「なんかねえ……」
あの天使の置物を手にしたまま、沙弥は自室に戻ってきた。
どうもこの置物は、いまいち自分の趣味には合わない。しかし、世羅にああ言った手前、自分の部屋に置かざるを得ない。取り敢えず、その置物を窓際の所へ置いた。まあその内、ほとぼりが冷めた頃に物置にでも移そう。
「さて、頑張らないと」
気分を新たに、机の上に向かった。いよいよこれから、本格的に長い戦いが始まる。
独り言をやめ机に向かって集中すると、部屋にはノートにシャープペンシルを走らせる音と、壁にかけた時計とベッドの枕元にある目覚まし時計の針が時を刻む音しか聞こえなくなった。時折、自身が思わず漏らしてしまう苦悩の溜息もあったが。
バタン。
と、下から扉の閉まる音が聞こえた。ハッと集中が途切れ、目の前に置いてあるデジタル表示の小さな時計に目をやる。母がパートを終え、帰宅する時刻だ。今帰ってきたのはおそらく母だろう。
そこで思考を中断し、再び勉強に取り組む。
チッ、チッ、チッ、と時を刻む音。壁の時計と目覚し時計とでは、秒針が動くタイミングが微妙にずれている。正確にはチチッ、チチッ、チチッ、というタイミングだ。
普段は気にも止めない針の音。しかし、普段その小さな音を飲み込んでしまっている日常の音のない今、気づく事もなかった小さな自己主張がしっかりと伝わってくる。
そんな小さな発見(と言っても、全く知らない訳ではなかったが)を頭のほんの片隅で意識しながら、沙弥はひたすらペンを走らせ、頭の中で文章の復唱を繰り返す。
トントン。
と、部屋のドアをノックする音。
世羅だ。沙弥はそう思った。この家に住む人間で、ああいう丁寧なノックをする人間は他にはいない。
「はーい」
返事をすると、静かにドアが開けられ、世羅が、失礼します、と言いながら入ってきた。
「お姉様、御夕食の準備が整いました」
「うん。今、行くわ」
沙弥はペンを置き、スタンドの明かりを消して世羅と共に下に下りていった。
「いやー、夏はやっぱりビールに限るなあ」
「同感。だがそれは、正確に言えば発泡酒だぜ」
「なあに、大した変わらんさ」
リビングに入ると、そこには酒盛りをしている男が二人。
一人は父、もう一人は世羅の双子の兄である忍だ。
「ちょっと、お父さん」
「おお、何だ帰ってたのか。姿が見えないから、てっきりまだ帰ってきてないのかと思ったぞ」
「姉ちゃんにそんな相手がいる訳ないだろ」
「なるほど。世羅なら、まだ話は分かるがなあ」
「忍、うっさい。お父さんも、いい加減忍にお酒を付き合わせるのやめなさいよ。まだ中学生なのに」
「それは違うぞ。つき合わせたのは俺の方だ」
「なお悪いわ。まったく、この家の男はロクデナシばっかりなんだから」
やれやれ、と肩をすくめて溜息。
と、その時。ぐわしっ、と頭を後ろから掴まれる。
「で、そのロクデナシと結婚して産まれたのは誰かしら?」
言葉は穏やかなものを選んでいるが、声に凄みがきかされている。
「あ、お母さ……ま」
ぎくしゃくと答える。咄嗟に口から出たが、普段はそんな呼び方もしない。
「ほら、早くご飯を食べてしまいなさい」
素直に肯く沙弥。首が張子の牛のようにカクカクと上下する。
沙弥は、何を言ってもヘラヘラとしている父親より、この母親の方が怖かった。今はそれほどではないが、幼い頃は散々厳しく躾られたものだ。その時の記憶が母親への恐怖心として残っており、未だにろくに逆らう事も出来ず、この世で一番恐ろしい存在となっている。
そんな母だが、何故か忍にはそれほど厳しくない。と言うより、父に任せっきりなのである。つまり、忍は任せたから、沙弥と世羅の育て方には口出しするな、という事だ。
「こちらは片付けてもよろしいでしょうか?」
世羅はそんなやりとりを他所に、男共が呑み散らかした缶を片付け始めた。