの中には各種のスプーンの束、その隣にはバランやら輪ゴムの箱が入っていた。

「どうなさいました?」

 うろうろとあちらこちらを開けては閉め、開けては閉めを繰り返す沙弥に向かって、世羅が不思議そうにそう訊ねる。

「……ごめん、やっぱ頼むわ」

 ばつの悪そうな表情で振り向く沙弥。しかし、決してどこにあるのか分からない、とは口に出さない。

 分かりました、と答えると世羅は驚くほど手際よくコーヒーを淹れてしまった。しばらく世羅に任せっきりしていた内に、キッチンの事が分からなくなってしまっていた自分に気づく。もしかすると、我が家で一番偉大なのは世羅なのかもしれない。世羅のおかげで生活がスムーズに出来ているのだろうかも。

「ところで、お姉様。何かお忘れになりませんでした? 白い箱。リビングのテーブルに置いておきましたが」

 あ、そういえば、骨董屋のおじいさんに貰ったんだったっけ。すっかり忘れてた。

 カップを手にしたままリビングに入る。すると世羅の言った通り、テーブルの上にはあの白い箱の姿があった。

「つい貰っちゃったけどねえ……」

 ソファーに座り、カップに口をつけながら反対の手で箱を近くに引き寄せる。箱を開け、緩衝材の中から置物を取り出しテーブルの上に置く。

「なんかこういうの、私の趣味じゃないわ」

 断るのも申し訳ないと思って貰ってしまった訳だが、あまり自分の趣味に則したものではない。

 中世の雰囲気を漂わす作りの天使の置物。長い金髪、白い服、そして背中には二枚の大きな羽。確かに作りを見たら凄いものかもしれないが、自分の部屋に置くにしては少々気乗りするものでもない。かと言って、自分がいらないものを世羅に押し付ける訳にもいかない。捨てるのも何だから、適当にリビングにでも置いておこう。

「あら、それ、どうなさったのですか?」

 と、不意に背後から世羅の声。振り返ると世羅が、どうぞ、とお菓子を並べた皿をテーブルに置いた。

「ほら、そこの骨董屋のおじいさんから貰ったの。あの店、もうやめるんだって」

「それは寂しいですね。では、大切にしなくてはいけませんね」

 そう言って、ニッコリ微笑む。

 そんな事を言われたら、リビングに放置できなくなるじゃない……。

 世羅の毒のない表情に、ひきつった笑顔を浮かべた。