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「あ、あなた誰?!」

 どうにか喉から搾り出せたのは、そんな当たり前の問いだった。だが、とにかく今はそれだけが知りたい。背中に羽をはやし空を舞うこの人物が、一体どこの誰で何者なのかを。

『あれ、まだ僕の事を知らなかったっけ? とにかく説明するから、カギを開けてよ』

 しかし、この緊張感のない口調に締まりのない表情。どう贔屓目に見ても、危険人物には見えない。まあ、部屋に入れる分には害はないはず。いざとなったら大声を出して、忍辺りに追い出して貰えばいい。

 自分でも無警戒な事をやっているとは思ったが、あんまり必死な表情をするのだから。

本当に開けてもいいのだろうか? この人物がまだ何者かも知らないのに。

 そんな疑問を数え上げていったらキリがないが、沙弥は気持ちはすっきりしてはいなかったが、窓のカギを開け、彼を中に入れてやった。

「ありがとう。ホント、助かった」

 彼は空中で飛んだまま足を折り曲げ、履いていた真っ白なスニーカーを脱ぐ。それを窓辺リに靴底を上に向かせて置く。それから彼は体と羽を小さく折り畳むようにして中に入ってきた。そして自分で窓を閉めてカギをかける。

 意外と礼儀正しい。ふと沙弥はそんな事を思った。

「初めまして。僕はルシフェルといいます。ヨロシク」

 彼は見た目の歳にそぐわぬ愛嬌のある笑顔を浮かべ、握手を求め手を差し出してきた。

「わ、私は沙弥。よろしく……」

 取り敢えず、こちらも名乗って差し出された手に応える。

 ルシフェルと名乗った彼の手は、驚くほど柔らかく滑らかだった。女性である自分よりもだ。何となく、敗北感。

「あの、ところで、あんたさあ……」

「ルシフェルでいいよ、沙弥」

「……じゃあ、ルシフェル。あなたは一体何者? ウチに何の用なの?」

「何の用って言われても、ここは僕のウチだもの」

 ルシフェルのその言葉を咀嚼するのに時間がかかった。その間、沙弥の一切の動きが止まる。

「はあ?! あんた、何言ってるの?!」

「ルシフェルだって」

 驚く沙弥とは対照的に、ルシフェルは名前を呼ばれなかった事が不満そうに口を尖らす。

「とにかく、ウチには、おっそろしい母親とそのダンナの恐妻家、可愛い妹とロクデナシの弟がいるだけよ。あんたみたいに背中に羽のはえたヤツなんかいな―――って、ちょっと待って」

 沙弥はルシフェルの肩をぐいと掴み、強引に背中を向けさせる。するとそこには、目映いばかりに輝く、一対の羽。

「これ、本物?」

 沙弥はむんずと羽を掴み、引っ張ってみる。

「いたたたた! ちょっと、痛いってば!」

 ルシフェルの抗議を無視し、沙弥はその羽を確かめる。感触は普通の羽よりやや弾力がある程度で、極めて自然の物に近い。ただ、サイズは人間用に合わせているのか、これに近い羽を持つ動物はいなさそうだ。

 しかし驚くべき点は、羽自体が自ら輝いている事だ。どこからの光を受けて反射している訳ではない。微弱ではあるが明らかに発光している。体の一部を発光させる生き物はいるが、羽を発光させる生き物なんて聞いたことがない。

「もう! いい加減放してよ!」

 突然、羽がばたばたと羽ばたき、沙弥の手を振り解いた。

「まったく、乱暴だね」

 ルシフェルは引っ張られた方の羽を前に持ってきて、まるで毛繕いをするかのように羽を揃え始める。奇妙な光景だ。

 改めて沙弥はルシフェルを観察した。

 髪は金髪で、瞳の色も同じく金色だ。この時点で既に人間離れしている。その色素はあまりに鮮やかで、地球上の生物が持ち合わせるものではない。着ている物は、真っ白な長袖のTシャツにホワイトジーンズ。シャツはややサイズが大きめだ。そして、背中からは膝元ほどまである大きな一対の羽。

 そう、その姿はまるで―――。

「天使……」

 言っている自分が馬鹿らしかった。そんなもの、この世にいる訳がない。そもそも天使という生き物は、生物学上ありえない生き物なのだ。人間の体を浮かせるにはあれ以上に大きな羽と、それを動かすだけの強靭な筋肉が必要だ。具体的な数字に表すと、最低でも成人の20倍の胸筋は必要らしい。

「あのさ、もしかして沙弥って、こっち側の人じゃないんじゃない?」

 考えがまとまらない沙弥に向かい、羽繕いを終えたルシフェルがそう問うた。

「こっち側? あんた何言ってんの?」

「じゃあさ、これ見てよ」

 そう言ってルシフェルは部屋のドアまで行ってスイッチを押し、明かりをつけた。

 急に部屋が明るくなり、思わず沙弥は目をつぶる。目が暗闇に慣れていたせいで、照明の光が眩しくて痛い。

『おい、何すんだルシフェル!』

『眩しいだろうが! 早く消せ!』

 すると、突然部屋の中が俄かに騒がしくなった。

 思わずハッとする沙弥。それは当然だ。この部屋には自分しかいないはずなのだから。

 光に慣れない目を無理やり酷使して、部屋の中がどうなっているかを確認する。

「な……何? これ……」

 そして、絶句。

「ごめーん。すぐ消すね」

 そう言ってルシフェルは照明を消した。光に慣れかけた目が、今度は突然の暗闇に驚き目の前が真っ暗になる。

 いや、正直、目の前が真っ暗になりそうな心境だった。

 僅かの間だったが、確かに私は見た。

 私の部屋に置いてあったローテーブルと全身鏡が、まるでマンガのような手足と顔をつけ、床にあぐらをかいて座っていたのを。

 錯覚? はたまた幻覚? もしそうなら、そうであって欲しい……。

「ほら、やっぱり驚いてる。あっち側の人だ」

 勝ち誇ったかのように、嬉しそうな笑みを浮かべるルシフェル。

「な、なに? 一体どういう事なの?! ここ、私の家じゃないの?!」

「まあまあ、落ち着いて。じゃあ、何から説明しようかなあ」

 状況を現実として受け入れる事が出来ない沙弥。半ば錯乱気味で訊ねるも、ルシフェルはのん気な表情で構えている。

「いいからさっさと説明しなさいよ! ここは一体何だっていうの?!」

 沙弥はルシフェルの襟元を掴み、前後に激しく揺さぶる。とにかく何かする事で気を紛らわせ、精神の均衡を保とうとしているのだ。

「く、苦しいって。分かったってば! ちゃんと話すから!」

 何とか沙弥の手から逃れるルシフェル。ゲホゲホと何度か咳をした後、大きく深呼吸して呼吸を整える。

「何もったいぶってんのよ。早く説明しなさいよ」

「はいはい。あのね、ここは沙弥の世界から見れば、丁度裏側に当たる世界なんだ」

「裏側?!」

 世界の裏側。そう言われ、沙弥がまず思い浮かんだのはブラジルの国旗だった。