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 今日のテストは、意外にも随分実力を発揮できた。だから調子に乗って少し己惚れてみる。おそらく結果は満点に近いだろう。そう言えるほど自信があるのだ。

 本日も朝から灼熱の太陽が要らぬ活気に満ちた活動を繰り広げている。テストは午前で終わるため、帰ってくる頃は丁度、太陽が真上に昇る最悪の時間帯だ。

 そんな中を、家までとぼとぼ歩くのは非常にしんどい。学校が終わるなり、沙弥は友人達と喫茶店に向かった。そこで昼食も一緒に取りながら時間を潰す。夕方に差しかかろうか、という時刻になって、ようやく帰る決心がついた。

 暑さのピーク時は過ぎたとはいえ、照りつける太陽に憎しみを抱かずにはいられない。なんだって、まるで親の仇かのように照りつけるのだろう。背中には太陽熱、足元からは太陽に熱せられたアスファルトの熱がぶわっと襲ってくる。

「ただいま……」

 ようやく家に着く頃には、口の中は乾き始めねばねばとしていた。額の汗を拭う手に、汗に濡れた眉の冷たい感触が伝わる。

「おかえりなさいませ」

 と、奥から世羅が現れ出迎えてくれる。

「あれ? 今日はなんか早くない?」

「私の学校は、今日からテスト期間ですから」

 早く帰してやるから、テスト勉強をしっかりしろ。教師達の暗黙の脅迫行為期間に世羅も突入したか。世羅は心配する必要はないが、問題なのは忍の方だ。あんな地より低い成績で、進学はおろか卒業する事が出来るのだろうか? 冗談みたいな話だが、あんまり成績が振るわないと学校側も卒業の是非を検討するそうだから。身内からそんな恥は出したくない。

「ねえ、クーラー入ってる?」

「一応入れましたが、私もつい先ほど帰ってきたばかりですから。部屋はまだそれほど涼しくなってはいません」

「じゃ、それまで扇風機でガマンする」

 沙弥は靴を脱ぎ捨て、バタバタとリビングへ。世羅は沙弥の靴を揃えてから自分もリビングに向かう。

 急いで扇風機の電源コードを差し込み、スイッチを入れる。勿論、最大風速で。

 ぐぃーん、と年季の入りかけた音を立てながらファンが凄まじい勢いで回転を始める。そこから生まれる涼しい風を直に受けるため扇風機の真正面に正座し、その風を顔面一杯に受ける。

「あ〜涼しい」

 冷たい風を受け、あっという間に顔の汗が引く。今度はやや上体をかがめ、胸元をバタバタ引っ張りながら体の方へ風を招き入れる。

「お姉様、麦茶を淹れましたよ」

「あ、飲む飲む」

 そういえば喉が渇いてたんだった。扇風機の風で大分涼まった事だし、そろそろ離れよう。

 ローテーブルの上に二人分の麦茶。水滴のついたいかにも冷たそうなコップの中には琥珀色の麦茶と氷の姿が三つ。コップの下にはきっちりコースターまで敷かれている。世羅らしい丁寧さだ。自分も、ただコップに注いで、多少こぼれてもおかまいなし、飲んだコップはそのまま流しの中へ、という自分をそろそろ考えた方がいいかもしれない。

 こくこくと飲む世羅。自分もあんな風に人前では振舞った方がいいのだろうか、と思わず考えてしまう。

 唇をつけたコップがひんやり冷たい。傾け、飲む。からん、と音を立てる中の氷。冷たい麦茶が口の中へ入ってくる。コップよりも冷たく、歯が僅かにキーンと痛む。知覚過敏とかいうヤツだ。

「今日からテスト勉強?」

 何気なく、そう訊ねる。

「いえ、正確には一週間前から少しですがやっていますの」

「そ、そう……。忍もそれぐらいやればいいんだけどね。高校、ホントにどうする気なんだろ」

「スポーツ特待生で入る、と仰ってましたわ」

「はあ? アイツ、落ちるところまで落ちるつもりかしら」

 麦茶を飲み終える頃にはすっかり部屋も涼しくなり、外の炎天下がまるで別世界のように快適になった。文明をどうこうと批判的な御託を並べる哲学者気取りの人は大勢いるが、自分だって文明の恩恵に与ってるクセに何を言ってるんだ、と思う。自分は何と言われようと、大いに文明の恩恵にどっぷり浸かる。暑い日はクーラーをガンガンかけるし、遠出する時は乗り物に乗るし、携帯で当たり前のように使う。だけど、決して文明を否定はしたりはしない。

「何かお菓子でもご用意しましょうか?」

「うん。それと、麦茶をもう一杯」

 すぐにコップを持ってキッチンに向かう世羅。

 実に甲斐甲斐しい。大人になって独り立ちしても、世羅が自分の所にいてくれたらいいなあ、と思ったりする。それならきっと、何不自由なく生活できるはずだ。

 世羅は手早く用意を整え、盆に乗せて運んできた。どうぞ、と自分の前に置かれた麦茶を少し飲み、お菓子をつまむ。

 家族とはいいものだ、とつくづく思う。これは世羅が自分の世話をよくしてくれるからだろうか? いや、そういう訳でもない。恐ろしい母だって、自分を叱るのは自分を想うための事だ。いつもヘラヘラしている父も、何にしてもいい加減な忍も、誰一人としていなくなっていい人はこの家にはいない。みんな大切な家族だ。

 あ、そうだ……。

 ふと、あいつの事を思い出す。

 昨夜、あいつは言った。『自分は両親の顔も知らない』と。

 あいつは今日も一人で空を飛び回っているのだろうか? いつも一人のあいつ。話し相手だっていない。もしかすると、初めて会話らしい会話をした相手が自分かもしれない。

 あいつは、私が普段当たり前のように感じている安らぎも、感じるどころか知りさえしないだろう。

 けど、幾らこんな事を考えても、おそらく二度とあいつとは会う事はないのだ……。

 げ! もしかして、また会いたいなんて思ってる!? ま、まさかね……。

 ただの思い違いだ。沙弥はそう決め込む。

「ねえ、世羅。ちょっと訊きたいんだけど」

「何です?」

「もしね、たとえば世羅のクラスにA君という男の子がいるとする。で、そいつの性格は、どんな時でもマイペースで鬱陶しいぐらい陽気なの。それで、まあ世羅に限って実際はそんな事ないと思うけど、時々そんな態度にイラつく、と」

「はい」

「でね、ある日そいつがこんな事を話すの。自分には親がいなくて、これまで友達も誰一人としていなかった、って。もしそんな事を言われたら、世羅はどう思う?」

「まず、やはり同情してしまいます。ただ、相手に迷惑がられるといけませんので、はっきりと分かるようにはしませんが。それから、きっと友達になってあげようとすると思います」

「友達に?」

「ええ。そのような事を話したのは、もしかしたら自分と友達になりたい、と思ってるからかもしれませんから。どうでもいい方に、きっとそのような事は話されないと思いますわ」

「友達、か……」

 ルシフェルは私にそれを求めていたのだろうか? だからこれまで誰にも話した事のなかったあれを打ち明けたのだろうか? それとも単に、聞いてくれる人がいなかっただけ?

 よく分かんないや……。これも、全部憶測にしか過ぎないし。

「どうかなさったのですか?」

「え? ああ、いや、別に。前に友達がそういう話の本を読んだって言ってたから」

 咄嗟にそう誤魔化す自分。

 やはり、ルシフェルの事はまだ誰にも言えない。世羅なら自分の言う事は信じてくれそうだけど、それはきっと自分を立てる意味で、信じた振りをするだけだと思う。そんな可哀相な事を強いる訳にはいかない。

 どうせ、証明するような証拠は何もないんだ。言っても仕方ないわ……。

 

 

『御前様、ルシフェルが』

『うむ、気づいておる』

『では、やはり?』

『……仕方あるまい。妾とて上が定めた規則には従わなくてはならぬ。連絡を取れ』

『よろしいのですか?』

『二度は言わぬ……!』

『承知しました』

 

 

 深夜。

 明日のテストの目処も立ったので、今夜はもう寝る事にする。それに、根詰めてやった所でどうせ効果はないのだから。

「さて、電気を消して」

 が、ふと沙弥は足を止め、机にまた戻る。そして正面の引出しを開け、中から何かを取り出す。

 それは、一枚の真っ白なハンカチ。ルシフェルのものだ。おととい洗ってこっそり干しておいたのである。

 しばらくそれを見つめ、そして四つに折り畳むと胸のポケットへ押し込んだ。

「さ、寝よ寝よ」

 今度こそ立ち止まらず部屋の明かりを消し、沙弥はベッドに入った。